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レフトウィングへ駆ける途中で、親父は階下へ向かった。背中を見送って、俺は真っ直ぐにランスト公達の居住区域へ突入する。
一刻の猶予もないことは、館内の人間なら皆把握している。公爵の避難する奥の間までは、難なく通ることが出来た。
部屋の中には、銃や剣等の装備の他、食料とおぼしき木箱や樽も見えた。俺を迎え入れたコーネン執事の肩越しのテーブルに、公爵とデサロ秘書の姿がある。
「お前が来たということは、籠城策もついえたか」
疲れた表情で、デサロが俺を見遣る。全て、見通している諦めの眼差しだ。
「エレイン様を、北の塔にお連れするために伺いました」
頭を下げたまま、自分の使命を告げる。
「……そうか。コーネン」
冷静な――やけに落ち着き払った公爵の声が返る。
「こっちの扉だ。来なさい」
肩を叩かれ、顔を上げる。執事が案内してくれたのは、部屋の更に奥に、隠すように設けられた白い扉だった。
コーネンは、やや大きめに二度、ノックした。
「エレイン様。迎えが参りました。お開けください」
「……獣の匂いがする」
カチャリと細く開いた扉の向こうから、抑揚のない冷たい声が応えた。こちらの灯りが差し込む様子から、室内が暗いことが窺える。
「お話したでしょう。災禍を逃れるため、北の塔にお移りいただきます」
籠城に失敗するようなら、北の塔に避難する――これは親父が立てた苦肉の策ではなかったらしい。既に公爵との間での決定項だったようだ。
「北の塔? あそこは、嫌」
「我が儘を仰いますな。非常事態ですぞ」
厳しい口調で諭す。沈黙が返る。
背後に気配を感じて振り向くと、灰色の瞳を曇らせた公爵が近づいて来た。慌てて飛び退いた俺に、彼は小さく頷いた。
「エレイン。王家の血統を絶やす訳にはいかぬ。供物は、必ず届ける。どうか、逃げ延びてくれ」
「……お父様」
扉が開かれ――黒髪の小柄な女性が、ガバと公爵に抱き付いた。ワンピースなのかドレスなのか、純白の長いスカートが足元まで覆っている。
「守ってやれなくて、すまない」
娘の髪を何度も撫でながら、公爵もまた強く抱き締めている。今生の別れを覚悟しているかのように。
俺は、公爵の背に回された彼女の指を眺めていた。血色のない、蝋のような滑らかで白い肌に、黒く細長い爪。エレイン様を、こんなに間近で見たのは初めてだが、妙な違和感を覚えた。
「……お急ぎください」
父娘の時間を裂く非情な声に、エレイン様の指が動揺した。恐らく、コーネンはいつも憎まれ役に徹しているのだろう。
「着替えて。支度を」
まだ離れがたいと首を振る娘の髪にキスを落として、公爵は自ら引き離した。身体越しに白い顔が一瞬覗いたが、パッと扉の向こうに滑り込んでしまった。
「ヴィルヘルム」
「はい」
久しぶりに正式な名前を呼ばれて、背筋が伸びる。公爵の合図で、執事は立派な銀色の剣を携えてきた。柄にランスト公爵家を表す翼竜の紋章が刻まれ、金と青緑の装飾が施されている。それを掴むと、公爵は俺に差し出した。
「満月が終わったら、都へ向かえ。この剣が通行手形となろうぞ」
「畏まりました」
受け取った剣は、やや重みがあるものの、手に馴染みよい。装飾の美しさだけでなく、恐らく実戦向けでもあるに違いない。
革の装着具を肩から掛け、剣を背負う。
「エレインを頼んだぞ」
公爵は、俺の両手をがっしりと掴み、固く握った。それは領主としてではなく、1人の父親の顔だった。
「分かってます。命に代えても、お守りします」
「ありがとう。ヴィル」
公爵の眼差しが緩む。その時、ガチャリと扉が開いた。
現れたエレイン様を見て、息を飲んだ。『闇色の聖女』――それが、彼女の第一印象だった。




