第1話 先輩の怪談
ぼくの名前は、ゆうと。小学四年生。
いつもならとっくに下校している時間なのに、今日はどうしても忘れ物を取りに戻らなくちゃいけなかった。教室にランドセルを置きっぱなしにしてしまったのだ。まったく、自分でもドジだと思う。
校舎に戻ると、玄関ホールに六年生の颯太先輩が立っていた。颯太先輩は、ぼくより頭ひとつ背が高くて、サッカー部のエースだ。いつも自信満々で、ちょっと怖い。
「お、ゆうとか。おまえも忘れ物か?」
颯太先輩が、にやりと笑いながら声をかけてきた。
「はい。ランドセル、教室に置いたままで」
「まぬけだなあ」
先輩はそう言って笑った。でも、その目がちょっと赤いような気がした。まぶたも、ほんのりはれているみたいに見える。まるで、さっきまで泣いていたみたいに。でも、颯太先輩に限って、泣くなんてありえない。
「先輩も忘れ物ですか?」
ぼくがそうたずねると、颯太先輩は、きょろきょろとあたりを見まわしてから、ぼくの肩をぐいっと引き寄せた。そして、声をひそめて言った。
「ゆうと、おまえ、くすぐりお化けの噂、知ってるか?」
「くすぐりお化け……?」
「そうだ。夜の学校の階段に現れる幽霊だ。つかまると、夜が明けるまで、ずーっとこちょこちょされるんだとさ」
ぼくは首をかしげた。そんな噂、聞いたことがなかった。
「知らないです。どんな幽霊なんですか?」
すると颯太先輩は、まんざらでもない顔で、胸をはった。
「よし、それなら俺が教えてやる。この前の金曜日、俺は、そのくすぐりお化けに、ほんとに会ったんだぞ」
「えっ!?」
ぼくが目を丸くすると、先輩は声をさらにひそめて、話しはじめた。
あれは先週の金曜日のこと。
颯太先輩は、放課後のサッカーの練習が長引いて、ロッカールームを出たのが夜の七時をまわっていた。もう外はまっくらで、校舎の中はしんと静まりかえっている。
「体育館から校舎にもどったら、教室に忘れたゲームを取りに行こうと思ったんだよ。」
先輩は、自分の教室がある三階へ行くために、階段をのぼりはじめた。外の街灯の光が、窓からぼんやりと差し込んでいて、階段は薄暗かった。
「一歩ずつのぼっていったらさ、なんか変だったんだよ」
「変って?」
「二階に着くころ、下の方から、音が聞こえたんだ」
先輩は、階段の途中で立ち止まった。耳をすますと、たしかに下の階から、かすかな物音が聞こえる。パタン、パタンという、誰かが歩いているような音だ。
「最初は用務員のおじさんかなと思ったんだ。でも、用務員のおじさんはとっくに帰ってる時間だろ。で、その音、だんだん階段に近づいてくるんだよ。しかも、歌が聞こえてきたんだ」
「歌?」
「そう、女の人の声で、しかもすごく楽しそうな歌なんだ。こういう歌」
颯太先輩は、そこでちょっと間をおいてから、小さな声で歌いだした。
「♪かいだんのぼって、こちょこちょこちょ
いちだんのぼって、こちょこちょこちょ
に~だんのぼって、こちょこちょこちょ……」
その歌は、聴いているだけで、なんだかわきの下がむずむずしてくるような、くすぐったい歌詞だった。
「歌はどんどん近づいてくるんだ。俺はこわくなって、階段の上からのぞきこんだ。そうしたら……見えたんだよ」
先輩の声が、一気に小さくなった。
「白い服を着た女の人が、階段をのぼってきてた。長い髪で、顔はよく見えなかったけど、あれは絶対幽霊だ……」
「ゆ、幽霊……」
「俺はあわてて三階に上がって、教室に行こうとした。でも、足が動かないんだ。ほら、幽霊って、金縛り使ってくるっていうだろ?それで体がカチカチにこわばっちまってさ。そのうちに、歌がどんどん近づいてきて……」
颯太先輩は、ごくりとつばを飲み込んだ。目がちょっとうるんでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
「そしたら、白い服の女が、階段をのぼりきったんだ。俺は壁にはりついたまま、声も出せなかった。そしたら、その幽霊、俺を見て、『キャー!』って叫んだんだよ」
「キャー!?」
「そう。こっちが悲鳴をあげるより早く、幽霊の方が先に叫んだんだ。それで、いきなり俺にとびかかってきて……」
颯太先輩は、そこで一度言葉を切って、両手で自分のわきの下をかばうように抱えた。
「くすぐってきたんだ。こちょこちょこちょ~って。それがもう、めちゃくちゃ上手くてさ。指がわきの下のくぼみにぴったり入って、もう、どうしようもないんだ。俺、くすぐりには強い方なんだけど、全然かなわなかった」
「それで、どうなったんですか?」
