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芳香の牢獄

 午後八時、銀座線の車内。

 調香師として働く瀬戸香織は、鼻腔をくすぐる無数の雑多な匂いに、微かな眩暈を感じていた。

 彼女の鼻は、常人の数千倍の感度を持っている。仕事帰り、疲れ果てた乗客たちの体臭、湿った傘の布地から放たれる雑菌、そして殺菌剤の乾いた匂いが、網目のように絡み合って彼女を圧迫していた。

 香織はハンカチを鼻に当て、早く地上へ出ることだけを願っていた。

 しかし、赤坂見附駅を過ぎたあたりで、車内の空気が一変した。

 不快な生活臭が、まるで魔法のように一瞬で霧散したのだ。

 代わりに流れ込んできたのは、瑞々しい白百合と、降り注ぐ朝陽のような温もりを感じさせる、圧倒的な「至福」の香りだった。

「……なに、この香り」

 香織は思わず、ハンカチを下ろした。

 それは、彼女がこれまでのキャリアで一度も作り得なかった、完璧な調合だった。

 ベースノートには、幼い頃に母親の膝の上で嗅いだ石鹸の清潔な匂い。

 ミドルノートには、初めて恋をした日の夕暮れに漂っていた金木犀の切なさ。

 そしてトップノートには、未来への希望を予感させるような、弾けるシトラスの輝き。

 その香りを吸い込むだけで、香織の脳裏には、自分が最も幸せだった瞬間の光景が、鮮明なカラー映像として再生された。


 周囲の乗客たちも、異変に気づいたようだった。

 皆、一様にうっとりとした表情を浮かべ、深く、深く呼吸を繰り返している。

 先ほどまでスマホの画面を睨みつけていたサラリーマンは、瞳を潤ませて微笑んでいた。

 泣き叫んでいた子供は、母親の胸の中で安らかな眠りに落ちている。

 車内は、地下鉄の殺風景な空間であることを忘れさせるほど、多幸感に満ち溢れていた。

 だが、香織の中の調香師としての理性が、警鐘を鳴らしていた。

 この香りは、不自然すぎる。

 香りの成分を分析しようと神経を研ぎ澄ませた彼女は、その「至福」の裏側に、針の先ほどの微かな、しかし致命的な「腐敗臭」が隠されているのを嗅ぎ取った。

 ふと窓の外を見ると、列車の速度が不自然に落ちている。

 トンネルの壁には、びっしりと巨大な「花」が咲き乱れていた。

 それは植物ではない。

 半透明の肉厚な花弁を持ち、中心からは無数の細い触手が、列車の窓に向かって伸びている。

 花からは、目に見えるほどの濃さで、黄金色の花粉が霧のように噴き出していた。

 車内の案内板が、チカチカと点滅を始める。

『次は……芳香……芳香……お出口は、記憶の裏側でございます』

 香織が隣の乗客を見ると、その男の鼻からは、いつの間にか細い根のようなものが生え出し、車内の空気を貪欲に吸い込んでいた。

 男の身体は、次第に植物のような緑色に変色し、その皮膚を突き破って、小さな蕾が次々と芽吹いている。

「……逃げなきゃ」

 香織は立ち上がろうとしたが、身体が異常に重い。

 香りを吸い込めば吸い込むほど、彼女の意識は心地よい記憶の底へと沈み込んでいく。

 かつて愛した人の声が、どこからか聞こえてくる。

 このままここにいれば、永遠に幸せでいられる。

 そんな誘惑が、彼女の生存本能を麻痺させていった。

 電車がゆっくりと、一面が巨大な花園に覆われたホーム——零駅へと滑り込んでいく。


 電車のドアが開くと同時に、目も眩むような黄金色の花粉が車内へと雪崩れ込んできた。

 零駅。そこはホームのタイルが見えないほど、厚肉な花弁を持つ異形の植物に埋め尽くされていた。

 香織の鼻腔を突くのは、もはや芳香の範疇を超えた、暴力的なまでの「幸福」の濃度。

 脳が強制的に快楽物質を分泌させられ、視界の端が虹色に明滅する。

 ふと横を見ると、先ほどまで幸せそうに眠っていた親子が、ベンチに根を張っていた。

 母親の背中からは巨大な百合に似た花が突き出し、幼い子供の指先は細い蔦となって、ホームの柱に絡みついている。

 彼らの表情は、いまだに恍惚とした微笑を浮かべたまま。

 肉体を植物に食い破られ、栄養として吸い尽くされているというのに、その痛みさえもが「極上の香り」によって甘美な愛撫へと変換されているのだ。

「……これ、は……幸せの、死刑台だ」

 香織は震える手で、カバンの中から一瓶の精油を取り出した。

 それは彼女が試作段階で封印していた、強烈な「アンモニア」と「腐敗した肉」の匂いを再現した、拒絶のための悪臭。

 彼女は迷わずその瓶を割り、強烈な異臭を自らの鼻元へと浴びせた。

 脳を刺すような激痛に近い悪臭が、麻痺しかけていた生存本能を無理やり叩き起こす。

