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世界支配―誰にも見られなかった俺、人の心が読めるようになったので、会社から国までぜんぶ乗っ取ることにした―  作者: みぎみみ


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第2話 「十円玉は、指を触れずに動いた」


 どこまで動く。


 夜の十一時、中野駅から歩いて十二分のワンルームで、宍戸は、テーブルの上に並べた物を見下ろしていた。十円玉、百円玉、五百円玉、消しゴム、単三の乾電池、テレビのリモコン、マグカップ。最後に二リットルのペットボトルの水。キッチンスケールで一つずつ重さを量ってある。十円玉が四・五グラム。マグカップが三百二十グラム。ペットボトルは二キロと少し。


 八畳の部屋はベッドと小さなテーブルとテレビでいっぱいだった。台所の流しに、朝のマグカップが一つ沈んでいる。エアコンの風がカーテンの裾を規則正しく揺らしていた。


 会社から帰る電車の中で、宍戸はずっと、このことだけを考えていた。夕飯の弁当を買うのも忘れた。玄関で靴を脱ぐのももどかしかった。子どものころ、クリスマスの朝に包装紙を破いたときの、指先がむずむずする感じ。三十四歳にもなって、そんなものが自分の中に残っていたとは思わなかった。


 あぐらをかいて、十円玉を見る。


 動け。


 十円玉がするりと滑った。氷の上のおはじきのように抵抗がない。テーブルの端まで行って落ちる手前で止まる。止めようと思ったから、止まった。


 指先が少し冷える。昨夜の自販機の前ほどではない。冬の朝に手袋を忘れて家を出た、くらいの冷たさだ。


 百円玉。五百円玉。消しゴム。乾電池。どれも動いた。重くなるほど、頭の芯にかかる力が少しずつ増していく。腕の力とは違う。目の奥にもう一本、見えない指があって、それで物をつまんでいる感じだった。


 リモコンを浮かせてみる。テーブルから五センチ浮いて、ぶるぶる震えた。十秒。かたん、と落ちる。


 マグカップはテーブルの上を這うようにしか動かない。持ち上げようとすると、こめかみがきりきりと痛む。首の後ろを、汗が一筋流れた。


 ペットボトルはまったく動かなかった。押しても引いても、中の水がわずかに揺れるだけで、底はテーブルに貼りついたままだ。


 宍戸は息を吐いた。


 手が震えている。指先から手首、肘のあたりまで冷えきっていた。エアコンを切り、窓を閉めても寒い。九月の夜に押し入れからフリースを引っぱり出して羽織り、冷蔵庫を開けると、コンビニのプリンが三つ並んでいた。一つで足りるつもりで買ったものだ。


 気がつくと、三つとも空になっていた。


 スプーンをくわえたまま、空の容器を見下ろす。胃のあたりから、ゆっくりと熱が戻ってくる。腹が減ったのとは違った。体のどこかに穴が開いていて、そこへ砂糖を流しこまないと、熱が全部漏れていく。


 使えば冷える。冷えたら、甘いものがいる。


 宍戸は笑っていた。気づいたのは空のプリンの容器を三つ重ねたときだった。


 コップ一つ持ち上げられない。それでも、昨日までの自分にはなかったものだ。誰にもない。この部屋の中にしかない。宍戸だけの、見えない指だった。




 翌日の夜は距離を測った。


 百均で買った巻き尺を、玄関からベランダの窓まで伸ばす。四メートル二十センチ。窓際の十円玉は玄関からでも動いた。距離では弱くならない。ただし、見えないものは動かせない。ベッドの陰に置いた消しゴムは、どれだけ念じても、ぴくりともしなかった。


 見えて軽いもの。今のところはそれが限界だ。


 物のほうはそれでいい。宍戸が本当に確かめたいのは声のほうだった。


 次の朝、駅のホームで試した。乗車位置の線はだいたい一メートルおきに引いてある。宍戸は人と人の間に立ち、少しずつ位置をずらしていった。


 一メートル。はっきり聞こえる。二メートル。まだ聞こえる。三メートル。ラジオのつまみを絞っていくように、声の輪郭が崩れはじめる。四メートル。何も聞こえない。


 三メートル。それが今の宍戸の耳の届く距離だった。


 壁は関係なかった。ゆうべ、ベランダ側の壁の向こうから、隣の部屋の男の頭の中が、テレビの音より先に聞こえてきた。壁も、扉も、声を止めない。止めるのは、距離だけだった。


