第七話 嫌味と決闘
《旋廻洞穴》の崩壊を切欠とした、魔物の大規模な王都襲撃。
魔力の爆発の影響により活性化した魔物が他の迷宮からも一部出てくるという異例の事態が発生し、王都は大打撃を受けた。騎士団は半壊滅、宮廷魔術師を筆頭とした王城を警備する部隊も大きな被害を被った。王都北門は完全に破壊され、現在は生き残った騎士がそこを警備している。王都内部の城門も一度は突破され、現在大急ぎで復旧がなされている。
その爪痕は隠し切れないほどに大きく、深く残っている。
「……だから、この労働は当然の義務だと。頭じゃ分かってるはずなんだけどなぁ」
ぼそりと呟いた少年シルトは、押している手押し車に力をこめた。中には大量の瓦礫。周囲を見渡せば、彼と同じように瓦礫や木材を抱えた学生たちがひいひい言いながら作業していた。普段であれば彼の言葉に反応を返すはずのロディアは、魔術を得意とする生徒たちと共に別の――もっと大規模な被害を受けた区域で作業している。アルバも、近くにはいない。
「……ふぅ」
瓦礫の入った手押し車から手を離し、左手で額を拭う。いつものコートは寮に置いてあるから、今日はいつもより風通しがいい。とはいえ、疲ればかりはどうしようもない。
既に五時間近く働いているのだ。しかし周囲の光景にあまり変わった様子は見られず、疲労ばかりが蓄積されていく。シルトはもう一度盛大に溜息を吐いて、再びそれを押すことに専念することにした。
「おい、シルト」
不意に後方から声がかかって、彼は足を止めて振り返った。重いものを運んでいる最中なんだから、下らない用事で呼び止めてくれるなよ――と、睨みつける視線に込める。
「なにさ、ゼマ」
シルトを追うようにして歩いてきたゼマは、自身の押している車と、シルトの車のそれぞれに乗せられた瓦礫の量を見比べて溜息を吐く。大差なかった。
それから気を取り直したように口を開いた。
「今、お前の担当してた西の教会を見てきたんだけどさ……。凄いな、あれは」
「ああ」
シルトは納得の声を上げた。ゼマの言う『あれ』とは、ラルドによる破壊の痕だ。圧倒的過ぎる攻撃力は過剰な破壊を生む。道路のあちこちにある、円形の陥没。全て、ラルドの槌での一撃によるものだ。周囲に飛び散り乾いた血液が、その凄まじさをうかがわせる光景となっている。
「俺、ラルド先生だけは怒らせないようにするわ……」
「……そうだね」
ナザニア先生も引けを取らないけど――という言葉を飲み込む。一応、彼女のことは彼女自身によって口止めされているのだ。
『騎士団の連中にも言ったんだが……私は一応、一介の教師だからな。あまり騒がれても困る。――王都陥落の危機だからと仕方なく遠慮なしにやったが、余り噂を広めるようなことはしないでくれ』
ということである。恩人に近い立ち位置である彼女の言うことであるから、シルト達も無下には出来ない。
……態々騒ぎのネタを作るほど、彼らは物好きではないというのも多分にあったが。
「それで、何の用なのさ。そんな下らない話の為に呼び止めたんじゃないだろ?」
「ああ、そうだ。お前にお客さんだよ。同じ学年みたいだが、貴族サマだ。こっちがひいこら言いながら仕事してるってのに、いいご身分だぜ。――で、お前、何かやらかしたのか?」
捲くし立てられて、シルトは上体を逸らした。
ゼマは『いいご身分』と言っているが、一応貴族達も学生であれば労働の義務が――その労働量は家の位と反比例するのだが――あるのだ。
そして、貴族に呼び出されるような用事など、シルトには覚えが――
「あ」
イリーナ・アルガード。王直属の特別騎士部隊『猟犬隊ハウンズ』の隊長を代々継いでいる侯爵家の、次期頭首。彼女の父は前王の時代から腕を鳴らした威丈夫だが、寄る年波には抗えぬのか、近年は目立った活躍は見られない。イリーナが頭首の証である『イエーガー狩人』の名を継ぐのもそう遠くない――というのが、周囲の見解であった。
その彼女に、思い切り無礼を働いた記憶があるのだ。
呼び捨て、タメ口。挙句にこちらの都合に付き合わせて予定を変更させるという暴挙。
シルトは空を仰いだ。彼の命運もここで尽きたかもしれない。
「なんだ、なにか心当たりがあるのか?」
