今回の選択肢
瑞架はこの間クロードに触れられた頬を人知れず撫でた。
学園祭前々日。
授業は早めに切り上げられ、生徒たちは皆それぞれジャージと軍手といった格好で学園祭出し物の準備を始めた。
出し物をする部はそちらを優先しても良いとのことで、本日病欠の山下以外の部員は全員抽選で割り当てられた教室、もといメディア部の展示室へと集まった。
グラウンド側に位置する棟の三階だ。
爽やかな笑顔を皆に向け、二年の西平は軍手をした手をぽんぽんと叩いた。
「はーい、今日は僕が部長の代理を務めるよ。僕の善意がまだ残ってたからね」
最後のはいらなかった。と智美が呟いた。
田中はひきつった笑みを浮かべ、瑞架はただ笑っておいた。
「幽霊だけど、役に立つときは立つよ~。西平要、やるときはやる男です」
彼の指示で、まずは学園の一番大きな倉庫からバラバラの状態である掲示板を全員で運び、教室で組み立てた。
「さて……えーと、掲示板の配置はね」
西平がちょいちょいと指示し、それに合わせて藍澤と田中が掲示板を持ってうろうろする。
場所が決まると、木肌が剥き出しになっていた掲示板に黄色の薄い布を張って見た目を綺麗にし、展示物を貼り付けた。
テーブルクロスを敷いた机には記事をまとめたスクラップブックを。
教室の前には『メディアのあれこれ展覧会』と綺麗にレタリングされた看板を置いた。
迷路のようになった細い道は段ボールで作られることになった。
ただし支柱だけは木だ。下には重しが付いている。
各所にメディアについての歴史だとか、そういうものを小出しにして貼り付けた。
「ねえちょっと、今回あたしめっちゃ頑張ってるよ功労賞貰っていいよあたし。綺麗でおっきい段ボールかき集めたのあたしだよ! 薬局巡りしちゃったよ!」
「薬局の段ボールは綺麗なことが多いからねーていうか俺も手伝ったこと忘れないでね智美ちゃん」
いばりくさる智美の頭をなでなでしながら藍澤が言う。
「パソコン持ってきたでー」
そう言って台車にパソコンを乗せてやってきた鳴識は、教室を覗いた途端に笑顔になった。
「いやー、よう段ボールでここまでぴしっと出来たな。一番下まで壁がないのは迷子防止と、通気性を考えたからか?」
パソコンの設置作業をしつつ、鳴識がほへ~と感嘆の声をあげる。
「さすが先生ですね。材料が少なかったこともありますが」
「なんやそうか。まあでも定期的に迷路の中確認しいや。死角は作らんように」
「はい。あと当日の動きなんですが――」
スケジュール表を持って西平と鳴識が話し込み始める。
それ今だ、と藍澤と智美は設置してある椅子に座って、精一杯ダラダラし始めた。
さらにはウトウトまでし始めている。息が合っている。
座ろうかなとしていた椅子を藍澤にとられ、田中はちょっと何か言いたそうな顔をしたが、そのまま仕方なさそうに窓際へと寄って行った。
気のせいだろうか。
彼がどこかぎこちなく、そわそわしている。緊張している。
瑞架は瑞架よりも広いその背中から目を離し、彼の見る先を目で追った。
空には灰色の薄い雲がかかっていた。
夕暮れの色がかすかに感じられる程度である。
あと一時間もすればもっと暗くなる。
草木の緑が段々黒くなっていって、足下が暗くなる。
向こうにいる相手が誰なのか分からなくなって、通り過ぎる。
そんな時間。確かそれを黄昏と言う。黄昏時。逢魔が時、とも。
赤く焼けた雲は風で流れ、動いていた。
実際はとても速く移動しているのだと思う。
雲の波間は常に変わる。ずっと同じではない。
波は変わる。いつまでも同じ形態を保たない。
けどまあ、地上から見ればそんなもの大差ない。
雲は雲で、同じことを繰り返すだけ。
唯一なのは、その時そこに在ったこと。
震え始めた手をぎゅっと握りしめた。
つばを呑みこんで一度ぎゅっと目を閉じて開けた。
震えが止まる。少しぼやけた視界が徐々に元通りになる。
つい最近、何故か霧が晴れたように頭がすっきりした。
そうして思い出した。瑞架の母がいなくなるまでにあったことを。
『告白ゲーム』が小学校で流行った頃、ある日瑞架は気持ちのコントロールが出来なくなった。
自分のことばかりで、他人から向けられる感情を理解するのがまだ難しかったのだろう。
