後章 儀式
静まり返った屋敷の廊下。
ある一つの部屋の前。そこで、サクは落ち着きなく右往左往していた。
ノクスとルミがこの客室に立てこもってから、もうどれほどの時間が経っただろうか。
中からは音一つ聞こえないが、ふたりがここにいるのはサクにはわかる。魔力を分け与えた2人の気配は、不思議と感じ取れるようになっていたのだ。何度も中を確認しようとしたが、コルヴァンに止められて今に至る。
サクは両手を胸の前で組み、祈るように閉ざされた重厚な扉を見つめている。
ノクスが人のような形に変容したという予想外の一件から間をおかず、ルミとともに部屋にこもりきりになったのだから心配するのも当然だった。
「ふたりとも本当に、大丈夫かな…」
背後に静かに控えるコルヴァンを振り返る余裕すらなく、サクが小さく呟いた、その時だった。
ギィ。と音を立てて、目の前の扉がゆっくりと内側へ開いた。
サクははっとして息を呑み、わずかに開いた隙間を凝視した。
次の瞬間、ふわりと白い羽が舞い散り──中から、ひとりの少女が飛び出してきた。
「えっ」
戸惑いの声をあげるサクの胸に、少女は迷いなく飛びついてきた。華奢とはいえ、人間の重みを突然受け止めた非力なサクは「きゃっ」と短い悲鳴を上げ、バランスを崩して後ろへひっくり返りそうになる。
しかし倒れ込むより早く、背後から伸びてきた冷たい腕が、サクの背を危なげなく受け止めた。
「ほう」
頭上から、コルヴァンの小さく感心したような声が降ってくる。
サクはコルヴァンの腕に支えられながら、戸惑いとともに自分の胸に顔を埋めている少女を見下ろした。
そこにいたのは、信じられないことに、サク自身にそっくりの顔立ちをした少女だった。
ふるふると震え上がり、怯えきって身を縮こませるその姿は、かつて村で奴隷として扱われ、この屋敷に逃げ込んできたばかりの頃のサクによく似ている。
しかし、明確に異なる点があった。少女は美しく透き通る銀髪で、そしてその華奢な背中からは、不釣り合いな純白の羽が生えていたのだ。明らかに人の容姿ではない。
「ルミ……?」
サクは、信じられない思いでその名を呼んだ。
戸惑いながら尋ねるサクの胸に顔を押し付けたまま、少女──ルミは、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
「……キュウ……、ピィ……ッ」
人間の姿でありながら、その震える唇から漏れ出したのは、掠れた鳥の鳴き声のような音だった。ルミはすがりつくようにサクの衣服を強く握りしめ、ひたすらに小さな体を震わせて、サクの胸に頬を擦り寄せている。
──ルミまで、人の形に…?一体、何が起こっているの…?
サクは頭が真っ白になりながら、そっとルミの銀髪を撫でた。そして、ルミが飛び出してきた部屋の奥へと視線を向ける。
半分開いた扉の向こう側。
あれほど凄まじい物音と魔力の気配が充満していた部屋の中は、もぬけの殻になっていた。
ノクスの姿はどこにもない。
ただ、部屋の奥の大きな窓が冷たい夜風を招き入れるように大きく開け放たれているだけだ。
窓際の絨毯の上には、ルミのものらしき真珠色の羽と、巨大な漆黒の羽が、まるでひとつに絡み合うように重なって落ちていた。
サクは呆然とそれを見つめていたが、胸の中で身をよじるルミの生々しい温もりに我に返った。
ルミはサクにしがみつき、美しい銀髪を揺らして震えている。豊かな髪と背中の白い羽に隠れて一見わからなかったが、サクの腕に直接触れる肌の面積があまりにも多い。
「えっ……?」
サクは目を丸くして、自分の胸に顔を埋めるルミの身体をそっと確認した。
透き通るような白い肌。布の感触は、どこにもない──裸だ。
「ひゃっ!?」
サクは頬を染めて短い悲鳴を上げると、慌ててルミの身体を自身の腕で隠すように抱き込み、背後にいるコルヴァンから見えないように覆い被さった。
「コ、コルヴァンさん!後ろ向いてくださいっ!」
サクはルミを必死に庇いながら、コルヴァンに背を向けて叫んだ。コルヴァンは首を傾げる。
「こここのこ、ふくっ、服を着ていませんっ!もしかしたらノクスもっ、は、はやく連れ戻さないとっ!」
耳まで真っ赤にしてまくしたてるサク。
