第1話:深夜2時のアラートと、絶対に押してはいけない『退勤ボタン』
深夜2時。誰もいないオフィスに、サーバーラックの低い排気音だけが「ヴゥゥゥ」と単調に響き渡っている。
デスクには、飲み干されたエナジードリンクの空き缶が3つ。
そして、モニターの青白い光に照らされる、目の下に深いクレバスのようなクマを刻んだ男――インフラエンジニアの俺、社築だ。
「……よし、データベースのインデックス再構築、完了っと」
カチャカチャとキーボードを叩き、Enterキーをターンッ!と弾く。
真っ黒なターミナル画面に『SUCCESS』の文字が並ぶのを見て、俺は深く背もたれに体重を預けた。
今日……いや、もう日付は変わっているが、今日のミッションは自社で使われている「クソ古い勤怠管理システム」の保守メンテだ。
とにかくこのシステムは、スパゲッティコードの塊でよく止まる。
「とっととテスト打刻して、帰って寝よう。俺のHPはもうゼロだ……」
俺は欠伸を噛み殺しながら、勤怠システムのテスト環境を開いた。
しかし、その時だった。
『ピロォォォン!!』
静寂のオフィスに、システム障害を知らせるけたたましいアラート音が鳴り響いた。
「ッ!?」
ビクンッ!と体が跳ねる。
インフラエンジニアの悲しい性だ。アラート音を聞くと、交感神経が強制的に刺激され、眠気が一瞬で吹き飛ぶようにできている。
「なんだ!? テスト環境しか触ってないぞ!?」
慌ててログを確認すると、見たこともないエラーメッセージが流れていた。
『Warning:未確認のエンドポイントとのWebhook連携が検出されました』
『Connection Target:[System_YGGDRASIL_Goddess_Console]』
……は?
女神の、コンソール?
なんだその中二病全開のAPI連携先は。誰だ、勝手に変な外部サービスと繋ぎ込んだアホは。
「くそっ、とにかく切断だ……ん?」
俺が連携を解除しようとした瞬間、画面に奇妙なポップアップが表示された。
『現在、システムは同期されています。
トリガー[テスト:退勤打刻]を実行して、シーケンスを開始しますか? [ YES / NO ]』
ただの退勤テストだろ?
早く帰りたい一心だった俺は、深く考えずにマウスで『YES』をクリックした。
カチッ。
その瞬間、ターミナル画面に物凄い勢いで謎の文字列が走り始めた。
『[Log]:現実世界からの「退勤」リクエストを受理』
『[Log]:異世界に「勇者」を初期村へデプロイしました』
『[Log]:ステータス生成完了。勇者の冒険がスタートしました』
「……デプロイ? 勇者?」
俺は眉間を揉んだ。
徹夜続きで、ついに幻覚を見るようになったらしい。勤怠システムがRPGのゲームサーバーとでも混線したのか?
だが、ログは止まらない。
『[Info]:社築の労働時間【14時間】を検知。超過残業バフを適用します』
『[Log]:勇者のレベルが1から30に急上昇しました』
『[Log]:勇者が「社畜のオーラ(全属性耐性+激務耐性)」を習得しました』
待て待て待て。
なんだこのログ。俺の残業時間が、向こうの勇者の経験値に換算されてるってことか?
いや、そもそも異世界ってなんだよ!
「……ふざけんな。俺は帰るぞ。明日も朝9時からミーティングなんだ」
これが質の悪いジョークアプリか何かだと思い込もうとした俺は、勤怠システムの『有給申請』ボタンにカーソルを合わせた。
こんなもん無視して、明日は有給を取って泥のように眠ってやる。
カチッ。
『ピロピロピロピロピロピロピロッ!!!!』
『有給申請』をクリックした瞬間、画面全体が真っ赤に染まり、けたたましいクリティカルアラートが鳴り響いた。
『【FATAL ERROR】有給休暇の取得リクエストを受理しました』
『[Warning]:社築の労働力がゼロになります』
『[Warning]:勇者のステータスが全て『0』に変更されます。勇者は呼吸困難に陥りました』
『[Warning]:魔王軍の侵攻を止められません。あと5分で異世界は崩壊します』
『続行しますか? [ YES / NO ]』
「……は?」
俺は、マウスを握る手をピタリと止めた。
画面の奥から、どこか遠い世界の悲鳴や、剣戟の音、そして崩壊していく大地の振動が、PCのスピーカー越しに(いや、直接脳内に?)響いてくるような気がした。
俺が休むと、勇者が死ぬ……?
俺が有給を取ると、世界が滅亡する……!?
「嘘だろ……俺の定時退社は、どうなるんだよぉぉぉぉぉっ!?」
絶望の叫びは、深夜のサーバー室に空しく吸い込まれていった。




