87 北方の真実
「ああ? 今、何て言った、ティルス?」
隣のベゼルという男がこちらを見た時には、再び顔が上下した後だった。
「いや、特に何も言っていないが」
逆に訝るティルスの様子を見て、ベゼルは「いいんだ、忘れてくれ」と言った。
自分の空耳と思ったようだ。
人格が交替し、薄い膜を通すようにして現実を見ているウルスラの方は、視線が自分の思いどおりに動かせないことに苛立っていた。
蛮族の帝王という仮面の男を、もっとじっくり観察したかったのだ。
幸い、すぐに仮面の男の話が始まったために、ティルスもそちらに顔を向けた。
ここにいる皆は、蛮族の王如きが何をしゃしゃり出るのかと思うだろうが、わたしも元々中原の人間だ。
そのわたしが北方で見たことを伝えたいのだ。
決して、皆と無関係な話ではない。
抑々、北方は皆が思っているような不毛の地ではない。
中原にはない植物が生え、中原とは違う動物が棲むとはいえ、それなりに豊かな世界だ。
だからこそ、二万を超える人口が生活できるのだ。
まあ、尤も、部族間の争いは絶えず、平和な世界とは言えぬがな。
ところで、その北方には、五百年に一度、北の大海からあるものがやって来る。
言葉にすると禍が起きると云われるもの故、察してくれ。
その、あるものは、生きとし生けるものを喰らい、満足すると北の大海に戻って行くという。
さて、五百年に一度とはいえ、最初に中原に知られたのは千五百年前だ。
この時、あるものに押されて南下する蛮族を留めようとして、古代バロード聖王国が辺境伯に命じて造らせたのが、他ならぬ北長城だ。
次の、千年前には北長城だけでは押し返す兵が足りず、古代バロード聖王国からも大規模な援軍を送ったが、それが一因となって聖王国自体が滅んでしまった。
そして、五百年前、蛮族は北長城を越え、辺境のほぼ全域を支配下に置いた。
辺境伯領の住民は命辛々スカンポ河を渡り、大半はそのまま戻らなかった。
スカンポ河東岸にズラリと並ぶ湊町は、こうしてできたのだ。
一方、広いばかりで作物があまり獲れない辺境では、住民と蛮族合わせて数万人となった人口を養えず、さらに中原側から攻め込まれたこともあって、蛮族たちは北方へ帰った。
その頃にはもう、あるものは北の大海に戻っていたのでな。
さあ、そして今だ。
間もなく、あるものがやって来るという兆候はハッキリ現れている。
だが、今までにないことが、ここ数十年、北方で起きているのだ。
それは、『結晶の病』と呼ばれている植物の病変だ。
この病に罹った植物は、葉も茎も全て結晶化してしまう。
当然、食べることはできない。
最近、蛮族の南下が激しいのは、このことも原因となっている。
そこに、あるものがやって来れば、食べ物が足りず、さらに南下し、いずれは中原に向かうだろう。
中原の西側は、危険に晒される。
国同士で争っている場合ではないのだ。
因みに今の中原は、東側半分はガルマニア帝国の版図としてある程度纏まっているが、西半分はバラバラだ。
このままでは両方から攻められ、擂り潰されてしまうだろう。
方法は一つしかない。
西半分を統一し、ガルマニア帝国とは不可侵条約を結び、北方からの脅威に備えるのだ。
だが、旧態依然とした国々は、放って置いたらバラバラのままだ。
力で統一するしかない。
幸い、われわれは勇猛果敢な戦士を二万人以上提供できる。
これに、『暁の軍団』と、さらに『荒野の兄弟』が加われば、統一の核になれるだろう。
どうだ、共に戦わんか。無論、その過程で手に入る領土は皆のものだ。
ここにいる誰もが、領主や国王になれる好機なのだ!
蛮族の帝王の話は終わったが、広間はシーンと静まり返ったままだ。
黒い眼帯の首領はニヤリと笑い、「見てのとおりだ」と告げた。
「あんたが言うように、危険は迫っているのかもしれんが、かと言って、そのために他所の国に戦争を仕掛けるのは、違う気がするぜ。みんなも、別に王さまになりたくはないようだしな。あんたらのやることの邪魔はしないが、協力もしねえ」
そこで首領は皆の方を向き、「それでいいか、野郎ども!」と呼び掛けた。
広間中から「おおっ!」という返事が湧き起った。
蛮族の帝王はゆっくり首を振っていたが、小さく「仕方あるまい」と呟くと、再び声を張った。
「だが、これだけは言って置く! いつでも気が変わったら、われらの許に来るがいい。誰でも歓迎する!」
それを聞いて、首領は忌々しそうに舌打ちした。
裏切りを奨励しているようなものだからだ。
「余計なことを言いやがる。さあ、とっとと帰ってくれ!」
首領に促され、壇上から降りようとした蛮族の帝王の足が、ふと止まった。派手な仮面の顔を、広間のこちら側に向けている。
と、壇を駆け下り、真っ直ぐこちらに走り出した。
途中にいる男たちも、その勢いに押されて左右に分かれた。
ティルスを目指しているのは、明らかだ。
つまり、タロスの顔を知っている、ということだと、ウルスラは思った。
ウルスラは必死でティルスに顔を上下させようとするが、焦るあまり、なかなか上手くいかない。
遂に、顔を俯かせ、上げた瞬間。
「どうしました、ウルスさま? おや、ウルスラさまですか?」
目の前にいるのは、ツイムだった。
身体の違和感も、もうなかった。




