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未着の遺失物

 地下鉄の路線が毛細血管のように複雑に絡み合う、巨大なターミナル駅の片隅。

 そこには、華やかな駅ビルや広告の並ぶ通路からは決して辿り着けない、澱んだ空気の溜まる一角があった。

 「お忘れ物総合取扱所」。

 窓口に立つ職員の久保田誠は、日々届けられる膨大な「忘れ物」を分類し、台帳に記入するのが仕事だった。

 ビニール傘、片方だけの靴、読みかけの週刊誌、誰に宛てたかもわからない手紙。

 地下鉄という巨大な循環システムの中で、人々の生活から剥がれ落ちた日常の破片が、最終的にここに流れ着く。

 久保田はこの仕事に、奇妙な愛着を感じていた。

 忘れ物とは、持ち主にとっては失われた時間の一部だ。それを台帳に記し、棚に並べることは、混乱した世界の秩序を少しだけ取り戻すような、静かな達成感があった。


 だが、その夜の出来事は、彼が長年築き上げてきた「秩序」を根底から覆すものだった。

深夜。最終列車が車庫へ入り、駅の喧騒が嘘のように引いた頃。

 久保田が残務整理をしていると、一人の若い駅員が、古ぼけた風呂敷包みを持って窓口に現れた。

「久保田さん、これ。拾得場所は『零番線』になってるんですが……」

 駅員の顔は、血の気が引き、どこか怯えているように見えた。

「零番線? そんなホーム、この駅にはないはずだぞ。また新人の悪戯か何かか?」

 久保田は苦笑いしながら風呂敷を受け取った。

 ずっしりと重い。中には、金属特有の冷たい感触があった。

 風呂敷を解くと、そこから現れたのは、真鍮製の古びた置き時計だった。

 文字盤の数字は見たこともない奇妙な記号で刻まれており、三本の針はそれぞれが独立した意志を持っているかのように、逆方向に、あるいは痙攣するように不規則な音を立てて動いている。

 久保田は奇妙な胸騒ぎを覚えながら、時計の裏蓋を開けた。

 そこには、小さな銀のプレートが埋め込まれており、達筆な彫刻でこう記されていた。

『拾得予定日:四月六日。拾得者:久保田誠』

 久保田は思わず息を呑んだ。

 今日はまだ、四月五日の深夜だ。日付が変わるまで、あと数分ある。

 未来の日付が、自分の名前と共に刻まれている。

 これは「忘れ物」ではない。これから誰かが失くす予定の、あるいはこれから見つかるはずの、未来からの「遺失物」だった。

「……おい、これを持ってきた駅員はどうした?」

 久保田が顔を上げると、窓口の向こうには誰もいなかった。

 ただ、深夜の構内に、遠くの方でシャッターが閉まる重い音だけが反響している。

久保田は震える手で、備え付けの分厚い「拾得物台帳」を開いた。

 通常、その日のページは届け出があった順に埋まっていく。しかし、明日の日付である「四月六日」のページをめくると、そこには既に、見たこともない緻密な筆跡で、びっしりと文字が書き込まれていた。