残念ながらそれは『世話役』に『異常』だと判断されてしまった。
瑞架が田中秀樹を避けていたのは、『異常』になるまいとした結果だったのだ。
自分の記憶だけじゃない。意図せず瑞架はリクの記憶に触れ、その事情を理解した。
リクとは正真正銘、別の人間だ。
妄想でもなんでもなく、本当にその魂を瑞架に移していた。俗にそれは憑依という。
頭の霧が晴れてからは、リクが『表』になることはなくなった。
瑞架には朝から晩、ベッドへもぐりこむまでの記憶がしっかりある。
リクが『表』になろうとする気配を感じたときには、瑞架がしっかりとそれを拒絶することで防ぐことができた。
これから自分はどうすればいいのか。
『世話役』たちの目的が分からないからどう動けばいいのかすら見当がつかない。
ずっと飼い殺されてきたのだと痛感する。
もう本当に色んなことがあった。母も雅樹もわたしのせいで酷い目にあった。
でもわたしがただ消えただけじゃ、何も変わらない。
もしかしたら、今よりも酷いことになるかもしれない。
わたしだけではそれを打開することはできない。
けれどリクが瑞架の体の中にいることが一つの希望になる。
もっと情報を得て準備が出来たならば他の方法を考えることもできたかもしれないが、そんな猶予も残されていない。
リクは優しい。だから瑞架を助けるために、ずっと前から魔法を使おうとしてくれている。
今、リクの心はそれを発動させられるような状態じゃない。
魔法とは『意識の変革』があって初めて発動することができるものだ。
魔術もだめ。術式の範囲でしか効果がないのなら望みは薄い。
必要なのは確実な奇跡。
なら自分は、今考えられる最良の手段をとるべきなのだ。
翌日、瑞架はゆっくりと目を覚ました。
学園祭前日になると、学校に登校する生徒は限られる。
準備予備日であるため、部活もクラスの方も準備が終わっていれば登校する必要はない。
居間へ行けば、ラップをされている朝食と『チンして食べて。』という雅樹のメモがあった。
瑞架と違って雅樹は今日学校がある。今家にいるのは瑞架だけだ。
メモを拾い上げ、瑞架は知らずに笑みがこみ上げた。
なんというか、雅樹はこういうところが可愛いと思う。
中学に上がってから『僕』を『俺』に変えたりとかぶっきらぼうな態度が多くなった気がするが、それでも優しいところは変わりない。
ちょっと前。初めてリクが瑞架の中に入った頃のこと。
ずっと一緒に暮らしていただけあって、雅樹はすぐ瑞架の異変に気付いたようだった。
もともと人一倍勘が鋭い子だ。
いや、人並み外れた勘の良さの持ち主だと言うべきか。
だから瑞架の監視役になっていたのだろう。
瑞架に父の記憶はなく、母が最初にいたことを覚えている。
母はどちらかと言えばおおらかな、悪く言えば大雑把な人だった。
茶髪の髪をいつも高い位置にまとめていて、ぴんぴんに跳ねたその毛先で瑞架はよく遊んでいた。
母は瑞架には優しかったが、『世話役』と名乗る人たちには厳しかった。
その人たちが来るたび母はいつも瑞架を家の奥へと隠した。
それでもやっぱり最後は『世話役』が連れてきた医者の前へと出ることになったが。
雅樹と一緒に暮らすようになったのは瑞架が小学校低学年くらいのとき。
岸田雅樹という瑞架よりも小さな男の子を瑞架の家で預かることになった。
家庭の事情で、と聞いたが実際のところは分からない。
誰かに雅樹のことを聞かれたら、従弟だと言いなさい、とも言われた。
記憶が戻って、何度も情報を反芻した。
『世話役』の目的は分からないままだが、ここからなんとかして脱出するべきなのだということは分かった。
「いただきます」
用意された食事を電子レンジで温めてから、手を合わせて食べ始める。
ゆっくり、ゆっくり。これはもう記録されない。これはわたしだけのもの。
いつもよりも時間をかけて食べ終え、身支度を整えて玄関で深呼吸をした。
こういうとき、何を着るべきか分からなかったのでとりあえず制服を着た。
必要ないかもしれないが、気は引き締めておいて損はない。
玄関扉を開くと途端に新鮮な冷気が通り抜けた。寒い。けども清々しい。
家の周囲を見回した。通行人が何人かいる。
おじいさんにスーツを着た男の人。買い物袋を提げた女性に手を引かれる子ども。
気合いを入れた。
