17 もう一つのサロン
騎士団寮にしょんぼりと戻って一夜を明かし、翌日カテリナは久しぶりに実家に帰った。
王城から徒歩圏内の閑静な住宅街、だがカテリナの実家は諸々の事情で他のお屋敷と違う作りをしていて大変目立つ。父との関係を伏せていることもあって、カテリナはいつも裏口から召使いのふりをしてこっそり入るようにしていた。
「ただいま……」
まだ朝早いからと声をひそめたものの、素直なカテリナは帰ったら当然ただいまを言うように育っている。
扉を開いたとき、早朝の常として屋敷は静まり返っていた。カテリナのただいまを聞いたのは、ご老人の常として早くに起きすぎてしまっていて、今は庭師として第二の人生を送っている先代の執事だった。
「……お嬢様」
彼はやはりご老人の常として最近涙もろくなり、カテリナの姿をみとめるなり目を潤ませて、裏口に備えられているベルを素早く鳴らした。
ちょっと過剰だとカテリナが思っている荘厳なベルと共に、屋敷中が一斉に動き出す。家中のカーテンが開かれて日の光が差し込み、厨房に火が入って、カテリナが気を利かせてだいぶ遠回りして居室に着いたときには、召使いたちが勢ぞろいしてカテリナを待っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お待ちしておりました。……来る日も来る日も」
代表して一礼した執事は、確かにカテリナを待っていてくれたのだろう。一分の隙もなく髪も黒服も整えていたが、目の下には何日も寝ていないようなクマができていた。
「チャールズ、ちゃんと寝なきゃだめだよ」
「これが寝ていられますか!」
カテリナが不在のときはデビュー前の令嬢たちに行儀作法を教えているチャールズは、普段の落ち着きを振り払って声を荒らげる。
「降臨祭がもう半分終わっております! この長期休暇こそ日頃の疲れを癒していただこうと、召使い一同準備しておりました。野蛮な男ばかりの騎士団で、お嬢様が日頃どれほどつらい思いを」
「してないよ。みんなで休憩時間の球技を楽しみにしてるよ」
カテリナが澄んだまんまるの目で主張すると、チャールズは首を横に振った。
「旦那様がどれだけご心配されているか察してくださいませ。せっかくの降臨祭ですのに、「カテリナが仕事中だから」と、お出かけにもならずに気を落としておられました」
そう言われるとカテリナも心が痛い。下を向いて、そうなんだ、としょげた彼女は、召使いたちが目を合わせて何かの作戦の前のようにうなずきあったのに気づかなかった。
「お父さんは?」
「昨日から王城に呼ばれていらっしゃいます。国王陛下の降臨祭のダンスの相手が決まらないとのことで」
たぶんそれは今頃決着がついていることだろう。カテリナはあいまいに笑って、そうなんだ、とこれにもどこかしょげた様子で答えた。
チャールズは、カテリナの沈んだ様子は父と入れ違いになったことにがっかりしたのだと思ったらしい。眉を上げて言葉を続けた。
「国王陛下のダンスなどどうでもよろしい。とにかくようやくお嬢様がお帰りになった、それが何よりです。旦那様も本音ではそうお考えですよ」
元々他国出身の母の従者であるチャールズは、今もまったく国王陛下に忠誠心がない。精霊との約束もどうでもいいと言い切るそのあっさりした価値観に反して、彼はふと何かに気づいたように目を見張った。
「ああ、またそのように髪を仕舞って。リリー様譲りの美しい御髪なのですから」
チャールズはカテリナの帽子を恭しく取ると、縛って隠している黒髪が傷んでいないかというように懸命に手で梳いた。
彼はカテリナが子どもの頃から髪を切るのを大反対していて、ヴァイスラントでは一般的な髪色である茶色に初めて染めたときは一晩寝込んだ。カテリナは自分のまっすぐで真っ黒な髪はそんなに好きではないのだが、チャールズは宝石のようにカテリナの髪に触れる。
それは亡きカテリナの母が美しい黒髪で知られていた人だからなのだろうが、母が亡くなったときはカテリナは幼すぎて、肖像画の中でしか母との共通点を探せない。母に仕えていたチャールズの手前、そんなに似てるかなとも言えなくて複雑だった。
まもなく朝食が運ばれてきて、馴染んだ実家の朝が始まる。主人であるカテリナの父は元々庶民の出であるから、市場で買ってきたパンや野菜、小さなお店の牛乳、豪勢ではないけれどしっかり力のつく朝食が並ぶ。
「お嬢様、書庫に蔵書が増えましたよ」
「庭の薔薇が満開ですよ」
「お出でになりませんか?」