思えば、突然の人化に驚き、ノクスのこともきちんと確認できていなかった。ノクスもルミと同じく、長い黒髪と大きな羽で身体をうまく確認出来なかったというのもある。
そんな彼女の慌てふためく背中を見下ろしながら、コルヴァンは片頬で笑った。
「羽化したてなのだから当然かと。獣が衣服を纏うはずもない」
「とっ、とにかく!早く隠すものを……!」
サクが涙目で訴えると、コルヴァンは呆れたように優雅なため息を吐いた。
「すぐに仕立てましょう」
そのまま長い髪を翻してサクたちに背を向け、サロンに向かって靴音を立てて歩き始めた。
サクはとりあえず自分の羽織っていたショールをルミの薄い肩にかけ(無論それでも心許ない)、震えるルミに「おいで」と囁いて歩き出した。
ルミはサクの細い腕に抱きつくようにしてついてきた。サクは歩きにくかったが、ルミを案じながらゆっくり歩を進めた。
◆
サロンの重厚な扉を開けると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
「え……」
サクは目を丸くして立ち尽くした。
部屋の中には、姿を消したはずのノクスの姿があった。
その目には、恐ろしい野生の覇気は微塵もない。完全に光を失った、いわゆる死んだ目をして、直立していた。いや、させられていた。おそらくは目の前で腕を組み、塔のように立つコルヴァンによって。
どうやらノクスは、サクたちがここへ来るまでのわずかな時間でコルヴァンに捕獲され、強制的に連れて来られたようだ。
コルヴァンは、長い指を顎に当てて冷ややかにノクスを見下ろす。
「この屋敷でヒトガタをとるのであれば、みすぼらしい姿は許さない」
コルヴァンは低い声で宣言すると、ぱちん、と長い指を鳴らす。
途端に魔力が弾け、ノクスの身体を包んでいた簡素な衣服が、豪奢なフリルがあしらわれた黒の貴族服へと変化した。
しかしコルヴァンはそれも気に入らないらしく、コンコンと自分のこめかみを指で叩いた。
サクはノクスのこの姿を素敵だと思ったが、とても口を挟める空気ではなかった。コルヴァンの美意識はサクには理解の及ばないものであるので。
「悪くない…が、これでは狩りの邪魔か。獲物を追うたびに無様に爪を引っ掛けるのが目に見えている……かといって、これ以上の野卑な軽装などは……」
ぶつぶつと文句を言いながら、再びぱちん、と指を鳴らす。今度はシックな燕尾服に変わったが、首元がひどく窮屈そうだ。ノクスは微かに喉を鳴らして嫌そうにしたが、コルヴァンの氷のような視線に射抜かれ、再びスッと死んだ目に戻った。
「これでは所作が濁るか。しなやかさを残しつつ、品格を保たせねば」
忌々しげに呟き、さらに指を鳴らす。
現れたのは、しなやかな黒いフリルシャツに、ノクスの長身を際立たせる薄手のロングガウンだった。堅苦しい正装ではなく、貴族が私室で羽織るような優雅な軽装。裾が風を孕むように長く伸び、漆黒の長髪と見事に調和している。足元は靴を履かせるのを諦めたのか、鋭利な黒い鉤爪がそのまま絨毯に沈んでいた。
サクは瞬きをした。ノクスが人間と異なるところは、背から羽は生えているどけではなかった。足元も怪鳥の時とかわらぬ鉤爪の形をしていた。よくみると、手の爪も人よりだいぶ鋭利だ。
「……妥協点だな。良いだろう」
だいぶ軽装になったとはいえ、ノクスは衣服自体が窮屈なのか、はたまた着せ替え人形にされたことが堪えたのかグッタリとしていた。解放されるとあからさまにホッとしたような顔で、コルヴァンの視線の外へそそくさと移動した。
サクがノクスを哀れに思っていると、コルヴァンはサクたちへ振り返った。
厳しい金色の瞳が、サクのショールに包まって震えるルミを捉える。ルミの肩がビクリと震えた。
「……ルミはそこに立たせるように」
コルヴァンが、長い指で絨毯の中央を指し示した。ルミが小さく「きゅう…!」と断末魔のような声をあげて震え出したので、慌ててサクはルミの肩を撫でた。ノクスの様子をみて、何をさせるのかと怯えているのだろう。
「ルミ、大丈夫だよ」
サクは腕にしがみつこうとするルミをなだめながら、言われた通りに立たせた。ルミは身をすくませ、ガタガタと震えている。
