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第22話:特産品の開発戦略

グラナート子爵邸の二階、かつては埃が積もっていた大会議室の窓からは、清流のほとりで濛々(もうもう)と白い蒸気を吐き出す新設の紡績工場が一望できた。

机の上に広げられているのは、王都から届いたばかりの最新の繊維相場表と、クラリスが徹夜で書き上げたであろう緻密な販売計画書だ。


「――以上が、私の策定した『グラナート領繊維製品・第1期販売戦略』ですわ、姉様」


十五歳のクラリス・フォン・グラナートは、人差し指で銀縁眼鏡の位置をクイと押し上げると、胸を張って羊皮紙をトントンと机に揃えた。

会議室の長机には、ルチア、クラリス、そして作業着から急ごしらえの地味な上着に着替えた父ルーファスの三人が顔を揃えている。


「工場の稼働率は順調そのもの。このまま行けば、来月には極細羊毛を用いた平織り布が月間五千反、一般向けの厚手の下着や靴下が月間一万着、安定して生産ラインに乗ります。

これを王都の下町商人ギルドを通じ、既存の市場価格より『一割安く』卸売りに流します。安さと実用性を武器に薄利多売でシェアを奪い、着実にキャッシュを回収する……。手堅く、最もリスクの低い王道の経営戦略ですわ!」


クラリスの瞳には、実務家としての自信が満ち溢れていた。

隣で聞いていた父ルーファスも、うんうんと深く頷いている。


「素晴らしいじゃないか、クラリス! 安くて温かい下着や布なら、王都の平民たちも大喜びだ。領民たちに仕事を与え、貧しい人々にも喜んでもらえる。これぞまさに、領主としての理想的な事業だよ!」


善良なお人好しの父と、着実な安全策を好む現実派の妹。

二人の意見は、一般的な領地経営の教科書に照らし合わせれば、百点満点の模範解答に見えただろう。


――しかし。

長机の真ん中に座るルチア・フォン・グラナートは、差し出された計画書に視線を落としたまま、氷のように冷徹な溜息を一つ吐き出した。


「……却下ですわね。一銅貨の価値もありませんわ」


「なっ……!?」


クラリスが息を呑み、眼鏡を落としそうになりながら身を乗り出した。


「きゃ、却下ですって!? なぜですの、姉様! 計算に狂いはありませんわ! 工員の賃金、原毛の仕入れ値、輸送コストをすべて差し引いても、純利益率は確実に八パーセントを確保できます! これ以上の堅実な計画がどこにあるとおっしゃるのです!?」


「クラリス。あなたの計算は美しいけれど、市場という生き物の残酷さを完全に無視しているわ」


ルチアは冷然と言い放ち、手元の販売計画書を人差し指で押し戻した。


「薄利多売――それはね、莫大な資本力と広大な領地を持つ『巨大領主』だけが許された暴力の土俵なのよ。

いいこと? 王国の東部や南部には、何千頭もの羊を囲い込み、何万人もの農奴をタダ同然で使役している大公爵や侯爵家がいくつもあるわ。彼らが我がグラナート領の安売り参入に気づいた瞬間、何が起きると思う?」


「それは……向こうも対抗して、価格を下げてくるかもしれませんが……」


「下げるどころの話ではないわ。ダンピング(不当廉売)よ」


ルチアの紫紺の瞳が、射抜くように妹を見据えた。


「向こうは大資本の体力を使い、原価を割った赤字価格で市場に布をばら撒いてくるわ。数ヶ月、あるいは半年間、我が領が干からびて破産するまで徹底的に出血競争を仕掛けてくるのよ。

弱小領地が薄利多売の価格競争に巻き込まれれば、最後は工員の賃金を削るしかなくなり、工場は倒産し、残るのは借金の山だけ。……大資本の土俵に自ら飛び込んで首を差し出すなど、愚の骨頂ですわ」


