第26章-第34章
第二十六章
最後にクーパーウッドがバトラーと話をしてから、状況は大きく変わっていた。モレンハウワー、シンプソンと組んで市場を支えるべきであると提案がなされたときは極めて親密だったのに、残念ながら、月曜日の午前九時に、すでにもつれた状況にさらに混乱が追加され、それがバトラーの態度を完全に変えてしまった。クーパーウッドがステーネルに助けを求めていたのと同じ日の午前九時、バトラーが家を出て馬車に乗ろうとしていたとき、郵便配達人がやってきて、バトラーに四通の手紙を手渡した。バトラーはいったん足を止めて手紙をちらっと見た。一通目はオイギンスという下請け業者からのもの、二通目はセント・ティモシー教会の告解を聞いてもらっているミカエル神父からで、教区の貧困基金への寄付に対する感謝状、三通目はドレクセル商会からの預金に関するもの、そして四通目は匿名の手紙だった。明らかにあまり教養がなく、おそらくは女性と思われる人物からの、安っぽい便箋になぐり書きされたものだった。
拝啓
ここに警告します。あなたの娘のアイリーンはよからぬ男、フランク・A・クーパーウッドという銀行家とつきあっています。信じないのであれば、北十番街九三一番地の家をご覧なさい。そうすれば自分で確認できます。
署名もなければ、どこから来たのかを示すような印もなかった。バトラーは、これは指摘された番地の近くに住む誰かに書かれたものだという印象を強く持った。彼の勘は時々鋭かった。実を言うと、この手紙は、指摘されたその家の近所に住み、アイリーンとは顔見知りで、その雰囲気や境遇に嫉妬するセント・ティモシー教会の会員の少女によって書かれたものだった。その痩せた貧血気味の不満をかかえた少女は、個人的な意地悪による満足を、道徳的義務を果たした爽快感と調和させられるタイプの頭脳を持っていた。家は、通りの反対側で、表札のないクーパーウッドの家の五軒ほど北にあった。少女は時間の経過とともに徐々に事実をつなぎ合わせて空想を膨らませ、あの鋭い勘ですべてを融合しながらこの施設の意味を理解した、あるいはつかんだと思い込んだ。それは事実にとても近かった。その結果は最終的に、今、バトラーの目の前にはっきり厳然と広がるこの手紙になった。
アイルランド人は現実的でありながら哲学的でもある人種である。彼らの最初にして最も強い衝動は、悪い状況でも最大限活かそうとすることである――普通の悪い面をそれよりはましな面にすることである。この文章を最初に読んだとき、その内容はバトラーのたくましい体中に異様な悪寒を走らせた。顎が本能的に引いて、灰色の瞳が細くなった。これは本当だろうか? これが本当でなかったら、手紙の主は「信じないのであれば、北十番街九三一番地の家をご覧なさい」などと具体的なことを言うだろうか? それ自体が確かな証拠――厳しいありのままの現実――ではないだろうか? しかもこれは、昨夜自分に助けを求めてきた男――自分が散々助けてやった男だった。そのことが、もともとゆっくりとした動きのかなり精密なバトラーの思考の中に強引に入り込むと、娘の一段と魅力的なイメージ――これまでには抱いたことがないほどのかなり鮮明な映像――が浮かび、同時にフランク・アルガーノン・クーパーウッドの人柄が前よりもよく理解できるようになった。どうして自分はこの男のずる賢い本性を見抜けなかったのだろう? クーパーウッドとアイリーンの間に何かがあったとして、どうしてその兆候に気づかなかったのだろう?
親は、なまじっか歳月を過ごした安心感があるだけに、子どもに対して独りよがりな傾向がある。これまで何も起こらなかった。だから、これからも何も起こらない。親は毎日、愛情のこもった目で我が子を見ている。そして子供はそれ自体にもともと魅力があって、さらに親が強い愛情を注いだにもかかわらず、平凡で済むならまだしも、全然悪に染まらない存在になりがちである。メアリーは生まれつきいい子だ――少し乱暴だけど、この子にどんな災いが降りかかるんだ? ジョンは真面目で、しっかりした子だ――どうしてこの子がトラブルに巻き込まれるんだ? 自分の子供の悪事が突然明らかになったときのほとんどの親の驚きようは、必ずと言っていいほど哀れである。「私のジョンが! 私のメアリーが! ありえない!」しかし、ありえるのだ。十分ありえるのだ。決まってそういうものなのだ。経験や理解、あるいはその両方が不足しているためか、人によっては瞬時に態度を硬化させて厳しく当たってしまうことがある。彼らは、散々優しく尽くしてきたのにまさかこんな目に遭うとは、と感じるのである。人生――人間の不可解で不思議な現象――の危うさと不確かさが目の前に厳然と現れたのを前にして、倒れてしまう者もいる。また、人生から荒っぽく教わったり、理解力や勘、あるいはその両方に恵まれた他の者は、私たちが人生や人格と呼ぶ不可解な現象の最も新しい姿をここで見るが、余程うまく立ち回らない限りそれに立ち向かうのは無駄だと知っているので、考えられるようになるまでは、この問題にせいぜいいい顔を向けて、あがきを中断する。私たちは――考える私たちは――みんな、人生が解決不能なものだと知っている。その他の者はむなしいものを想像する。それは音と怒りに満ちていて何の意味もない。
エドワード・バトラーは機知に富み、辛い厳しい経験も豊富な人物だったが、その大きながさがさの手に自分の娘に対する恐ろしい告発が書かれた安物の薄っぺらい紙を持ったまま、玄関先に立ち尽くした。とても小さな少女だった頃の娘の映像が今脳裏に浮かんだ――初めての女の子だった――何年間もずっと自分は娘にどれほど強い思いを抱いてきたことか。美しい子供だった――赤みを帯びたブロンドの髪が何度もこの胸を枕にし、この硬いがさがさの指がその柔らかい頬を、そう、何千回も撫でたのだ。アイリーン、派手な二十三歳の愛娘! バトラーは暗い未知の不幸な憶測にふけり、今や正しいことを考えたり言ったりしたりする能力をなくしていた。何が正しいのかわからないと終いには認めざるを得なかった。アイリーン! アイリーン! 我が子アイリーン! もし母親がこれを知ったら心を痛めるだろう。知らせてはならない! 絶対に! きっとまだ知らないに違いない!
父親の胸に納めるのだ! 世界は歩き回るうちに愛情というたくさんある奇妙な脇道へ入り込んでしまう。母親が子供に向ける愛情は、支配的で、勇猛で、自分本位で、無欲である。いわば同心円なのだ。妻に向ける夫の愛情や、恋人に向ける恋人の愛情は、すてきな獲得競争の中の同意と交換取引で成立する甘い契約である。息子や娘に対する父親の愛情は、まさに愛である。大きくて、寛大で、悲しく、静観的で、見返りを考えないで与えられ、大いに警戒したい困った訪問者には挨拶と別れが告げられ、失敗には同情を寄せ達成に誇りを持ちながら、弱さと強さをバランスよく判断している。それは、愛に満ち、寛大で、冷静に物事を見つめる花なのだ。多くを求めることはなく、賢く豊富に与えることだけを追求している。「子の成功を祈る! 娘の幸せを祈る!」父親の知恵と優しさの込もったこの二つの熱い思いを聞き、いろいろ考えない人はいないだろう。
馬車でダウンタウンを走る間に、バトラーの巨大な、ゆっくりと動いている、どこか混沌とした頭脳は、フル回転して、この予想もしなかった悲しい由々しき出来事に関するあらゆる可能性を考えた。どうしてクーパーウッドは自分の妻で満足しないんだ? どうして、よりによって我が家(バトラー家)に入り込んで、こんな秘密の関係を築かなければならないんだ? アイリーンに何かの落ち度があったのだろうか? アイリーンは思慮分別がないわけではない。自分が何をしているかくらいは承知していたに違いない。敬虔なカトリックなのに、いや、少なくともそう躾けられたのに。今までずっと定期的に告解にも聖餐式にも通っていた。確かに最近バトラーは、娘があまり教会へ行きたがらず、日曜日になると言い訳をして家にいたがるのに気づいてはいたが、一応は通っていた。なのに、今は、今は――バトラーの思考は袋小路に入り込む。それから頭の中で、問題の中心へと戻って、また全部を考え直すのだ。
バトラーはゆっくりと自分のオフィスへ続く階段を上った。中に入って座り込み、思案に暮れた。十時になり、十一時になった。息子が時折、重要な問題で悩ませたが、バトラーが機嫌が悪いのに気づくと、最後には匙を投げて考え事をさせておいた。十二時になり、一時になった。クーパーウッドが来たことが告げられたときも、まだ座って考え事をしていた。
クーパーウッドはバトラーが自宅にいないのを知るとアイリーンにも会わずに、エドワード・バトラー・コントラクティング社に駆けつけた。この会社はバトラーの路面鉄道関連業務の本部でもあった。会社のフロアは普通のオフィスのように仕切られて、経理、道路管理、会計などの部門があった。オーエン・バトラーと父親は、小さいがすてきな調度品を備えたオフィスを奥に構えて、そこで会社の重要業務をすべて処理していた。
不思議なことに、ここに駆けつける間にクーパーウッドは、いろいろな人間のトラブルに先行することが多々あるあの奇妙な虫の知らせで、アイリーンのことを考えていた。自分とアイリーンのただならぬ関係と、自分がその父親に助けてもらおうと駆けつけている事実とを考えていた。階段を上るときに、よくないことが起こりそうな嫌な予感がした。しかしクーパーウッドの人生観では、そんなものは容認できなかった。バトラーを一目見て、何か様子が違うことがわかった。あまり親しみを感じなかった。目つきに険があり、クーパーウッドが記憶をたどっても、これまで一度も見せたことがなかったある種の険しさが表情に出ていた。これは単に援助を断るとか預り金の返済を求める意向とは違う何かがあるな、とクーパーウッドはとっさに察知した。何だろう? アイリーンか? それに違いない。誰かが何かを言ってきたのだ。二人が一緒のところを目撃されたのだ。まあ、たとえそうだとしても何も証明できない。バトラーは、この自分からは何の手がかりも得られないのだ。だが、彼から預かっている金は――そっちは確実に引き上げをくらうだろう。そして追加融資の件は、一言も言われないうちから、考えても無駄だとわかった。