「特大のがね。ー一応聞くけど、その貴族の人って、金髪の女の子? 僕達より少し年上くらいの」
「あん?」
ゼマは怪訝な顔をした。シルトの顔を覗き込むようにして、片方の眉を吊り上げる。器用なもんだ、とシルトは場違いにも感心した。
「違う。銀髪の男だ。嫌味ったらしい顔立ちの奴だった」
顔を見合わせる。とんと記憶に無い。シルトは首を傾げた。ゼマがシルトの手元にある車をもう一度見て、大きく溜息を吐いた。
「ああくそ――それは俺がやっといてやるから、お前はさっさと行け。あのタイプは待たせるとねちっこい奴だ」
ゼマに感謝の意を伝えてから急いで向かった先にいたのは、確かに彼の言うとおり嫌味な顔つきをした銀髪の男が立っていた。
「お前がシルトか……。僕をここまで待たせるとは、いい度胸じゃないか」
遅かった。シルトは内心でゼマに詫びた。目の前の男は不機嫌そうに歪めた眉根をそのままこちらに向けてきている。今にも「平民のくせに……」と言い出しそうだった。
「まったく、平民のくせに」
言った。
「申し訳ありません。仕事中だったもので」
「はッ…怠けている自分が悪いというのに、仕事の所為にするのか」
形式だけでも、と下げたシルトの後頭部に言葉を浴びせる。自分は仕事すらしてないというのに……と言い返してやりたくなったが、気合で我慢。口の端が引きつっているのを隠しながら、顔を上げる。
「は……それで、私に何か御用でしょうか」
「ああ、そういえばそうだったな。ところでお前、僕が誰かは知っているよな?」
知らねえよ。
とは流石に言えない。そういえば、とシルトは記憶を巡らす。「このくらいは覚えておかないと、まずいわよ」とロディアが言っていた中に、あったような、なかったような、そんな顔だ。
三秒思考。記憶の海を必死に潜って、見つけたのは一つの名前。思い出した。
「れ、レイウス・リクタス様でしょうか」
「そうだ。リクタス侯爵家の次男、レイウス・リクタスだ。――僕は高貴な家の生まれだから、昔から結婚が決まっていてね」
行き成りの話題展開である。早く本題に入ってくれないか、とシルトは内心で呟いた。
「侯爵家ともなると、結婚相手にも気品が求められるものでね。僕に見合った家の娘というと、生半可な家と器量じゃ務まらないだろう?」
僕に、ではなく、僕の家に、だろうが。シルトの額に青筋が浮く。黙って聞いているのすら苦痛だ。
「まあ当然、探せばそういう娘もいる。父上がぴったりの家を見つけてきてくれてね。ほら、僕と同じ侯爵家の――アルガード家だよ」
いつの間にか中空を彷徨っていた焦点が合った。
「アルガード家、というと」
「その通り、《猟犬隊》の隊長の家系さ。あそこの娘は中々優秀だ。家の格も僕の家と同じくらい高い」
アルガード家の方が僅かに上である。が、そんなことを本人に言う必要もない。
これが本題なのだろうか、とシルトは気を取り直して話に集中した。
「あそこの娘――イリーナ・アルガードは、家督を継いで、同時に僕の妻となる。婿養子として入る形になるけど、あの娘は僕のものになるわけだよ」
……知り合いをもの扱いされるのは気分が悪い。シルトは気付かれぬように眉を顰めた。だが、自分の話に夢中のレイウスは彼を見ていない。隠す必要もなかったかな、と僅かに顔に不満を出す。
――性質の悪いことに、こういう輩というものは相手の見られたくないものを見咎めるのがとんでもなく上手いということを失念したままに。
「――お前、なんだその顔は」
「げ」
睨み付けられ、シルトは冷や汗を垂らした。
「いえ……なんでも」
「不満そうだな。気に食わん。僕に何か、いいたいことでもあるのか? え?」
普段のシルトであれば、ここでなんとかして穏便に済ませようとしただろう。
だが、今日に限っては。朝から働き通しで溜まった分に、たった今目の前の貴族の長話のストレスも加わって、シルトは思わず口を滑らせてしまった。
「――――それで、話はいつ終わるんです?」
◆◇――――◇◆
「シルト! 貴族と決闘するって本当なの!?」
「ああ……うん、まあ」
問い詰めるロディアに、シルトは苦笑しながら頷いた。
あの後、怒ったレイウスに対してシルトは更に火に油を注ぐような言動を無意識に、或いは意識的に行い、結果決闘を申し込まれるまでに発展した。
