第23話:女帝アデレードの召喚
王都の中心にそびえる王宮の北翼、白大理石の回廊を抜けた先に広がるのは、一年中温暖な春の空気を湛えた『冬の離宮・温室宮』だった。
天井を覆うのは、幾何学模様を描く鉄骨と、歪みのない巨大なクリスタルガラスの天窓。
外の世界では晩秋の冷たい北風が街路樹の葉を吹き散らしているというのに、ガラスドームの内部には、南方の異国から集められた極彩色の熱帯植物が咲き乱れ、芳醇な蘭の香りとジャスミンの甘い薫香がむせ返るほどに立ち込めていた。人工の滝が白く泡立ちながら清冽な水音を立て、金箔を施した鳥籠の中では、極楽鳥が金属質な美しい声でさえずっている。
その温室宮の中央、噴水を取り囲むように設えられた豪奢なサロン席には、今宵の『特別茶会』に招かれた王都最上流の貴婦人や令嬢たちが、色とりどりのドレスを競い合うように広がっていた。
「……それにしても、皆様。今日のお茶会に、あの『不吉な娘』が呼び出されたというのは本当ですの?」
扇子で口元を隠しながら、公爵家の令嬢が小声で囁いた。
その問いかけに、周囲の伯爵夫人たちが嘲笑を含んだ眼差しを交わし合う。
「ええ、本当ですわ。近衛の早馬が直々にグラナート領へ召喚状を届けたそうですもの」
「まあ……あのような没落した田舎貴族の娘が、皇太后陛下のサロンの敷居を跨ぐだなんて、一体何の冗談かしら」
「冗談なものですか。皇太后陛下がお怒りになっていらっしゃるのよ。モルガン伯爵邸の夜会で元婚約者のユリアン様を破滅に追い込み、あまつさえ先日は、あのカシアン侯爵様まで罠に嵌めて爵位剥奪に追い込んだという、忌まわしい毒蛇のような娘ですもの」
「社交界の秩序を乱す田舎ネズミを、陛下が自らこの場で査問し、断頭台へ送るおつもりなのでしょう。ふふ、身の程知らずの小娘が青ざめて震え上がる姿を見るのが、今から楽しみですわね」
飛び交うのは、剥き出しの悪意と、血に飢えた野次馬たちの冷笑だった。
彼女たちにとって、ルチア・フォン・グラナートという存在は、平穏だった社交界の池に小石を投げ込み、自分たちの憧れだった美男子や大貴族を次々と引きずり落とした不気味な異分子に過ぎなかった。
そして――何より、このサロンを主宰する人物の存在が、令嬢たちの残虐な期待を煽り立てていた。
噴水の一番奥、一段高い大理石の壇上に置かれた、純白の天鵞絨が張られた玉座のような椅子。
そこに、微動だにせず鎮座していたのは――前国王の正妃にして、現国王の母、そして社交界の絶対的頂点に君臨する女帝、アデレード皇太后その人だった。
御年、六十二歳。
厳格に結い上げられた霜降りの白髪には、余計な宝飾を排したプラチナの細いティアラが一つだけ冷たく輝いている。
纏っているのは、夜の帳のように深い濃紺のサテンドレス。
年齢を重ねてなお衰えぬ、氷のように研ぎ澄まされた美貌。鷲のように鋭い灰色の双眸は、温室に集まる貴婦人たちの浅薄なおしゃべりなど一瞥もせず、ただ静かに、冷え切った紅茶の茶杯を見つめていた。
アデレード皇太后。
先代の王が病弱であった時代、実質的に王国の政務と外交の舵を取り、幾度もの内乱と貴族院の反乱を鉄の意志で鎮圧してきた『生ける伝説』。
そして――若き財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイトの才能を誰よりも早く見出し、彼を財務省の頂点へと引き上げた、唯一無二の後ろ盾。
(……オスカーの奴が、珍しく公務を放り出してまで肩入れしている娘、か)
アデレードは冷ややかな瞳の奥で、数日前にオスカーから極秘裏に届いた報告書の内容を反芻していた。
カシアンとイザベラの解体。地下金庫から押収された巨額の不正資金。
そして――その成功報酬の三割、金貨九百枚のすべてを、私腹を肥やすことなく一瞬で自領のインフラと民の救済へと注ぎ込んだという、十八歳の子爵令嬢。
(稀代のペテン師か、それとも国家を揺るがす恐るべき怪物の卵か。……オスカーを狂わせるほどの毒を持つ女の毛並み、この私の目で直々に確かめさせてもらおう)
女帝がそう思考を巡らせた、まさにその時だった。
「――グラナート子爵令嬢、ルチア・フォン・グラナート様、ご入室にございます!」
温室宮の巨大な真鍮扉の前で、王室筆頭典礼官の厳格な声が響き渡った。
ピタリ、と令嬢たちのおしゃべりが止まった。