「あなたからお預かりしているお金の件で参りました、バトラーさん」クーパーウッドはこれまでと同じ明るい雰囲気で、元気よく言った。この態度と表情からでは、クーパーウッドがこのいつもの状況から何かに気がついたとは誰にもわからなかっただろう。
バトラーは部屋にひとりっきりだった――オーエンは隣の部屋に行っていた――もじゃもじゃ眉の下からただ相手を見つめるだけだった。
「あの金は返してもらわなければならない」バトラーは無愛想に、ぼそっと言った。
娘の貞操を奪ったこの陽気で洗練された男を見ているうちに、昔ながらのアイルランド人の怒りが突然胸にこみ上げた。この男と娘のことを考える間、バトラーはかなり相手を睨んでいた。
「今朝の成り行きから、あなたが返済をお求めになるかもしれないと思ってました」クーパーウッドは震えた様子もなく静かに答えた。「底が抜けましたね」
「底が抜けたな。すぐには回復せんと思う。今日中に自分のものは自分の手にせんとならん。ぐずぐすしている余裕はないからな」
「わかりました」クーパーウッドは答えた。この状況がどれほど危険極まりないかが、はっきりとわかった。老人はむっとして不機嫌だった。自分の存在が相手の苛立ちの原因だった。どういうわけか――ひどく憤慨していた。アイリーンの件に違いない、何かを知ったか、疑っているに違いない、とクーパーウッドははっきり感じた。
仕事を急ぐふりをして、この場を切り上げるしかなかった。「残念です。先に延ばしてもらえるかもしれないと思ったんですが、そっちは大丈夫です。お金は用意できます。すぐにお届けします」
クーパーウッドは振り返って、さっさとドアまでに行ってしまった。
バトラーは立ち上がった。これを違う形で処理しようと考えていたのだ。
この男に面と向かって非難、あるいは暴行を加えようとさえ考えていた。答えざるを得ないような当てこすりか、ずばり言ってやるつもりだったが、クーパーウッドはいつものように颯爽と出て行ってしまった。
老人は慌てるやら、怒るやら、がっかりした。隣の部屋に通じる小さなオフィスのドアを開けて「オーエン!」と声をかけた。
「はい、お父さん」
「クーパーウッドのところへ人をやって金を回収しろ」
「じゃ、返済に決まったんですね?」
「そうだ」
オーエンは老人が怒っていることに困惑した。どういうことだろうと思いはしたが、父親とクーパーウッドの間で多少のやりとりがあったのかもしれないと考えた。デスクまで行ってメモを残して事務員を呼んだ。バトラーは窓際に行ってじっと外を見た。怒りと苦渋と残忍さが血管にみなぎった。
「汚らしい犬め!」低い声で独り言のように叫んだ。「あいつを終わらす前にあいつの全財産を奪ってやる。必ず刑務所に送ってやる。必ず破滅させてやる。待ってろよ!」
バトラーは大きな拳を握りしめ、歯を食いしばった。
「けりをつけてやる。思い知らせてやる。犬野郎め! 忌々しい悪党め!」
これまでの人生でバトラーはこれほど辛く残忍で無慈悲な気持ちになったことはなかった。
自分に何ができるだろうと考えながら室内を歩き回った。アイリーンに問い質そう――そこから始めようとバトラーは思った。娘の顔や唇が、自分の疑いが当たっていると告げたら、後でクーパーウッドを始末するつもりだった。今は市財務官の問題があった。クーパーウッドに関する限り、これは犯罪ではなかったが、そうなるように仕向けられるかもしれなかった。
そこで今度は、自分はちょっと街に行ったとオーエンに伝えるよう事務員に言い残して、バトラーは市街線に乗り込み自宅へと向かった。すると自宅で、ちょうど長女が出かけようとしているところに出くわした。アイリーンは、細い平らな金モールで縁取られた紫色のベルベットの外出着を着て、目立つ金と紫のターバンをかぶり、ブロンズ色のやぎ革のかわいらしい新品のブーツをはいて、ラベンダー色のスエードの長い手袋をしていた。耳には最近のお気に入りの一つである長い黒玉のイヤリングが飾られていた。このとき、この老いたアイルランド人は娘を見て、おそらくかつてないほどはっきりと、自分は珍しい羽を持つ鳥を育てたことを悟った。
「どこへ行くんだ、お前?」 不安と苦悩とくすぶる怒りを隠そうとしたがうまく隠しきれずにバトラーは尋ねた。
「図書館よ」アイリーンは簡潔に言った。それでも、とっさに父親の様子が完全におかしいことに気がついた。表情が険しく陰鬱だった。疲れて塞いでいる様子だった。
「ちょっと私の仕事部屋まで来てくれ」父親は言った。「出かける前に用事がある」
アイリーンは好奇心と驚きの入り混じった変な気持ちでこれを聞いた。外出しようとする自分を呼び止めて仕事部屋で会いたがるのはいつもの父親らしくなかった。この時の父親の態度からすると、この異例な対応は何か予期せぬことを明らかにする前触れだった。当時の厳しい社会の慣習を破った他の人たちと同じで、アイリーンは露見後にありうる悲惨な結果を意識して神経質になった。自分がしていることを知ったら家族はどう思うだろうとよく考えたが、家族がどう思うかについては自分でもわからなかった。父親はとても血気盛んな男だった。父親が自分や他の家族の者にひどいとか冷たい態度をとった例をアイリーンは知らなかった。とりわけ自分に対してはなかった。父親はいつも自分のことが大好きでたまらなかったから、何があろうと完全に仲違いすることはなさそうだった。しかし確信までは持てなかった。
階段をのぼるとき、バトラーはその大きな足をしっかり踏みしめるようにして踏み段を進んだ。アイリーンは廊下にある縦長の大きな鏡に映った自分の姿を一瞥して、自分がいかに魅力的に見えるかと、この後の展開を自分がどれほど不安に感じているかを同時に理解して後に続いた。父親はどんな用があるのだろう? 父親の用向きを考える間、一時的にアイリーンの頬の血の気がひいた。
バトラーはむさ苦しい部屋に入って大きな革の椅子に座った。その椅子は部屋の他のものとは不釣り合いだったが、机にはぴったりだった。バトラーの前の、光が当たる位置に、来客用の椅子があった。バトラーはじっくり顔を見定めたい来客をそこに座らせるのが好きだった。アイリーンが入ると、バトラーはそっちへ促して「そこへ座れ」と言った。これもまたアイリーンには不気味だった。
父親が何をしようというのかわからないままアイリーンは腰かけた。その瞬間に、どんなことがあってもすべてを否定するとクーパーウッドと交わした約束がよみがえった。父親があの件で自分を攻めようとするなら、満足な結果を得ることはないとアイリーンは思った。フランクにそう約束したのだ。かわいらしい顔が瞬時に強張って表情が硬くなった。小さな白い歯がきれいに二列に並んでいた。娘が何らかの攻撃に備えて意識的に気を引き締めているのが父親にははっきりとわかった。これによってバトラーは娘が有罪なのだと思った。バトラーはかえって苦しみ、恥入り、憤慨し、不幸が極まった。コートの左のポケットを探って、いろいろな書類の中から、材質がとても安っぽいあの運命の手紙を取り出した。小さな封筒から便箋を取り出して、一言も発しないまま広げる間、まるで震えているように大きな指は作業を続けた。父親がここに持っているものは何だろうと思いながらアイリーンは、父親の顔と手を見つめた。バトラーは大きな手で小さな手紙を手渡し「読んでみろ」と言った。
アイリーンはそれを受け取った。紙に視線を落とせるので一瞬ほっとした。しかしすぐに視線を上げて父親の顔を見なければならないことに気がつくと、その安心は瞬時に消えた。
拝啓
ここに警告します。あなたの娘のアイリーンはよからぬ男、フランク・A・クーパーウッドという銀行家とつきあっています。信じないのであれば、北十番街九三一番地の家をご覧なさい。そうすれば自分で確認できます。
自分でも気づかぬうちに、たちまち頬から血の気が引いたが、熱い反動の波となって戻っただけだった。
「よくもこんな嘘を!」アイリーンは父親の目を見据えながら言った。「あたしのことをこんな風に書くなんて! どういうつもりかしら! とんだ恥さらしだわ!」
バトラー老人は細めた厳しい目で娘を見た。バトラーは娘の虚勢なんぞにだまされなかった。本当に潔白だったら、娘は反発して跳ね起きただろうと見ていた。抗議は娘の全身に記されただろう。なのに、このとおり、偉そうにただ見つめるだけだったとは。バトラーは娘の果敢な反抗的態度から有罪を確信した。
「お前はお父さんがその家を監視しなかったとどうしてわかるんだ?」バトラーは疑問を呈するように言った。「お前は自分がそこに入って行くところを見られなかったとどうしてわかるんだ?」
恋人と交わした固い約束だけがこの巧妙な突き上げからアイリーンを救うことができた。この通り、アイリーンは緊張して真っ青だったが、威厳と品格を備えたフランク・クーパーウッドが、もし捕まったら何て言うんだいと自分に問いかける姿が見えた。
「そんなの嘘よ!」呼吸を整えながらアイリーンは言った。「あたし、そんな住所の家には行ってないもの。あたしが入るところなんて誰も見るもんですか。よくもあたしにそんなことが聞けるわね、お父さん?」
バトラーは娘が有罪であることに不安と揺るがぬ確信とが入り交じる複雑な心境だったが、娘の勇気には感心せずにいられなかった――そこに座っている間も、娘は反抗的で、嘘をつきとおしてあくまで自分を守る覚悟だった。アイリーンの美しさは、父親の不機嫌を和らげ、自分の評価を高める役目まで果たした。結局、こういう女性はどう扱えばいいのだろう? アイリーンはもう、父親が未だに時々思い描くことがあるような十歳の少女ではないのだ。
「事実じゃないことは言ってはいけないよ、アイリーン」バトラーは言った。「嘘をついては駄目なんだ。それは信仰に反するからね。もしこれが事実でなかったら、どうして誰かがこんな手紙を書くのかね?」