「アシルさん、話があります! 出てきてください!」
ちょっとドキドキしたが、通行人は誰も瑞架の方を見なかった。
やっぱりそうなんだ。
家の周りの囲いから出なければ、内側にいる者の存在を意識することはできないのだ。
「どうしました」
どきりとして声の方向を見るとスーツを着た金髪の男性が……いや、今日はクリーム色のジャケットにジーンズだ。
長めの髪も前と違って後ろで縛っている。
彼はどこか不機嫌そうに眉をしかめていた。
「それはリク様が私を呼ぶときの名ですが」
これは……静かに怒っていらっしゃる。
「すみません、いきなり」
「いいです。わざわざそう私を呼んだのは意図あってのことなのでしょう。話は?」
なんだろう。初めて会ったときと態度が一変している。
アシルという名前で呼んでしまったからか、それとももう取り繕わなくてもいい段階になったと察したからだろうか。
……どっちもな気がする。
瑞架を映す彼の青い目を見て、ごくりとつばを呑みこむ。
「わ、わたしがいなくなったあとのことを頼みたいんです。消えたらクロードさんはリクだけを守ろうとするでしょう。でも、雅樹も一緒に守ってくれませんか?」
「あなたを管理していた組織から、ですか」
「はい」
「私がそんな余計なことをするとお思いですか」
きゅっと、体の横で服のすそを掴んだ。
冷えた目から一度視線を外してうつむいた。
怖かった。そりゃそうだ。彼の目的はリクを支えること。それ以外のことなんて。
でも引くことはできない。きっと瑞架はクロードの目を見つめた。
「わたしが死んだら、リクはどうするでしょうか。優しいリクは、きっとわたしの最期の願いを叶えようとしてくれる。そしてクロードさんは、最終的には忠誠を誓ったリクに従うしかない」
「……ご自身が何を言っているか、分かっているのですか」
「はい。分かってます。完全とは言えないですけど、リクとわたしは互いに記憶を共有しているんです。
リクは魔法でどうにかしてわたしを助けようとしているけど、それがいつになるのか分からない。
ずっとこの状態のままなら結局わたしは消えてしまう。
リクは取り乱したあと、せめてと、わたしの最期の願いを叶えようとするでしょう。
そういう性格です。もう知っています。
わたしは『彼女』にそっくりですから。
リクは『彼女』に何かをしてあげたかったんですから。
でも時間がなさすぎます。『世話役』たちは機会を見逃さない。すぐ行動しなければ雅樹は捕まってしまう。
あの人たちは何でも利用する。簡単に処分をする。
母はわたしを庇ってくれました。だからいなくなった。
リクがやってきてすぐに『世話役』たちがわたしに接触をしてこなかったのは、わたしとリクの入れ替わりが不安定だったからすぐに手が出せなかったからというだけです。
リクが捕まった雅樹を助けようとしてぐずぐずしていたら、もともとリクを追っていた人たちもすぐやってきて大混乱になります。
なら最初から雅樹を守っていた方が事はすんなりいく。そう思いませんか」
卑怯なことを言っている。
リクの優しさを利用している。分かっている。
「もしもわたしがリクの魔法でなんとか生きながらえたとしても、バランスの悪いこの状態が続きます。それは非常に面倒なことのはずです。リクが『表』にならないように気を張っていれば、わたしは精神を消耗させてそう遠くないうちにこの体から消えます。その方が、いいでしょう?」
よし。言い切れた。
瑞架はゆっくりと息を吐いて心臓を落ち着ける。
このセリフを何度頭の中で練習したことだろう。
「覚悟はできている、と受け取ってよろしいですね」
目頭を揉みつつクロードが息を吐いた。目線が逸れたことで瑞架は内心安堵した。
「あなたの言う通りです。わたしはあくまで従者。リク様のために行動したり小言くらいは言いますが、基本的にリク様の意見を尊重します。
それにリク様は本気になると誰にも手が付けられない暴れん坊です。
というより、すでに悪童と言われていました。国木瑞架、精神的にはあなたよりも子どもなのです。
なのに稀代の『魔力』の持ち主と言われるバカです。
もうどうしようもない。本当に。
こんな危機的状況になっても、たとえ赤の他人だと分かってはいてもあなたを守ることを第一に考えるのですから」