扇子を下ろし、誰もが嘲笑と蔑みの色を瞳に浮かべながら、開け放たれた大扉の方角へと視線を集中させる。
田舎の貧乏娘が、皇太后の威光に気圧され、みすぼらしい身なりで足をもつれさせながら入ってくるに違いない――誰もがそう信じて疑っていなかった。
ギイと重厚な音を立てて扉が開き、そこから一歩、踏み出してきた人影を目にした瞬間――。
「……っ!?」
温室宮の空気が、凍りついた。
入室してきたルチア・フォン・グラナートの姿に、居並ぶ高位貴族の貴婦人たちは、息を呑んで言葉を失った。
ルチアが身に纏っていたのは、華美な金銀の刺繍も、重苦しい宝石のフリルも一切排した、仕立ての良さだけが際立つ漆黒のウールドレスだった。
王宮の茶会において黒を纏うのは、皇太后への絶対の恭順と、自らを控えめな臣下として位置づける最高位の礼節の色。
首元には、宝石のネックレスなど一つもない。
その代わりに、黒いスクエアネックから覗く白磁のデコルテと、折れそうなほど優美な鎖骨のラインが、温室のガラス天窓から差し込む光を浴びて神々しいまでの陰影を描き出している。
艶やかな黒髪は、乱れ一つなく完璧な夜会巻きにまとめられ、後頭部に銀の細工ピンが一本だけ差されている。
そして何より――その歩みだった。
トツ、トツ、と静かに大理石を踏みしめる靴音。
背筋は天から一本の糸で吊り上げられているかのように寸分の狂いもなく垂直に伸び、顎は引かれ、視線はわずかに伏せられながらも、微塵の怯えも迷いも宿していない。
肩の揺れは完全にゼロ。ドレスの裾の波打ちすら、まるで測られたかのように均等なリズムを刻んでいる。
(な……何ですの、あの立ち居振る舞いは……!?)
(没落した田舎貴族の娘ですって……!? まるで、王立典礼局の最高指南役が歩いているようではないの……!)
貴婦人たちの間に、戦慄が走った。
粗相を犯せば即座に嘲笑い、皇太后の面前で断罪してやろうと手ぐすねを引いていた令嬢たちは、その一分の隙もない完璧な『気品』の前に、突っ込みどころを完全に封殺されていた。
(――プロトコル・ドミナンス(礼儀による主導権掌握)、成立ね)
ルチアは内心で冷ややかに笑いながら、壇上のアデレード皇太后の前へと進み出た。
前世――数多の上流階級のパーティーに潜入し、華族や大富豪たちを騙し抜いてきた一条玲奈の記憶。
階級社会において、最も強固な防御壁とは何か?
反論でも、弁明でもない。
「相手の定めた絶対的なルール(礼儀作法)を、相手以上の完成度で完璧に体現してみせること」なのだ。
礼儀作法において突っ込みどころがゼロである限り、権力者は理不尽な感情論で相手を断罪することができなくなる。礼儀によって相手の攻撃の刃を根元から封じる――これが、詐欺師の至高の防壁だった。
壇上の三歩手前。
ルチアの足が、寸分の狂いもない位置でピタリと止まった。
スッ――と、息を呑むような静寂が広がる。
ルチアは両手を重ねて胸元へと引き寄せ、視線を皇太后の足元の大理石へと落とした。
そして、滑らかに、まるで水が流れるような所作で、右足を後ろへと引き、左膝を折った。
背筋を完全に伸ばしたまま、上半身を優雅に傾斜させ、漆黒のスカートの裾を両手で優美に広げる。
頭を下げる角度は、王室規律第4条に定められた、正妃に対する最上級敬礼の基準値――正確無比なる四十五度。
――王宮最上級宮廷礼。
呼吸の乱れ一つなく、三秒間の完全なる静止。
その所作の美しさは、温室に咲き乱れるどんな蘭の花よりも気高く、完璧だった。
周囲に控えていた近衛兵たちすら、思わず背筋を正してしまうほどの圧倒的な威厳。
「……」
壇上の玉座で、アデレード皇太后の眉が、ピクリと跳ね上がった。
その灰色の双眸に宿ったのは、嘲りでも怒りでもなく――百戦錬磨の女帝すら息を呑むほどの、強烈な驚愕だった。
(……見事なものだね)
アデレードは心の中で呟いた。
王宮で生まれ育った王女ですら、ここまでの完璧な宮廷礼を自然に体現できる者は片手で数えるほどしかいない。
田舎の貧乏令嬢が、恐怖で膝を震わせるどころか、この老いた女帝の鼻先で、王宮の作法そのものを完全に支配してみせたのだ。
「……面を上げよ、グラナートの娘」
重々しく、地を這うようなアデレードの声が響いた。
「ありがたき仰せにございます、皇太后陛下」
ルチアは流れるような所作で立ち上がり、ゆっくりと顔を上げた。