「でも、事実じゃないもの」アイリーンは怒りや憤慨を装って言い張った。「そんなところに座ってあたしにそんなことを言う権利がお父さんにあるとは思わないわ。あたしはそんなところへ行ったことありません。それにクーパーウッドさんとだってつき合ってなんかいないわ。だって、社交の席以外ではほとんど知らない方なのよ」
バトラーはしみじみと首を振った。
「お父さんはね、ひどいショックを受けたんだ。本当に、ひどいショックだったんだ」バトラーは言った。「お前がそう言うなら、お父さんはお前の言うことを信じるよ。でもね、お前が嘘をついているなら、お父さんは悲しいことだって考えざるを得ないからね。その家を見張ったことはないんだ。これは今朝受け取ったばかりだからね。それに、ここに書かれたことは事実ではないかもしれない。事実でないといいんだけどね。でも、もうこれ以上こんなことを言い合うのはよそう。もしそこに何か事情があって、お前がまだ救いがたいほど遠いところまで行ってないのなら、お前は、お母さんや妹や兄さんたちのことを考えて、いい子でいてほしいんだ。自分が育った教会のことや、世の中に出ても堂々としていられる家名のことも考えないとね。だって、もしお前が何か悪いことをしていて、それをフィラデルフィアの人たちが知ったら、いくら街が大きいといっても、とてもじゃないがここにはいられなくなるからね。お前の兄さんたちはここで評判を築いて仕事をしなければならないんだからね。お前だってお前の妹だっていつかは結婚したいだろう。この手紙に書いてあるようなことをお前がしていたら、どうやって世間に顔向けして何かをやれると思うんだい。お前のことが言われてただろ?」
老人の声は、いつにない、悲しい、彼らしくない感情の高ぶりのせいでかすれていた。娘がやましいことをしているとわかっていてもその事実を信じたくなかった。積極的で信心深い態度で自分の義務だと感じていることに、つまりは娘を厳しく責め立てることに、直面したくはなかった。ある者は娘を追い出すだろう。人によっては人知れず調べあげた末に、クーパーウッドを殺すかもしれない。こういう展開は自分らしくない。自分が復讐するとしたら、政治と金の力でやらねばならない――あいつを駆逐しなければならない。しかし、アイリーンをひどい目に遭わせる行動は考えられなかった。
「ねえ、お父さん」アイリーンはかなりの演技力ですねたふりをして答えた。「あたしに非がないと知っててよくもこんなことが言えるわね? あたしがそう言ってるでしょ?」
老いたアイルランド人は、深い悲しみに暮れながら娘の偽装を見破った――自分が一番大切にしていた望みの一つが砕かれたのを感じていた。娘が立派な社会人になって幸せな結婚をすることに大きな期待を寄せていた。一ダースはいる優秀な若者の誰かと結婚したかもしれないし、かわいらしい子供を産んで老後の自分を慰めてくれただろうからだ。
「もうこれ以上この話はするのはよそうや」バトラーは疲れたように言った。「お前はこの何年もずっとかけがえのない娘でいてくれたから、お父さんはお前の悪い話なんか信じられないんだ。信じたくないんだよ。だが、お前はもう大人の女性だ。もし何か悪いことをしていても、お父さんじゃそれをやめさせようにも大したことはできないと思う。もちろん、多くの父親がそうするように、お前を追い出すというものいいかもしれん。でも、お父さんはそんなことはしたくないんだ。だが、もしお前が何か悪いことをしているのなら」――アイリーンが抗議しようとするのをバトラーは手を挙げて制止した――「覚えておくことだ、いずれはきっとお父さんがそれを見つけ出す。それに、フィラデルフィアはお父さんと、お父さんにこんなことをしたやつがいられるほど広くはないんだ。必ず思い知らせてやる」バトラーはそう言って大袈裟に立ち上がった。「思い知らせて、その暁には――」バトラーは怒りの形相を壁に向けた。アイリーンは、クーパーウッドが今抱えている他の問題に加えて、自分の父親まで相手にしなければならなくなったことをはっきりと理解した。昨夜、フランクが厳しい目であたしを見たのはこのせいかしら?
「ちょっとでもお前を悪く言うものがいると思っただけで、お母さんなら心労で死んでしまうぞ」バトラーは震える声で追い打ちをかけた。「この男には家族がいるんだ――妻子がな。お前だってその人たちを傷つけたくはないはずだ。もしお父さんの見立てに狂いがなければ、あの家族は大変なことになる――これから起こる問題と向き合わねばならないんだからね」バトラーの顎に少しばかり力が入った。「お前は美しい娘だ。若いし、金もある。お前を妻にして自慢したがる若者は大勢いるんだ。何を考え、何をするにしても、自分の人生を粗末にするなよ。先々に汚名を残しちゃいかん。お父さんを絶望させないでくれ」
アイリーンは――決して心が貧しいわけではなく、愛情と情熱が入り混じった愚か者なだけに――今にも泣きそうだった。アイリーンは心から父親に同情した。しかしクーパーウッドへ誓いを立てていて、その忠誠は揺るがなかった。何かを言いたかった。もっと抗議をしたかった。しかし無駄だとわかっていた。父親は、自分が嘘をついていることを知っているのだ。
「もうこれ以上何を言っても無駄ね、お父さん」アイリーンは立ち上がりながら言った。窓の日差しは弱くなっていた。下の階でドアが小さな音をたてて閉まった。兄の一人が帰って来たのだ。図書館に行こうと思っていたが、すっかりそんな気分ではなくなっていた。「どうせ信じてはもらえないでしょうけど、言っておきます。あたしは身に覚えがありません」
バトラーは黙れとばかりに大きな茶色い手をあげた。アイリーンは、父親の言う恥ずかしい関係がバレてしまい、腹立たしい話し合いが今終わったことを知った。アイリーンは振り返り、恥ずかしそうに出ていった。廊下を自分の部屋へ向かう娘の足音が小さくなって聞こえなくなるまでバトラーはじっとしていた。それから起き上がって、再び大きな拳を握りしめた。
「悪党め!」バトラーは言った。「悪党めが! たとえ有り金全部をはたいてでも、あいつをこのフィラデルフィアから追い出してやる」
第二十七章
クーパーウッドは生まれて初めて、あの興味深い社会現象――親の怒りの感情――を目の当たりにしたと自覚した。なぜバトラーがあんなに激怒したのか完全にはわからなかったが、アイリーンが原因だとは感じた。クーパーウッド自身が父親だった。息子のフランク・ジュニアはあまりクーパーウッドの注意を引かなかった。しかし、華奢で小さな細い体をした、頭に明るい後光が差す娘のリリアンは、いつ見てもかわいらしかった。いつか魅力的な女性になると思い、無事に独り立ちするまでいろいろなことをしてあげるつもりだった。よく娘に「ボタンのような目」「子猫のような足」をしているねとか、手は小さいから「五セントの価値」しかないねと話しかけた。子供の方でも父親を慕い、書斎や居間では椅子、仕事部屋では机、食卓では席のそばに立ってよく質問をした。
娘が自分に向けるこの態度は、バトラーがアイリーンにどういう感情を抱いているかをはっきりと教えてくれた。クーパーウッドはこれがもし自分の娘のリリアンだったらどう感じるだろうと考えたが、それでも娘がアイリーンと同じ年頃だったら、自分や娘がそんなことに大騒ぎするとは思わなかった。いずれにせよ、子供も子供の人生も、親の意思ではどうにもならなかった。子供が生まれつき従順で管理されたがらない限り、どんな親でも子供に言うことを聞かせるのは大変な事だった。
運命が自分に難題を降り注いでいるのを見て、クーパーウッドはまた苦笑いするしかなかった。シカゴの大火、出だしのステーネルの不在、ステーネルと自分の運命に対するバトラーとモレンハウワーとシンプソンのつれない態度。そして今度はアイリーンとの関係が発覚したのかもしれない。まだ確信はできなかったが、鋭い勘が、きっとそれに違いないと語っていた。
もし父親に不意打ちをくらったらアイリーンはどうするだろうとクーパーウッドはふと悩んだ。せめてアイリーンに連絡でもつけられればいいのだが! しかし、バトラーから預かっている金の返済や、今日明日にも来るであろう他の催促に応じるのなら、一刻の猶予もならなかった。もし支払わなかったら、すぐに管財人に権利を譲渡しなければならないのだ。バトラーの怒りも、アイリーンも、自分の危険も、ひとまず脇に追いやられた。全神経が集中して、我が身を救うにはどう資金繰りをすればいいのかを考えた。
駆けつけた先は、ジョージ・ウォーターマン、妻の兄で今はかなり順調にいっているデビッド・ウィギン、過去に取引をしたことがある裕福な日用雑貨店主のジョセフ・ジマーマン、かなり裕福な一介の相場師のジャッジ・キッチン、地元の路面鉄道株などに関心を持つ州財務官フレデリック・ヴァン・ノーストランドなどだった。当たってはみたものの、一人は到底彼のために何かをする状態にはなく、もう一人は恐れをなし、三人目は熱心に計算してとことん値切ろうとし、四人目はあまりに慎重でたっぷり時間を持ちたがった。全員がクーパーウッドの実情を嗅ぎつけ、考える時間を欲しがったが、クーパーウッドには考える時間がなかった。ジャッジ・キッチンは三万ドル――はした金――を貸すことに同意した。ジョセフ・ジマーマンは二万五千ドルのリスクしか負うつもりはなかった。金額の二倍の株を担保にすれば、全部で七万五千ドル調達できるかもしれないとわかったが、それでも全然足らなかった。もう一度一ドルに至るまで計算した。今ある分全部とその上に少なくとも二十五万ドルがなければならなかった。さもなければ店を閉めなければならなかった。明日の二時には判明する。もし金ができなければ、フィラデルフィア中の元帳に「破産」と記載されてしまうのだ。
