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4 お忍び時々迷子

 王都の治安は、衛兵の人件費が年々削られていても誰も気づかないくらいには良好である。

 指名手配犯の張り紙は迷い猫のチラシに代わり、早馬の詰め所はいつの間にか旅行代理店に看板を変え、その恩恵はカテリナも受けていた。

 子どもの頃から王城と実家の往復だけでパンも洋服もそろうので、カテリナはその対角線上からはみ出ずに大人になった。学生時代は買い食いもせず、新しいチョコレート店ができたんだってと何かを期待するまなざしで言う父にも、そういえば牛乳忘れてきちゃったと言って、いつもの牛乳店に取りに戻るカテリナだった。

 そんなカテリナが無事王城に就職して騎士という称号を得て、大手を振るって盛り場に繰り出したかというと、そんなはずはなかった。むしろ王城内に出入りする商人や食堂という強い味方を得て、街歩きの能力は本格的に劣化した。

 ギュンターとアリーシャのお忍びに同行してまもなく、カテリナはここがどこかわからなくなったが、危ないところなどまったく立ち入ったことがないために気にもしていなかった。まっすぐな鈍さで建国以来初めての祭りに浮き立つ街の空気にも染まらず、目先の仕事を注意深くみつめていた。

「待て、カティ。どこに行く」

 庶民は立ち入れない目抜き通りに馬車が到着するなり、カテリナは明後日の方向に歩き出そうとした。ところが馬車の中で始終アリーシャと話に花を咲かせていたギュンターが、途端に声を低くして呼び止めた。

 カテリナはギュンターを振り向いたが、その目は大いなる到達点をみつめていた。つまり国王陛下が最愛の人とワルツを踊ること、そのために自分ができる最善の方法を考えていた。

「夜勤に備えてパンを買いに行こうと思います」

「何の夜勤だ。君の仕事は私の護衛のはずだ」

「いや、ですから」

 彼女の頭の中ではすでにギュンターとアリーシャは恋仲であり、これから雨が降ってどこかの宿で夜を明かすところまで進行していた。

 初日からこの進捗なら最終日を待たずに目的が達成できる目算で、カテリナは澄んだ瞳でじっと国王陛下をみつめた。まさか彼女の頭の中をのぞいたわけではないだろうが、ギュンターはその真剣で有無を言わさないまなざしに眉を寄せた。

 ふとカテリナの目は上に動いて、落胆の色を浮かべた。空が晴れ渡っていて雨の気配がないためだったが、すぐに気持ちを切り替えるようにして顔を引き締めた。

「アリーシャ、リボンが靴に合わないと言っていなかったか。これは目に適うかな」

 ギュンターも気を取り直してアリーシャのエスコートを始めた。国王たるもの呼吸をするように話をつなげられなければと自負していて、滞りなく心地いい話題を提供するのは慣れている。

 新作のリボン、噂の菓子、暮らしを飾る花に王城のサロンまで話題をさらった演劇。どれもアリーシャが好んで、いつまででも息の合う会話を続けてくれるのをギュンターは知っている。

「この間靴を変えたのは失敗だったわ。私に濃い色は合わないって知ってたはずなのに」

 ただアリーシャは自分が王城に出入りする令嬢の憧れである矜持があって、時にそれが彼女の足かせになっている。不意にアリーシャの表情が陰ったのを見て、ギュンターが話題を変えようとしたときだった。

 店内の壁際で石像のように微動だにしなかったカテリナが、店員に何か耳打ちした。店員は訝しげな顔をしたが、そっとアリーシャに歩み寄ってリボンを差し出す。

「こちらはいかがでしょう?」

 普段店員に頼ることなく自分で身に着けるものをすべて選ぶアリーシャが、店員のみつけたリボンを見て歓声を上げた。

「すごいわ! その合わせ方は初めて。ね、陛下。結んでくださる?」

 言われるままにギュンターがアリーシャの髪を結うと、彼女は子どものように喜んで鏡の前で繰り返しリボンを撫でる。

「似合うでしょう?」

 確かにその淡い緑をしたリボンは彼女のドレスにあつらえたように似合っていて、ギュンターはちらとカテリナを見やったが、カテリナはもう石像に戻ってしまっていた。

 それからも奇妙な幸運は続いた。アリーシャはお洒落ゆえにギュンターすら手を焼くほど好みにはうるさいはずが、いつもなら相手にもしない店員の差し出す商品を手放しで喜んだ。

「やっぱり精霊が降りてきてるのね。今日は運命の出会いばかり」

 いや、違うんだアリーシャ。そこの、壁と一体化しているような新米騎士が服の色にも生地にも、花の種類にも最新の演劇の台詞にも詳しいんだ。

「喜んでくれて何よりだ」

 ギュンターは自分より一回りも年下の、子どものような顔をした少年に負けを認めるわけにもいかず、そつのない笑顔を浮かべた。

「君は姉妹がいるのか」

 アリーシャが店員と談笑している間、ギュンターは何気なさを装ってカテリナに小声で問いかけた。

 カテリナはどうしてかびくりと震えると、申し訳ありません、一人っ子ですと言いづらそうに答えた。

 なぜ謝るのか意味がわからなかったが、ふと妹の言葉を思い出した。

 陛下は口が回るくせに、肝心な時の褒め方が下手ね。本当に褒めたいときは素直に言えないのねと苦笑した妹の声が心に刺さって、本日カテリナが何回かしたように店員に耳打ちしていた。

「陛下、どうなさったの」

 店員のところから戻ってきたアリーシャが驚いたのも無理はなかった。連れてきた護衛や侍女、一人残らずみな、片手にくるみパンを持っていた。

「大した意味はない。午後にパンを食べたいときもある」

 みな、少し休憩にしなさいと言って、ギュンターが辺りを見回したときだった。

「……カティはどこに行った」

 先ほどまで控えていたカテリナの姿がどこにもなかった。ギュンターは口になじんだその名前を、一昨日まで知らなかったことに今頃気づいた。

 今まで、気に入った臣下は育てるために中枢に回した。気に入らなかった臣下は遠ざけた。それが仕事なのだからと、後のことは気に留めなかった。

 ずっと側になど、国王が考えるものではない。自分で納得してそうしてきたはずが、まるで急に辺りが暗闇に落ちたような思いがした。

 もう一度無意識に呼ぼうとして、喉にひっかかった感情を知りたくないと思ったときだった。

「はい。御前に」

 憎たらしいほどまんまるな目をして、カテリナはギュンターの前に顔を見せた。

「どこに……」

「知識としては知っていましたが、宿の予約を取るのは初めてで」

 ギュンターは慈悲深くあれと教えこまれた帝王学を、一瞬かなぐり捨てたくなった。

「一つ言っておこう。今日の君の仕事に、労いの言葉はやれない」

 指示していない仕事をするなと教えたら、この無尽蔵な新米騎士の芽をつぶしてしまいそうだ。

 ギュンターは未だわからない新人教育の難問にぶつかって、軽く頭を押さえた。

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