メディア=リテラシー
何の心の準備もできないまま、秀樹は高校初めての学園祭を迎えた。
普段は赤茶色の制服を着た生徒と、簡単な格好をした教師だけが歩いている廊下だが、今日は私服の老若男女が歩いていた。
中には他の学校の制服を来た者もいる。
服装からして自分も外部からの客だと思われる可能性があるだろうな、と秀樹は思った。
せっかくだからと両親も学園祭に来ようとしたが、それは秀樹が阻止した。来るならせめて明日来てくれと。
転校してからずっと色々あったのだ。今日だけ平和であるという確証はない。
考え過ぎだとは思うが、嫌な予感がしてならないのだ。
初日で学園祭がどういう感じで進行するのかきちんと見ておかなければならない。
なにより、山下に両親を会わせたくなかった。
「おい見ろよチャンネーだぞチャンネー! 女子大生だ!」
配布用のチラシを片手に藍澤はうきゃうきゃとはしゃいで秀樹の背中を叩く。イラッとした。
九時のチャイムが鳴ったあと、ヘルプ組の秀樹は同じくヘルプ組である藍澤に引きずられるようにして教室を後にした。
さっさと宣伝チラシをさばくためである。
鳴識に言われたからか、本日藍澤は茶でも金でもなく上から下まで黒い髪だ。
アクセサリーも付けておらずジャラジャラもチャラチャラもしていない。
ただ、鳴識に閉じられたシャツのボタンは再び第二ボタンまで開かれていた。
本人曰わく「誠実さの中に垣間見えるセクシー鎖骨ファッッション! イケメてんだろ?」らしい。彼が何を言っているのか分からない。滅びよ。
「唯一の誤算は、やっぱりコレだな。すんげーダサい気がする。いやダサい。何というか、色々とぶち壊しにする要素だ」
そう言って藍澤は胸にセロテープで貼ってある紙をポンポンと手で叩いた。
看板と同じデザインの上に、色々と情報やキャッチコピーを盛り込んだチラシだ。
秀樹も藍澤と同じく胸にセロテープで貼り付けている。背中も同様だ。
ちなみにこれらは山下が他の部に委託して作ったものである。
「いやーでもこれはこれで使い所があるかな。確かにこの野暮なチラシで俺の魅力は引きずられるかのごとく下落したけど『あら、チラシだわ。あのチラシ何かしら。何なのかしら。もっと近くで見てみたいわ……あらこの鎖骨は誰!』となってレディが顔を上げたとき、イケメてる俺と視線がかち合う。いいね!」
「先輩、私語ばっかしてたらお客さんが近寄り辛くなりますよ」
「おやおやー田ー中くん、もう俺のこと『三色先輩』って言わないのかなー? そうだよねーもう三色じゃないもんねそりゃそうだよね~」
「今後は『こげたプリン』でどうですかこげたプリン先輩」
高校にあがってからまともそうな先輩に会っていない気がするが、気のせいだろうか。かろうじてまだマシなのは西平先輩だ。
そうか分かった。この人は花積に似ている。うるさいのが二人もいる。気が散るばかりである。
ちょいちょい途中で他の出し物に寄ったり、そこの客をさりげなく奪おうとしてそこの店員である生徒に追い払われつつ、一応ヘルプ組もとい宣伝係としての役割を果たした。
チラシはもう半分ぐらい減っていた。
「なあ、ところでさ。お前何焦ってんだ?」
「は?」
「ほらチラシ渡すときにお前顔ひきつらせてんだろ? 言葉も早いし。だめだぞー早口は接客としてあるまじき行為だ」
「……すんません」
初めてまともなことを言われた。微妙に納得できず、秀樹は目をそらした。
「心ここにあらずって感じだな。やっぱ瑞架ちゃんか? 瑞架ちゃんと何かあったのか?」
「こげたプリンは静かに潰れていてください」
「それさ、語呂悪くね?」
「トリュフ」
「それでいこう。何なのか分かんねーけど、何か高級そうな感じだ」
いいのか。
「あのさー、部外者が口出しすんのもどうかと思うけどさ、お前ちょっとツンケンし過ぎてんだよ。もうちょい優しく人に接してみ?