主のことをそんなボロクソに言っていいのか。
そう瑞架が呆気にとられていると、不意にクロードは口元に笑みを浮かべた。
「……そんなお方ですから、あなたが消えたあとでもまだ何とかしようとするでしょうね。
でも恐らく何をしたらいいのか分からずただ慌てるだけで力は暴発するし、あなたの言う通りグズグズしていて結局追手に捕まることになるやも」
クロードは困ったように瑞架に微笑みかけた。
例えて言うなら、花が風に揺れるように。そんな風に自然に笑った。
不覚にもドキリとして瑞架は恥ずかしくなった。
たぶんこれがこの人の素の笑顔なのだ。
前回会ったときとは違って、とても優しくて温かい笑み。
リクのことを本当に大切に思っているのだ。
「では、私はあなたのその遺言をリク様説得の材料にしましょう。しかしその後、あなたの頼みを完全に絶対に叶えられるかどうかは不明です。窮地に陥ることがあれば私はリク様を優先します」
「はい、それも分かっています。だから、出来る限りお願いします。出来る限り」
瑞架はいずまいを正し、頭を深く下げた。
もうあと少しで自分がこの世にいないだなんて、信じられない。
死んだらどうなるのだろう。あの世はあるのだろうか。
ああ、魂が消えるのならばあの世があっても行くことはできないのかもしれない。
ここでわたしは終わるのだ。
怖い。怖いと感じている。
なのにそう思うことで生きている実感が湧くのは、おかしいことだろうか。
「明日瑞架様の学校でお祭りがあるようですが、お気を付け下さい。入場制限があっても、部外者が出入りしやすい環境は整っています」
「はい」
では、とクロードは背を向ける。
瞬きをした直後、もう彼の姿は消えていた。
その場でぼーっと立っていたが、しばらくして家の中に戻った。
クロードが作ってくれた見えない囲いの外に出るのは安全とは言えない。最後の散歩は無理だ。
玄関ポストを覗き、空っぽだと確認してからドアを開いた。
ここに何か投函されたことがあったかどうか。
不毛な気がして瑞架は考えるのを止めた。
緑茶を入れ、瑞架はテレビを見ることにした。
小さいときにはアニメを録画して何度も見ていたが、もう昔のビデオはどこを探してもなくテレビのディスクにも何も入っていない。
まあビデオは今あったとしてもうテープの劣化で見れなくなっているだろう。
時代はハードディスクである。円盤である。液晶である。
次々にテレビのチャンネルを変え、地域の紹介をしている番組に行き当たった。
それを見ることにした。すぐ近所だった。
そこは戦火から免れて残った古い街だった。木造の家が多く、小道が多い。
半分商店街で半分民家という、賑やかでもあり静かでもある独特な雰囲気の場所だ。
歩きたいな、と思う。
子どもだけが通れるような路地を見つけて隅々まで見て回りたい。
秘密の場所とか、そういう場所を見つけたい。
その衝動はもうずっと昔からあるもので、瑞架が思考を縛られていた間もそれは変わらなかった。
もはや瑞架の身に沁み込んだ基本的な行動の一つだ。
だけども、今になって不安になる。
そんな行動も『世話役』たちがさせたものの一つではないかと。
『かくれんぼだよ。見つけられたら、終わりにするから』
一体いつのことか分からないが、男の人にそう言われた記憶がある。
顔は覚えていない。母ではない、ということはやはり『世話役』の人だろうか。
緑茶を口に含み味わった。ほっとする。
これは雅樹が買ってきてくれたちょっといい茶葉だ。贅沢だ。
ぽたぽたと手に雫が落ちる。
別に、消える努力をするだなんて決心をしなくたっていい。
全部思い出してからは、もうずっとずっと思考はぐちゃぐちゃのままだ。
平静をよそおうために気を張っている。それは今最も都合のいいことだ。
田中君はもう何も覚えていないようだった。
小学生の頃だもの。仕方がない。
彼にとってそれはもう過去のことなのだ。
胸の中央が痛んだ。内側から押されているような、このまま張り裂けてしまいそうな違和感。
胸元のボタンを開け、指でなぞる。
なぞって、爪を立てて引っ掻いた。
爪の間に皮膚が入り込む。
痛くてまた涙がにじんだ。
大丈夫。この中にあるできものはそう簡単に消えたりはしない。