「笑ったよ。涙が出るくらい、笑った。ひっくり返って、床をゴロゴロ転がって、腹がよじれるかと思った。でも、その幽霊、絶対に手をはなさないんだ。わきの下をやられたかと思うと、今度はお腹で指をサワサワさせてきて、こっちが体を丸めると、こんどは腰のあたりを、つんつんつんつんって。もう、どうやっても逃げられないんだよ」
颯太先輩は、遠くを見つめながら、しみじみと言った。
「あのくすぐり方、ほんとにすごかった。わきの下で指をこちょこちょってくすぐり回して、しかもリズムがあるんだ。かいだんのぼって、こちょこちょこちょって歌のリズムに合わせて、指が動くんだよ。それが、ものすごくくすぐったいんだ」
「で、でも、先輩は無事に逃げられたんですよね?」
先輩は、急に得意げな顔にもどった。
「お、よく気づいたな。俺は大爆笑しながらも、頭のすみで必死に考えた。くすぐりの歌を歌う幽霊にどうやって勝ったらいいか。そうしたら、ひらめいたんだよ」
先輩は、指を一本立てた。
「あの歌、よく聴いたら、『かいだんのぼって』って歌詞なんだよ。つまり、あの幽霊は階段をのぼる分には追いかけてくるけど、おりる分には追いかけないんじゃないかって」
「なるほど!」
「で、一瞬のスキをついて、幽霊の手をふりほどいたんだ。それで、立ち上がって、全速力で階段をかけおりた。そうしたら、どうなったと思う?」
「どうなったんですか?」
颯太先輩は、にんまりと笑った。
「幽霊は、階段のいちばん上の段から動かなかった。下りてこようとしないんだ。ただ、じっと俺のことを見おろしてた。俺はそのまま一階まで走って、校舎を飛び出したんだ。」
先輩は、そこで話を終えると、誇らしげにぼくを見た。
「つまり、階段をおりれば、くすぐりお化けに捕まらないってことさ。俺は天才だね」
「すごいです、先輩!」
ぼくは素直に感心した。さすが六年生、肝が据わっているし、とっさの判断力もすごい。でも、ひとつだけ、気になることがあった。
「あの、先輩。それって結局、幽霊はどんな顔だったんですか?若い女の人?それとも、おばあちゃんみたいな顔?」
すると、颯太先輩の得意げな顔が、ちょっとだけくもった。
「うーん……それがさ、正直、よくおぼえてないんだよ」
「え?」
「だって、くすぐられてるときって、笑いすぎて目をつぶっちゃうだろ?だから、顔をちゃんと見る余裕がなかったっていうか……。笑いすぎて涙で前が見えなかったし、顔をのぞこうとしたら、すかさず耳の後ろをこちょこちょってやられて、首をすくめちゃうし。幽霊のくせに、こっちの弱点をすぐ見抜いてくるんだ」
先輩は、そう言いながら、耳の後ろをぽりぽりとかいた。まるで、まだくすぐったさが残っているみたいに。
「でもまあ、顔はわからなかったけど、ひとつだけはっきりしてることがある」
「なんですか?」
「あれは、たしかに幽霊だった。まともな人間じゃない。人間があんなくすぐり方をできるわけがない。指が、まるで生き物みたいに動くんだ。わきの下をくすぐりながら、同時にわき腹も指の先でこちょこちょって。あんなの人間には無理さ」
先輩は力説したあと、ふと時計を見上げて、あわてた声を出した。
「やばい、もうこんな時間か。俺、先に帰るわ。ゆうと、おまえも気をつけろよ。特に、階段をのぼるときはな」
「はい。ありがとうございます」
颯太先輩は、ダッシュで下駄箱の方へ走っていった。ぼくは、その後ろ姿をしばらく見送っていた。
それにしても、くすぐり幽霊かあ。
怖いっていうより、なんだか不思議な話だと思った。だって、普通の幽霊って、呪いをかけてきたり、恨みをもって殺そうとしたりするものじゃないだろうか。それが、こちょこちょするだけなんて。しかも、階段をおりれば追ってこないなんて、ずいぶん変わった幽霊だ。
でも、颯太先輩が涙を流して笑うなんて、よほどのことだ。あんなに自信満々の先輩が、くすぐられて転げまわる姿を想像すると、ちょっとだけ見てみたい気もした。いや、やっぱり怖いかな。
ぼくは、自分の教室へ向かうために、階段をのぼりはじめた。
一段、一段、足を進めるたびに、さっきの颯太先輩の歌が頭の中でよみがえる。
「かいだんのぼって、こちょこちょこちょ……」
なんだか、自分の後ろに誰かがいるような気がして、ぼくは思わずふり返った。
でも、誰もいない。階段には、街灯のオレンジ色の光が差し込んでいるだけだ。
ほっと胸をなでおろして、また前を向く。
そのときだった。
下の方から、かすかに音が聞こえた気がした。
パタン……パタン……
えっ。
ぼくは、心臓がドキドキするのを感じた。耳をすますけど、もう何も聞こえない。気のせいだったのだろうか。
でも、なんだか急に怖くなって、ぼくは走って教室に行き、ランドセルをつかむと、いちもくさんに校舎を飛び出した。