最後の方にはシルトも冷静になっていたから、口角泡を飛ばすレイウスを見て、直ぐに謝っておけばよかったと後悔したが、その頃には既ににっちもさっちも行かない状況だった。後の祭りである。
「……一体何があったのよ」
「いや、なんというか……。色々積み重なってこういう結果にならざるを得なかったんだよ」
ロディアがじっとりとした視線を向ける。いたたまれなくなって、シルトは目を逸らした。
「はぁ……まあいいわ。とりあえず、ある程度やられてるふりをしてから降参しなさい」
「え、ちょっとロディア!? 嫌だよそんなの。受けたからには勝つつもりで行かないと」
「馬鹿、そんなことしたら話が大事になるでしょ。相手は次男とはいえ侯爵家なんだから、ここは相手の気を済ませておくのが一番穏便よ」
そんなぁ、とシルトは項垂れた。
しかしロディアの言うことも最もである。この際仕方ないか、と腹を括ることにして、適当にやりやすそうな円盾を取りに向かうことにした。
指定された場所は一時間後、冒険者広場だ。仕事はシルトのみ時間を後ろに回していいということになったので、既に――いつのまにやら――終わらせてきたロディア以外の見物希望者は大急ぎで労働中である。
準備するとはいっても、一通り装備を整えてしまえば終わりだ。相手のいいように甚振いたぶられるという嫌過ぎるイベントの時間が来るのを待っているだけである。
嫌なものを待つ時間というのは当然速く流れる。あっというまに定時がやってきてしまった。
距離を置いて対峙する。
相変わらずの鼻につく表情で、レイウスは嘲るように笑った。
「逃げずに来たか」
「はい」
逃げたら面倒くさそうだから、とは言わない。見物人は五人。ロディアにゼマ――とんでもない速度で仕事を済ませたらしい。何故そこまでして決闘を見たいのか――、レイウスの付き人のような男が二人と、それからアルバ。
「さあ、はじめようか。介添人は必要か?」
「いえ、必要ありません。周囲に迷惑をかけるのも気が引けます」
「ふん、いいだろう」
開戦に、合図など野暮というものだ。
経緯はどうあれ――例えどんなに下らなくとも――これは男同士の、尊厳を賭けた決闘なのだ。
――先手は当然、レイウスの特攻。
その手に持った一対の剣で、駆け抜けながらの連撃。
「セィッ!!」
それを、シルトは少々大袈裟に、危なっかしく防いで見せる。あたかも予想外の強さ速さに驚いたような顔を添えて、だ。
自分の相手が大した相手ではないと錯覚したか、レイウスは僅かに笑んで追撃。
シルトはそれを、またも危なげに受け止める。弾いたり逸らしたり、技術を弄する余裕などない、という風情だ。
視界の隅でロディアが小さく頷いているのを確認。シルトは内心で胸を撫で下ろす。演技はまずまずのようだ。
所で、シルトの行っていることは非常に精密な技術を要することだ。相手に手を抜いていることを悟られぬよう、わざとらしくない程度に余裕のない表情で攻撃を受けなければならない。尚且つ、全てを完全に防ぎ切ってはならない。
「――ッ」
例えば今のように、防ぎ損ねたように軽く傷を追わなければならないのだ。
浅いとはいえ、痛いものは痛い。刃引きをしていない高級品だ。使い手の如何に関わらず、ある程度の切れ味は出る。
微かに流れた血に、レイウスは笑みを深める。
更に連撃。少しずつ、少しずつシルトは傷を負っていく。同時に溜まっていくストレスを無視しながらも、いつ降参すべきかと頭を働かせる。
端から見れば一方的な戦闘。自信――否、過信に溢れたレイウスの顔を、シルトは内心冷ややかに見ていた。
◆◇――――◇◆
イリーナ・アルガードは憤慨していた。
労働が出来ないのである。家督を継ぐまでの一時的なものとはいえ自分はギルドに登録された冒険者だというのに、父の命で自宅待機をさせられているのだ。
王都の修繕という労働は全ての冒険者に課せられている義務のはずなのに……と、ロディアは自分の前に詰まれた資料を消化しながら小さく愚痴る。自分の今していることは父――第十五代のイェーガー・アルガードに渡された『猟犬隊』の過去の決算書だ。労働というよりは勉強に近いものがある。
「ああ、早く身体を動かしたいものです」
