第5話 出発
それからはあっという間だった。
彼女は仕事を辞め、アパートを立ち退く日程も決まった。
資金の心配は勿論あるのだが、とりあえずは僅かな貯金を切り崩して後は現地でどうにかするしかない。
まずは旅に出る。私にとってはそれが最も重要な事なのだ。
「旅行なんて久しぶり!楽しみだなあ〜。」
彼女は満面の笑みでそう言った。
決まった事とはいえ、本当に良いのだろうか。
何かは分からないが彼女には誇れる仕事もあったし、近くには兄も住んでいる。
私の我儘に付き合わせてしまって良いのだろうか。
そんな事を考えていると、彼女に抱き付かれた。
「置いて行かないで。」
薄々気がついていたが、彼女は私の心が読めるらしい。
彼女に触れられるたび、心臓がドキンと跳ねる事だってバレているだろう。
そっと頭を撫でると、彼女は私を更に強く抱き締める。
出発の5日前、私達のアパートに彼がやって来た。
「お兄ちゃん、いらっしゃい!」
「よお。これ、葵が好きなやつ。」
「たんぽぽ堂のプリンだ!お兄ちゃんありがとう!」
彼女は紙袋を受け取ると無邪気に笑った。
三人で食卓を囲んだのだが、彼は私と一切目を合わせてはくれない。
その代わり彼女とはとても楽しそうに会話をする。
この兄妹は仲が良いらしい。
私は彼女の事を覚えていない。けれど彼女が笑っているだけで満たされた。
覚えていなくても彼女が自分にとって特別な存在だったのだと分かる。
だからこそ記憶を取り戻したいのだ。
「葵、大丈夫か?」
食事が終盤に差し掛かった頃、彼女はテーブルに突っ伏して眠ってしまった。
彼はそんな彼女にブランケットを掛けて、愛おしそうに見つめる。
少しすると、彼は彼女の頭をそっと撫でて席を立った。
「付き合え。」
ベランダに出ると彼は煙草を蒸す。
「お前も吸え。」
「いえ、私は……。」
「吸え。」
強引に煙草とライターを渡され、見よう見まねで火を付ける。
「ゲホッ……ゴホッ……!」
煙草の煙ってこんなにキツイものなのか。
慣れるとこれが美味いのか?
彼はむせる私に見向きもしない。そして2本目を蒸しながら、私に問う。
「本当に何も覚えていないのか?」
「……はい、何も。」
「何か断片的にもか?少し覚えていれば記憶を取り戻しやすいんだろ?」
彼はもしかして。
「セカンド・ライフを読んだんですか?」
彼はそれについて何も答えなかったが、彼が言っているのはセカンドのタイプの話だ。読んだに違いない。
「クソが。」
彼は彼女を、妹をとても大切に思っている。
だからこそ彼女を忘れてしまった私を許さない。
「ごめんなさい……。」
「許せねえよ。」
彼は一生私を許さないだろう。
「あの、もう1本ください。」
「は?」
「あ、いえその……。」
私は何故吸えもしない煙草を欲しているのだろう。
しかもこんなタイミングで……。
また胸ぐらを掴まれるんじゃないかと思ったが、彼はただ目を丸くしていた。
「……仲良しだ……。」
振り向くと、いつの間にか眠たそうに目を擦る彼女が立っていた。
「え?」
彼女は私達の間に入ってそれぞれ腕を組む。
「私も入れて。」
「おい。」
彼は帰り際、私の胸ポケットに煙草を箱ごと入れた。
「今度こそ吸えるようになっておけ。」
「え?」
彼は彼女の頭をそっと撫でると、アパートを後にした。
「こっち来て。」
手を引かれてソファーに座ると、彼女は私の肩にもたれてすやすやと寝息を立て始めた。
長くてくるんとしたまつ毛にスッと通った鼻筋。
彼女の横顔はとても美しかった。
◇
そして遂にその日はやって来た。
「じゃじゃーん!!」
「これは……。」
嬉しそうな彼女の後ろには大きな飛行車があった。
「旅用飛行車!良い色でしょ!」
飛行車のボディーはまさしく向日葵イエロー。
中は2階建てで1階はキッチンカー仕様、2階は居住スペースだ。
キッチンカーを運営すれば資金稼ぎ出来るし、これなら寝床にも困らない。
「高かったんじゃない?」
「中古だから定価よりは安く買えたよ!」
「そっか……。」
定価いくらなんだこれ……。
「気に入らなかったかな?」
彼女はしゅんとした顔で私を見る。
「いや、申し訳なくて……。」
私の貯金ではただの中古車を購入するので精一杯だった。それを知った彼女が私に任せてほしいと言ってくれたのだ。
私の我儘で始まろうとしている旅。
彼女に負担をかけるのは__。
「嬉しかった。」
「え?」
「乙姫が帰ってきてくれて嬉しかった。それだけで十分なのに、一緒に旅できるんだよ!」
彼女は私の手をぎゅっと握る。
「幸せ。」
「葵。」
見ると、いつの間にか彼が立っていた。
「お兄ちゃん!」
彼女は見送りに来た彼に駆け寄る。
「お見送り来てくれてありがとう!」
「当たり前だろう。」
彼は浮かない表情を見せる。
「お兄ちゃん、寂しいんでしょ?」
「……当たり前だろう。」
彼がそう言って黙り込むと、彼女は彼に抱き付いた。
「いっぱい連絡する。お土産もいっぱい買ってくる。」
「気をつけてな。」
「よーし!出発しよっか!」
運転席の彼女は嬉しそうにそう言った。
「運転までごめ……」
頬に柔らかい感触。
彼女の唇だ。
「謝るの禁止!行くよ!」
「……うん。」
心臓がゴム毬のように跳ねる。顔が熱くて仕方ない。
見ると、彼女の頬も赤く染まっていた。
こうして私は......いや、私達は記憶の旅に出た。