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後章 模倣


曇りの日の午後。

黒い森の奥、霧に包まれた屋敷。檻のような柵に囲まれた庭園には、黒薔薇が咲き誇っている。


薔薇園の生垣の前に、星を散りばめた夜空のようなドレスを纏った少女が立ち尽くしていた。


彼女は…サクは、落ち着かない様子で曇り空を見上げていた。生ぬるい風が、サクのアッシュグレーの髪を揺らす。


ふと、視線を感じてサクは振り返った。


大木の木陰に、真っ黒な塊──怪鳥ノクスがいる。ただじっと、サクを見つめている。サクは大きな瞳を見開き、慌てて彼へ駆け寄った。


「ノクス!どこへ行っていたの?」


眉を下げて、彫像のように木の下に佇むノクスを覗き込む。彼がサクの前に姿を現すのは、実に1週間ぶりであった。


サクはずっと、彼のことを案じていた。どこぞへ飛び、狩りなどに夢中になっていたのだとしても、いい加減帰ってこないものかと、庭で空を見上げていたのだ。


「ずっと心配していたんだよ…!」


サクが労るように、そっと漆黒の羽毛に触れようと手を伸ばした、その時だった。


弾かれたように、ビクンとノクスの巨体が大きく蠢いた。


「えっ……ノクス?」


サクは驚いて手を引っ込める。ノクスは、そのまま地面に転がり、もがき苦しみ始めた。


「ギィッ……ガァッ……!」


その喉から漏れるのは、今まで聞いたこともないような、地を這うようなうめき声。


さらに、バキ、メリメリ、ギシ、と、太い樹木の枝をへし折るような、あるいは骨の軋む不気味な音がノクスの体内から響き始めた。


サクの顔からさあっと血の気が引いていく。


「ノクス……!!」


真っ青になったサクは跪き、波打つように蠢くノクスの広い背中をさすった。


しかし、ノクスの苦悶のうめき声は大きくなり、その身体からは黒い煙のような魔力が不気味に噴き出し始めた。これは、ただごとではない。


「ま、待ってて!今、コルヴァンさんを呼んでくるから!」


サクは叫び、屋敷へ向かって駆け出そうと立ち上がった。


しかし、その瞬間。背後から、何かがサクの細い腕を力強く掴んだ。


「……っ!?」


冷たい、けれど大きな“手”の感触。


おかしい。怪鳥であるノクスに、人間の手があるはずがない。では、コルヴァンが一瞬で姿を現したのだろうか?そう思ってサクが目を剥いて振り返った、その目の前。


「え……」


目の前に蹲っていたのは、濡れたような長い黒髪をだらりと垂らした、青白い顔の美男子だった。


その顔立ちは、サクがよく知る屋敷の主人──コルヴァンに瓜二つだった。

だが、違う。決定的に、別物だった。


というのも、まず青年の背中には、強張るように大きく膨らんだ真っ黒な羽根が生えている。

コルヴァンの本来の姿は黒い羽根を持つ異形だが、彼は理性ある時には決してその姿を人前に晒さない。


彼はサクの腕を掴んだまま、よろめくようにしてゆっくりと立ち上がった。小柄なサクはよろけたが、慌てて木の幹にてをついて堪えた。


青年のその背丈はコルヴァンには及ばないものの、サクを完全に見下ろすには十分すぎるほどに高かった。

濡れた黒髪の隙間から、ギラリと光る金色の眼が、言葉を失って呆然とするサクを見下ろした。


その瞳には、コルヴァンのような知性や冷徹さは希薄で、代わりに純粋な捕食者としての獰猛さが張り付いているように思える。

呆然と立ち尽くすサクを見下ろし、青年は──にまり、と笑った。


それはコルヴァンが決して浮かべることのない、凶暴でありながらも無邪気で、野生的な笑みだった。


「……ギィ、」


彼の喉の奥から、鳥の鳴き声とも獣の唸りともつかない音が漏れた。

その音を聞いて、サクはようやく目の前の青年の正体を理解し、震える唇からその名をこぼした。


「ノクス……?」


サクが呆然と呟いた途端。

ノクスは嬉しそうに喉を鳴らすと、サクを引き寄せ、母に甘える幼い子供のように、彼女の小さな頭に自分の頬をすり寄せてきた。


「ギィ、ギィ……」


不気味な、けれど彼なりの最大限の喜びと親愛に満ちた笑い声を立てながら、ノクスはサクの髪に顔を埋め、すりすりと甘えるのだった。


ぽかんとするサクはされるがまま、巨大な我が子に髪を乱されていった。



どれほど、ノクスにすり寄られていただろうか。


「ノクス、くすぐったいよ」


サクが苦笑しながら、自分にすり寄る巨大な青年の背中──黒い羽根の付け根あたり──をそっと撫でてやると、ノクスは「グルル……」と喉を鳴らして心地よさそうに目を細めた。


