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勇気を出して~アイリーンの場合

「ただいま戻りました」

部屋に入ってきたエレノアの後ろにいつもの黒髪の青年の姿が見えなかったので、アイリーンはあらと呟いた。

「お帰りなさい。・・・少し早かったのではない?」

鎖時計を確認して問えば、エレノアは明らかに動揺を見せた。

「まさか、一人で戻ったわけではないわよね?」

「違います、すぐそこまでハーディ様と参りました」

王女付きの侍女のまとめ役であるジゼルが少し厳しい声で問いただせば、エレノアは慌てたように白状してしまう。

本来送ってくるはずのハロルド・イングラムをおいてきたのか、と部屋中の人間が呆れた目を向ける中、エレノアは困ったように眉を八の字に下げた。

彼女の侍女の仮面はこの部屋にはいると同時に脱げてしまうようで、それはアイリーンや同僚を信頼しきっているからだと分かるので、皆懐いた子どもの『おいた』を前にしたような気分になる。アイリーンは、仕方のない子、と手招きをした。

「エレノア、ここへ来てちょうだい」

呼べばエレノアはいそいそとそばへ来て、まるで叱られるのを待つ子犬のようにしている。

侍女と主人の距離を保ったエレノアの指を、アイリーンは椅子から腰を浮かせ、手を伸ばして引き寄せた。

予定の変更は一応危機管理に配慮したもので、侍女としての彼女を叱る気はない。ただ、親友としてのアイリーンはエレノアに言わねばならないことがある。そのため、エレノアとの距離を密談のそれまで縮めた。

「最近、ハロルドを避けていたけれど、何かあったの?」

「いいえ」

否定したエレノアにアイリーンは少し顔をしかめて見せた。

「何もないのに避けていたというのなら、貴女は私の命令に反したことになるわよ」

エレノアには、侍女の仕事を理由に恋から目を背けないようにと、異例の命令を下してある。

エレノアはアイリーンを見つめたまま、おののくようにきゅっと眉根を寄せた。それから彼女は結んでいた赤い唇を震えるように動かした

「申し訳ありません。本当に、些細なことなので何があったわけでもないのです。ただ、私自身が彼に近づきすぎないほうがいいと思うようになっただけなのです」

「近づきすぎない?なぜ近づいてはいけないの?」

もしかするとこの奥手な娘なりの照れ方なのだろうか、と疑いながらアイリーンは重ねて尋ねた。

すると返ってきたのは、思いもかけない言葉だった。

「ハロルドには恋人ができましたから、近くにいるべきではないのです。・・・思いを、忘れるためにも」

アイリーンは面食らって、思わず口をぽかんとあいてしまった。

驚いたのは自分だけではないはずと周りを見渡せば、他の侍女たちも皆同じ顔をしている。それだけ、エレノアの発言は突拍子もないものだった。

アイリーンは、開いた口を一度湿らせてから、皆の思いを代表して尋ねた。

「ええと、あのね、エレノア。どうしてその、ハロルドに恋人という話になるのか・・・それから、いつのまに彼への思いが芽生えたのか、順を追って教えてくれるかしら?」

それから一同はアイリーンの公務の合間だったことを幸いとエレノアの小声に耳を澄ませた。彼女の説明は主観的だった上に、まだ考えの整理がついていないのか行きつ戻りつして分かりづらかったが、なんとか皆、ことのあらましを理解した。

話を聞き終わると、アイリーンは一度背もたれに沈み込んで深く長くため息をついた。

エレノアの説明によれば、ハロルドはリリーという令嬢と深い仲になっているとのことだった。しかし彼の様子を見る限り、ありえないことだとアイリーンは考えた。エレノアは彼の心配も優しさも全て家族愛ゆえだと思い込んでいるが、それだけでは到底片付けられないものがある。にもかかわらず、せっかく自覚した恋心を見当違いにも諦めようというのだから、この友人はなんと鈍感なのだろう。

聞いているうちにアイリーンは、何度も、しっかりなさいとエレノアを叱りつけたい気分になった。

しかし、目の前にいるエレノアの涙の浮かんだ瞳はまるで迷子の子犬のようで、叱咤の言葉はため息とともに消え去ってしまう。アイリーンは結局、この情けない顔のときすらまっすぐ自分を見つめてくる紫の目を、可愛いと思ってしまうのだ。

