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硝子の共犯者

 深夜の半蔵門線。

 大学生の拓也は、冷房の効きすぎた車両の片隅で、スマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。連日の夏期講習と深夜までのレポート作成で、彼の意識は薄い膜を張ったように朦朧としている。

 車内には、彼の他に数人の乗客がいるだけだった。皆、死んだ魚のような目で一点を見つめ、列車の不規則な揺れに身を任せている。

 ふと、拓也はスマートフォンの充電が切れたことに気づき、画面をポケットに仕舞い込んだ。

 手持ち無沙汰になり、視線を向かい側の窓へと移す。

 トンネル内の暗闇を背景にして、窓ガラスは鏡のように拓也の姿を鮮明に映し出していた。そこには、疲れ果て、目の下に隈を作った一人の青年が座っている。

 拓也は無意識に、右の手首を回して腕時計を確認した。

 ……違和感があったのは、その直後だった。

 現実の拓也が腕を下ろしたあと、鏡の中の「彼」が、ほんのわずか、コンマ数秒だけ遅れて腕を下ろしたように見えたのだ。

 拓也は一瞬、自分の瞬きのせいかと思った。あるいは、極度の疲労による脳の処理落ち。視覚情報が意識に届くまでのタイムラグ。

 彼は確かめるように、今度は左手で鼻の頭を掻いてみた。

 鏡の中の自分も、同じように左手を動かす。今度は完璧に同期しているように見えた。

「……気のせいか」

 拓也は小さく息を吐き、視線を窓の外の闇へと逸らそうとした。

 だが、その瞬間。

 鏡の中の自分が、左手を下ろさず、そのまま人差し指を口元に当てて「シッ」と、静かに微笑んだ。

 拓也の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 現実の自分は、口など動かしていない。表情も変えず、ただ呆然と窓を見ているだけだ。

 しかし、ガラスの向こう側にいる「彼」は、楽しそうに目を細め、ゆっくりと座席から立ち上がった。

 拓也は金縛りにあったように動けない。鏡の中の影は、窓の縁を「内側」から掴むようにして、こちら側の現実を値踏みするように覗き込んでいる。

 周囲の乗客たちは、誰一人としてこの異常に気づいていない。彼らの目に映る窓には、おそらく正常な景色や、正常な反射だけが映っているのだろう。

 この異常は、拓也という観測者に対してだけ、牙を剥いていた。

「な、なんだよ……お前……」

 拓也が掠れた声で呟くと、窓の中の影が、窓を指先でコツコツと叩いた。

 コツ、コツ、コツ。

 その音は、車内の内側からではなく、トンネルの壁にぶつかる風の音に紛れて、外側の「闇」から響いてきた。

 不意に、車内の電灯がチカチカと激しく瞬いた。

 古いフィラメントが焼き切れるような異音が響き、一瞬、車内が完全な暗闇に包まれる。

 再び明かりがついた時、窓の中の自分は、もうそこにはいなかった。

 代わりに、拓也のすぐ隣の座席、誰もいないはずの場所に、べったりとした「濡れた手形」が浮き上がっていた。

 それは、今まさに誰かがそこに座り、拓也の耳元へ顔を寄せたかのような位置に、生々しく残っていた。

 そして、空調の音に混じって、自分の声と同じ周波数の囁きが、直接鼓膜を震わせた。

『ねえ、代わってよ。そっちは、そんなに疲れる場所なの?』

 拓也は悲鳴を上げ、座席から飛びのいた。

 足がもつれ、通路の中央で転びそうになる。彼は逃げるように連結部へと走り、隣の車両へ逃げ込もうとした。

 だが、連結部のドアの窓にも、足元の床のステンレスにも、吊り革の光沢にさえ、別の動きをする「自分」が溢れ出していた。

 ある「自分」は顔をかきむしり、ある「自分」は首を吊る真似をし、ある「自分」は不気味なほど大きく口を開けて、無音の哄笑を上げている。

 反射するあらゆる面が、拓也という存在を解体し、奪い取ろうとするための戦場に変わっていた。


 拓也は隣の車両へ転がり込むように移動したが、そこもまた地獄の続きだった。

 無人のはずの車内、窓ガラスという窓ガラスに、数え切れないほどの「自分」が張り付いている。ある影は爪でガラスを内側から削り、ある影は血の混じった涙を流しながら、拓也の動きをじっと監視していた。

 逃げ場はない。金属の光沢、乗客の眼鏡のレンズ、果ては床に落ちた空き缶の表面に至るまで、あらゆる反射面が彼を飲み込もうとする「口」に見えた。


 不意に、電車の走行音が変わった。

 ガタゴトという規則的な振動が消え、まるで深い粘体の中を進んでいるような、重苦しく湿った音へと変質していく。

 車内放送のスピーカーが、ノイズ混じりに音を立てた。

『次は……零……零……終点、零でございます』

 本来の路線には存在しない駅名。

 拓也が顔を上げると、連結部を越えてきた「何か」が視界に入った。

 それは、実体を持たないはずの、窓の中にいたはずの「自分」だった。

 硝子の破片を全身に纏ったような、異常に平面的で、しかし確かな殺意を持った影。その「影」は、現実の拓也と全く同じ足取りで、鏡合わせの動きをしながら一歩ずつ近づいてくる。

