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88 南方の危機

 沿海(えんかい)諸国全体を指(さ)して南方と呼ぶ場合、北方のように侮蔑的(ぶべつてき)な意味合いは、殆(ほとん)ど含(ふく)まれていない。

 寧(むし)ろ、海沿(うみぞ)いの温暖な気候や、豊富な海産物を使った美味(おい)しい料理が食べられるという、憧(あこが)れが籠(こ)めらていた。

 そこで、古来からこう言われている。南方は全(すべ)て海の賜物(たまもの)である、と。


 今、突如(とつじょ)として自分の本来の身体(からだ)に戻ったウルスラが感じたのも、微(かす)かに潮(しお)の香(かお)りを伴(ともな)った心地(ここち)よい微風(そよかぜ)であった。

 ウルスラは、思わず「どうして……」と呟(つぶや)いていた。

 心配そうにウルスラの顔を覗(のぞ)き込んでいたツイムは、少しホッとしたように微笑(ほほえ)んだ。

「長旅でお疲れになったのでしょう。今朝お目醒(めざ)めになってから、ウルスラさまの気配がしないとウルスさまが仰(おっしゃ)っていました。直(じき)に戻られるでしょうとお慰(なぐさ)めしていたものの、わたしもどうして差(さ)し上(あ)げたら良いのかわからず、途方(とほう)に暮(く)れておりました。しかし、時は薬(くすり)、と申しますが、こうして戻って来られました。おお、そうだ。ウルスさまは、今朝は食欲がないと言われ、何も召(め)し上がりませんでしたが、そろそろ昼餉(ひるげ)となります。お腹(なか)が空(す)かれたでしょう。宜(よろ)しければ、こちらにお運びしましょうか?」

 ウルスラが戻った喜びからか、珍(めずら)しく饒舌(じょうぜつ)なツイムに、しかし、ウルスラの返事は強烈(きょうれつ)であった。

「少しお黙(だま)りなさい!」

 ポカンと口を開(あ)けているツイムの顔を見て、ウルスラは慌(あわ)てて「ああ、ごめんなさい!」と謝(あやま)った。

「つい、気が動転(どうてん)してしまって。すまないけれど、暫(しばら)く一人に、いえ、ウルスと二人にしてくださらない?」

「あ、はい」

 精神的な衝撃(ショック)を受けた様子のツイムは、呆然(ぼうぜん)として部屋を出て行った。


 すぐに顔が上下し、瞳がコバルトブルーに変わった。

「お帰り、ウルスラ。でも、今のはちょっと可哀想(かわいそう)だよ。ツイムさんは、一生懸命(いっしょうけんめい)ぼくらに尽(つ)くしてくれているのに」

 顔が上下した。

「そんなこと、あんたに言われなくたって、わかってるわ。後(あと)で、もう一回ちゃんと謝るわ。今はそれどころじゃないのよ!」

「それどころじゃないって、いなくなってた間(あいだ)に、何かあったの?」

「何か、どころじゃないわ! わたしはタロスになってたのよ!」

「あ、やっぱり、タロスは生きてたんだ!」

「驚くのはそこじゃないでしょ!」

「だって、ダフィネの面で過去の真実(しんじつ)を見たのはぼくだけだから、ウルスラは信じてくれなかったじゃない」

「そうね。あの時も、二人の経験にズレがあったわね。わたしには、真っ暗で何も見えなかった。あんたの話は白昼夢(はくちゅうむ)だと思ったわ」

「でも、本当だよ! そして、それが真実だって、わかったろ!」

「わかったから、そんなに勝ち誇(ほこ)らないで。それに、まだ確定した訳(わけ)じゃないわ。タロスに間違いないとは思うけど、みんなからは、ティルスって呼ばれていたし」

「みんな?」

「そうよ。タロスは何だか悪いやつらの仲間になっていたわ。盗賊(とうぞく)みたいな男ばっかりだった。ああ、でも、そんなことはどうでもいいの! その悪いやつらのところに、蛮族の帝王が来たのよ!」

「蛮族って、北方の?」

「そうに決まってるじゃない! その男は派手(はで)な仮面を被(かぶ)っていたわ。でも、その声は……」


 ウルスラがそれを言う前に、血相(けっそう)を変えたツイムが戻って来た。

「申し訳ございません! 火急(かきゅう)のことにて、無礼(ぶれい)の段(だん)、お許しください!」

 先程(さきほど)のことがあったためか、再び顔を上下させ、ウルスが返事をした。

「ぼくらは構(かま)わないよ。どうしたの、ツイムさん?」

「はっ! 畏(おそ)れ入ります。つい今し方(がた)、兄から連絡がありました。カリオテの沖合(おきあ)いに黒い軍用船が四艦(かん)接近して来ました。その巨大な船体は、明らかにマオール帝国のものですが、その掲(かか)げる旗(はた)は、黒龍(こくりゅう)に炎をあしらったガルマニア帝国のものでした!」

「ええっ、どういうことなの?」

 ツイムは、後(あと)から後から額(ひたい)に滲(にじ)み出る汗を拭(ぬぐ)った。

「恐らく、この二つの帝国が同盟を結んだのでしょう。それよりも、問題はこの艦隊(かんたい)の来航(らいこう)目的です!」

「え? 何か言って来たの?」

 ツイムはグッと奥歯を噛(か)み締(し)め、押し出すように告げた。

「先方の要求は唯(ただ)一つ。新バロード王国の王子の引き渡し、でございます!」

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