人の姿になっても、中身はサクが育てた(?)あの甘えん坊で凶暴な怪鳥のままらしい。サクは少しばかり安堵した。


それにしても彼は何故、姿を変容させたのか。

サクはしばし考え込む。

ここ1週間、姿を見せないノクスをサクはひどく心配していた。


数日前のこと。


控えめな陽の光が差し込むサロン。

外の小鳥の鳴き声がやけに響く。暖炉にくべられた薪が時折はぜる。


そんな静寂の中、サクはソファに腰掛け、沈んだ面持ちで膝の上のドレスの布地をぎゅっと握りしめていた。


サクの背後に立つコルヴァンは、彼女の髪を滑らかな銀の櫛で梳かしている。

頭皮に心地よい刺激を与える細やかな手つきは手慣れたものだったが、サクの心は晴れなかった。


「コルヴァンさん…ノクス、どうしたのでしょう。

こんなに長い間、帰ってこないことなんて…今までありませんでした」


頭の中を占めるのは姿をみせないノクスのこと。一度転がり出した恐ろしい想像は止まらなかった。


「もしかして、野生の獣に傷を負わされて動けなくなったりしているんじゃ…または、強い魔術師に捕まって奴隷のように虐げられているかも…?今もどこかでお腹を空かせて泣いていたりとか…!」


徐々に泣き出しそうな声音になるサクの言葉に、しかしコルヴァンは表情一つ変えず、「おかしなことを」と流した。


暖炉の残り火が、彼の整った横顔と冷ややかな金色の瞳を仄暗く浮かび上がらせる。本心から何の心配もしていないようだった。どころか、彼は心労で気分が落ちるサクに呆れた様子すら見せたのだ。


「主よ、過保護も大概になさい。わたくしの魔力を受けたノクスが、獣や非力な人間に害される訳がない」


サクは俯いてしまう。さやさやと髪を梳かす銀の櫛の音だけがサクの耳に届く。コルヴァンは淡々と手を動かし続けていたが、ふと手を止め、少し考え込んだように長い指を自身の顎にあてた。


その沈黙に、少しはわかってくれたのだろうかと期待を込めてサクが振り返ると──


「しかし、これだけ帰らないのであれば。何かあったのかもしれませんな」


「何かって…!」


サクが身を乗り出すと、コルヴァンは「考えにくいことですが」と前置きした上で。


「気に入った雌でも見つけたのやもしれません」


と言ったのだ。


「めっ…!?そんな、こと…!?」


サクは言葉をつまらせた。そんなサクに、コルヴァンは美しい眉をひそめて小さく頷いた。


「ええ、ルミがいるというのに。考えにくいことですが」


ルミは、ノクスと同じくサクとコルヴァンの魔力を得て変貌した怪鳥である。彼女はコルヴァンの要素を強く受け継ぐノクスと違ってサクの影響を強く受けた子だ。サクにとってはノクスと同じくらい、愛おしい娘のような存在だった。


サクはルミとノクスを兄妹のようなものだと(勝手に)思っているので、コルヴァンのその言葉には頷けなかった。

しかし、もし本当にノクスが気に入った雌の鳥などを連れてきた時には、複雑で、寂しく思うかもしれない…そんなことを思って胸を小さく痛め、こんなことを思うのはよろしくないとかぶりをふった──