ひと段落して、大きく身体を伸ばす。屋敷の窓から見える光景に代わり映えはなく、迷宮を探索しているときのような胸の高鳴りはない。
今日何度目かの溜息を吐いて、彼女は手元に視線を落とす。
そこで、ふと思い出したことがあった。
「そういえば、シルトさん達も今頃は労働中でしょうか」
一度だけ、とある縁で一緒に迷宮を歩いた学生達。盾を腕に着けた、どこか朴訥とした少年と、双剣を持った眼光鋭い少年、宮廷魔術師なみの魔術を使う少女。一人ひとりではアンバランスな彼らだが、ひとつになればとんでもない力を発揮する。
弓――後衛職のイリーナには、シルトの防御力は非常に魅力的だった。更に、彼らのあっさりとした人柄も彼女が好感を抱く原因になっている。
また、彼らと迷宮に潜りたいなと、イリーナは夢想する。
「イリーナ様」
ビックゥ――――、と彼女は肩を跳ねさせた。考えていたことがことだけに、突然名前を呼ばれると驚いてしまう。彼女の前に立った燕尾服の老人は、僅かに悪戯気な笑いを見せた。イリーナはどこか悔しそうに返事を返す。
「な、なんでしょう?」
「レイウス様のことで、ご報告が」
露骨に嫌な顔をする。彼女はあの高慢ちきな許婚を好いていない。親の決めた結婚だからと従ってはいるが、納得はしていない。
その相手のことなど正直どうでもいいが、アルガード家にまで何かあってからでは遅い。「言って」とぞんざいに手を振った。
「決闘を、行うとのことです」
「……は?」
「ですから、決闘を」
「聞き取れなかったわけではありません。爺、ちょっと待って頂戴」
二つほど深呼吸。落ち着いたところで、額に手をやる。
――何やってるのですか、あの男は。
決闘。あの男の事だから、大方自分よりも家の地位が低い相手に吹っかけているのだろう。これは私が出て行って止めたほうがいいのかもしれない、とイリーナは考える。あの男の付き人はアテにならない。
「時間は?」
「既に始まっております。何分情報を仕入れたのが遅かったもので。申し訳御座いません」
「いえ……大丈夫です。私も現場に向かいます。相手が誰かは分かりますか?」
「……確か、王都の冒険者育成学園の生徒でしたね。何でも凄腕の盾使いとか。名は――シルトだったはずです」
「――!?」
一瞬硬直した後に、彼女は少し前に友人に、シルト達と一緒に迷宮に潜ったことを話したことを思い出した。それが何らかの形であの男の耳に入ったのだろうか。軽率だった、とイリーナは歯噛みした。
「全速力で向かいます。場所を教えてください」
「冒険者広場です」
蹴破るように扉を開き、彼女は屋敷を飛び出した。
◆◇――――◇◆
決闘が始まって十五分ほどが経過していた。シルトはあちこちに切り傷を作っている。一つ一つは大して深くないとはいえ、これだけ傷があれば流れる血の量は馬鹿にならない。彼はかなり減ってきた体力に顔をしかめながら、いい加減降参してもいいだろうと目の前の男を見やる。
しかし銀髪の貴族に満足した気配は見られない。攻め疲れて肩で息をしているが、まだまだ執拗に攻めるつもりのようだ。
――実際のところ、彼はいくら攻めても致命打を与えられないことに苛立ってむきになっているだけなのだが、それにシルトが気付くはずもない。
直後、右の突き込み。盾で受ける。
ぎゃぎゃりッ、と音がした。辛うじて逸らしたという風体を保ちながら、後退。
額の血が目に入る。ぐい、と拭うと、目の前にレイウスの剣。今度は本当に驚きながら、身体を反らして回避する。
「……何をやっているんだ、シルト」
――ふと、外野から声が聞こえた。
目線を向ければ、アルバの呆れ顔。
「そんな下手糞の攻撃を何故そんなに受けてる」
「な――」
「なに……?」
あちゃあ、と視界の隅でロディアが額に手をやった。事情を説明をしていなかったらしい。
シルトは眼前の貴族を恐る恐る見る。震えていた。当然、怒りでだ。
「ふ、ざ――けるなッ!!」
疲労など忘れたかのように連撃を叩き込んでくる。未だ防げないことはないが、先程より速くなった。シルトは内心でアルバを恨んだ。
自然、掠って出来る傷も深くなる。
数分もすれば、シルトは完全に血みどろだった。
しかしレイウスには未だ飽きも満足も見えず、降参は言い出せない。
泥仕合と化した試合は、何時まで続くのか――