最近あんなに期待が高かった人なのに大変なことになったものだ! ジラード・ナショナル銀行から十万ドルを借りていたが、それだけは何としてでも返済したかった。この銀行はこの街で最も重要な銀行だった。ここの融資を期日通りに返済してこの銀行の信用をつなぎとめることができれば、何があろうが将来引き立ててもらえる希望を持てるかもしれなかった。このときクーパーウッドはまだ、自分に何ができるのかわからなかった。しかし考えた末に、ジャッジ・キッチンやジマーマンたちが引き受けると同意した株を引き渡してしまい、今夜のうちに小切手か現金を受け取ろうと決めた。それから、今朝、取引所で購入した六万ドル分の市債の小切手を渡すようにステーネルを説得するつもりだった。そこからその銀行へ返済する二万五千ドルを取っても、まだ手もとに三万五千ドルも残こせるのだ。
この取り扱いには難点が一つあった。これをやることにより、クーパーウッドはこの同じ証書でかなり複雑な問題を発生させていた。午前中に購入して(午後の一時半までにオフィスに届けられていたのに)それを本来あるべき減債基金に入れるどころか、すぐに別の融資を守るための担保に使ってしまったのだ。破産する恐れがあり、期日内に取り戻せる絶対の自信がないことを考えれば、こんなことをするのは危険だった。
しかしクーパーウッドの理屈でいくと、彼には、市財務官と結んだ(もちろん違法な)労働契約があった。それだと、こういう取引がまかり通ってしまい、たとえ彼が破産したとしてもほとんど問題にならないのだ。しかも、口座は月末まで清算される必要がないことになっていた。もし彼が破産して証書が減債基金になくても、ありのままに、自分は時間をかける習慣があるので失念していたと言えばいいのだ。したがって、この預け入れしていない証書の小切手をもらうことは、法的にも道徳的にも正しくないのに技術的にはできてしまうのだ。市の損失が六万ドル増えるだけだった――全部で五十六万ドルになる。市が五十万ドルの損失を出すかもしれないことを思えば、そう大した違いではなかった。しかし今回ばかりは持ち前の慎重さが窮状と衝突した。そこでクーパーウッドは、権利として請求したのにステーネルが最終的に三十万ドルの追加支援を拒むまでは小切手を要求しないことに決めた。どうせステーネルはこの証書が減債基金の中にあるかないかを尋ねようとはしないだろう。もし相手が尋ねたら、嘘をつくしかない――それだけのことだった。
急いで会社に戻ると、予想したとおりバトラーのメモを見つけたので、父親の銀行宛に愛する父親がせっかく口座に入金してくれた十万ドルを使う小切手を書いて、バトラーのオフィスに届けた。もう一つは、ステーネルの秘書のアルバート・スターズからの、これ以上市債を売買するなという――追って通知があるまでは当該取引は認めないと通知する文書だった。クーパーウッドはすぐにこの警告の出所を察知した。ステーネルは、バトラーかモレンハウワーに相談して、警告を受け、恐れをなしたのだ。それでも、クーパーウッドは再び馬車に乗り込み、市の財務官事務所に直行した。
クーパーウッドの訪問後に、ステーネルはセングスタックや、ストロビクたちや、金融活動に対する適切な恐怖心を彼の心に植え付けておこうと派遣されたみんなと話し合いをした。その結果は、明らかにクーパーウッドの話とは反対のものだった。
ストロビクもかなり参っていた。ストロビクとウィクロフトとハーモンも市の公金を使っていた――クーパーウッドのような金の使い方を思いつかなかったから、もちろん額はもっと少なかった――彼らも嵐が始まる前にどうやって借りたものを返そうか悩んでいた。もしクーパーウッドが破産してステーネルが会計処理で不足金を出せば、会計全体が調査されるかもしれない。そうなれば自分たちの借金も明るみに出てしまう。やるべきことは自分たちが借りたものを返すことだった。そうすれば少なくとも不法行為で罪に問われることはなかった。
クーパーウッドがステーネルのオフィスを出た後すぐにストロビクが忠告した。「モレンハウワーのところに行って全部話してこい。お前がここにいるのはあの人のおかげなんだ。お前の指名に力添えしてくれたんだからな。自分の状況を説明して指示を仰ぐんだ。多分教えてくれるだろう。自分が持ってるもんを差し出して助けてもらうんだな。そのくらいのことはしないと。自分じゃ、どうにもならないんだろ。どんなことがあってもクーパーウッドにはもう一ドルも貸すんじゃないぞ。あいつがこうして深みにはめたからお前は抜け出したくても抜け出せないでいるんだからな。クーパーウッドがあの金を戻せるように助けてもらえないかモレンハウワーに聞いてみろ。モレンハウワーならあいつにも影響力を及ぼせるかもしれないぞ」
この会話の中でもう一度同じことを言うと、ステーネルはモレンハウワーのオフィスへと一目散に駆け出した。ステーネルは呼吸もままならないほど怯え、このドイツ系アメリカ人の資本家であり指導者の前にひざまずかんばかりだった。ああ、モレンハウワーさんだけが頼りだ! 刑務所に行かずに済めばいいんだが!
「ああ、主よ! ああ、主よ! ああ、主よ!」ステーネルは歩く間に何度も自分に言い聞かせるように繰り返した。「私はどうすればいいのでしょうか?」
恐ろしい政界のボス、ヘンリー・A・モレンハウワーの態度――厳しい訓練過程で培われたもの――は、まさにこのような厳しい環境にいる誰でもが持つ態度だった。
バトラーの話を聞いて、この状況をどれだけ自分に有利にできるかを考えていた。できれば、ステーネルが今持っている路面鉄道株を、自分がまったく不利にならないように手に入れたかった。ステーネルの株は、モレンハウワーのブローカーを使えば取引所で簡単にダミーに移し替えることができ、最終的にそこから自分に移し替えることになる。しかしステーネルのことは今日の午後のうちに完全に絞り上げねばならなかった。市への五十万ドルの彼の負債について何ができるか、モレンハウワーにはわからなかった。クーパーウッドが返済できなければ市は損害を被らねばならなくなる。しかし選挙が終わるまで、このスキャンダルは表沙汰にならないようにしなければならなかった。党の各指導者たちがモレンハウワーが想像する以上に寛大でない限り、ステーネルはさらし者にされ、逮捕され、裁判にかけられ、財産を没収され、おそらくは刑務所に送られるかもしれない。しかしいったん世間の騒ぎが収まれば、簡単に知事に減刑させられるかもしれない。クーパーウッドが犯罪に関与しているかどうかまではわざわざ考えようとしなかった。百に一つも該当するまい。ああいう抜け目のない男は、自分のやることに抜かりはないのだ。しかし、もしクーパーウッドに責任を負わせて、財務官と党関係者の汚名をそそぐ方法が何かあるのなら、それに反対するつもりはなかった。まずはステーネルとブローカーの関係の全容を聞きたかった。その一方でやらねばならないのは、ステーネルが譲り渡さなければならないものを手に入れることだった。
モレンハウワー氏の前に現れたこの困り果てた市財務官は、たちまち力が抜けて沈むように椅子に崩れ込んだ。精神が完全に参っていた。神経はすり減り、勇気は息をはくようになくなった。
「どうしました、ステーネルさん?」モレンハウワー氏は用件がわからないふりをしながらもったいつけて尋ねた。
「クーパーウッドさんに行った融資の件で参りました」
「ほお、それはどういうことでしょう?」
「実は彼は私に、いや、市に五十万ドルの負債があるのですが、破産しそうで返済できないことが判明したんです」
「どなたからそんなことをお聞きになったんですか?」
「セングスタックさんです。その後でクーパーウッドさんが会いに来ました。もっとお金がないと破産する、あと三十万ドル借りたいと私に言うんです。どうしても要ると言うんです」
「ほお!」モレンハウワー氏はもったいつけて、驚いてもいないのに驚いた様子で言った。「まさか、そんなことをしようとは思ってませんよね。何ともひどいことに巻き込まれたもんだ。もし相手が理由を知りたがったら、私の名前を出しなさい。もう一ドルだってそいつに貸しては駄目ですよ。もしそんなことをしてこの件が裁判にでもなったら、どこの裁判所もあなたに寛大な措置を講じてはくれませんからね。このままだとあなたのために何かをするのは難しいんです。しかし、もしこれ以上そいつに肩入れしないのであれば――確認してみましょう。できるかもしれない、断言はできませんが。しかしいずれにしても、今後一切このひどいことに市の金を注ぎ込んではいけません。今でさえ手に負えないのにね」モレンハウワーは警告するようにステーネルを見つめた。そして、モレンハウワーの発言にかすかに慈悲を伺わすものがあったため、ステーネルは体を震わせ、すがらんばかりに、椅子から滑り落ちるようにしてひざまずき、聖像の前の信者のような拝むような姿勢で両手を組んだ。
「ああ、モレンハウワーさん」ステーネルは息をつまらせて泣き出した。「私は何も悪いことをするつもりはありませんでした。ストロビクとウィクリフが大丈夫だと言ったんです。そもそもあなたが私をクーパーウッドのところへ行かせたんですよ。私は、他の人がやってると思ったことをやっただけなんです。私がやってたのと同じようなことをボーデさんがやったんです。ティグ商会を相手にです。私には妻と四人の子供がいます、モレンハウワーさん。一番下の子はまだ七歳なんです。家族のことを考えてください、モレンハウワーさん! 私が逮捕されたら家族がどうなるか、考えてください! 刑務所に行くなんてご免です。自分がそんな悪いことをしているとは思わなかったんです――正直、思わなかったんです。手に入れたものはすべてあきらめます。もし私をこの窮地から救っていただけるのでしたら、株も家も土地も――何もかも――すべて差し上げます。まさか私を刑務所へ送らせたりはしませんよね?」
ステーネルの分厚い白い唇は震えていた――神経質に揺れていた――大きな熱い涙が、さっきまで青白かったが今は紅潮している頬を伝っていた。ステーネルは到底信じられない姿を披露した。しかしそれでも非常に人間的でありとてもリアルだった。一度でいいから政財界の大物が、自分たちの生活の実態をつまびらかにしてくれたらいいのだが!