アイリーンは最後のため息を吐ききると、尋ねた。

「・・・まず、その情報は本当に信用できるのかしら?」

エレノアの思い込みがどこから来るのか、アイリーンは見極めようと思った。

「それは・・・」

エレノアは夜会でリリーとハロルドが踊っていたこと、二人の噂についての話を繰り返した。

しかし話を聞いたアイリーンは首を傾げる。

「王都では全く噂を聞かないわね」

「まだ、伝わってきていないのではないでしょうか」

アイリーンは、すっかり後ろ向きなエレノアを見てあらまあと息を吐いた。

「まあ、仮にそれが本当だとしても。どうして、そのまま諦めるという流れになるの?」

エレノアは、涙の浮かんだ瞳をしばたたかせた。

「・・・ハロルドの邪魔になりたくはないのです。それならばせめて、思いを秘めたままで、家族としての位置を守りたいのです」

アイリーンは再び首を傾げた。

万に一つの可能性で、エレノアの聞いた噂通りハロルドがリリー嬢と口づけをかわしていたとしても・・・いや、彼がエレノア以外の女性とそうしている姿が想像できないのだが・・・無理矢理そうだと想定しても、何一つ確かめもせずに身を引くほどエレノアに分が悪いとは思えない。これだけ大事にして、むしろ人生の大半をエレノアと共にいるために費やしているように見える彼だ。万が一、気の迷いが生じていたにしても、エレノアの方から一言好意を伝えるだけで形勢は一気に元通りだろうに。

「エレノアは、どうしてもっと自信をもたないのかしら」

アイリーンの呟きに、エレノアは頭をたらいで打たれたような顔をした。

ああ、図星なのだわとアイリーンは思う。彼女は王女の侍女として立派に立場を確立した今も、自身の魅力に関してはこれっぽっちの自信もないのだ。そのことに気付いて、アイリーンはがく然とした。

「自信だなんて、もてるはずがありませんわ」

「まあ、なぜ?」

「・・・年も上ですし」

「それを彼が言ったのかしら?」

「いえ、でも、私は髪も目も顔立ちも地味ですし」

言いながら彼女は斜め上を見上げた。

先程やけに力を込めて語っていたから、きっと『輝く笑顔と蜂蜜色の髪』の『ハロルドの隣にいても全く見劣りしない、光のような』リリーを思い浮かべているのだろう。

とうとう目を伏せてしまったエレノアに、アイリーンは不思議な思いで言った。

「あら、彼は貴女の髪も瞳も、可愛くて仕方がないと言うでしょうに」

アイリーンの脳裏に浮かぶのは、エレノアの髪が風に揺れれば目を細め、紫の瞳が向けられる全てのものに嫉妬の目を向けるハロルドだ。

しかしエレノアは思わずといった様子で声を張り上げた。

「そんな!可愛いだなんて、言われたことがありません」

アイリーンは目を見開いた。

あれだけ熱い目をして穴の開くほど見つめているのに、何も伝えていないとは。

「まあ、ハロルドは可愛いと言っていないの?」

「はい」

「でも、好きと言われたのでしょう?」

「す、好きだなんて、そんな」

恥じらうというより恐れ多いといわんばかり首を振るエレノアに、アイリーンはしびれを切らして声を大きくした。

「だって、貴女、彼に求婚されたのでしょう?」

ところが、エレノアは眉を下げてこう言ったのだ。

「アイリーン様、貴族の求婚は家のためにするものではありませんか」

確かにハロルドは、昔からの伝統的な求婚にのっとって、花を差しだしてくれた。けれど、可愛いだとか、好きだとか、そうした言葉を彼から言われたことはないと、エレノアは続けたのだ。

アイリーンは知らないことだが、もしも求婚されたとき、エレノアがあれほどまでに動転していなければ、ハロルドに『理想の女性だ』と言われたことを覚えていたかもしれない。そしてそれをきちんと覚えていたのなら、数々の勘違いも起こらなかったのかもしれない。しかし見合い場所に現れたハロルドとファレルの姿に動転していたエレノアは、求婚されたということ以外うろ覚えだったのだ。