外に出て、月明かりの下を走りながら、ぼくは思った。
くすぐり幽霊は、ほんとにいるんだろうか。
それとも、ただの颯太先輩の作り話?でも、あの先輩の目を見る限り、作り話ではなさそうだ。
いつか、自分の目で確かめてみたい。
そう思ったけど、今はまだ、ちょっと怖かった。
家に帰ってから、ぼくは布団の中で考えた。
くすぐり幽霊がもし本当にいたら、どんな幽霊なんだろう。なぜ、階段だけをのぼってくるんだろう。そして、どうして、あんな楽しそうな歌を歌いながら、人をくすぐるんだろう。
「かいだんのぼって、こちょこちょこちょ……」
ぼくは小さく口ずさんでみた。
なんだか、怖いというより、くすぐったくなる歌だ。歌っているだけで、指が自分のわきの下に近づいてくるような気がする。
「こちょこちょこちょ」
ぼくは、自分のわきの下をちょっとつついてみた。
くすぐったい。
もし、これがもっと上手な指だったら、どれだけくすぐったいんだろう。
颯太先輩が言ってた、あの「人間じゃない」くすぐり方って、どんな感じなんだろう。
ぼくは、なかなか寝つけなかった。頭の中では、あの歌がぐるぐる回っている。そしていつしか、ぼくは決心していた。
今度、夜の学校に行ってみよう。
くすぐり幽霊が本当にいるのか、この目で確かめるんだ。
そう決めたら、不思議と怖くなくなった。それよりも、わくわくする気持ちの方が大きかった。
「かいだんのぼって、こちょこちょこちょ……」
ぼくは、もう一度だけつぶやいて、目を閉じた。
明日は学校だ。まずは、もっとくわしい噂を集めないと。もしかしたら、他にもくすぐりお化けに会った人がいるかもしれない。
そう考えながら、ぼくはようやく眠りについた。
次の日、学校でさっそく調べてみると、くすぐりお化けの噂は、五年生や六年生の間で少しずつ広がっていることがわかった。でも、実際に会ったことがあるのは、今のところ颯太先輩だけみたいだ。
ぼくは放課後、図書室に調べものに行った。学校の七不思議とか、怪談の本を探してみようと思ったのだ。
図書室のカウンターには、司書の麻衣先生が座っていた。麻衣先生は、やさしい笑顔がすてきな先生で、ぼくも何度か相談にのってもらったことがある。
「こんにちは、ゆうとくん。今日はどんな本を探してるの?」
麻衣先生は、にこにこしながら声をかけてくれた。
「あの、学校の怪談の本ってありますか?階段の幽霊とか……」
そう言ったとたん、麻衣先生の手がぴくっとふるえた気がした。でも、すぐにいつもの笑顔にもどって、本棚の方を指さした。
「そ、そういう本は、あっちの『民話・伝説』の棚にあるわよ。でも、あまり怖い本ばかり読んでると、夜に眠れなくなっちゃうかも……」
そう言う麻衣先生の声が、なんだかちょっとだけ、うわずっていたような気がした。
先生、もしかして怖いの苦手なのかな?
本棚から怪談の本を取り出して、ぱらぱらとページをめくる。でも、どれもくすぐりお化けのことは載っていない。
もしかして、本とかには載っていない、この学校だけの怪談なのかもしれない。
本を閉じて、ふと顔を上げると、カウンターの向こうの麻衣先生と目が合った。
「先生、この学校の怪談って知ってます?」
「えっ!?」
麻衣先生は、飛び上がらんばかりにおどろいていた。顔がほんのり赤くなっている。
「こ、こ、この学校に怪談だなんて!聞いたこともないよ!」
先生はそう言って、カーテンを閉め始めた。
「ゆうとくん、図書室はもうすぐ閉まるわよ。本を借りるなら、早く手続きしてねっ!」
麻衣先生は、なぜかあわてた様子で、ぼくをせかした。
ぼくは、結局、怪談の本は借りずに図書室をあとにした。
廊下を歩きながら、ふと、颯太先輩の話を思い出す。
「白い服を着た女の幽霊。長い髪。歌を歌いながら階段をのぼってくる」
それって、なんだか、誰かに似ているような気がする。
でも、誰だろう。思い出せそうで、思い出せない。
ぼくは、もやもやした気持ちのまま、家に帰った。
夜、ベッドの中で、もう一度あの歌を思い出す。
「かいだんのぼって、こちょこちょこちょ……」
今度の週末、夜の学校に行ってみよう。
今度は階段をのぼって、くすぐり幽霊が本当に現れるかどうか、確かめるんだ。
もし捕まったら、くすぐられるんだろうか。颯太先輩みたいに、涙が出るまで笑わされるんだろうか。
怖いけど、ちょっとだけ、楽しみでもあった。
ぼくは、ふとんの中で、わきの下をかばうように腕をぎゅっと組んだ。なんだかすでに、むずむずするような気がする。
そして、小さくつぶやいた。
「待ってろよ、くすぐり幽霊」