「シルトさんッ!」
野次馬の中から上がった声に、二人は再び動きを止める。
イリーナだ。
そんな馬鹿な、とレイウスの視線が物語る。流石に、自分が弱者を一方的に甚振るのを見られるのは都合が悪いのかーーとシルトは考えたが、逆らしい。
嫌味な貴族は、すぐに笑みを浮かべた。
「はっ……無様だな、お前」
――平民はそうしているのがお似合いさ。
呟きは、シルトの耳にしか入らない。踏み込んで、
「……遠慮なんかしないでください! 家柄のことなど考えずに戦ってください!」
三度目の硬直。ぽかんと口を半開きにして、シルトとレイウスはイリーナを凝視する。
「な、何を――」
「私が許します! 貴族、平民など気にせず、殴り倒していただいて結構です!」
……労働の鬱憤に、いいように甚振られたストレス、更に痛みによる苛立ち。
溜まりに溜まった怒りを、放出してもいいという。
イリーナに迷惑が掛かるとか、家柄はレイウスの家のほうが上なのではないかとか、そういった疑問が湧かなかったといえば、嘘になる。だがシルトは、それを一蹴した。
いいというのだから、やってしまえばいい。
「――――散々、痛めつけてくれましたね」
「な、お前、僕を誰だと…」
御託はいいから黙って殴られろ。
一歩、二歩、三歩。盾を外して走りこむ。
戦鬼の一撃をも受け止めるシルトの筋肉が、隆起する。型など知らないが、回避もできない疲労しきった男が相手ならば問題ない。細い身体からは想像もつかないような速度で、拳が打ち出される。
「ご、ぁ――ッ!?」
レイウスの、身体が浮いた。
顎にめり込む一撃。
どしゃ、と音を立てて着地した貴族の顔を、アルバが覗き込む。
「……気絶してるな」
勝負はついたようである。
◆◇――――◇◆
「すみませんでした。私の……婚約者がとんだご迷惑を」
「あ、頭を上げてください。ぼ――私は貴女に頭を下げられるような人間ではありません」
深々と頭を下げる侯爵家令嬢と、それを前にして狼狽する平民学生。
シルトは慣れない敬語を使い、一人称まで変えている。少し前との態度の違いに、イリーナは寂しげに顔を歪めた。
「いえ、そのような怪我までさせてしまったのですから、謝罪は受けていただかなければ……」
「それでも、それを貴女にされる云われはありませんし……」
馬鹿丁寧な掛け合い。そんな二人から少し離れたところでは、ロディアによるアルバへの説教が行われていた。
「いい? そもそもアンタが余計なことを言ってあの貴族を激高させなければ、ここまで大事になってイリーナさ――アルガード様に迷惑が掛かることもなかったのよ?」
「だから事情を知らなかったと」
「それはいい訳になってないわ。あのシルトがあんなに無様に攻撃されているんだから、何かしら疑うのが先でしょう」
「……それもそうだな。すまない。冷静じゃなかったようだ」
素直に頭を下げるアルバを前に、ロディアは僅かに面食らったように目を見開いたが、そのまま何も言わずに軽く溜息を吐いた。
「……まあ、結果的にシルトの怪我もそんなに深くなかったし、問題を表沙汰にすることはないらしいから、いいわよ」
顔を上げたアルバから視線を逸らす。
「……ところで、シルトはまだ話が終わらないのかしら」
心配そうに眉を寄せるロディア。視線の先ではシルトが少し慌て気味に首を振っているのが見える。対するイリーナは寂しげな表情で何かを申し出ているようだ。
シルトが無礼のないように対応していることを、ロディアは心から願った。
◆◇――――◇◆
レイウス・リクタスは憤慨していた。
――殴られた。
平民に、である。自分よりも劣った血筋に、傷をつけられたのである。
それも、自分の女の目の前で、だ。
それだけではない。
――手を抜かれていた。
途中から、薄々気付いていた。
自分がいくら攻撃しても、決定打を与えられない。手応えはあるのだが、それがどこか――嘘臭い。
しかし、まさかと。
【竜騎士の双剣】を持った自分の猛撃が、そんな。手を抜いて相手に出来るはずがないと。
そう、信じていたのに。
――許さない。
シルト。名は覚えた。あの男だけは、許さない。
――手段など、選ぶ必要はない。
醜く腫れ上がり痛む顔を吊り上げて、レイウス・リクタスは邪悪に嗤った。