「くるな……くるな!」

 拓也は座席の端に追い詰められ、震える手で周囲のものを掴もうとした。

 だが、彼が掴んだ吊り革は、触れた瞬間に冷たい硝子へと変質し、粉々に砕け散った。

 影が、拓也の目の前で止まる。

 鏡の中の自分は、ゆっくりと右手を伸ばしてきた。その動きは、恐怖に震えて手をかざす拓也の動きと、一分一秒の狂いもなく同期している。

 ただ一つ違うのは、影の指先が、現実の拓也の「喉元」を、硝子の向こう側からではなく、この世界の空気を通じて、直接捉えようとしていることだった。

 冷たい。

 首筋に触れた感覚は、零下の氷を押し当てられたような、心臓まで凍りつくような拒絶感だった。

『ねえ、そっちは、重いんでしょ?』

 影の声が、拓也の喉から直接漏れ出した。

『責任とか、将来とか、眠れない夜とか。僕が代わりに持ってあげるよ。君は、こっちの静かな暗闇で、ただ笑っていればいい』

 影の指が、拓也の皮膚の下へと沈み込み始めた。

 まるで、水面に指を突き入れるように、拓也の肉体が実体を失い、鏡像へと書き換えられていく。

 右手の先から、感覚が消えていく。視界の端に見える自分の腕が、次第に透明になり、向こう側の景色が透けて見え始めた。

 逆に、鏡の中にいた「彼」の輪郭は、急速に色濃くなり、拍動する血管や、湿った瞳の輝きを手に入れていく。

 入れ替わりが、始まっていた。

拓也は朦朧とする意識の中で、ポケットの中のスマートフォンの重みを思い出した。

 充電は切れている。だが、その画面は、この世で最も身近な「黒い鏡」だ。

 彼は残された最後の力を振り絞り、透明になりかけた左手でスマートフォンを掴み出した。

 そして、自分と影の間に、その暗い画面を突きつけた。

「……これに、帰れ!」

 拓也が叫ぶと同時に、列車のブレーキ音が絶叫のように響き渡った。

 車両が激しく揺れ、拓也の身体が宙に浮く。

 スマートフォンの漆黒の画面に、影の顔が映り込んだ瞬間、凄まじい吸い込み現象が起きた。

 影は驚愕の表情を浮かべ、自分が奪おうとした拓也の肉体から、無理やり引き剥がされていく。

 バキバキと、空間がひび割れるような音がした。

 窓ガラスのすべてに亀裂が走り、反射していた無数の「自分」が、一斉に悲鳴を上げて砕け散る。

激しい衝撃と共に、拓也の意識は闇へと落ちた。


 目が覚めたとき、拓也は電車の座席に座っていた。

 電車の走行音が、いつもの乾いた金属音に戻っている。車内を見渡すと、数人の乗客が相変わらず疲れ切った様子で座席に揺られていた。窓の外を流れるのは、見慣れた地下鉄のトンネルの壁だ。

 すべては夢だったのか。そう思って起き上がろうとしたとき、手のひらに硬い感触があった。

 握りしめていたスマートフォン。その画面には、蜘蛛の巣のような激しいひび割れが走っていた。充電が切れているはずなのに、画面の奥底で、かすかな、しかし粘りつくような「闇」が蠢いているように見えた。

 拓也はおそるおそる、窓ガラスに自分の姿を映してみた。

 そこには、いつもの自分が映っている。瞬きをすれば、鏡の中の自分も瞬きをする。手を動かせば、寸分違わず付いてくる。

 ラグはない。微笑みもしない。

 安堵して、拓也は次の駅で電車を降りた。


 深夜の住宅街を歩きながら、彼は自分の右手に違和感を覚えた。

 感覚がないわけではない。むしろ、敏感すぎる。指先が何かに触れるたび、それが自分の皮膚ではなく、薄い硝子の膜越しに世界を触っているような、妙な隔絶感があるのだ。

 アパートに戻り、玄関の鏡の前に立った。

 蛍光灯の青白い光の下で、自分の顔をじっくりと眺める。

 どこからどう見ても、自分だ。

 だが、ふと気づいた。

 自分は右利きのはずなのに、無意識に左手で鍵を開け、左手でカバンを置いていた。

 鏡の中の自分を、もう一度凝視する。

 ……逆だ。

 鏡の中の世界では、右と左が入れ替わる。

 今、鏡の前に立っている自分は、「右利き」として振る舞おうとしているが、身体の芯にある馴染んだ感覚は、すべてが「逆」を求めている。

 拓也は震える手で、洗面台の鏡に触れた。

 指先が硝子に触れる。

 その瞬間、鏡の向こう側にいる「自分」が、ふっと消えた。

 反射が消えたのではない。

 鏡の向こう側が、ただの「暗い部屋」になっていたのだ。

 そこには、本物の拓也が、口を塞がれ、絶望的な目でこちらを見つめながら、暗闇の奥へと引きずられていく姿が見えた。

「……そっちは、静かでいいだろう?」

 拓也の口から出たのは、自分の声だが、自分のものではない響きだった。

 彼は鏡に向かって、ゆっくりと左手を上げた。

 鏡の向こうの暗闇では、本物の拓也が、必死に右手を伸ばして硝子を叩いている。

 だが、こちら側の世界には、音一つ届かない。

 拓也——いや、拓也の形をした「影」は、満足げに微笑むと、洗面所の電気を消した。

 暗闇に紛れて、彼は本物の拓也の生活へと、音もなく溶け込んでいった。


 翌朝、大学の講義室で、友人が彼に声をかけた。

「おい、拓也。お前、時計を右手に着け変えたのか?」

 彼は一瞬だけ動きを止め、不自然なほど完璧な笑顔で答えた。

「ああ。こっちの方が、しっくりくるんだよ」

その首筋には、彼自身も気づいていない小さな「零」の痣が、硝子の破片のような鋭さで刻まれていた。



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