「あ……」


クラリスの顔から、急速に血の気が引いていった。

帳簿の数字しか見ていなかった少女の脳裏に、市場の暴力的な弱肉強食の現実が突きつけられたのだ。


「う、ううむ……確かにルチアの言う通りだ……」


ルーファスが青ざめて腕を組む。


「近隣の有力貴族たちも、我が領の急成長を苦々しく見ている節がある。安売りで喧嘩を売れば、束になって圧殺されかねないな……。だがルチア、ならばどうするんだ? せっかく作った良質な羊毛を、一体どこへ売ればいいというんだい?」


「簡単ですわ、お父様」


ルチアの唇が、妖艶な弧を描いた。


「大貴族どもが絶対に手を出せない、そして彼ら自身が喜んで全財産を差し出さざるを得ない『天上界の土俵』を作るのです。……安価な日用品ではなく、王都の富裕層と高位貴族たちの虚栄心を極限まで刺激する――『最高級ブランド』の創出よ」


「最高級、ブランド……?」


聞き慣れない言葉に、クラリスが目を白黒させる。

ルチアは立ち上がり、壁際に控えていたメイドのエミリアに目配せをした。

エミリアは恭しく一礼し、黒いベルベットの布に包まれた二つの木箱を、長机の上へと運び込んだ。


「クラリス。前世……いいえ、経済学の基本に『ヴェブレン効果(顕示的消費)』という法則があるわ」


ルチアは優雅に木箱の前に立ち、語り始めた。


「通常の商品は、価格が上がれば需要が減る。けれどね――己の富や社会的地位を他人に誇示するために消費される『最高級財』は、真逆の動きを見せるのよ。

価格が高ければ高いほど、手に入れるのが困難であればあるほど……愚かな人間たちは『これを持つ自分は特別だ』と錯覚し、喉から手が出るほど欲しがるようになるの。

私たちが売るべきは、日用品としての布ではないわ。彼らの自尊心を満たすための『特権の象徴』そのものよ」


パチン、と金具が外され、第一の木箱が開けられた。

中から現れたのは、息を呑むほど美しい、純白の薄絹のような一枚のショールだった。


「……っ!? な、何ですの、これは……!?」


クラリスが息を呑み、思わず手を伸ばした。

指先がその布に触れた瞬間、妹の身体がビクリと震える。


「な、なんて軽さ……! まるで、何も持っていないみたい……! それに、この肌触りは……シルク!? いいえ、羊毛のはずなのに、カシミヤすら遥かに超える滑らかさ……!」


「――商品名、『白銀の霧(シルバースノウ)』よ」


ルチアは満足げに微笑み、ショールを指先でつまみ上げた。

窓からの光を透かし、柔らかな真珠のような光沢を放つ至高の織物。


「スノウ・シープの群れから、冬の初めに生え変わる首回りと腹部の極細の産毛だけを、工員たちに手作業で選別させたの。一頭の羊から、わずか手のひら一杯分しか取れない希少繊維。それを最新の水力紡績機で極限まで細い糸に紡ぎ、羽のように軽く、それでいて真冬の吹雪すら完全に遮断する圧倒的な保温力を持たせたわ」


「す、すごい……! こんな見事なショール、王都のどんな高級仕立て屋でも見たことがありませんわ!」


「ええ。そして、この『白銀の霧』の販売価格は――一枚あたり『金貨五十枚』に設定します」


「ご、五十枚ィィッ!?」


ルーファスが椅子から転げ落ちそうになり、クラリスが絶叫した。

金貨五十枚。平民の家が十軒建つほどの天文学的な金額だ。布切れ一枚に対する価格としては、狂気の沙汰としか思えない。


「あ、姉様、正気ですの!? そんな法外な値段、誰が買うとおっしゃるのです!?」


「買うわよ、クラリス」


ルチアは冷笑を浮かべた。


「モルガン伯爵邸の夜会を思い出してごらんなさい。ヴィヴィアン様のような令嬢たちが、胸元にぶら下げている宝石にいくら使っていたと思う? 数百枚よ。

彼女たちにとって、金貨五十枚など『買えない額』ではないの。『他人に見せびらかすために、喜んで支払える絶妙な額』なのよ。

しかも、このショールは月にわずか『二十枚』しか市場に出さないわ。スノッブ効果――『誰もが持っているものは欲しくない、自分だけが持てるからこそ価値がある』という心理を極限まで煽るのよ」