女の子ってなー、理屈よか感情が優先なんだぞ。理屈で話すんじゃなくて感情を交えながら話すんだ。
かと言ってずーっと、カワイイネータノシイネーウレシイナーアイシテルーだけじゃ胡散臭くなるだけだからよ、小出しにするんだ。
理屈ばっかの合理的な話はなんか冷たいだろ。それは議論の場だけにするのが無難だ。
お前はまず相手に共感して聞く姿勢からだ。『あ、私の話を聞いてくれてる』ってなるようにするんだ。
これはなー女の子だけじゃなく人間関係を円滑にするのにも有効なんだぞ。
加えてこのメディア部ではそのスキルを高めることで情報を得るチャンスが増えてくんだ。これは先輩としての助言だぞ。聞いてんのかコラ」
「……聞いてます」
小さく返すと、「あ? 聞こえねー」と返される。イラッとした。
「転校したばっかりだから、色々疲れてるんですよ。それにクラスの出し物、手伝いに行く時間あとちょっとだし……先輩は行かなくていいんですか?」
「見張りと受付の四人がいれば当分大丈夫だよ。美術科はクラス合同で制作物の展示を兼ねたカラクリ屋敷だ」
「先輩美術科だったんですね」
「おうよ。幽霊部員なのはいつも課題の締切に追われてるからだ。けど、部に顔出さなくってもメディア部の活動はしてるからな? 西平と違って。あいつこそただの幽霊だ」
ただの幽霊だ、の意味がよく分からない。まあいいや。
今日までクロードの言ったことが頭の中でぐるぐると回っていた。
緊張状態を持続させること。気を緩ませないようにしてリクを『表』にしないこと。和解をしてはいけないということ。
国木を助けたいのなら、彼女を傷つければいいということ。
写真を撮りに行ったとき見かけた人形と共にいた金髪の男は、確かに「国木」と口にしていた。
それは何故なのか。あのときにあの男が「死ね」と言って壊したのは何だったのか。
どういう繋がりがあるのかが分からない、ということが少し怖かった。
……やはり、無理矢理引き止めてでもそのことは伝えるべきだ。
また取り乱されてショックを受けないという自信はないし、クロードの言うことに従うわけじゃないが人としてそれだけはすべきだろう。
持っていたチラシを藍澤に差し出した。
「ちょっと早めにクラスのとこ行ってきます」
藍澤はチラシを受け取り、ニヤリと笑った。
「お前生意気だけど、まあ真っ直ぐだし、あとはリラックスすればなんとかなるよ。瑞架ちゃん、泣かせんなよ?」
察し方が合っているような合っていないような。
和解をしてはいけない。が、秀樹が見たこと聞いたことをあいつに伝えるだけなら何にも該当しないはずだ。
口を引き結び、そのまま無言できびすを返そうとした。そのとき廊下の向こうに国木を見つけて思わず息を止めた。
「あら、ちゃんと働いていたのね」
国木の隣にいた山下がスタスタと近づいてきて皮肉っぽく言った。藍澤は肩をすくめる。
「俺、一応根は真面目っすよ」
「どうだか」
そんなやりとりをしつつ、藍澤が気遣わしげに秀樹をチラリと見たのに気付いたが、秀樹はどう動いていいものか分からなかった。
国木は気まずそうに視線を斜め下に落とした。
「……あの、すみません。ちょっと忘れ物をしたので教室戻ります」
口早に言い、国木がきびすを返した。
反射的に秀樹の足が一歩出たとき、目の前に山下の制止の手がかざされた。
「藍澤君。あなたが先に行きなさい」
一瞬ぽかんとした藍澤だったが、すぐに「いえっさー」と片手をあげて国木のあとを追った。
「さて」
山下が秀樹に向き直る。
「『変化』の程度を聞きましょうか」
「……この時点で聞くんだな」
ええ、と山下がにこやかに答える。
秀樹が学園に転校してからの変化ならもうたくさんある。
まず、転校したというのが秀樹にとっても学園にとっても変化の一つでもある。
部活に入ったこと、秀樹が写真をとってきたこと、国木と再会したこと。
変化には上限も下限もない。
なのに山下は「変化を起こしたか」と聞く。
