1 幾葉
絶対に失敗してはならない宴席というのがある。
幾葉にとってそれは、藤乃屋の松の間だった。
ここには洛の花街の中でも、指折りの大殿しか入室ができない限られた場所だ。
政治家が国家に関する密談をするような秘匿された店。
金銀が乱れ飛ぶという噂があるが、まさにその通りだ。
花街では庶民の年収、いや生涯をかけても天秤に釣り合わなさそうな額が、一晩にして動く。
その中でも『藤乃屋』は、最高級と呼ばれる老舗だった。
今日は宇多という大臣が宴席の主催者で、彼の持つ様々な骨董品を客に見せびらかして楽しむという、通称『数貴者の会』という雅な集まりだ。
いわゆる『住む世界が違う』と言われるような人々の秘密サロンである。
まあ、幾葉としては特に興味をそそられない。
『住む世界が違う』とはいうものの、そういう方々も下界に降りて、飯を食い、こうして幾葉と同じ空気を吸っているのだから、どちらかといえば、同じ世界に神も塵芥も一緒に存在していると言った方が正しい。
塵芥のような幾葉たちの奏でる音楽と、美しく咲き誇る花の如くの遊び女たちの美貌と、厨房で下々の者たちが働き作り上げる美食に、神々は酔い、歓ぶ。
どこでもいいのでこうして唄を歌い、今夜の茶漬けがうまければ、明日も明後日もそれでいいと、幾葉は思う。
「どうだ、この掛け軸は金千枚にもなるのだぞ」
「ほほう、素晴らしい水墨画ですなあ」
「申の時代の物でしてな」
「ふむ。まっこと素晴らしい。この色合いの重ね方がたまりませんな」
「おお、そこを理解されているとは嬉しい。こちらの壺もご覧になってください。ささ、お手にとって」
「なんという雅やかな色彩、手触り。いや、どの時代の誰の作かを当ててみせましょう」
「はっはっは、それは面白い」
お偉方の酔狂は天井知らずだった。
金千枚の掛け軸は確かに美しい風景だったが、だからといってそれ以上でもそれ以下でもなかった。
壺にいたっては器というよりはぐにゃぐにゃと曲がった茶色い塊で、幾葉の置屋のひび割れ書けた茶碗のほうがずっと使い勝手がよさそうだ。
しかし、幾葉はきちんと口を閉じて、だんまりを決め込んでいた。
昨日からベテランの地方の姐さんがはやり風邪にかかったので、幾葉はこうして新参者でありながら、姐さんの代理として松の間の宴席に呼ばれてしまった。
唄の技量は誰にも負けないつもりではあったが、それよりも心配なのは自分の立ち居振る舞いの方だ。
そう、幾葉は唄こそ天賦の才があったが、一つだけ重大な欠点があった。
思ったことをそのまま口にしてしまうのだ。
余計な一言は慎まなければならないと、この一年ずっと姐さんたちにきつく教えられてきた。
だから今日は一言も発さず、いっそ人間でもなく、ただの鳥としてつつがなく宴席を終えなければいけない。
特に今日の客は、宇多の大臣を頂点として、なかなかに凄い面子が揃っている。
秋藁芳一。
白鬚の立派な政府の重鎮で、熱心な茶道具コレクターだ。良い茶器と聞きつければ、権力を使ってでも手に入れる強引な男で、先ほどから宇多のコレクションの掛け軸を食い入るように見ている。
增井正。
財閥のトップであり、国宝が海外に流出するのを何よりも嫌っている。先ほどから壺を手にとり、裏を見ては、何時代のものかを当てようとしている。宇多と秋藁よりは少しばかり年齢が下だが、目の下の隈のせいで二人より老けて見える。
安藤良作。
年頃は三十過ぎといったところか。增井お抱えの古美術商だ。身なりはきちんとしていて、これ見よがしに海外製の真鍮時計をつけている。口を開けばお世辞が出てくる腰の低い男だ。宴席の主役たちの機嫌を損ねないように持ち上げながら、次の取引を狙っており抜け目が無い。
そして、須賀眞。
若くすらりとした、本人が美術品のような男だ。
とある大名の隠し子という噂もある。洛随一の趣味人で、漢詩や文才があり、天帝の覚えもめでたい。
政治家でありつつも、当代きっての文化人だ。
結婚適齢期だというのにずっと独り身で、花街に骨を埋めるかと言われている稀代の遊び人である。
このような癖のある面子にあてがわれた、遊び女たちもたまったものではないが、そこは場数を踏んだ天神たちだ。
話すべきときには話し、引く時には引きながら、宴席を盛り上げていた。
皆によく酔いがまわったころ、
「時に面白い失敗談がありましてね」
と、須賀が言った。
須賀は男の癖に、匂い立つような色香がある。
長髪を束ねた肌はしっとりと艶めいており、どこにいても目をひく。