 そこには、明日この駅を訪れる乗客たちが、どのような状況で、何を「失くす」かが分刻みで予言されていた。

『〇九時十二分。三番線ホームにて、赤い手袋(片方)。持ち主は動揺により。』

『一四時四十五分。連絡通路にて、結婚指輪。持ち主は自らの意志により。』

『十八時三十分。快速列車の網棚に、遺書らしき封筒。持ち主は……』

 読み進めるにつれ、久保田の背中に冷たい汗が伝った。

 ここにあるのは、単なる物品のリストではない。それは明日起こるであろう、人々の悲劇や喪失の記録そのものだった。

 そしてリストの最後、二十三時五十九分の欄に、彼の目は釘付けになった。

『久保田誠。窓口にて、自身の命。』

 置き時計の針が、狂ったような速度で逆回転を始めた。

 カチ、カチ、カチ、カチ……。

 その音は、次第に「誰かの囁き声」のように聞こえ始める。

『……返して。僕の、明日を、返して』

 窓口のシャッターが、ガシャンと大きな音を立てて勝手に閉まった。

 狭い遺失物センターの室内で、久保田は置き時計と、そして「未来の記録」と二人きりになった。

 棚に並んだ、これまでに預かっていた膨大な忘れ物たちが、一斉に震え出している。

 返却を待つ傘の束が、まるで黒い触手のようにのたうち回り、棚からこぼれ落ちた。

 時計の針が、零時を告げる位置へと重なろうとしていた。


 シャッターが閉まった狭い室内で、久保田の鼓動は激しく打ち鳴らされた。

 棚から落ちたビニール傘が、まるで生き物のように床を這い回り、彼の足元に絡みつく。

 それだけではない。ガラスケースの中に保管されていた高級腕時計、子供が忘れていったぬいぐるみ、持ち主不明の片方だけの靴。それらすべてが、カタカタと小刻みに震え、まるで物理的な「重さ」を増していくかのように、棚の底板を軋ませていた。

 久保田は、手元の「拾得物台帳」をもう一度見た。

 四月六日のページ。そこに記された文字は、インクが乾ききっていないかのように、黒々と光っている。

「九時十二分……赤い手袋……」

 彼はその文字を指でなぞった。すると、頭の中に鮮明な光景が流れ込んできた。

 朝のラッシュ。三番線ホーム。一人の女性が電車に飛び乗る瞬間、ドアに挟まれた手袋が脱げ落ちる。彼女はそれに気づかず、走り去る電車の中で、自分の片手が冷たくなっていることにようやく気づく。

 その喪失感、小さな焦り、そして今日一日の不吉な予感。

 それら「感情」までもが、この台帳には記録されている。

「これは、ただの忘れ物じゃない。人の『運命』そのものが、ここに届けられているんだ」

 久保田は確信した。地下鉄という巨大なネットワークは、物質だけでなく、人々の時間の断片や、未来の可能性さえも運び去り、この「零番線」を経由して、この窓口に集積させているのだ。