何の、とは言わない。ならば「変化」と聞いて秀樹自身が思い浮かべたこと、つまりはそれら全てが答えになる。
「俺は……それには答えない。何故なら俺に出された条件は『変化を起こすこと』だからだ。その『変化』が起きること以外は何もしなくていいんだ」
「そんなこと許されると思ってる? 屁理屈は身を滅ぼすわよ」
間髪入れずに返され、秀樹はそれ以上言えなくなる。
にこにこと笑ったままの山下の目は秀樹を射抜くように映していた。
山下が国木の事情についてどこまで知っているかは分からない。
だが全く何も把握していないということは有り得ないだろう。知らないならどうして秀樹を「変化」の一投に選んだのだ。
他人の家の事情を簡単に洗えるような奴だ。油断はできない。
「やっぱり少しは手の内を見せないと駄目ね。いつまでたっても話は進まない」
山下はわざとらしく首を振って嘆息する。手提げ鞄の中にあった手帳から一枚の写真を秀樹に渡した。
そこには学生服の詰襟をきっちり締めた中学生くらいに見える少年が写っていた。
目線がこちらに向いていないことで、これが盗撮だと分かった。
「これは?」
「岸田雅樹君。十五歳。中学一年生。国木さんの従弟よ。まあでも彼女はいつも弟だと言っているわ。一緒に住んでるみたいね」
そういえばリクがそんな名前を言っていた、と秀樹が思い出したのと同時に山下は「でも」と続ける。
「本当に従弟なのかどうか、怪しいのよね。調査してるけど、国木さんとのつながりがはっきりしないのよ。
同時に国木さんのご両親のこともはっきりしない。仕事で海外に行ってらっしゃるらしいけどその消息が掴めない。
ご両親が勤めているらしい会社それぞれに直接使いをやったけど、いつも留守で事実上門前払い。
さらにその使いがわたしへの報告のあと、一時行方をくらましたわ。健康だけど、ちょっとした記憶障害がある。
ついでに言うとその調査をやり出してからわたしの近くを通りすがる人間に怪しいのが増えた。ここ最近はメディア部部員全員に密偵らしき影がついている。
ねえこれって偶然? 偶然なら、そっちの方が面白かったかも」
唖然とするしかない秀樹を見て、山下はおかしそうに笑う。
「わたしと初めて会ったとき、見るからに怪しい奴だって、あなた最初から警戒していたでしょ? それなのに気付かなかったのね、わたしの使いが監視していることに。無理もないけど」
素性どころじゃない。山下は全員の行動を把握していた。
なら、リクを狙ってやってくる者たちや、秀樹がリクとショッピングセンターで騒動に巻き込まれたこと、秀樹がクロードと接触を持ったこと、それら全て筒抜けだったということか。
なら、どうしてあえて直接聞く? 俺の反応を見てどうしようってんだ。
まるで、楽しんでいるみたいに見える。いや、楽しんでいるのだろう。
手を合わせ、山下はうっとりしたように上目遣いになる。
「転入させられて、入部させられて、そこには自分を避け続けていた幼馴染がいて、その幼馴染の豹変した姿を見て、おかしなものに巻き込まれて。物語というのは、大抵誰かが仕組んでいるものなのよ?」
つまり、山下が秀樹の家に支援を申し出たのは、秀樹が国木と接点があると知ったからなのだ。思い違いじゃなかった。
こいつが知っているのは秀樹、国木の人格、人間関係、過去を全て洗って得た全てだ。
「あんた、マジでなんなんだよ。意味分かんねえ。何がしたい」
震える声で言及しだした秀樹の唇を、すっと山下の白い指が押さえた。
「あら、あれは誰かしら?」
山下がにっこり笑って指差したのは階段近くで学園祭のパンフレットを開き、何かを探している風の少年だった。
ちょうどさっき見た写真の少年のような。
少年が秀樹に気付く。少年は顔をしかめ、憎々しげに秀樹を見た。
「やっぱり来たわね。待っていたわ」
一人呟き、山下は彼へ近づいていった。
胡散臭そうな顔をする少年に山下が話しかける。どうやらメディア部の教室を探していたらしい。
「国木さんに会いに来たのよね。なら田中君と一緒に案内してあげましょう。同じメディア部部員として」
