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第三部:『松永久秀編』 第1章:「密約の刃」

死の淵で再び目を開けた時、俺はもう黒崎蓮ではなかった。

港湾の闇も、倉庫の匂いも、爆鳴の衝撃も遠くなり、代わりにあるのは歴史で知った梟雄・松永久秀の貌。

時を越えた知識と、この器の持つ野心が重なれば、戦国の盤面は違う形に描ける。

狙うは畿内ではない。

背を預け、火を点け、海を越えて四国を掌に収める。

そのための第一手は、三好長慶の首だった。

畳の目をなぞる指が震えていた。震えは恐怖ではない。生きている。

それだけで世界は眩しかった。

鼻腔の底で油煙がくゆり、遠くに潮騒の欠片。

障子の向こう、冬の光が白く滲む。


俺は黒崎蓮であった。

港湾倉庫、順序よく並んだ木箱、油紙に包まれた取引品、腹の読めぬ笑顔、そして早過ぎた爆鳴。

視界を飲み込む闇の底で、俺はもう一度呼吸を覚えた。

鏡代わりに磨かれた甲の反射に顔を寄せる。

そこにあるのは歴史で見た梟雄、松永久秀の面影。

生と死の境で着替えた器は、刃を愛し、火を嗜む形をしている。

悪くない。


使者が告げる。

「長慶様がお呼びです」。

芥川山城。

冬陽に石垣が鈍く光る。

柔和に笑う主の目は湖の底を映す。

俺は膝を折り、命を賜る。

堺の商人の滞り、山城の備え、近江との境目、どれも短く、重い。

将としては満点だ。

だが、俺は駒として盤上に長居する気はない。

駒は盤を愛さない。

盤をひっくり返す掌を探す。


堺。

海の匂いに茶の香が重なり、貨幣は音を殺して回る。

商人衆の舌は潮よりも速く、噂は早春の風よりも鋭い。

そこに繰り返し浮かぶ名がある、本願寺顕如。

病を抑え、飢えを遠ざけ、兵を整え、金を回す。

信の形を借りて物流と人心を掌に収める存在。

(良い。盤を返すには、これほどの重量が要る)


夜、路地の奥で色の落ちた灯の下、俺は僧形の案内に従い石山の奥へ向かった。

雪解けの水の匂いが廊を渡る。


灯明が揺れる座敷。

黒衣の若き法主が静かな眼でこちらを測っている。

俺は額ずき、首を上げる。

「初めてお目にかかります、本願寺顕如殿」

灯明に照らされたその顔は、肖像画で見覚えがある。若いが、骨が座っている。

「単刀直入に申しましょう。三好長慶の首、私が取って差し上げます」


顕如は目を細めた。

「見返りは?」

「長慶没後、四国の三好領はすべて私にお任せいただきたい」

彼は一拍置いてから、かすかに頷く。

「よかろう。その代わり、京と畿内の支配は私のものだ」

俺は笑みを浮かべ、深々と頭を下げる。

(互いに利を分け合うだけだ。俺は四国の扉を、あんたは畿内の鎖を)


作戦は迅速に動き出した。

顕如は物資の流れを開き、人の流れを整え、そして一団を預けてきた。

僧兵でも足軽でもない、均一な足並みと沈黙を持つ兵“実験兵”。

彼らは常人の倍の持久力を見せ、痛みへの反応が鈍く、視線に濁りがない。

息の深さは毒薬で調律された楽器のよう。

極限に追い込んでも拍動は乱れず、ただ前に進む。

(科学の匂いがする。だが俺は問わない。刃の切れ味が問答を欲しないように)


俺は“実験兵”の一分隊を自軍の補給列に紛れさせ、長慶の軍議の周辺に配置した。

名目は巡検と衛兵の増派。実際は、号令が落ちる刹那、縦横の動脈を断つ刃として。

次いで、筒井順慶の領でつつがなく進めていた撹乱を少しだけ強め、長慶を撤退させる。

退く背に、俺の手勢は藪の中から蛇のように噛み付く。


夜。

土の匂いは湿り、旗は星のない闇に沈む。

合図は鈴ひとつ。

“実験兵”が正面の幕を裂くように突入した。

槍の林を抜け、盾の列を押し分け、打たれても倒れず、倒れても起き上がる。

疫病で体を弱らせていた兵は、ただでさえ薄い灯を瞬く間に失い、列は崩れ、命令は喉元で絡まる。

背後では俺の近習が火を走らせ、退路の橋は一息で暗い川へ崩れ落ちた。

指揮の星が視界に浮かぶ。

幔幕の奥、稜の通った影、長慶。

(ここだ)


音が遠のく。

馬の嘶きだけがやけに澄む。

斬撃の手応えは薄氷を割るみたいに軽かった。

長慶の目に映るのは灯と影、影と灯、最後に、俺。

「松永か」

呼吸の隙間に、名が落ちる。俺は答えない。刃は名を要らない。

幔幕が裂け、夜風が血の匂いを散らす。

背で“実験兵”が静かに輪を狭め、味方の鬨が一歩遅れて追いつく。


明けて数日。

石山本願寺の奥。

俺は包みを開き、まだ温みの残る首級を置く。

「お約束の証にございます」

顕如は瞼を下ろし、ひと呼吸で世間のざわめきを溶かす。

「四国の三好領、委ねましょう。これで背は静かになる」

彼の声は僧の柔らかさを纏い、政の硬さを隠さない。

俺は拝し、目だけで笑う。

(背を任せるのは間違いじゃない。背が空けば前に出られる。俺も、あんたも)


この瞬間、四国は俺の地図に塗りつぶし可能な余白となった。

阿波、讃岐、伊予、土佐。

海は銀の筆で航路を描き、山は黒い脈で砦の位置を教える。

まずは旧三好の名残を刈り払い、海路と関銭を一本の数珠に通す。

賭場は人を集め、女宿は噂を寄せ、闇市は刃の材料を吸い上げる。

秩序は正義からは生まれない。

恐怖と利得が先に枠を作り、人はその内側で眠る。

前世の黒崎蓮は、それで何度も都市を動かした。

今世の松永久秀は、それでひとつの島を動かす。


夜、阿波の港に立つ。

波頭は闇の欠片を砕き、遠い松明の列は蜘蛛の巣のように光を繋ぐ。

懐で小さな鈴が鳴る。

一つは出陣の合図。

二つは諜報の報。

三つは帰らぬ者への鎮魂。

「鈴は一度だけでいい」

俺は独りごちて、掌に収めた。

死者の数を数えぬ政治だけが、長く続く。

顕如の“実験兵”の静かな足並みが脳裏で揺れる。

彼は俺を謀将と見た。

転生者とは知らない。


潮風が冷たい。

だが胸の奥には、火がある。

四国は、火であたためる。火は秩序を呼ぶ。

そして秩序は、王を呼ぶ。

俺は、その呼び声に応えるつもりだ。

顕如との密約は、四国への道を開くための契約であり、同時に互いの領分を定める一線でもあった。

だが俺にとって、その線は初めから消すつもりのものだ。

旧三好の残党を刈り、海路を固め、恐怖と利で人を縛る。

阿波から土佐までの海は交易の血脈となり、山の砦は秩序の骨となる。

顕如は俺を謀将と見たが、それでいい。

転生者であることは、四国が塗り潰されるその日まで隠しておく。

火はもう点いた。

燃やすのは、この島全てだ。

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