モレンハウワーは冷静に、考えながら、相手のことを見た。自分ほど不誠実ということはないが、勇気も知恵もない弱者が、こうして、といっても正確にはひざまずきはしないが、よくよく考えればそうしたも同然の態度で、自分に頼み込む姿をモレンハウワーは何度見ただろう! かなりの実用的知識と洞察力を持つ他のすべての人たちと同じように、モレンハウワーにとって人生とは不可解なもつれだった。では、社会のモラルや戒めはどうなるのだろう? このステーネルという男は、自分は正直者ではない、モレンハウワーこそが正直者だと考えた。しかもここで、自分の罪を認め、まるで正しい汚れのない聖人に向かってするようにモレンハウワーに向かって申し開きをしていた。実際、モレンハウワーの方では、自分がただ相手よりも抜け目がなく、先見の明があり、計算高いだけであり、正直ではないことにかけても引けは取らないことを知っていた。ステーネルに欠けているのは力と知力でありモラルではなかった。この欠落が彼の大きな罪だった。正しさについてある種の難解な基準を――実生活とは完全に、あるいはかなりかけ離れたある種の行動の理想を――信じる人たちがいた。しかし彼だって、そういう人たちが、経済的(道徳的ではない――彼はそんなこと言ったりはしない)破滅に向かう場合でもなければ、それを実践するのを見たことがなかった。人間は、こういう愚かな理想に固執する、重要な、現実に即した者ばかりではなかった。いつだって、貧しくて、何のとりえもない、無視してもいい夢見がちな存在だった。もしも理解させたかったとしてもステーネルにこれを理解させることは彼でもできなかったし、させたくもなかった。ステーネルの妻子にすればとんだ災難だった。亭主と同じように、ステーネル夫人だって一生懸命働いて世の中で成功して、惨めな貧乏人より少しでもましなものになろうとしていたに違いない。それが今、この不幸な災難――シカゴ大火――が勃発して一家を振り出しに戻してしまった。不思議なことがあったものだ! もし他でもない何かがきっかけで、彼が親切で支配的な神の存在を疑うようになったとしたら、それは、経済、社会、何から何まで、多くの人々に、破滅と災厄をもたらした青天の霹靂ともいえるあの何の前触れもなった嵐のせいだった。
「立ってください、ステーネル」しばらくしてから、モレンハウワーは静かに言った。「こんな風に感情的になっちゃいけませんよ。泣くのはやめてください。泣いたからって、この問題が解決するわけじゃないんですから。少しは自分で考えなければいけません。もしかしたら、あなたの状況はそんなに悪くはないかもしれませんよ」
モレンハウワーが話す間、ステーネルは椅子に座り直して、ハンカチを取り出し、絶望に暮れて泣きじゃくっていた。
「私にできることはしますよ、ステーネル。何も約束するわけにはいきませんがね。結果がどうなるかはわからないけど、この街には一風変わった政治の力がたくさんあるんですよ。あなたを救うことはできないかもしれないけど、しっかり挑戦してみます。だから、あなたは絶対に私の指示どおりにしないといけませんよ。最初に私に相談もしないで、何かを言ったり行動したりしてはいけません。時々そちらに私の秘書を行かせますよ。あなたが何をすればいいかは秘書がお知らせします。私が使いを出さない限り、あなたはここへ来てはいけませんよ。全てわかりましたか?」
「はい、モレンハウワーさん」
「さあ、涙をおふきなさい。泣きながらこのオフィスを出て行ってほしくはないですからね。オフィスにお戻りください。あなたに会いにセングスタックを派遣します。あなたがやるべきことは、彼が指示します。きちんとその指示に従ってください。そして、私が使いを出したら、すぐに来てくださいね」
モレンハウワーは立ち上がった。大きくて、自信満々で、よそよそしい態度だった。ステーネルは、相手の言葉の巧みな励ましに気を良くして、いくらか落ち着きを取り戻した。モレンハウワーさんが、あのすごい実力者のモレンハウワーさんが、この窮地から自分を助け出してくれるんだ。結局、刑務所には行かなくてすむかもしれない。少しすると、泣きはらした顔が少し赤かったが、それ以外は何の痕跡もなくなったので、ステーネルはオフィスに戻った。
四十五分後に、セングスタックがその日二度目の訪問をした。アブナー・セングスタックは小柄で、顔の色が黒く、足が内側に曲がっていて、短い不自由な右足の下には厚さ三インチの大きな革の靴底があった。少しスラブ系で、知性の高そうな顔には、鋭い、射抜くような、謎めいた黒い目が二つギラギラしていた。セングスタックはモレンハウワーにぴったりの秘書だった。セングスタックならステーネルをモレンハウワーの言いなりに動かせるとひと目でわかった。彼の仕事は、ステーネルを誘導して彼の路面鉄道株をすぐに手放させて、バトラーのブローカーのティグ商会を使って、最終的にモレンハウワーに株を移し替えることになる政治的な副代理人に引き渡すことだった。それと引き換えにステーネルが受け取ったわずかばかりの金は、市の金庫に戻るという寸法だった。ティグ商会は、他の誰にも競り合うチャンスを与えず、同時に公開市場での取引であるように見せかけながら、これがいかにも「取引」だったかのようにうまく処理するのである。同時にセングスタックは、主人のために財務官のオフィスの内情を入念に調べた――ストロビク、ウィクロフト、ハーモンが借りた金で何をしていたのかを突き止めていた。彼らは別口からも直ちに返済するよう命じられていて、それをしなければ起訴だった。彼らはモレンハウワーの政治組織の一部だった。そしてステーネルに、残りの財産を誰にも渡さないこと、誰の言うことにも耳を貸さないこと、中でも特にクーパーウッドの口車には乗らないことを警告して、セングスタックは立ち去った。
言うまでもないが、モレンハウワーはこの展開に大喜びだった。クーパーウッドは今、自分に会いに来なければならない状況に陥っている可能性が高かった。そうでなくても彼が管理していた資産の大半はすでにモレンハウワーの手中にあった。もし何らかの手段で残りを確保できれば、シンプソンとバトラーがこの路面鉄道事業のことで自分に相談に来るかもしれなかった。最大とまではいかないにしても、彼の持ち株は今や誰とでも張り合えるほどの規模だった。
第二十八章
月曜日の午後遅くクーパーウッドがステーネルのオフィスに到着したのは、この一変した状況の最中だった。
ステーネルは独りぼっちで不安にさいなまれ取り乱していた。クーパーウッドに会いたかったのだが、それはそれで怖かった。
「ジョージ」クーパーウッドは会うが早いか元気に話し始めた。「今、あまり時間がないのですが、最後に言いに来ました。もし私に破産してほしくないのなら、あと三十万ドル貸してください。今日はとてもひどい状況なんです。あいつらは借入金を標的にして私を窮地に追い込みました。でもこの嵐は長く続きません。続きっこないのはその性格からおわかりでしょ」
クーパーウッドはステーネルの顔を見て、恐怖と、苦痛と、反対を示さねばならない覚悟がそこに記されているのがわかった。「シカゴは炎上中ですが再建するんです。商業活動だって後々ずっとよくなるでしょう。さあ、合理的に考えて私を助けてください。恐れちゃいけませんよ」
ステーネルは不安で震えた。「あんな政治家の脅しで犬死にするのはおよしなさい。数日後には全部吹き飛んで、我々の状況は今までよりも良くなりますよ。モレンハウワーに会ったんですか?」
「うん」
「で、向こうは何て言いました?」
「こういうことを言うだろうと私が思った通りのことを言ってたよ。こういうことをするなってね。だから無理だって言ってるでしょ、フランク!」ステーネルは跳び上がって叫んだ。この短い直談判の間ですら席にじっとしていられないほどステーネルはひどく神経質になっていた。「無理だよ! 万事休すなんだ! 向こうはどこまでも追ってくるよ! 我々がしてきとことをみんな知ってるからね。ねえ、フランク」――ステーネルは両腕を振り上げた――「私をここから出してくれよ。あの五十万ドルを私に返して私をここから出してよ。もしきみが返さないで破産でもしたら、向こうは私を刑務所に送る気なんだ。私には妻と四人の子供がいるんだよ、フランク。こんなこと、続けられないって。私の手には負えないんだ。そもそもこんな話に乗るべきじゃなかった。ある意味じゃ、きみが説得さえしなかったら絶対にしなかったよ。始めたときは、まさかこんなにひどい目に遭うとは思ってなかったんだ。もう続けられないよ、フランク。無理だ! 私の株はみんな、きみにあげるからさ。あの五十万ドルさえ返してくれれば、それで貸し借りなしでいいからさ」話をするうちに興奮してステーネルの声は高くなった。濡れた額を手で拭きながら、頼み込むように、馬鹿みたいに、クーパーウッドを見つめるのだった。
クーパーウッドはしばらくの間冷たい無表情な目で相手を見つめ返した。クーパーウッドは人間の本質を熟知していた。特にパニックの時に人の態度は妙な変わり方をすると予期して覚悟はしていたが、このステーネルの変わりようはあまりにも極端だった。「私が会った後であなたは他に誰と話をしたんですか、ジョージ? 誰に会ったんですか? セングスタックがどんなことを言ったんですか?」
「モレンハウワーと同じことだよ。どんなことがあってもこれ以上お金を貸してはいけないとか、できるだけ早くあの五十万ドルを返すようにきみに言えとかだよ」
「すると、あなたはモレンハウワーがあなたを助けたがっていると考えてるんですか?」声に色濃く出てしまう軽蔑の響きを消すのは大変だと思いながらクーパーウッドは尋ねた。
「そりゃあ、思ってるさ。もしあの人が助けてくれなかったら他に誰が助けてくれるかわかんないよ、フランク。あの人はこの町の大物の有力な政治家の一人だからね」
「いいですか」相手をじっと見すえながらクーパーウッドは始めた。やがて一息ついた。「あなたの持ってる株についてはどうしろと言いましたか?」
「それをきみが引き取る気がないようなら、ティグ商会を使って売ってしまい、その金を金庫に戻せって」
「誰に売るんですか?」ステーネルの最後の言葉を考えながらクーパーウッドは尋ねた。
「取引所で買ってくれる人なら誰でもいいでしょう。私にはわからないよ」
