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第4話:真実の重みと新たな歩み

 眠れなかった。

 簡易ベッドの上で何度寝返りを打っても、泥にまみれた手のひらの感触が消えない。足を取られた自分と、その足元を黙って固めた誰かの土魔術。蔦に引き倒された自分と、その目の前で振るわれた誰かの剛剣。瞼を閉じても、毛布を被っても、それが繰り返し再生されていた。


 クリストファーは起き上がり、上着を羽織って宿舎を出た。


 夜の防壁の足元に、橙色の灯りがひとつ揺れていた。

 整備区画だ。昼間の溶接の火花はもうなく、数人の作業員が配線の束を囲んで座り込んでいる。その輪の中に、見慣れた後ろ姿があった。


「ここ、まだ湿ってるな。レイラちゃん、頼めるかい」

「はい。魔力は絞りますね」


 レイラが指先に小さく生活魔術を灯し、むき出しの配線をなぞっていく。生体兵器の体液で濡れていた被膜が、みるみる乾いていった。


「助かるよ。拭くだけだと内側に残っちまってな、朝の点検がいつも遅れるんだ」

「内側ですか……。確かに、拭き取るだけでは足りませんね」

「おう、飲み込みが早い。明日も来るかい」

「はい。お邪魔でなければ」


 笑い声が起きた。昼間は誰も無駄口を叩かなかったはずの人たちが、驚くほど気安く、彼女に話しかけている。


(いつの間に……)


 自分が司令室で「怠慢」を叫んでいた間に、彼女はその「怠慢な人々」の隣で手を動かしていたのだ。

 声をかけられず、足が止まった。


「おい、そこの坊ちゃん」


 作業員の一人が、こちらを見ずに言った。


「突っ立ってるなら、手を貸しな」


 ばさり、と布切れが飛んできた。反射的に受け止めて、クリストファーは輪の端に腰を下ろした。

 レイラは一瞬微笑んで、しかし何も言わなかった。




 翌朝。

 総括司令室の扉の前で、クリストファーは一度だけ深く息を吸い、ノックした。


「早いな、卿」


 作戦図の前に立っていたグスタフが、振り向いた。


「総括司令。兄の――フレデリックの最期を、教えていただきたい」


 少年の声には、もう刺がなかった。


「先日は、聞く前に決めつけました。詫びは……聞いた後に、させてください」


 グスタフはすぐには答えなかった。やがて作戦図の北の端、砂漠極地との境に近い一点を指で押さえる。


「事故の三日前から、北の電磁ノイズが強まっていた。防衛システムが不安定になる兆候だ。最初に報告してくれたのは、兄上だった」

「……では、わかっていて」

「わかっていて、補修班の護衛に就くと申し出られた。壁を直さねば次の群れで保たないことも、理解しておられた」


 グスタフの視線が、まっすぐにクリストファーを捉える。


「そして私は許可した。兄上の雷魔術が必要だ、と判断したのだ。

 誰かに責を問うなら、それは私だ」


 喉が鳴った。怒りが湧くより先に、記憶の中の兄の背中が、ゆっくりと振り返った気がした。


(兄上なら、そうされる)


 それが分かってしまうことが、何より苦しかった。

 その背中に憧れて、自分も雷魔術を習得したのだから。


「……兄は、最後まで持ち場を」

「撤退する者たちを先に逃がした。暴走した防衛システムを、手動で止めようとしてな。望まぬ結果に、なってしまったが――」

「……そう、ですか」


 それだけ言って、クリストファーは深く頭を下げた。

 無礼への詫びも、兄の死を疑ったことへの詫びも、言葉にすれば全部が軽くなる気がして、頭を下げ続けることしかできなかった。

 グスタフは何も言わず、その旋毛を見つめていた。


 重い鉄の扉が、ぎい、と開いた。


「……朝っぱらから、辛気くせぇ顔が揃ってやがる」


 ゲオルグが入口に立っていた。後ろで、ダルカスが気まずそうに首をすくめている。いつから聞いていたのか、大男の顔つきは昨日よりも渋かった。


「仲間を見殺しだと、てめぇは言ったな」

「はい。――申し開きはしません」


 顔を上げて答えると、ゲオルグは鼻を鳴らし、腰の雑嚢から何かを取り出して放ってよこした。

 胸に当たって、掌に落ちる。

 使い込まれた分厚い革の手袋だった。指の付け根はすり減り、掌には何度も縫い直された跡がある。手入れはされているようだが表面は少し焦げていた。


「これは……」

「俺様の『荷物』だ。しばらく貸してやる。使わねぇなら返せ」


 ――そして右手小指には見覚えのある赤い飾り紐が巻き付いていた。酷く汚れて端が焦げているが。これは出征する兄の無事を願って、幼い自分が願を掛けたものではなかったか。


(……兄上)


 はめてみると、指先が少し余った。

 あのとき、お返しにと兄に結んでもらった赤い飾り紐。今も自分の右手首にあるそれが、手袋の飾り紐と並んで揺れた。

 兄の手の大きさを、クリストファーはこのとき初めて知った。


「……ありがとうございます」

「礼を言われる筋合いはねぇ。明日から外には出さんぞ。まずは壁の手入れからだ。……泥を這って、自分の足で立てるようになってから、俺様に口を利け」


 ゲオルグは踵を返して出ていく。ばたん、と扉が閉まった。いつものように乱暴な音だった。けれど、最初の日より少しだけ、静かだった気がした。


「あーあ、素直じゃないねぇ、隊長は」


 ダルカスが肩をすくめて笑う。


「坊ちゃん、昨日の約束はまだ有効だぜ。俺の言うことには従う。いいな?」

「はい、ダルカス殿。……よろしくお願いします」


 歩き出したダルカスの背中を、クリストファーは今度は目で追った。

 足の置き方。肩の力の抜き方。視線の流れ。

 昨日は、ただ遠いとしか思えなかった背中に、ほんの少しだけ、見るべき場所があることに気づいた。

 後ろから、同じ背中を見ているレイラの気配がした。


 遠い。まだ、ずっと遠い。

 けれど、遠い背中には、歩いていく先があった。

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