少年、岸田雅樹は不服そうにしながらも頷いた。
歩き出してから、秀樹は前を歩く山下と雅樹の会話をはらはらしながら聞いていた。
「ご両親は海外に出張しているのね。そうなると生活で色々と不安な部分もあるのかしら?」
「いえ、もう昔からずっとですから。慣れましたし、不便は感じてないです」
「家庭訪問とか三者面談はどうしているの?」
「両親の知人が代理でやってくれています」
「そう。そうなの。ならその方に一度お会いしたいわ」
「……どうしてですか」
「わたし、お金持ちらしく慈善活動をしているの。後ろにいる田中君には経済的な支援をしているわ。まあ、わたしはただ指示しているだけだけどね」
「後ろの奴をここによこしたのは、あなたですか」
「奴だなんて、前から知ってたみたいな口ぶりね」
「…………」
「ほら、着いたわよ」
山下がメディア部の教室を指し示すと、ちょうど出口からキャッキャと大学生らしき女性二人が出てきたところだった。
それぞれの手には黄色の小さな紙があった。メディア部公式サイトのURLを記載してある小さなチラシだ。
あれだけは顧問の鳴識が夜なべして作ったのだと聞いた。
「ばいば~い、またね~次は俺んちで~」
メディア部の展示室である教室のドアで、去っていく女性二人に手を振る人影がいた。
藍澤だった。にへら~としたしまりのない顔は、秀樹たちに気付いた途端に強張った。
山下は静かに腕を組んで首を傾げた。
藍澤に接客の仕方について山下が注意をしたあと教室を覗いたが、西平がにっこり笑い返すだけで国木の姿はなかった。
西平によれば、藍澤と国木が教室に戻った途端花積が「クラスの出し物当番の時間だから!」と叫んで藍澤と両手タッチをし、すたこらさっさと教室を飛び出していったのだとか。国木は花積がサボっただけじゃないか見に行ったらしい。
それを聞いて秀樹はポケットに忍ばせたメモと腕時計を見やった。自分のクラスの当番表だ。大丈夫。まだ時間になっていない。
「フフッ。花積さんったら肝心なときに。学園祭が終わったらフフッ」
学園祭が終わったとき、というのは二日後の放課後だろうか。
「ごめんなさいね、会わせられなくて。少ししたら戻ってくるだろうから、よかったらここで色々見て待っていてくれる?」
「はい。ありがとうございます」
会釈し、雅樹は足早にメディア部の段ボールで出来た迷路に入っていった。
「お姉さんには会いたいけれど、あなたとは少しでも離れていたいって感じね」
山下が秀樹に向かって言ったのは分かったが、秀樹は何も応えなかった。山下はすでに何故雅樹が秀樹を嫌っているのか見当がついているのだ。
こいつを楽しませるためのセリフなどこれ以上吐きたくない。
段ボールで作った迷路はそれほど長くないはずだが、彼はすぐ出てこなかった。
下を覗けばどこで止まっているかなどが分かるのだが、なんとなくそれはしたくなかった。
やはり中で時間を潰しているのだろう。あまり他の人間と接したくないのかもしれない。
「お、そこのお姉さん寄ってかなーい? いいのあるよー」
教室の外からイラッとする声が聞こえてきた。
廊下では藍澤が愛想をふりまいて客寄せをしているのだ。
「えー何ココ~」
「ここはねーメディア部! メディアについての歴史やら豆知識やらが見られるよー。今なら俺が作った段ボールの迷路もあるヨ! 俺の迷宮で迷ってみない?」
「あはははカワイーウケるー」
「ちなみにカラクリ屋敷には行ったかな?」
「んー、行ったけど?」
「あそこの設計とか大道具ね、俺大部分やったんだ。だからさーここも見てってよ! どっちも俺の最高傑作!」
「じゃあちょっと入ってみよっかな。お金は?」
「ノンノン、ダイッジョーブ! ささ、どーぞどーぞ。後でまたお話ししよー☆」
「あははは、分かった分かった。入るよー」
なんかよく分からないけどはり倒したい会話が聞こえてくる。
山下がピクリと眉を動かした。
さっきナンパやチャラついた接客は厳禁と注意されたばかりなのに、よくやる。