「そんなことだろうと思った」クーパーウッドは納得したように言った。「自分でもわかっていたことかもしれない。向こうはあなたを利用してるんですよ、ジョージ。ただあなたから株を取り上げようとしてるだけなんです。モレンハウワーがあなたにそう仕向けているんですよ。向こうは、私があなたの望みどおりにできないこと――五十万ドルを返せないことを知ってるんです。自分が拾えるようにあなたにマーケットで株を売らせたがってるんですよ。きっととっくに手配は済んでますね。あなたがそんなことをしたら、もうあいつは私をつかまえた、いや、つかまえたと思うでしょう――あいつとバトラーとシンプソンはね。あいつらはこの地元の路面鉄道の問題で手を組みたがってますからね。わかってるんです。ひしひしと感じますよ。そうなることをずっと感じてたんです。モレンハウワーはあなたを助けるどころか飛んで逃げていきますよ。あなたが株を売ったとたんに、あいつはあなたと手を切ります――必ずね。あなたがこの路面鉄道と関係がなくなってもなお、あなたが刑務所に入らずに済むように、あいつが手を回してくれると思うんですか? あいつがするわけないでしょう。もしそう思ってるなら、あなたは私が思っている以上の愚か者ですよ、ジョージ。血迷わないでください。分別を失わないでください。賢明になってください。状況をしっかり見てください。私に説明させてください。今あなたが助けてくれなければ――遅くとも明日の正午までに三十万ドルを貸してくれなければ、私はおしまいです。あなたもですよ。私たちの状況に問題があるんじゃないんですよ。私たちの株は、今日もこれまでと同じように優良株なんです。そりゃあ、何と言っても、鉄道がその株の背後についてるわけですからね。鉄道は儲けを出しているんですよ。今だって十七番街=十九番街鉄道は一日千ドル稼いでるんですから。これ以上のどんな証拠が欲しいんですか? グリーン&コーツ鉄道だって五百ドルは稼いでますよ。怖がってますね、ジョージ。あの忌まわしい政界の策士たちがあなたを脅しましたからね。前任者のボーデやマータと同じように、あなたにだってれっきとしたお金を貸す権利があるんです。奴らだって借りたでしょ。あなたはモレンハウワーや他の連中にも融資してきたんでしょ。彼らにだって貸してるんだから大丈夫でしょう。融資以外にだってそうでしょ、市の指定預託機関っていうのは何なんですか?」
クーパーウッドは、市の資金の一部を低い金利もしくは無利子で特定の銀行に預けることを認めている制度について言及していた――モレンハウワー、バトラー、シンプソンらが関係している銀行のことだった。このおかげで彼らは安全に不正な利益を得られた。
「みすみす自分のチャンスを捨てるのはよしましょう、ジョージ。今やめては駄目です。数年後には何百万ドルもの財産ができるんですよ。方針を変更する必要はありません。今持ってるものを持ち続けるだけでいいんです。私を助けなければ、きっと、私がここから出た瞬間に、向こうはあなたを見捨てて、あなたをそのまま刑務所に行かせてしまいますよ。誰があなたのために五十万ドルも出してくれるんですか、ジョージ? モレンハウワーが、いやバトラーでも誰でもいいですけど、こんな時にどこでそんな金を手に入れるつもりなんですか? 奴らにできっこないでしょう。やる気だってありませんよ。私が終われば、あなたも終わるんです。そしてあなたは誰よりも早く暴かれてしまうんです。向こうは私に危害を加えることができないんですよ、ジョージ。私は代理人ですから。私があなたにお出でを願ったわけではありません。最初は、あなたが自発的に私のところへ来たわけですから。私を助けなければ、あなたは終わりです。そして刑務所があるのと同じくらい確実にあなたは刑務所に送られますよ。どうして覚悟を決めないんですか、ジョージ? どうして自分の立場を守らないんですか? 面倒をみなくてはならない妻子がいるんでしょ。私にあと三十万ドル貸したところで、状況が今より悪化するわけじゃあるまいし。五十万か八十万かで、どう変わるんです? どうせ裁かれるのなら、同じことでしょ。それよりもですよ、私にお金を貸してくれれば、どんな裁判も起こらないんです。私が破産しませんから。この嵐は一週間か十日で終わります。我々はまた裕福になりますよ。お願いだから、ジョージ、こんな風にぐだぐだにならないでください! 分別をもってください! 理性を持っていきましょう!」
クーパーウッドは話すのをやめた。ステーネルの顔が苦悩に満ちたゼリーの塊と化していたからだ。
「無理だよ、フランク」ステーネルは泣き叫んだ。「無理だって言ってんだろう。そんなことをしたら、向こうはこれまで以上にひどい目に遭わす気なんだ。決して手を抜かないんだよ。きみはあの人たちのことがわかってないんだ」
クーパーウッドはステーネルの弱り果てた姿の中に自分の運命を読み取った。こんな男はどう扱えばいいんだ? どうやって頑張らせればいいんだ? 無理だ! そしてクーパーウッドは、これでよくわかった、嫌気がさした、もう知るもんか、と両手を上げて歩き出した。ドアのところで振り返って言った。
「ジョージ、残念だよ。残念なのはあなたであって私ではない。私は最後には完全に抜け出すからね。私は金持ちになるよ。でも、ジョージ、あなたは人生で大きな間違いを犯しているところなんですよ。貧乏になって、囚人になるでしょう。それでも責める相手は自分しかいないんです。火事を除けばこの金融状況に問題はないんですよ。この株の暴落――このパニック――を除けば、私がやったことには何の間違いもないんですから。あなたは大金を手に、そこに座って、大勢の策士や悪徳政治家が、あなたを脅してあなたが自分の人生を救う唯一の行動をとらないようにしているのを許してるんです。そいつらはあなたや私のことをウサギほども知らないし、あなたから物を奪う算段を立てる以外に、あなたには何の関心もない連中なんですよ。三十万ドルなんてはした金は、今から三、四週間後には四、五倍にして返せるのに、そんなもののためにあなたは、私が破産して自分が刑務所に入る姿を見ることになるんです。私には理解できませんね、ジョージ。あなたは正気じゃない。あなたは自分が生きたこの最悪の日を後悔しますよ」
これが何かのはずみで功を奏しないかを確認するために少し待ったが、ステーネルが相変わらずしおれたままの無力な役立たずでいるのに気づくと、クーパーウッドはやりきれない思いで首を振り、出て行った。
クーパーウッドが少しでも弱気や絶望の様子を見せたのは生まれて初めてだった。クーパーウッドは、復讐の女神に追われるというギリシャの話は大したことがないようにずっと感じていた。しかし、今、自分を追いかけているのは不吉な運命のようだった。そういう様相を呈していた。しかし運命であろうとなかろうとクーパーウッドは臆するつもりはなかった。落ち込んでしまいそうなこの時でさえ、頭を反らせて胸を張り、いつものように颯爽と歩くのだった。
ステーネルのプライベート・オフィスの外の広い部屋でクーパーウッドはステーネルの主席事務官と秘書を兼任するアルバート・スターズに会った。アルバートとは過去に何度も親しく挨拶を交わしたことがあった。アルバートはステーネルにはわかりっこない難解な金融や金融に関する帳簿処理がわかるので、市債に関するこまごました取引はすべてこの二人の間で議論されていた。
スターズを見て、さっき言及した六万ドル分の市債の証書に関する考えがふと頭をよぎった。クーパーウッドは証書を減債基金に預けてはいなかったし、今のところ預けるつもりもなかった――相当な額の自由に動かせる金がすぐ手に入る目処がたたない限り預けられなかった。というのは、他の差し迫った請求に応じるために証書を使ってしまい、それを買い戻すための――つまり縛りを解くための――自由に使えるお金がなかった。この瞬間でさえこれはやりたくなかった。市財務官と交わしたこの種の取引に関する規制では、証書は即刻、市の口座に預けることになっていて、預けるまではその分の支払いを市財務官から受けられないことになっていた。正確には、この規則では市財務官はこの種の取引において、クーパーウッドもしくはその代理人が、購入された証書が実際に基金に預けられていることを示す、市の減債基金を運用する銀行もしくは他の機関が発行した受領証を提示するまで、相手に支払わないことになっていた。実際は、クーパーウッドとステーネルの間で生まれた慣習によって、この規則のこの点は蔑ろにされた。クーパーウッドは、いくらでも減債基金向けの市債の証書を購入して、好きなところへ担保に入れ、受領証を提示することなく市から支払いを受けることができた。普通は月末に、あちらこちらから集められた市債の証書で不足分を補うことができた。一度ならずあったことだが、不足分はほとんど長期間無視された。その一方でクーパーウッドはその分を担保にして集めた資金を投機に使っていた。これは本当は違法だったが、クーパーウッドもステーネルもそんな風には見なかったし気にもかけなかった。
この特殊な取り扱いで困るのは、ステーネルから受け取った売買停止を命じる文書だった。これでクーパーウッドと市財務官との関係は、規則厳守が基本になってしまった。この文書を受け取る前にクーパーウッドはこの証書を購入していたのだが預けていなかった。これから小切手を受け取るつもりだったが、ひょっとしたら、月末に清算する古い簡単な事務処理ではもう渡せませんと言われるかもしれなかった。スターズは預かり証の提示を求めるかもしれなかった。だとするともう六万ドルの小切手は手に入らない。預ける証書がないからだ。なくてもお金は手に入るかもしれない。しかし後々何かの訴因を構成するかもしれなかった。破産する前にちゃんと証書を預けなければ、窃盗などの罪に問われる可能性があった。しかし、まだ実際に破産するとは限らないとクーパーウッドは自分に言い聞かせた。もし銀行仲間の誰かが、何らかの理由で融資の返済の決定を変更すれば破産はしないだろう。もし自分が小切手を入手したら、ステーネルはこのことで騒ぐだろうか? 自分がやろうとしたら、市の職員は自分に注意を払うだろうか? ステーネルが訴えたら、果たして地方検事はこういう扱いを承認するだろうか? いや、どう考えても認めまい。いずれにしても、やったからといって何も起こらないだろう。自分とステーネルの間に、代理人もしくは仲介人と本人という関係が存在するのを理解した上で、自分を処罰しようとする陪審員はいないだろう。そして、こっちがいったんお金を手に入れてしまえば十中八九ステーネルはそこから先のことなど一切考えないだろう。これは、いろいろな未払い債務の中に入ってしまい、これについてそれ以上は何も検討されないだろう。すべての状況が稲妻のように脳裏を駆け巡った。クーパーウッドはリスクを負うことにした。主席事務官の机の前で立ち止まった。
「アルバート 」低い声で言った。「今朝、減債基金向けに市債を六万ドル分買ったんだ。午前中のうちに誰か小切手を取りに来させようか、あるいはよければだが、今、私に渡してくれないかな? もう買うなという文書は受け取ったからね。私はこれから会社へ戻るんだ。減債基金には七十五から八十ドルで八百枚の証書を記帳するだけでいいからね。明細は後で送るよ」
「わかりました、クーパーウッドさん。そうします」アルバートは即座に答えた。「株がすごい叩かれ方をしてますね? あなたがあまり困ってないといいんですが?」
「大したことはないよ、アルバート」主席事務官が小切手を作成している間に、クーパーウッドは笑顔で答えた。ひょっとしたら、ステーネルが現れて、これを阻止しようとするのではないかと考えていた。これは合法的な取引だった。慣習で、証書を基金の管財人に預ければ小切手を受け取る権利があった。アルバートが作成する間、クーパーウッドは緊張して待っていた。実際に小切手を手にして、ようやく安堵のため息をついた。少なくとも手もとに六万ドルがある。約束されていた七万五千ドルは今夜の取引で現金化できるだろう。明日、もう一度、リー、キッチン、ジェイ・クック商会、エドワード・クラーク商会――金を借りている大勢の人たちに会って、打開策を見つけなければならない。時間さえ稼げたら! せめて一週間の猶予があったなら!
