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不協和音の終着

 午前零時過ぎ、大江戸線の車内。

 音楽ライターの滝沢直人は、愛用のノイズキャンセリングイヤホンを耳に深く差し込み、スマートフォンの画面上でレビュー記事の推敲を重ねていた。

 大江戸線は、都内の地下鉄の中でも特に深い場所を走る。リニアモーター特有の高周波な駆動音と、急カーブで線路が軋む金属音。それは、音の純粋性を追求する彼にとって、常に神経を逆撫でする不快な雑音でしかなかった。

 だが、その夜は違った。

 高性能なイヤホンが外界の音を遮断しているはずなのに、その「隙間」から、聴いたこともない奇妙な調べが漏れ聞こえてきたのだ。

 それは、既存のどのジャンルにも属さない音だった。

 数万の銀の鈴を巨大な空洞の中で一斉に転がしたような、透明で、かつ残酷なまでに美しい旋律。

「……なんだ、この音は」

 滝沢はスマートフォンの再生ボタンを止めた。

 音楽が消えた無音の空間に、そのメロディはより鮮明に、より立体的に響き渡った。

 音源は、自分の頭の中からではない。

 足元の床から、あるいは車両の連結部の隙間から、地下の地層そのものが歌っているかのように、絶え間なく湧き上がってきている。

 ふと顔を上げると、車内の電光掲示板が激しく乱れていた。

 駅名を表示するはずの液晶には、数字の「0」だけが、まるで増殖する細胞のように画面を埋め尽くしている。

『次は……零……零……お出口は、共鳴の果てにございます』

 自動放送の声は、もはや人のそれではなく、幾重にも重なった不協和音の塊だった。

 窓の外を流れるトンネルの壁には、無数の「音符」が焦げ付いたようにこびり付いていた。

 音符は生き物のように壁を這い回り、電車の速度に合わせて、巨大な楽譜を形成していく。

 滝沢は、その楽譜を読み解こうと必死に目を凝らした。

 そして気づいた。

 五線譜の上に並んでいるのは、音符ではない。

 それは、口を大きく開けて絶叫する、無数の人間の「顔」だった。

「……これが、零駅の歌なのか」

 滝沢は、吸い寄せられるようにドアの前に立った。

 旋律は今や、彼の心臓の鼓動と完全に同期し、肋骨の裏側を激しく叩いている。

 到着したホーム。駅名標には文字がなく、ただ虚無を象徴する白い円——「0」だけが描かれていた。


 滝沢がホームに降り立つと、そこには空気という概念が存在しないかのような、濃密な音の壁が立ちふさがっていた。

 こここそが、迷い込んだ者たちの末路が響き合う場所、零駅。

 天井からは巨大なパイプオルガンのような銀色の管が、血管のように幾重にも垂れ下がり、地底の底から響くような重低音を吐き出していた。

「……信じられない。駅全体が、巨大な『共鳴箱』なんだ」

 滝沢は陶酔しきった表情で、ホームの柱に手を触れた。

 柱は冷たいコンクリートではなく、磨き上げられた黒檀のような質感を持ち、触れた指先から微細な振動を伝えてくる。

 ふと足元を見ると、点字ブロックの突起の一つ一つが、小さな音叉のように震えていた。彼が歩を進めるたび、零駅の床からは正確な音階が奏でられ、彼の歩調そのものが即興の組曲となって空間に溶けていく。

 だが、その調和は長くは続かなかった。

 駅の奥、真っ暗なトンネルの口から、シュルシュルと何かを引きずるような音が聞こえてきた。

 それは、音楽を愛する者が最も忌み嫌う、純粋な「不協和音」だった。

 現れたのは、全身が折れ曲がった管楽器の残骸で構成された、異形の指揮者だった。

「……新しい……弦が……来たな……」

 指揮者の声は、弦楽器を無理やり引きちぎるような軋み音を伴っていた。

 滝沢は後退りしたが、背後のホームの端からは、いつの間にか銀色の細いワイヤーが何千本と伸びてきており、彼の影を地面に縫い付けていた。

 零駅を構成する無数のワイヤーが、生き物のように滝沢の足首を、手首を、そして首筋を絡め取っていく。

「おい、待て、俺はただ、この音を理解したかっただけだ!」

 滝沢が叫ぶと、指揮者はラッパ状の口から、クスクスと金属が擦れ合うような笑い声を漏らした。

「記録など……必要ない。お前自身が……零駅の譜面になればいいのだ。ここを流れる……数百万の……溜息を……奏でるためのな……」

 指揮者が、鋭利なフルートを振り上げた瞬間、滝沢の身体を拘束していたワイヤーが一斉にピンと張り詰めた。

 キン、という高い音が鳴り、滝沢の指先から、肉が剥がれ落ちていく。

 剥がれた肉は、零駅を震わせる新たな旋律として、虚無の空間に書き加えられていった。


 痛みは、もはや感覚ではなく音そのものだった。

 滝沢の肉体は物理的な限界を超えて引き伸ばされ、ホームの端から端までを繋ぐ巨大な「人間弦」へと変貌していく。

 彼の皮膚は半透明の共鳴膜となり、血管の中を流れる血液は、管楽器を流れる空気のように脈動し始めた。

「……美しい……零駅の……最高の……部品だ……」

 指揮者の指揮に合わせ、駅の天井から吊り下げられた銀色のパイプたちが、一斉に滝沢の肉体の弦に向かって、目に見えない音の弓を振り下ろした。

 演奏が始まった。

 それは、この地下鉄が開通してから今日に至るまで、数え切れないほどの乗客が吐き捨ててきた「溜息」と「呪詛」を主題にした、零駅の交響曲だった。

 満員電車の圧迫感。窓の外の闇を見つめる虚無感。愛する者に会えない焦燥。

 それらすべての負の感情が、滝沢という生きた楽器を通じて、完璧な旋律へと昇華されていく。

「あ……が……あ……」

 滝沢の口から漏れるのは、もはや言葉ではなかった。

 それは、聴く者の魂を凍りつかせるような、純粋な悲劇の和音だった。

 ふと、彼は気づいた。

 ホームのベンチに座り、無表情でこちらを見つめている無数の「影」たちの存在に。

 彼らはもはや人間としての形を失い、零駅の構造物の一部——音響パネルや照明のフィラメントとして機能していた。

 突然、一編成の電車がホームに滑り込んできた。

 ドアが開くと、そこから溢れ出したのは「沈黙」だった。

 あまりに深い静寂が、滝沢の奏でる音を次々と飲み込み、消し去っていく。

 指揮者が驚愕し、フルートを落とした。

 滝沢の意識の端で、最後に残った「自分」という旋律が、プツリと途切れた。


 翌朝。

 地下鉄の始発列車が、いつものように深い底を走り始めた。

 ある一区間のトンネルを通過する際、乗客の何人かが、不思議そうに耳を澄ませた。

「ねえ、今の音……聞こえた?」

「え? 何も聞こえないよ」

「変な音しない?」

「うん……別にしないかな」

「じゃあ気のせいかなぁ……」

 誰もそれが滝沢が奏でている音だとは気づかない。

 ただ、その区間の壁の隙間からは、耳を澄まさなければ聞こえないほど微かな、しかし震えるようなバイオリンの調べが漏れ出していた。

 滝沢直人という男は、もうどこにもいない。

 ただ、零駅の資材となった彼が、誰にも届かない美しい不協和音を奏で続けているだけだった。

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