そのためそれを告げられたアイリーンも、ほんの少しエレノアに同情した。エレノアが自信をもてないのは、彼女だけのせいとは言えなそうだ。

「それでは、彼は求婚の時も好きとは言わなかったのね?」

「はい」

エレノアの返答に、アイリーンはいよいよ驚き、頭を振った。

「彼、いえあの子、肝心なところで詰めが甘いわ」

へたれなのかしら、天然ではないわよね、やっぱりへたれなのねと口の中で呟いていると、目の前のエレノアが不思議そうな顔をする。それでアイリーンは、ハロルドへの怒りは今度会ったときにとっておくことにして、とりあえず目の前の友人を優先することにした。

「それにしても、私には、やっぱり納得できないのだけれど。エレノア、貴方はハロルドに直接聞いたの?」

エレノアはいいえ、と首を振った。

「たとえ貴女が、思いを告げることで関係を壊したくないのだとしても、噂の真相を確かめることくらいはしてもいいはずよね。いつものエレノアは、そんなふうに分からないことをそのままにして諦めようとするかしら?貴方は、直接聞くことから逃げてはいない?」

エレノアは、恥じ入るような顔をして、はい、と認めた。

そんな彼女に、アイリーンは勇気づけるように微笑みかけた。

「怖いわよね、傷付くかもしれないことを確かめることは。でも、命令だと言ったでしょう?逃げずに本人にぶつかりなさいな。少なくともハロルドは貴方をとても大事にしているもの、そのくらいで関係が全て駄目になったりはしないわ」

「アイリーン様・・・」

「彼のあだ名を知っている?」

首を振ったエレノアに、アイリーンは扇を突きつけて言った。

「お局様よ。貴方の警護に時間を割くためにびしびしと仕事を片付けていた結果らしいわ」

エレノアは黙りこんで考えている。

アイリーンはもう一押しすることにした。

「私ね、お父様から、彼に会うのを止められてしまったの」

これにはエレノアだけでなく、周囲の侍女の数人も目を見開いた。

アイリーンは先日の王への謁見で、ディラン・デールにこちらから招待状を出してはならないと申し渡されたのだ。

突然そのようなことを言いだした父親にアイリーンは驚き、そして深く落ち込んだ。ディランは子どもの頃から王宮に出入りし、自分たちと兄弟同然に育ったのだ。その彼が文官の仕事を休職し、招待しなければ会えない状況自体が異様だったのに、その上、父が会おうとすることを禁じるということは、つまるところ一つしかない。ディラン・デールは、国王や自分に敵対する立場になったのかもしれない。

けれど、アイリーンには納得できなかった。あれだけ自分たちの側にいて、自分に王になれと言ってくれた彼が敵になるなど、どうしても信じられなかった。

「私、まだ信じられないのよ。だから、手紙を書いて、いろいろ確かめようと思うの」

父は言ってくれなかったが、会えないことには他に理由があるのだと、ディランが返事をくれたならとアイリーンは望みをかけていた。もちろん、逆にすげない態度をとられて、悪い予想が裏打ちされる可能性もあるけれども。

アイリーンがはるかに分の悪い勝負をする気でいるのを、エレノアは真剣な目で聞いていた。

「怖いけれど、そうするつもり。だから、エレノアも、頑張りましょう?」

はいと頷いたエレノアの手を、アイリーンは再び力を込めて握った。


その夜エレノアは、久しぶりに一冊の本を手に取った。

そして茶色の革表紙をそっと撫でると、ぱらぱらとページをめくった。

【勇気を出して

ユリアは、冷たくなった指先を握りしめて立っていた。緊張で身体に震えが走る。

今日こそ、聞くのだ。

あの女性とはどういう関係なのですかと。過去のことはもういい、今の関係さえ聞ければいいのだと。

「どうした?」

愛しいフリアンが、不思議そうな顔でこちらを振り向く。それでユリアも決心を固めた。

「あの、伺いたいことがあるのです・・・」               】


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