「お洋服を着せてもらうだけだからね」
サクに宥められ、ルミは身をすくませながらも、言われた通りにぽつんと絨毯の上に立った。
コルヴァンが指を鳴らした。
一瞬の光ののち、ルミの身体は最高級のシルクと幾重にも重なるレースに包まれていた。真珠色と淡い銀色を基調とし、首元から手首までを厳重に覆い隠した、お人形のようなドレスだ。
背中から生えた小さな純白の羽に合わせたように、見事に仕立てられている。
「……ふむ。その羽によく似合う」
コルヴァンは満足げに細い目を細め、仕上がりに深く頷いた。ルミに関しては、彼の中で迷いは生じないようだった。
「ピィ……」
しかし、あまりの布地の重さと慣れないドレスの窮屈さに、ルミは一歩を踏み出すことすらできず、その場でバランスを崩してペタンとへたり込んでしまった。動けないほど重たいドレスに包まれ、ルミは困惑したように視線を彷徨わせる。
「動きにくいの?でも…すごく可愛いよ、ルミ」
サクは落ち着かない様子のルミを心配したが、あまりの愛らしさに思わず褒め言葉がでてしまった。そばに歩み寄り、ルミの真珠色の髪を優しく撫でた。
サクに満面の笑みで褒められた途端、怯えて縮こまっていたルミの琥珀色の瞳がぱっと明るくなる。
ルミは嬉しそうにふにゃりと柔らかく笑い、サクの手に自分の頬をすり寄せるようにして身を寄せた。
そんな和やかな光景を横目に、ノクスは退屈そうに大きく息を吐き出していた。
衣服や自身の見た目などには端から微塵も興味がない彼は、この厄介な儀式が一日も早く終わるのを、ただじっと無の顔で待っている。
「ノクスもとっても素敵だよ!」とサクが声をかけたが、ぐるると喉を鳴らして興味がなさそうに返事をした。
「それにしても、この子達…突然どうしたのでしょう」
サクがルミに擦り寄られながら、かたわらのコルヴァンを見上げた。
「自ら望んで形を変えた。それだけのことですな」
コルヴァンはなんでもないことのように言い放った。
怪鳥が人もどきに変容しようが、小鳥が少女の姿になろうが、彼にとっては庭の草花が少し伸びるのと同じ程度の、取るに足りない変化にすぎないようだった。
そんな一言で済まされてしまい、サクは困ったように眉を下げる。
コルヴァンは決してノクスやルミを軽視しているわけではない。彼らに魔力を分け与え、こうして美しく着飾らせて管理しているのは他ならぬ彼自身なのだから。それをわかっているからこそ、サクには疑問が残った。
「それだけって……体に異常はないかとか、心配じゃないんですか?」
「魔力は安定しておりますし、ノクスに至っては外で糧を得たようですな。知らぬ間に、狩りがうまくなったことだ」
コルヴァンは逆に感心したように言った。サクは彼が何を言っているのかよくわからなかったが、気にするところがずれている気がした。
人間に近い感覚で姿が変わった驚きや戸惑いを抱くサクと、人外の視点からそれを些細な変異と捉えるコルヴァン。サクは久しぶりに、コルヴァンとの埋まらぬ感覚の違いを感じた。
──コルヴァンさんにとって、形が変わったこと自体が驚くようなことじゃないんだ。私には、とても大きなことに思えるけれど。
サクが複雑な思いでいると、かたわらのルミが、再び不安そうにサクの衣の端をキュッと掴んだ。その愛らしい仕草に意識を引き戻され、サクは優しく微笑んでルミの頭をなでた。
──ううん、不安がってばかりじゃあだめだよね。どんな姿でも、ノクスとルミだもの。受け入れて、愛してあげたい…。
ふと、思いついてぱっと顔を上げる。
「せっかくひとの姿になったのだもの。ノクスとルミに紅茶を入れてあげたいです」
そう言って笑顔でコルヴァンを見上げると、コルヴァンは虚を突かれたように目を開き、ついでくつくつと笑った。
「果たして獣に、嗜好品の味わいが可能ですかな?まあ、貴女が望むのならば良いでしょう」
そう言って指を振ると、影の侍女を複数練り上げる。作り出された彼女らはキッチンへしずしずと赴き、茶菓子と紅茶の用意を始めた。
ほどなくして、初めての家族の茶会がひらかれる。そこでノクスとルミは、人型の儀式にもう少し付き合わされることになるだろう。