そんなことを思い出しつつ、現在。


黒薔薇の庭園で、1週間の不在ののちに帰還後、突然人化を遂げたノクスに、サクは安堵と戸惑いを覚えている。


「ねぇ、ノクス。一体なにがあったの…?」


ノクスの冷たく青白い頬を両の手のひらでつつみ、自分の方を向かせる。三日月のように歪んだノクスの瞳が、サクを見下ろす。


ふとその時、ノクスがふと鼻をひくつかせた。

バッと顔を上げて屋敷の方角を睨むように見つめる。その金色の瞳が、獲物を狙う猛禽類のように細められた。


「ギッ」


ノクスは短く鳴くと、サクからぱっと身を離し、背を向けて屋敷の方へと歩き出した。

その足取りは、羽化したばかりの人の身体とは思えないほどしなやかで、獲物を見つけた獣のように弾んでいる。


「ノクス!どこへ行くの?」


サクは慌て、その後ろ姿に声をかけた。


ずんずんと進むノクスの背中を見送って、取り残されて、少しぽかんとした後。


「…ルミに、会いに行くのかな…?」


ぽつりと呟く。不思議と、そんな予感がしていた。



屋敷の薄暗い廊下に、ノクスの足音がひたりひたりと不気味に響く。


羽化したばかりの長い手足を持て余すこともなく、彼はしなやかな獣の足取りで、獲物を探しているかのような様子だった。


「ピィ……」


ふと、微かな鳴き声と共に、廊下の先の薄闇から真珠色の小さな影が姿を現した。怪鳥ルミだ。


普段であればノクスが近づくと逃げ回る彼女だが、今日ばかりは珍しく自分から姿を見せた。

彼女もまた、長らく姿を消していたノクスのことを案じていたのだ。


しかし、目の前にいるのは黒い怪鳥ではなく、見知らぬ青白い顔の男。ルミは戸惑うように小首を傾げ、後ずさろうとした。


その瞬間、ルミを見つけたノクスの端正な顔に、にんまりと凶暴な笑みが浮かんだ。


「ギィ」


歓喜の喉鳴らしと共に、ノクスは長い腕をぬるりと伸ばした。


「ピギャッ!?」


驚いたルミが慌てて羽ばたこうとしたが、野生を忘れてサクの腕の中で眠ることが常のルミは、あまりにものろまだった。ノクスの大きく冷たい手のひらが、柔らかな身体をあっさりと捕らえた。


必死にもがくルミだったが、強靭な捕食者の手から逃れられるはずもない。ノクスは暴れる彼女を絶対に逃さないよう、しかし潰さないよう大事に大事に胸元へ抱え込むと、そのまま屋敷の深い闇の中へと姿を消した。



ノクスがまだ怪鳥の姿をしており、屋敷から姿を消す直前の夜。


ノクスは、主たちの寝室の扉のわずかな隙間から、ある光景をじっと見つめていた。


天蓋付きのベッドに横たわるサク。その小さな身体の上に、コルヴァンがゆっくりと、逃げ場を塞ぐように覆い被さっている。


交わる吐息。コルヴァンの艶やかな黒髪の隙間から、熱を帯びて赤く染まったサクの頬が見えた。そして獲物を追い詰めるような、しかし深い愛執に歪むようなコルヴァンの金色の瞳。


サクは苦しそうに、けれど甘く蕩けたような声で彼を受け入れ、コルヴァンは彼女の唇を塞いでその身に濃密な魔力を注ぎ込んでいた。


それを見たノクスの中に、強烈な本能が沸き起こった。それが何なのか、ノクスは正しく理解していた。


そしてその欲望を叶えるべく。

ノクスは静かに廊下の窓枠に降り立つと、夜霧の立ち込める森へと飛び立った。


強大な力、その糧を求めて。



屋敷の暗い空き部屋で、ノクスは手の中に捕らえたルミに、自らの魔力を注ぎ込んでいた。


かつて、コルヴァンがサクにやっていたように。


しかし、やり方は全くの別物だった。コルヴァンの魔力譲渡が、サクの身体を労りながら追い詰めるような、緻密なコントロールのもとに成り立っていたとすれば、ノクスのそれはあまりにも凶暴で、暴力そのものだった。


「ピィ……ッ、ァ……!」


濁流のような魔力を流し込まれ、ルミは熱に浮かされたように小さく声を上げてばたばたと羽を暴れさせ身悶える。


許容量を超えた魔力はルミの小さな身体を内側から焼き尽くすようだったが、その声音に混じっているのは苦痛だけではない。強力すぎる魔力に当てられ、脳髄が痺れるような悦楽が確実に滲んでいた。


「グル……」


ノクスは満足げに喉を鳴らすと、ルミを両手で包み込み、その小さなくちばしに直接己の唇を押し当て、強引に呼気と魔力を送り込み続けた。


ノクスはその部屋から一歩も出なかった。彼に捕えられたルミもまた、出ることは叶わなかった。

サクは2人が屋敷にいることはわかっていたので、ノクスが姿を消した時ほど騒ぎはしなかった。しかし、いつまでも部屋に篭りきりなふたりを案じて扉の前に立ったが、コルヴァンに諌められた。


曰く、邪魔をしてはいけません。いくらこの屋敷の主人とはいえ、淑女が巣を暴くなど──…。


そうして邪魔ものは入らなかった。

ノクスは決してルミを逃がさず、執拗に抱きしめ、狂気的なまでの魔力の蹂躙を続けること数日。


ある朝。


「ガァッ……ギ……ィ……!」


ノクスの腕の中で、ルミの身体が不気味に痙攣を始めた。


バキッ、メリメリと、かつてノクスが人化した時と同じような、骨の軋むおぞましい音が響き渡る。


「あ……あ゛っ……!」


ルミの鳥の身体が膨張し、真珠色の羽毛がぱさぱさと落ちる。

強引な魔力によって作り変えられていくその姿。細い手足が伸び、滑らかな白い肌があらわになる。


魔力の奔流が収まった時、ノクスの腕の中にぐったりと横たわっていたのは──背中に小さな白い羽を生やした、美しい銀髪の少女だった。


サクによく似た容姿だったがどこか儚く、ノクスの色に染め上げられた少女。小さな怪鳥の成れの果て。


ノクスは、熱い息を吐いてぐったりとする彼女を見下ろし、歓喜の笑みを浮かべたのだった。





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