 虹色の霧が晴れ、彼女の目に映ったのは、美しき花園などではなく、無数の人間の死体から芽吹いた「捕食植物」の群生する地獄だった。


 駅の奥から、ゆらりと巨大な「花冠」を戴いた影が近づいてきた。

 それは、かつて人間だった頃の名残を、微かな香水の残り香の中に留めている、零駅の「園丁」だった。

 園丁の指先からは、琥珀色の粘液が滴り落ちている。

「……なぜ、拒む……? ここには、お前が一生をかけても……辿り着けなかった……完璧な調合が……あるというのに……」

 園丁の声が響くたび、周囲の花々が一斉に震え、さらに濃密な胞子を放出した。

 香織の撒いた悪臭が、圧倒的な「幸福の香り」に押し潰され、かき消されていく。

 足元から伸びてきた蔦が、彼女の足首を優しく撫でるように締め上げた。

 蔦の棘がストッキングを突き破り、血管に直接、甘い麻薬のような液体を流し込んでくる。

「ああ……お母さん……」

 香織の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 脳裏には、亡くなった母親が最後に微笑んだ日の、あの優しい石鹸の香りが再現されている。

 抗う力が、指先から抜けていく。

 彼女は、自らの調香師としての誇りさえも、その「偽りの至福」の中に溶かしてしまいそうになっていた。


 香織の意識は、淡い桃色の霞の中に溶け落ちようとしていた。

 母の温もり、幼い日の陽だまり、初恋の残像。それらすべての「幸福な記憶」が、零駅の土壌に根を張る花々から放出される芳香成分によって、残酷なまでに鮮明に増幅されていた。

 足首を掴む蔦は、もはや拘束具ではなく、愛する者の腕のように優しく彼女を抱きしめている。

「……そうよ。もう、苦しまなくていい。この香りの中に、すべてがあるわ」

 香織の口から、意志を失った言葉が漏れ出た。

 彼女の指先からは、薄紅色の花弁が皮膚を裂いて芽吹き始めていた。血管を流れる血液は、粘り気のある甘い蜜へと変質し、彼女の鼓動に合わせて、芳醇な香りを周囲に撒き散らす。

 園丁は、満足げにその光景を見つめていた。

「……素晴らしい……お前は……零駅で最も……美しい……香料になる……」

 その時だった。

 香織の胸元で、パリン、と小さな音が響いた。

 彼女が肌身離さず持っていた、自分自身で初めて調合した「失敗作」の小瓶が、蔦の圧力に耐えかねて割れたのだ。

 そこから溢れ出したのは、幸福でも絶望でもない、ただの「雨に濡れたコンクリート」と「埃」の匂いだった。

 それは、彼女が調香師を目指した原点――何者でもなかった頃の、殺風景で孤独な日常の匂い。

 そのあまりに現実的で、美しくもなんともない「生」の匂いが、脳内に構築された虚飾の楽園に、決定的な亀裂を入れた。

「……違う。お母さんの匂いは……こんなに、甘くなかった」 香織の瞳に、鋭い理性の光が戻った。

 母の石鹸の匂いの裏側には、常に台所の生ゴミの匂いや、湿布の薬臭い匂いが混じっていた。それが「生きている」ということの証明だったはずだ。

 彼女は、芽吹きかけた指先を自らの歯で噛みちぎった。

 激痛と共に、鉄錆のような本物の「血」の匂いが鼻腔を突き抜ける。

 その瞬間、視界を覆っていた黄金色の花粉が、汚らわしい塵の塊となって床に落ちた。

 美しい花園だと思っていた零駅の正体は、腐敗した肉壁に、犠牲者たちの成れの果てである醜悪な腫瘍がこびり付いた、巨大な「地下の胃袋」だった。

「……消えなさい、偽物の香り!」

 香織は、割れた小瓶の破片を園丁の顔面――花冠の中心にある「核」へと叩きつけた。

 現実の不快な匂いが、零駅の過剰な芳香を中和し、激しい化学反応を起こす。

 園丁は耳を劈くような絶叫を上げ、身悶えしながら黒い灰となって崩れ落ちた。

 周囲の花々も一斉に枯れ果て、断末魔のような異臭を放ちながら腐り落ちていく。

 電車が、閉まりかけたドアを無理やりこじ開けるようにして、再び発車しようとしていた。

 香織は、蔦が枯れて自由になった足で、必死に車両へと飛び乗った。

 ドアが閉まり、列車が加速する。

 背後の零駅は、再び深い闇と無臭の静寂の中に没していった。


 数分後。

 銀座駅のホームに降り立った香織は、ホームに漂う立ち食いそばの出汁の匂いや、他人の煙草の残り香、そして排気ガスの入り混じった、ひどく雑多で、ひどく愛おしい「現実」の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。

 彼女の指先には、今も小さな傷跡が残っている。

 それは、二度と「完璧な幸福」という名の毒に惑わされないための、唯一の消えない記憶だった。

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