第二十九章
しかし、時間というものはこの緊急事態に持てるものではなかった。クーパーウッドは友人たちが差し伸べた七万五千ドルと、ステーネルから確保した六万ドルを、ジラード銀行の返済に当てて不足分を補填し、残りの三万五千ドルを自宅の自分の金庫に収めた。それから銀行家や資本家たちに最後のお願いをしたが誰も助けてはくれなかった。しかし、この期に及んでもクーパーウッドは自分を不憫だとは思わなかった。オフィスの窓から小さな中庭を眺めてため息をついた。あと何ができるだろう? 父親に連絡をとってランチに誘った。とても気の合う同年代の弁護士、ハーパー・シュテーガーにも連絡をとって来るように頼んだ。いろいろな引き延し策や債権者への対応を自分なりに考えたが、如何ともし難く、破産にむかっていた。最悪なのは、この市財務官の融資の問題が世間に、いや世間に知られる以上に、政治的なスキャンダルになるのが確実なことだった。そして、違法ではないにしても、少なくとも道義的に、市の金を悪用する陰謀を企てた罪の責任は大きなダメージになるだろう。
同業者はこの事実を盛んにもてはやすだろう! 破産しても再起はするかもしれないが、それは困難な仕事になる。それと、父親だ! 累は父親にも及んでしまう。銀行の頭取の座を追われる可能性があった。こういうことを考えながらクーパーウッドは座って待っていた。そうしているうちにアイリーン・バトラーと、同時にアルバート・スターズの来訪が事務員に告げられた。
「バトラーさんをお通しして」クーパーウッドは立ち上がって言った。「スターズさんはお待ちいただいて」アイリーンはいつものように飾り立てた美しい体で、つかつかと元気よく入って来た。着ている外出着は明るい金に近い茶色のブロードクロスで、暗い赤の小さなボタンがついていた。頭は、つばがなくて、たなびく羽毛飾りがついている自分に似合うとわかった茶褐色のシャコー帽が飾り、首には金のビーズを三連にした優雅なネックレスがあった。両手にはいつものとおりに、しなやかに手袋をはめ、小さな足はかわいらしく靴を履いていた。目に少女らしい苦悩の表情がうかがえたが、それを懸命に隠そうとしていた。
「あなた」アイリーンは相手を見ながら両腕を伸ばして叫んだ――「何があったの? この前の夜、どうしても聞きたかったんだけど、破産しちゃうの? 昨夜、父とオーエンがあなたのことを話しているのを聞いちゃったのよ」
「何て言ってた?」クーパーウッドはアイリーンに腕を回し、その不安そうな目を静かに見つめながら尋ねた。
「わかってるでしょうけど、父はあなたにとても腹を立ててると思うの。疑ってるわ。誰かが匿名の手紙を送りつけたのよ。昨夜はあたしから聞き出そうとしたんだけどうまくいかなかったわ。全部否定したもの。あたし、午前中に二回会いに来たんだけど、あなたは外出中だったのね。父が先にあなたに会って、あなたが何か言うんじゃないかって、あたし、とても不安だったの」
「私がか、アイリーン?」
「まあ、まさかよね。そんなことはないって思ったんだけど。自分でも何を考えたのか、わかんないのよ。ねえ、あなた、あたしとても心配したのよ。全然眠れなかったわ。あたしってもっと強いって思ってたわ。でもね、あなたのことがとても心配だったの。父ったらね、自分の机のそばの強い光が当たるところにあたしを座らせたのよ。あたしの顔を自分が見えるようにね。そしてそれからその手紙を見せたのよ。一瞬驚いたもんだから、自分が何を喋ったか、どんな様子だったか覚えてないわ」
「で、何て言ったの?」
「え、あたし『恥ずかしい! 嘘っぱちよ!』って言ったわ。でも即答はしなかった。心臓がドキドキしてたわ。父のことだから、あたしの顔からきっと何かを読み取れたんじゃないかしら。ろくに息もつけなかったのよ」
「抜け目のない男だからね、きみのお父さんは」クーパーウッドは言った。「人生についていろんなことを知ってるんだ。これで、こういう状況がどれほど大変かがきみにもわかっただろ。あの家を見張る代わりに、きみにその手紙を見せることにしたのは幸いだった。さすがにそこまでするのはひどすぎると感じたんだろう。今のところは何も証明することはできないけど、わがっているんだよ。きみがだませる相手じゃない」
「父がわかってるって、どうしてあなたにわかるのよ?」
「きのう、お会いした」
「父があのことを話したの?」
「いや、顔でわかった。向こうはただこっちを見ただけだがね」
「フランク! あたし、父に申し訳ないわ!」
「だろうね。私もだ。でも今さらどうしようもない。最初にそのことを考えるべきだったんだ」
「でも、あたしはあなたを愛してる。あなた、父は絶対にあたしを赦しはしないわ。あんなにあたしを大事にしてくれてるのに。知っちゃいけなかったのよ。あたしは一切認めないわ。でも、ああ、あなた!」
アイリーンは両手を彼の胸にしっかり押しあてた。クーパーウッドは慰めるようにその目をのぞき込んだ。アイリーンの瞼と唇は震えていた。アイリーンは父親にも自分にもクーパーウッドにも心苦しさを覚えた。クーパーウッドはアイリーンを通して、バトラーの親の愛情を、怒りの大きさと危険性を、感じることができた。いろいろなことがたくさんあって、それが今、まとまって一つのドラマチックな結末を迎えようとしているのがわかった。
「気にするな」クーパーウッドは答えた。「今さらどうしようもない。私の強くて毅然としたアイリーンはどこにいっちゃったんだい? きみなら勇敢に構えてるって思ったんだがな? そうするつもりはないかい? これからきみにはそういう態度でいてもらう必要があるんだ」
「そうなの?」
「ああ」
「困ってるの?」
「私は破産すると思う」
「まあ、そんな!」
「そうなんだよ。万策尽きたんだ。今のところ出口が見当たらない。父と弁護士には連絡した。きみはここにいちゃいけないんだ。きみのお父さんが、いつここに来てもおかしくないからね。どこか別のところで会わないと――明日、そう――明日の午後。覚えているかな、インデアン・ロック、ウィサヒコン郊外の?」
「ええ」
「そこで四時に会えるかな?」
「ええ」
「尾行には気をつけるんだよ。もし私が四時半までに現れなかったら待ってなくていい。理由はわかるよね。誰かが見張ってると思うんだ。でも、うまくやれば、大丈夫だよ。そろそろ、きみは帰らないといけないね。もう九三一番地は使えない。どこか他の場所を借りないといけないね」
「ああ、とても残念だわ」
「強く勇敢に構えてるんじゃなかったっけ? いいかい、そういう態度でいてもらう必要があるんだ」
クーパーウッドは初めて少し悲観的な気分になった。
「はい、あなた、そうよね」アイリーンは両腕を滑り込ませるようにしてクーパーウッドを抱き寄せて言った。「わかったわ! まかせてよ! フランク、愛してるわ! とても残念だけど、あなたが破産しないことを祈ってるわ! でも、どんなことがあったって、あなたとあたしとの関係は何も変わらないわよね? あたしたちは同じように互いに愛し合うのよね。あたし、あなたのためなら何でもするわ! あたし、あなたの言うとおりにするわ。あたしを信じていいのよ。あたしからは絶対にボロを出さないわ」
アイリーンはクーパーウッドのまだ青白い顔を見た。突然、心の中にこの人のために戦おうという強い決意がわいた。アイリーンの愛は正当性のない違法で邪道なものだった。しかしそれでも愛だった。正義からはみ出した者の燃えるような大胆さを多分に持っていた。
「愛してる! 愛してる! 愛してるわ、フランク!」アイリーンははっきりと告げた。クーパーウッドはその手を振りほどいた。
「さあ、行って。明日四時。しくじるなよ。口をすべらしちゃ駄目だからね。何をしようと、一切認めないことだ」
「そうするわ」
「私のことは心配するな。私は大丈夫だ」
ステーネルの主席事務官が――青ざめ、動揺し、明らかにいつもと違う様子で――駆け込んできたとき、クーパーウッドにはネクタイを直して、窓際で平然と構える時間しかなかった。
「クーパーウッドさん! 昨夜私が渡した小切手を覚えてますか? ステーネルさんは、あれは違法だ、渡すべきではなかった、私に責任を取らせるって言うんです。重罪を犯したんだから私は逮捕されるかもしれない、それを取り戻さなければ私を解雇して刑務所に送ると言ってます。ねえ、クーパーウッドさん、私はまだ駆け出しに過ぎません! 人生を始めたばかりなんです。面倒をみないといけない妻子がいるんです。まさかステーネルさんにそんなことはさせませんよね? あの小切手、返してくれますよね? あれがないと職場に戻れないんです。ステーネルさんは、あなたは破産するだろう、あなただってそれをわかってる、あれを受け取る権利などなかった、って言うんですよ」
クーパーウッドは相手をじろじろと見た。災いの使者が手を替え品を替えやって来ることに驚いてしまった。確かにトラブルは、増えると決まると、どんどん現れるというすごい技術を持っている。こんなことを言う権利はステーネルにはなかった。あの取引は違法ではなかった。あの男が暴走したのだ。確かに、クーパーウッドはこの債券証書の購入後に、これ以上市債を売買してはいけないという命令を受けはしたが、だからといって以前の購入が無効になるわけではなかった。この六万ドルの小切手を取り戻るために、自分よりも優秀なこの気の毒な部下を威嚇して脅すとは。何という小心者なんだ! 誰かが言っていたが、愚か者が成り下がる卑しさの限度は計り知れないというのは本当だった!