希少性の極限化と、価格によるスクリーニング。

王都の夜会で、この純白のショールを纏うこと自体が、最高位の淑女としてのパスポートとなる。

原価の数十倍の暴利を貪りながら、客の方から頭を下げて金を差し出してくる完全な売り手市場の構築。


「そして――もう一つの商品が、これよ」


ルチアは第二の木箱を開けた。

現れたのは、カットの施された重厚なクリスタルボトル。

中に満たされていたのは、秋の夕暮れを閉じ込めたかのような、深く澄み渡った琥珀色の液体だった。


「おや……? これは、まさか酒かい?」


ルーファスが怪訝そうに眉を寄せ、瓶を覗き込んだ。


「ええ。――商品名、『グラナート・アンバー』。私たちの領地が誇る、最高級蒸留酒(ウイスキー)よ」


「ウイスキー……? だがルチア、我が領で酒造りなど……いや、待てよ」


ルーファスが何かに気づいたように目を見張った。


「まさか……村の猟師や山男たちが、冬の間の気付け薬として昔から密造していた、あの『火酒(ひざけ)』のことかい?」


「ご名答ですわ、お父様」


ルチアはパチンと指を鳴らした。

そう、これは前世の知識による完全な新発明などではない。

もともとグラナート領の厳しい寒さを乗り切るため、農民や猟師たちが大麦を発酵させて密かに蒸留していた、アルコール度数の極めて高い無色透明の薬用酒――いわゆる密造酒の原酒(ニューポット)だった。

かつてのそれは、喉を焼くような荒々しいアルコールの刺激しかなく、とても貴族の口に入るような代物ではなかった。


「彼らはただ、できたての強い酒をそのまま煽っていただけでした。……ですが、この土地には、ウイスキーを作るための『奇跡の三条件』がすべて揃っていたのですわ」


ルチアは指を三本立てて解説した。


「第一に、グラナート山脈から湧き出る、鉄分の極めて少ない清冽な雪解け水。

第二に、寒冷地特有の、冷涼で湿度の高い気候。

そして第三に――この山に自生する、香り高い『オーク(楢の木)』の木材よ」


ルチアはボトルを傾け、用意されていた小さなグラスへと琥珀色の液体を注いだ。

トクトクと重厚な音を立てて注がれた瞬間――会議室いっぱいに、息を呑むほど芳醇な香りが爆発した。

バニラのような甘い樽香、スモーキーなピートの深み、そして熟した果実の芳醇な薫香。


「荒々しい原酒をオーク樽に詰め、領内の古い石切り場の地下洞窟で長期熟成させたの。冷涼な気候がアルコールの揮発を抑え、木樽の成分をゆっくりと、極限まで溶け込ませたわ。……お父様、どうぞ一口召し上がってみて」


「う、うむ……」


ルーファスは恐る恐るグラスを受け取り、琥珀色の液体を口に含んだ。

その瞬間――父の目が、カッと見開かれた。


「――っ!? な、なんだこれは……!?」


ルーファスは喉を鳴らして飲み下すと、信じられない面持ちでグラスを凝視した。


「まろやかだ……! 喉を通る瞬間はまるでシルクのように滑らかなのに、胃の腑に落ちた瞬間、身体の芯からカッと温かい炎が広がる……! そして、この鼻から抜ける気品ある木の香り……! これが、あの山男たちの飲んでいた粗野な火酒と同じものだというのか!?」


「ええ。ただの荒々しい密造酒も、時間と樽の魔術をかければ、黄金の雫へと化けるのです」


ルチアは微笑み、ボトルを掲げた。


「王都の貴族たちが飲んでいるのは、南方の甘ったるい果実酒や、水で薄めたワインばかり。……社交界の男たち、特に軍部や貴族院の重鎮たちにとって、この重厚で高貴な琥珀色の蒸留酒は、一度口にすれば二度と忘れられない至高の嗜好品になりますわ。