男も女も同席している者たちは皆、自然と須賀に顔を向けた。
「実は私はつい先日、毒に当たったのですよ」
「気の毒な話だ。なんでまた」
「それが茸や河豚の類いではなく……酒なのです」
「酒と。また妙な話だな。貴殿は底なしのうわばみだろう。どれだけ強い酒でも、仏のように粋に飲みなさるじゃないか」
須賀は困ったように微笑みながら、存外恐ろしいことを口にした。
「言うまでも無く、六つの花街の全てが私の安息の地なのですが、時には趣向を変えたいときがあります。とある料亭で女と食事をしていたら、急に胸が苦しく……というか、身体が焼け落ちるかと思うほどに熱くなりましてねえ。地獄でしたよ。死ぬかと思いました」
幾葉は、
(ふうん、妙な薬もあるものだなあ)
と、のんきに構えていた。
が、他の人々はそれは毒というよりは、どちらかというと一種の『薬』だろうと検討をつけていた。
が、雅人らしく含んだ笑いでもって包むだけにしておいた。
「酒に何かが仕込まれていたのだな」
「ええ、おそらく。ですが分からないのが、私たちは一緒に飲んだのですよ。同じ酒を、同じ瓶で」
「ふん。話は簡単じゃないか、それならお前の器にだけ毒が塗ってあったのだろう」
と、宇多の大臣が言ったが、須賀は首を横に振った。
「いいえ。胸をはって言えることではありませんが、私もこの手のやり口には慣れておりますからね。まずビイドロの杯に女が酒を注いだ瞬間、一口飲んでみせてくれと注文をつけました。女は涼しい顔で飲んでみせ、美味いと言って笑っておりましたよ」
「その後、具合が悪くなったのか」
「いいえ。女は涼しげな顔でぴんぴんしておりました。それで酒は大丈夫と分かり、私も飲みたくなりましたので、さらに念には念を入れて、飲む直前で女と杯を交換したのです」
「はあ。お前は全く……さすが当代きっての遊び人だな」
「お褒めにあずかりまして光栄です。しかし、結果はこのざまですよ。器でもない、酒瓶でもない、だとすればいったいどこに毒を盛られたのか? 分からないのです」
「ははあ、女子の手の甲に毒が塗ってあったのではないか。お前が手をとって口を付けたなら、あるいは……」
天神たちがきゃらきゃらと笑い声をあげた。
「いややわあ、お大尽様」
「厭らしゅうてかなん、もう」
どことなく嬉しげに、大臣は反論した。
「いやいやっ、この男ならやりかねんのじゃ! お前たちも皆、この好色男の噂は聞いておろう」
「期待を裏切って申し訳ありませんが、女性に私からは指一本触れておりませんよ」
「貴殿が交換すると見越して、その女子が器に毒を塗っていたのではないか」
と秋藁が予想した。
「さすがに私も杯に不純物がついていれば分かりますよ。それに、私だって毎回そんなことをしているわけではありません」
「透明な毒だったのか?」
「よろしいですか、あの手の薬というのは塗り薬のように、薄く広げただけでは効きません」
「そんなん聞きたなかったわあ」
と、天神の女たちがきゃらきゃらと笑う。
「となると、その料亭で、何か変なものを食べたのではないか。飯は何があったんじゃ」
案外冷静な增井が尋ねた。
「鱧が有名な店でしたからね。梅肉をつけて食べたのと……牡丹椀と『うるか』、一式食べましたよ。賀茂茄子の鴫焼きと田楽、氷室に盛り付けた刺身。あとは……透き通ったギヤマンのグラスで、発砲葡萄酒を飲みましたね。食前に」
「お前、そりゃどこの店じゃ。良い店を知っておるの。わしにも教えんか」
「もちろんいいですよ。洛の御仁方でもなかなか知っている方の少ない、一見さんお断りの私の好い場なんです。もし誰かがこの謎を解いてくださったら、連れて行くだけでなく散々奢りましょう」
「はっはっは! 面白い余興じゃな」
幾葉にとって、この余興は特に悩ましい謎でも何でもなかった。
思わずぽろっとひとつの確信が口から出かかったが、なんとか踏みとどまった。
思ったことを何でも口にしてしまうのは、幾葉の悪い癖だ。
遊郭の二番手、三番手、四番手が揃ったこの豪勢な宴席で、彼女たち以外の女は絶対に声を発してはならない。
幾葉のような地方であれば、言うまでも無い。
この宴席が終わるまで、たとえ何を思いつこうとも、唄以外では口を開かない。幾葉は心に深く誓った。
だが、自分で想像した通りにいかないのが、人生の宿命というものである。
この数刻後、幾葉は自分の悪癖を、頭を抱えて後悔するはめになるのだった。