でもカテリナの母は他国とはいえ身分の高い人で教養も深い人だったから、家にはちょっとした図書館並みの蔵書も華やかな庭園もあった。食事を終えると、カテリナは美女軍団と勝手に名前をつけている侍女たちに囲まれて、本を読んだり庭を散歩したりして休日を過ごす。
母は幼い日に亡くしているが、愛情を持って育ててくれた執事たちも侍女たちもいて、何より父が側にいた。ひだまりのような家に帰って来ると、ここ数日の日々の方が夢だったような気もしてくる。
今度のお父さんの誕生日のプレゼントは何にしようと思っていた、そんなときだった。
「お嬢様、見ていただきたいものがあるのですが」
夕刻の頃まで屋敷を転々として好きなようにくつろいでいたカテリナに、チャールズが声をかけてきた。
うん、どうしたのと言って、カテリナはチャールズに続いて自室に入る。そこに広げられていたものを見て、カテリナは息を呑んだ。
「十七歳のとき、リリー様が初めてサロンにデビューされたときの衣装を仕立て直したものです」
それは黒絹に銀糸で刺繍のほどこされた異国のドレスだった。ヴァイスラントで一般的なふんわりとした型ではなく、色味も比較的地味で、流行りの形ではない。
「きれい」
けれどそれを身に着けた母の肖像画はとても美しく、カテリナは子どもの頃から目を輝かせて見上げていた。思わずカテリナがつぶやくと、チャールズはためらいがちに言った。
「一度だけ……どうかこれを着て、私とサロンに出かけてはくださいませんか?」
「え?」
「お嬢様が今の格好を気に入っていらっしゃるのは知っています。けれどこれを着ていただきたい方は、もうお嬢様しかいらっしゃいませんから」
カテリナはチャールズを見上げて、少しの間返す言葉に迷った。自分が母のように美しく着こなせるとは思わなかったが、彼の言う通り、自分が着なければ彼はこれを誰に着せようともしないのだろう。
結局、いいよと答えて、カテリナは侍女たちに手伝ってもらいながらドレスを身に着けることにした。母が連れてきた侍女たちも多く、彼女らは気合を入れて髪を編んで、お化粧も施してくれることになった。
普段着ない生地の感触、繊細な花の模様、カテリナは別に女の子の物を嫌っているわけではない。ただその機会がなかっただけで、初めて母と同じものに包まれる時間は心が躍った。
「チャールズ」
出来上がったドレス姿を自分で確かめる前に、隣室で待っているチャールズに声をかけた。いたずらをする前のような心地で、けれど母のドレスに恥じないように精一杯仕草には気を付けて、ひょこりと隣室に立ち入る。
「どうかな?」
振り向いたチャールズは、しばらく言葉を失っているようだった。感想を聞きたいカテリナが、チャールズ、とむくれて問いかけるまで、身動き一つ取らずにカテリナをみつめていた。
「……お似合いです。誰よりも」
「いいよ、お母さんには敵わないってわかってるもの」
カテリナは苦笑して肩の力を抜いたが、チャールズは嘆息して首を横に振った。
「いいえ。……リリー様とあまりに、似ていらっしゃったものですから」
そうかなぁとカテリナは笑って、子どもが父親に甘える仕草でチャールズの腕に自分の手を添えた。
チャールズは姫君をエスコートするうやうやしさでその手を取って、カテリナを用意された馬車の中に導いた。
「チャールズに恥をかかせたらごめんね」
「ご心配は無用です。私にお任せください」
「うん。頼りにしてるよ」
元々貴族で、こういったエスコートも慣れているチャールズなら大丈夫だろうと思って、カテリナも安心していた。
日が静まる頃に馬車は小さな館に着いて、チャールズに手を引かれて馬車を降りる。
そこは庭に赤茶の灯がともされ、華美ではないが決して見る者に失礼も感じさせない、洗練した装いの貴婦人たちが行き来していた。
馬車を降りるなりカテリナに集中した視線に、彼女は何か失敗をしてしまったのかと反射的にチャールズを見やる。
チャールズは大丈夫ですよと言って、安心させるように笑った。
「お嬢様をデビューさせるなら、このサロンと決めておりました」
歩きながらぽつりとチャールズは告げて、あるテーブルの前で立ち止まる。
膝をついて礼を取ったチャールズにならって、カテリナも礼を取る。
顔を上げたカテリナはそこに王妹マリアンヌの微笑をみとめて、一瞬不思議な心地がした。
「……君は?」
そして隣のギュンターが問いかけた声がいつも自分にかけられる声と違う気がして、どきりとしたのだった。