 電車に乗ると、もう一つわかった。


 向かいの女子高生と、たまたま目が合った。その瞬間、声が深くなった。


 『この人、昨日もいた。同じ吊り革。ネクタイも同じ』


 頭の表面の声だけではなかった。その少し下に流れているものまでざあっと流れこんでくる。三角比の小テストの範囲。サイン、コサイン。母親が今日も遅いのかどうか。昨日、友だちのグループの会話から自分だけ外されたこと。本人が考えていないつもりのことまで薄く重なって聞こえてくる。


 女子高生が目をそらすと、声は表面だけに戻った。


 目を合わせると、深くなる。


 宍戸は吊り革を握りなおした。手のひらが汗ばんでいた。


 今、自分は、あの子が誰にも言っていないことを知っている。あの子の母親も、友だちも、担任の教師も知らないことを。目を三秒合わせただけで。


 ぞくり、と背筋を何かが這いのぼった。


 寒気に似ていた。だが寒気とは逆の方向に、体の芯が熱くなっていく。これがほかの人間にも使えたら。課長にも。部長にも。会社の、一番上の人間にも。




 会社では何もしなかった。


 声は聞こえる。蛭田の声も、安達の声も、隣の島の係長の声も。宍戸はそのどれにも反応しなかった。いつもどおりに頭を下げ、いつもどおりに伝票をめくり、いつもどおりに蛭田の怒鳴り声を背中で受けた。


 宍戸さん、今日もなんか静か。課長、宍戸さんにだけ当たり強くない? まあ、言い返さないし。


 言い返さない。


 昨日まではその一言が胃に刺さった。今日は少しも刺さらなかった。言い返さない男が何をしていても、誰も気づかない。十二年間、宍戸を透明にしてきたものが、そのまま宍戸を隠す布になっている。


 昼休み、屋上へ上がった。喫煙所の奥に、古い木のベンチが一つある。夏のあいだに日に焼けたベンチは、触るとまだほんのり温かい。


 誰もいない。朝キオスクで買った板チョコの銀紙を剥いて、ひとかけ口に入れる。ベンチの前に室外機が三台並んでいて、その一台の上に、誰かが置き忘れた缶コーヒーの空き缶が載っていた。


 五メートルはある。


 空き缶がゆっくりと横に倒れた。からん、と軽い音。室外機の縁から転がり落ちる手前で缶は宙に止まる。


 宍戸はチョコをもう一口噛んだ。指先が冷えていく。昨夜より、少し長く止めていられる。使えば使うほど、伸びるのかもしれない。


 缶を、室外機の上へ戻す。最初からそこにあったように、まっすぐ立てた。


 階段の扉が開いた。


 営業部の男だった。名前は知らない。喫煙所の灰皿の前に立ってライターを擦る。


 『あれ、総務の……誰だっけ。あの、いつもへこへこしてる人』


 宍戸は男の手もとを見た。百円ライターの、小さな金属の歯車。


 男が親指でもう一度擦る。歯車は回らなかった。三度目も、四度目も。男は舌打ちしてライターを振り、陽にかざして中のガスを確かめる。ガスは半分以上残っていた。


 宍戸は歯車をつまんでいる見えない指を、離さなかった。


 『なんだよ、これ。買ったばっかだぞ』


 男がライターをポケットにしまい、火のついていない煙草をくわえたまま、苛立たしげに階段のほうへ戻っていく。


 宍戸は板チョコの銀紙を、ていねいにたたんだ。


 指先は冷えていた。それなのに、胸の奥が、ひどく温かかった。いつもへこへこしてる人。男の頭の中のその一言を思い出すたびに、温かさは少しずつ増していった。


 あの男は自分のライターがなぜ点かなかったのか、一生知らないまま死んでいく。


 ざまあみろ、と宍戸は思った。声には出さなかった。出さなかったのに、頬がゆるんだ。名前も知らない男に、名前を覚えてもらえなかった仕返しをした。小さい。わかっている。わかっていても、甘かった。


 宍戸は銀紙をポケットにしまい、ゆっくりとベンチから立ちあがった。九月の空が高く、どこまでも青かった。こんなに空を見上げたのは、何年ぶりだろう。




第2話 了

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