こちらも一本あたり『金貨三十枚』。王都の高級サロンや限定クラブにのみ、会員制で卸す専売契約を結びます」


静寂が、会議室を包み込んだ。

机の上に並んだ二つの至宝。

純白のショール『白銀の霧』と、琥珀色の美酒『グラナート・アンバー』。

女の虚栄心を刺激する至高の衣と、男の支配欲とプライドを満たす至高の酒。


クラリスは茫然と二つの試作品を見つめ、次いで自らの手元の販売計画書を見下ろした。

そして――躊躇うことなく、その計画書を自らの手でビリビリと破り捨てたのだ。


「……私の完敗ですわ、姉様」


クラリスは眼鏡の奥の瞳をギラギラと輝かせ、不敵な笑みを浮かべた。


「安売りなどというみみっちい商売、金輪際口にいたしません。大貴族どもから骨の髄まで黄金を巻き上げる『グラナート・ブランド』の専売体制……このクラリスが、責任を持って帳簿と流通網を構築してみせますわ!」


「頼もしいわね、我が家の財務長官」


ルチアは満足げに目を細めた。

完璧な戦略。

泥水をすすっていた弱小領地が、王都の貴族階級の富を合法的に吸い上げるための最強のエンジンが、今ここに完成したのだ。


「貴族が買っているのは品質ではありませんわ。――『自分は他人とは違う』という、底の浅い優越感そのものです」


ルチアがキラーフレーズを口にした、まさにその瞬間だった。


ヒヒィィィンッ!!


屋敷の遥か外、領境の街道の方角から、けたたましい軍馬の嘶(いなな)きが響き渡った。

続いて、地鳴りのような早馬の蹄の音が、物凄い速度で子爵邸へと近づいてくる。


「な、なんだ!? 何の騒ぎだ!?」


ルーファスが驚いて窓辺へと駆け寄った。

ルチアとクラリスも視線を向ける。

屋敷の門前へと砂煙を上げて乗り込んできたのは――金泥の甲冑を纏い、純白の駿馬に跨った、王室直属の近衛伝令使だった。

その掲げる白銀の軍旗には、王国の絶対の権威を示す『双頭の鷲と王冠』の紋章が誇らしげに刻まれている。


「しょ、召喚状だ……! 王宮からの緊急公電だぞ!」


ルーファスが青ざめて叫ぶ。

伝令使は馬から飛び降りると、居並ぶ領民たちを威圧するように一瞥し、子爵邸の玄関前で羊皮紙の巻物を高く掲げた。

その巻物を封印しているのは、国王の印章ですらなく――前王の正妃にして、社交界の絶対的頂点に君臨する女帝の紋章。


『グラナート子爵令嬢、ルチア・フォン・グラナートに告ぐ!

アデレード皇太后陛下より、王宮温室サロンにおける極秘茶会への召喚命令である! 遅参は一切許されぬ、即刻王都へ出頭せよ!!』


雷鳴のような宣告が、秋のグラナート領に轟き渡った。


「こ、皇太后陛下……!? あの社交界の女帝が、なぜルチアを……!?」


ルーファスが頭を抱えて卒倒しかけ、クラリスが息を呑んでルチアを見つめる。

だが――ルチア・フォン・グラナートは、微塵も動揺していなかった。

彼女は窓辺に佇み、机の上の純白のショール『白銀の霧』へとそっと手を伸ばした。

その紫紺の瞳に宿っていたのは、恐怖ではなく――次なる巨大な獲物を前にした、冷酷な狩人の光だった。


(……オスカーの後ろ盾。社交界の真の頂点、アデレード皇太后ね)


ルチアの唇が、美しく弧を描く。

舞台は整った。

自らが創り出した至高の特産品を携え、いざ――王国の最高権力者の懐へと飛び込む時が来たのだ。

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