秀樹がちら、と廊下を覗けば藍澤は想像に反して何故か深刻そうな顔をしていた。
「しまった、今日はクール&誠実キャラで行くつもりだったのに……」
手に負えない。秀樹は教室に引っ込んだ。
少しして、すごすごといった風に雅樹が迷路から出てきた。
ムスッとした顔をしている。迷路は狭いから、後からやってきた客に仕方なく場を譲ったのだろう。
「お疲れ様でした。もしよければ公式サイトも見ていってくださいね」
西平が爽やかな笑顔で雅樹を促した。接客で使うべきはこの顔だ。
西平が椅子を引き、雅樹がパソコンの前に座る。先日秀樹が気付いたように、サイトには主に最近の事件の記事が載っている。
のちに受けた鳴識の説明によると、政治や宗教が直接深く関わる記事は禁止とのことだった。
インターネットという不特定多数の人間が閲覧できる場所で、思想の違いによる果ての見えない議論になるのを避けるためである。
それにそういうものはすでに新聞部などが扱っていたりする。
そのため、扱うのはあくまで珍しいもの、不思議なものにするらしい。
サイトに載せているメインの記事は、『ダム湖干上がり事件』『相次ぐ怪奇人形事件』『ショッピングセンター事件』だ。どれも近場の出来事である。
山下が記事を執筆したらしいが、次からは今回を手本に部員全員が協力して書いていくようにするのだとか。
ちなみにダム湖の写真については、結局撮れなかった。
あの日、秀樹がクロードに掴まれた首をさすりながら学園へ戻ると「何しに行ったの」と花積に言われ、ちょっとむなしくなったことを覚えている。
「もし何か見たこと聞いたことがあるならここの掲示板に書き込んで欲しいの」
山下がそっと雅樹の左側に回って言う。彼が身を強ばらせたのが分かった。
「……はっきりしない曖昧な情報を?」
「ええ。はっきりしない曖昧な情報を。日常的に不思議だなと思ったことでもいいの。ただ、特定の個人への攻撃ともとれる内容は御法度よ」
雅樹はじっとパソコンの画面を見て、マウスを動かした。少しして「あ」と声を出した。
「なあに?」
「この書き込み、誰が書き込んで……」
雅樹は画面のある一点を凝視していた。
彼を刺激しないよう秀樹もそっとその画面を見た。
自身もまた「あ」と言いそうになって咄嗟に口を手で塞いだ。
ある組織から逃亡中の宇宙人が、姿を変え手口を変えてどこかに潜んでいる。そんな噂がある、という書き込み。
いや、そんな『使い古された一般的によくある噂』に目を止める方がおかしいのか。
それに気付いたのか、途端に雅樹は口ごもった。
「誰が書き込んだのか、なんて言えると思う?」
山下が優しく言った。
サイトに設置した掲示板には、まだ匿名でしか書き込まれていない。
書き込むのを見ていた部員は誰が書き込んでいたかなどは誰であっても絶対に話さないように、ということになっている。
だが、それとは関係なしに今の言葉には明らかに含みがあった。
含みがあったように、秀樹は感じた。リクとクロードからそういう話を聞いたから秀樹はそう感じた。
何も知らない『普通』なら、そこは「そりゃそうだ」と気に止めない場面なのかもしれない。
その『普通』が何なのかなんて分からないが。
「わたしはね、こういう説明の段階を終えた、状況が変わるシーンを求めているのよ」
山下が雅樹の右肩に手を添えた。びくりとその華奢な体が震える。
「あの」
秀樹が声をかけると、山下は鬱陶しそうな顔で振り向いた。
「……次のお客さんがそろそろ来るかもしれないです」
適当に言ったが、耳をすませばキャッキャとした声が近づいてきている。もう迷路を抜けるだろう。
楽な姿勢で待っていた西平が姿勢を改めたのが見えた。
「岸田君も色々疲れただろうし、とりあえず椅子に座って待っ」
秀樹がなんとか場を収めようとしたとき、雅樹が突然立ち上がり、秀樹の言葉が途切れた。
お前のせいだろう。
そう呟いた声が聞こえた。
「僕は……何も知りません。もう提供できる情報はありません」