その紫紺の瞳は、秋の夜空のように澄み渡り、女帝の鋭利な視線を真っ向から受け止めていた。
伏し目がちに怯えるふりなど、もはやしていない。
王国の絶対的頂点と、前世の修羅場をくぐり抜けてきた稀代の詐欺師。
二人の怪物の視線が、温室の静寂の中で音もなく激突した。
アデレードは冷ややかな眼差しでルチアを頭から爪先まで検分し、薄い唇の端を皮肉げに歪めた。
「……ふん。田舎ネズミと聞いていたが、毛並みだけは随分と整えてきたようだな」
痛烈な侮辱。
周囲の貴族令嬢たちから、クスクスと意地の悪い忍び笑いが漏れた。
やはり陛下はお怒りなのだ、この娘を嘲笑い、いたぶり殺すおつもりなのだ――そう信じて色めき立つ女たち。
しかし――ルチア・フォン・グラナートは、眉一つ動かさなかった。
怒るでも、取り乱すでも、恥じらうでもない。
彼女の唇に浮かんだのは、まるで春風のように穏やかで、慈愛に満ちた聖女の微笑みだった。
「恐れ入ります、皇太后陛下。……毛並みの悪き田舎ネズミなればこそ、陛下の高貴なる御前に立つにあたり、一分たりとも不快な思いをおかけせぬよう、身を清めて参上いたしました」
完璧な切り返し。
侮辱の言葉をそのまま受け流し、自らの謙虚さと礼節の深さへと昇華させてみせる話術の極致。
アデレードの灰色の瞳の奥に、わずかな知的好奇心の光が灯ったのを、ルチアは見逃さなかった。
ルチアは一歩、自然な所作で前に進み出た。
そして、自らの背後に控えていたエミリアから、黒いベルベットに包まれた長方形の木箱を恭しく受け取ったのだ。
「陛下。本日は、社交界の絶対の太陽たる陛下にお目通り叶いました栄誉に感謝し……我がグラナート領の痩せた大地が育みました、ささやかな冬の恵みをお納めしたく、持参いたしました」
「……恵みだと?」
アデレードは怪訝そうに眉をひそめた。
周囲の令嬢たちからも、失笑が漏れる。
「まあ、手土産ですって? 皇太后陛下に、没落貴族の泥臭い農作物でも押し付ける気かしら」
「身の程知らずにも程がありますわね。陛下がそんな田舎のゴミ屑をお受け取りになるはずがありませんのに」
嘲笑の声が温室に満ちる。
だが、アデレードは扇子で令嬢たちをピシャリと制した。
その鋭い視線は、ルチアが抱える木箱へと注がれていた。
「開けてみせよ、グラナートの娘。そなたがわざわざ王宮へ持ち込んだ、その『恵み』とやらをな」
「かしこまりました、陛下」
ルチアは優雅に一礼し、木箱の真鍮の留め金を外した。
パチン、と乾いた音が響く。
蓋が静かに持ち上げられ、中から現れたのは――。
サァッ――!
温室のガラス天窓から差し込む陽光を浴びて、真珠のように白く、神秘的な銀の光を放つ一枚の織物。
第22話で完成させた、グラナート領の至宝――『白銀の霧』のショールだった。
「……っ!?」
壇上のアデレード皇太后が、わずかに身を乗り出した。
その肥えた鑑識眼が、一瞬にしてその織物の異常性を捉えていた。
シルクではない。だが、どんな最高級の絹よりも繊細で、羽のように軽く、それでいて密度のある温もりを宿した純白の輝き。
「……何だ、その布は」
「我が領の寒冷地にのみ生息する希少種、スノウ・シープの極細の産毛だけを選別し、最新鋭の技術で織り上げましたショールにございます」
ルチアは両手でショールを恭しく掲げ、澄み切った声で言葉を紡いだ。
「王国の母たる陛下のお身体を、北風の冷気から守るためだけに仕立てました、世界に一枚だけの特注品。……どうぞ、お手にとってお確かめくださいまし」
静寂が、温室宮を満たした。
先ほどまでルチアを嘲笑っていた令嬢たちは、その言葉を失い、壇上の純白の輝きを呆然と見つめていた。
女帝アデレードの前に跪きながら、ルチアの紫紺の瞳は、一切の揺らぎなく前を見据えていた。
(さあ……ご覧になりなさい、社交界の女帝)
ルチアの内心で、冷徹な詐欺師の計算機が、カタカタと次のステージの数字を弾き出していた。
この女帝は、単なる美術品や贅沢品に惑わされるような浅い人間ではない。
オスカーの後ろ盾であり、国家財政の裏側を知り尽くした怪物だ。
だからこそ――このショールは、単なる献上品ではない。
王室が抱える巨大な赤字と財政難を救うための、抗いようのない『ビジネスの撒き餌』なのだ。
「虎の尾を踏むときは、怯えて足を引いてはなりませんわ。――極上の絨毯のように、優しく撫で上げるのです」