 台帳をめくる手が止まらない。

 十四時四十五分。連絡通路。

 一人の男が、自らの指から結婚指輪を抜き、側溝へと投げ捨てる。その瞬間の、心の一部が千切れるような痛みが、文字を通じて久保田の胸に直接伝わってきた。

 そして、最後の一行。

『二十三時五十九分。久保田誠。自身の命』

久保田は、手元にある真鍮の置き時計を凝視した。

 逆回転を続ける針は、今まさに「四月六日」への境界線を越えようとしている。

 カチ、カチ、カチ……。

 時計の音が、次第に巨大なドラムの音のように、室内に反響し始めた。

 同時に、棚の忘れ物たちが一斉に叫び出した。

 それは言葉ではない。持ち主たちが、それらを失くした瞬間に上げた「絶望の共鳴」だ。

 傘が開き、閉じ、狂ったように床を叩く。ぬいぐるみのボタンの目が、久保田を呪わしげに見つめる。

「嫌だ……私はまだ、何も失っていない!」

 久保田は台帳を破り捨てようとした。

 しかし、紙は鋼鉄のように硬く、指を掛けてもびくともしない。

 それどころか、破ろうとした箇所から黒いインクが溢れ出し、彼の指先を染め上げていった。

 インクは生き物のように皮膚に浸透し、腕を伝って心臓へと這い上がってくる。

 それは、これまで彼が管理してきた「膨大な他人の喪失」が、実体を伴って彼自身を侵食し始めた証だった。

ふと、窓口のシャッターの向こう側で、微かな音がした。

 トントン。

 誰かが、窓口を叩いている。

 深夜、シャッターが閉まっているはずの、この時間に。

「……どなたですか?」

 久保田は掠れた声で問いかけた。

 返答はない。ただ、シャッターの隙間から、一枚の古い切符が差し込まれた。

 そこには、震えるような筆跡でこう書かれていた。

『私の明日を、忘れました。返してください』

久保田は、その切符を拾い上げた。

 その瞬間、彼の耳元で、自分自身の声が囁いた。

『……それは、お前がこれから失くすものだよ、久保田』

 真鍮の時計の針が、ついに重なった。

 午前零時。

 久保田の視界から、色が消えた。


 午前零時を告げる鐘の音のような振動が、久保田の足元から突き上げてきた。

 色の消えた視界の中で、棚に並ぶ遺失物たちだけが、どす黒い輪郭を持って浮き上がっている。

 シャッターの向こう側から差し込まれた切符を握りしめたまま、久保田は動けずにいた。自分の手が、まるで古い更紙のように乾燥し、指先からパラパラと剥がれ落ち始めていることに気づいたからだ。

 剥がれ落ちた皮膚の破片は、床に散らばると同時に小さな文字へと姿を変えた。

『久保田誠:幼少期の記憶』

『久保田誠:初恋の痛み』

『久保田誠:昨夜食べた夕食の味』

 彼を構成していた過去の断片が、物理的な「遺失物」として次々と肉体から零れ落ちていく。

 久保田は悲鳴を上げようとしたが、喉からもまた、言葉が文字となって溢れ出し、音にはならなかった。

 ガシャン、と大きな音を立ててシャッターが跳ね上がった。

 窓口の向こう側に立っていたのは、先ほどの若い駅員ではなかった。

 それは、全身をびっしりと「遺失物届」の紙で覆われた、異形の存在だった。顔があるべき場所には、先ほどの真鍮の置き時計が埋め込まれており、狂ったリズムで針を刻んでいる。

 その怪物は、久保田に向かってゆっくりと手を伸ばした。

「……返せ。私の、届かなかった、明日を」

 怪物の声は、これまでこの窓口を訪れた数え切れないほどの落とし主たちの声を継ぎ接ぎしたような、不気味な多重音だった。

 久保田は悟った。

 ここは「忘れ物」を預かる場所などではなかった。

 地下鉄という巨大な装置が吸い上げた人々の「喪失」を、一箇所に閉じ込め、腐敗させないように管理するための「墓場」だったのだ。

 そして自分は、その墓守として選ばれ、他人の欠片を整理し続けることで、自分自身の存在を少しずつ削り取られていたのだ。

「もう……何も残っていない……」

 久保田の腕は既に肘まで消失し、そこには「管理番号」だけが虚しく印字されていた。

 怪物が窓口を乗り越え、室内へと侵入してくる。

 久保田は最後に残った左手で、机の上の「拾得物台帳」を掴んだ。

 四月六日のページ。

 二十三時五十九分。

 そこには、先ほどまでなかった続きの文章が、血のような赤色で書き足されていた。

『拾得者:地下鉄そのもの。』

 怪物の指先が、久保田の胸に触れた。

 衝撃はなかった。ただ、深い井戸の底へ吸い込まれるような、圧倒的な空虚感だけが彼を包み込んだ。

 久保田の意識が消える直前、彼は見た。

 自分が座っていた椅子の影に、新しい「拾得物」が転がっているのを。

 それは、彼がずっと大切にしていたはずの、家族との写真が入った古い財布だった。

 だが、今の彼には、その写真に写っている人物が誰なのか、思い出すことはできなかった。


 翌朝。

 「お忘れ物総合取扱所」のシャッターが開いた。

 そこには、昨日までと変わらない、整然と並んだ棚と、清潔な窓口があった。

 新しい職員が、あくびをしながら椅子に座る。

 彼の目の前には、一人の駅員が古ぼけた風呂敷包みを持って立っていた。

「これ、零番線で拾ったんですが……」

 新しい職員は、慣れた手つきで台帳を開いた。

「零番線? まあいいでしょう。番号を振って、棚に入れておきますよ」

 彼が書き始めた台帳の隅には、まだ乾いていない小さなシミが一つだけ、涙の跡のように残っていた。


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