山下に向き直って言い、雅樹は教室を出ようとした。
「あ、ちょっと待って」
言って、西平が近づいてくる。
雅樹は露骨に嫌そうな顔をしたが、次第に目を見開いて固まった。
ぽん、と西平が雅樹の肩を叩いた。
「午前中、僕はここにいる。もし何かあったら頼っていいよ。対処してあげる」
ニコッと西平が満面の笑みを見せると、はっとしたように雅樹は教室の外へと走り出した。
「あ、ちょ……すみません、俺ちょっとあの子に聞きたいことがあるんで」
言いながら秀樹は彼を追った。
具体的に話す内容は考えていない。だが国木と一緒に住んでいるのだ。
リクのこと、国木のことを聞けば少しは何か活路が見えてくるかもしれない。
教室を出て左に小走りで去っていく雅樹の背中に向かって大声をあげた。
「おい、あの、岸田君! 岸田雅樹君! ちょっと待ってくれ! 話をしたいんだ岸田雅樹君!」
「な、名前連呼すんな!」
雅樹がふりむいて怒鳴った。
なんだなんだと廊下にいる人間の目が集まってきたのに気付き、秀樹と雅樹は慌てて足を早めた。
比較的人が密集していない突き当たりの階段前まで来ると、迎え撃つように雅樹は立ち止まりきっと秀樹を睨みつけた。
「ついてくんな。どっか行け! つかなんで名前知ってるんだよ」
「名前は……さっきの怖いお姉さんから聞いた。聞きたいことがあるんだ。国木の今の状況のことで」
「死ね」
「……めっちゃ嫌われてんな。俺、何も分かんないんだけど」
「何も分からないんなら、死んじまえ。全部分かったなら、死んじまえ」
低くなった声に秀樹は口をつぐんだ。
「僕はずっと前からお前の死を願ってる。お前のせいで一気に状況が悪くなったんだ。またあの日を繰り返すつもりなら、死ねよ、死ね。いなくなれ。もう何もするな。瑞架に近づくな!」
つばと一緒に、何かヤバイものを呑みこんだような気がした。
心臓がいつもと違った動きをする。単なる悪口ではない。今自分は本気で死を願われている。
雅樹はじっと秀樹を睨みつける。
「……あの日って、もしかして俺が小四、五の頃か?」
雅樹はうなずく。『告白ゲーム』の流行った時期だ。
「あの日、帰って来た瑞架はおかしかった。だから『世話役』は瑞架を『再教育』したんだ。僕たちは隠れなきゃいけない。目立たないように、世間一般の『普通』になって、役に立たなきゃ……」
ぐっと言葉を詰まらせ、雅樹は眉間にしわを寄せ必死に睨んでいた。
それでも浮かんだ涙の分、目が潤んだのが分かった。
『世話役』、『再教育』、『普通』。その単語がどこか浮いて感じられた。
きっと一般のそれと同じ意味ではないだろう。国木は、一体。
くそ、と雅樹は呟いた。
「瑞架はこのままじゃ死んじゃう。瑞架を『表』になんかしちゃだめだ。消えちゃう。
リクはお前が鍵だって言っていた。僕じゃだめなんだ。瑞架は僕を守ろうとするから気を張ってしまう。
瑞架のトラウマさえ払拭すれば……可能性があるのはお前だけなんだ。でも、また傷付けてけりを付けないのなら同じだ」
要領を得ない喋り方に、彼がどれだけいっぱいいっぱいなのかが分かる。
同時に、どうしようもないやるせなさがにじみ出ていた。
『表』にしてはだめ、という言葉が引っかかった。
クロードはリクを『表』にしないようにと言ったのに、雅樹とリクは瑞架を『表』にしてはいけないという。
こぼれ始めた涙を雅樹は怒った顔のまま乱暴に袖でこすった。
「雅樹……?」
はっとして声の方向に目を向けると、階段を上がってきたらしい国木と花積がいた。
国木は雅樹と秀樹を見比べ、当惑の色を示した。
「泣いてるの、雅樹」
雅樹は「あ、う」と口をパクパクさせた。視線を泳がせ、それから国木に背を向けて走り出した。
「雅樹」
国木がその後を追いかける。
残された花積はきょとんとした顔をしていたが、何を勘違いしたのか「青春だねえ」と言って秀樹の腕を人差し指で突っついた。
「……部長がお前に会いたがってたぞ」
マジで? という花積の声を最後に、秀樹も二人の後を追った。