「アルバート、ステーネルさんのところに戻って、そんなことはできません、と言いなさい。市債は彼の命令が届く前に購入されたものなんだ。取引所の記録がそれを証明してくれるよ。これは違法でも何でもない。私にはあの小切手を受け取る権利があるんだ。法律がまともに機能しているところならどこででも受け取れるものだよ。あの男は頭がおかしくなったんだ。私はまだ破産していない。あなたが司直の手に落ちる危険はない。もし落ちたら私があなたを守る力になりますよ。小切手を返そうにも返せないんだ。だって返すものがないからね。あったって返すつもりはないが。そんなことをすれば馬鹿に馬鹿にすることを許してしまうことになる。気の毒だとは思うよ、とてもね、だけど私はあなたのために何もしてあげられない」
「ねえ、クーパーウッドさん」スターズの目に涙が浮かんだ。「私を解雇する気なんですよ! 私が保証しろって言うんですよ。私は街に放り出されてしまいます。給料以外、財産なんか少ししかないのに!」
スターズが両手を握りしめた。クーパーウッドは悲しそうに首を振った。
「あなたが考えているような悪いことにはならないよ、アルバート。あいつは言うだけでやりはしないからね。あいつにはできないんだよ。それこそ不正で違法なんだから。訴訟を起こせば給料は取り返せる。その時は私もできる限り協力しますよ。でも、この六万ドルの小切手は返せませんよ。だって返すものがないんだから。返したくたって返せないんですよ。もうここにはないんですから。それで買った市債の代金を払ったんですよ。証書もここにはありませんよ。減債基金の中にあるか、これから入るんですよ」
このことは言うんじゃなかったと思いながら、クーパーウッドは口をつぐんだ。口が滑ったのだ。クーパーウッドにしては数少ないミスの一つだった。この状況の変なプレッシャーのせいだった。スターズはなおも頼み続けた。無駄だとクーパーウッドは言った。スターズはとうとう、がっくりして、怯え、打ちひしがれて帰って行った。目には苦悶の涙があった。クーパーウッドは不憫でならなかった。やがて、父親が来たと告げられた。
ヘンリー・クーパーウッドはやつれた顔で登場した。その前の晩、ヘンリーとフランク親子は明け方まで延々と話し合ったが、不確定なことばかりで大して有益なものにはならなかった。
「いらっしゃい、お父さん!」クーパーウッドは父親が塞いでいるのに気がついて元気に声をかけた。この絶望の灰から掘り出せる希望の石炭はほぼないとわかってはいたが、それを認めても仕方がなかった。
「どうだ?」父親は悲しげな目を変な風に吊り上げて言った。
「まあ、荒れ模様ってところですかね? 債権者集会を招集して、時間をいただくことにしました、お父さん。他に打つ手がありません。話をしたからといって価値のある成果が出せるとは思えませんがね。ステーネルが考えを改めるかもしれないと思ったんですけど、良くなるどころかかえって悪化してます。彼の経理のトップがさっき帰ったばかりです」
「何しに来たんだ?」ヘンリー・クーパーウッドは尋ねた。
「昨日の午前中に僕が購入した市債の代金として支払った六万ドルの小切手を返してくれと言うんです」 しかしフランクは、この小切手で買った証書を担保に入れたことや、その小切手そのものを使って現金を調達し、ジラード・ナショナル銀行への支払いを済ませ、さらに三万五千ドルの現金を自分の手もとに置いたことを父親には説明しなかった。
「まあ、そうだろうな!」老人は答えた。「お前は、向こうがもっと分別を持った方がいいと思ってるようだが、それが完全に正当な取引だからな。向こうが市債を買うなと通知してきたのはいつなんだ?」
「昨日の正午です」
「どうかしとる」ヘンリー・クーパーウッドは簡潔に言った。
「モレンハウワー、シンプソン、バトラーのせいです。あいつらは僕の路面鉄道会社がほしいんですよ。でも、自分たちで手に入れようとはしない。管財人を通すんでしょうね。このパニックが終わった後で。うちの債権者が最優先ですから。買うなら、そこから買うのでしょう。もし五十万ドルの融資のことがなかったら、こんなことは考えませんでしたよ。債権者たちはうまく僕を支えてくれるでしょう。しかし、あれが問題になったら、たちまち――! そして選挙だってある! デービソンの印象を悪くしないために、あの市債の証書は担保に使ったんです。今頃はとっくに取り戻しているつもりでしたから。あれはちゃんと減債基金に入れておくべきでした」
老紳士はすぐにその意味を理解して顔を曇らせた。
「これは厄介なことになるかもしれないぞ、フランク」
「技術的な問題ですよ」息子は答えた。「あれは取り戻すつもりだったのかもしれません。実際問題、できれば三時までにやりますよ。これまでだって預け入れるのに八日から十日はかかってましたから。こういう嵐のとき、僕には自分の駒をできるだけ有利に動かす権利があるんですよ」
ヘンリー・クーパーウッドは再び口に手をあてた。こればかりは非常に不愉快だった。かといって何も方法が見いだせなかった。自分の資産は底を突いていた。左の頬髯をさすった。窓から小さな緑色の中庭をながめた。これは技術的な問題だったのかもしれないが、誰にもわからない。フランク以前の他のブローカーと市財務官との金銭関係だって相当だらしなかったのだ。銀行家はみんなそれを知っていた。おそらく、今回だって慣例がまかり通るだろう、あるいは通してしまうのだろう。こればかりはわからない。それにしても、危険だ――筋が通らない。フランクが証書を取り戻して預けることができれば、それに越したことはない。
「私がお前で、それができるのであれば、取り戻すがな」父親はつけ加えた。
「僕だって、できるくらいならしますよ」
「金はどれだけあるんだ?」
「全部で二万ドルです。でも、もし店を閉めるのであれば、少しは現金を手もとにおかねばなりません」
「八千から一万ならある、いや夜までには用意できると思う」
ヘンリーは自分の家の二番抵当権を付けてくれそうな相手を考えていた。
クーパーウッドは静かに父親を見た。もう父親に言うことは何もなかった。「お父さんが帰ったら、もう一度ステーネルにお願いしてみるつもりです」クーパーウッドは言った。「ハーパー・シュテーガーが来たら一緒に行ってきます。もしあいつの気が変わらなければ、債権者に通知を出して、取引所の事務局に届けを出します。何があっても冷静でいてください。お父さんなら大丈夫だとわかってますけどね。低姿勢で行ってきますよ。もしステーネルに分別があれば――」クーパーウッドは口ごもった。「しかし、馬鹿の話をして何の役に立つんですかね?」
アイリーンと自分のことがあの匿名の手紙で暴露されなかったら、すべての調整をバトラーとつけるのはどれだけ簡単だっただろうと思いながら、クーパーウッドは窓のほうを向いた。バトラーなら、いざというとき、党を傷つけてでも自分を助けてくれたかもしれない。なのに――!
父親は帰ろうと立ち上がった。まるで寒さが身にしみるかのように絶望で固まっていた。
「じゃあな」と弱々しく言った。
クーパーウッドは父親のことでとても苦しんだ。なんたる失態だ! お父さん! 悲しみの大波が自分を押し流そうとするのを感じたが、瞬時に克服して、すぐに打開策を考え始めた。老人と入れ替わりにハーパー・シュテーガーが案内された。両者は握手を交わし、すぐにステーネルのオフィスに向かった。しかしステーネルは、空気の抜けた気球のようにへたり込んでいて、どんなに頑張っても膨らませることはできなかった。結局、二人は敗れ去った。
「言っときますけど、フランク」シュテーガーは言った。「私は心配してませんよ。選挙前でも終わってからでも、こんなことは法律でケリを付けられますよ。それでこの騒ぎはみんな静まりますって。それから関係者を集めて、きちんとした話をすればいいんです。たとえステーネルが刑務所に行っても、誰もこんないい財産を手放したりはしないでしょう」
シュテーガーはまだ担保に入れた六万ドルの証書のことを知らなかった。アイリーン・バトラーのこともその父親の果てしない怒りのことも知らなかった。
第三十章
これに関する進展が一つあったが、クーパーウッドはまだそれに気づいてはいなかった。娘に関する匿名の手紙がエドワード・バトラーに届いたのと同じ日に、フランク・アルガーノン・カウパーウッド夫人にもほぼ同じ手紙が届いた。ただ、こっちは不思議なことにアイリーン・バトラーの名前が省かれていた。
おそらく、あなたは自分の夫が他の女と浮気していることを知りません。これを信じないなら、北十番街九三一番地の家を見張りなさい。
月曜日の朝、この手紙がメイドから渡されたとき、クーパーウッド夫人は温室で植物に水をやっていた。昨夜の話し合いが何を意味するかを知らなかったから、夫人は至って心穏やかだった。フランクは時々、金融トラブルに襲われたが、ダメージは受けなかった。
「それは書斎のテーブルに置いといてね、アニー。すぐ行くから」
夫人は何かの社交に関係する手紙だと思った。
しばらくして(のんびり屋なので)じょうろを置いてから書斎に行った。手紙は、書斎の大きなテーブルの装飾の一翼を担っている緑色の羊皮の上にあった。手に取ると安っぽい紙だったので夫人は不思議そうに一瞥してから開封した。読むうちに顔がわずかに青ざめた。やがて手が震えた――大きくは震えなかった。夫人の魂は情熱的な恋愛をしたことがなかったから、情熱的に苦しむことができなかった。傷つき、嫌悪し、ひとまず怒って、怯えたが、完全に精神が壊れたわけではなかった。フランク・クーパーウッドとの十三年の生活は夫人にたくさんのことを教えていた。夫は身勝手で、自己中心的で、以前ほど自分に魅力を感じていないことをこの時にはもう知っていた。もともと感じていた自分が年上である影響についての不安は、時間が経つにつれてある程度当たってきた。フランクは以前のようには自分を愛さなくなった――しばらく関係がなくリリアンはそれを実感していた。これは何なの?――リリアンは何度も自問した――相手は誰よ? あんなに仕事にかまけきりなのに。
金融のことしか頭にないのだ。もう私の出番はないのかしら、とリリアンは問いかけた。フランクは私を捨てる気かしら? 私はどうなってしまうのかしら? どうすればいいの? フランクが自分のために運用している資産があったから自分は決して無力ではない。相手の女は誰かしら? 若くて、美しくて、社会的地位がある女かしら? それって――? 突然、リリアンは思考を停止した。そうなのかしら? ひょっとしたら、そうかもしれない――リリアンの口が開いた――アイリーン・バトラー?
手紙を見つめながらそのまま立っていた。自分の考えを受け入れられなった。二人があれほど警戒したにもかかわらず、リリアンはよく、アイリーンがフランクに、フランクがアイリーンに、やけに親しげな態度をとるのを目にしていた。フランクはアイリーンのことが好きだった。彼女をかばうチャンスを絶対に逃さなかった。この二人は不思議なほど互いの相性がいいとリリアンは時々思うことがあった。フランクは若い人のことが好きだった。しかし、もちろんフランクは既婚者だった。 アイリーンは明らかにフランクよりも社会的地位が低かった。しかもフランクには子供が二人もいて自分もいるのだ。そして、社会経済的な地位が確立し安定したので、あえてそれを軽んじはしなかった。リリアンはずっととまったままだった。四十という年齢、二人の子供、多少の小皺、もうかつてのようには愛されないかもしれないという疑念は、たとえ大金持ちになろうが、どんな女性でも閉口させがちなものだ。フランクと別れたら、自分はどこに行くのだろう? 世間はどう思うだろう? 子供たちのことはどうしよう? 自分はこの不倫を証明できるだろうか? 不名誉な立場にいる夫に罠をしかけることができるだろうか? 自分はそんなことをしたいのだろうか?
自分は、自分の夫を愛している女性のようには、フランクを愛していないと今ではわかっていた。フランクに熱中ではなかった。ある意味でリリアンはこの数年間フランクのことを当然の権利のように受けとめていた。自分のことを十分に愛してくれて、浮気はしないと思っていた。 少なくとも、フランクは人生のもっと重大な事柄に没頭していて、この手紙が示すつまらない情事がフランクを面倒に巻き込んだり、偉大なキャリアを頓挫させたりすることはないと考えていた。どうも、これは事実ではなさそうだ。どうしたらいいんだろう? 何て言えばいいんだろう? どう振る舞うべきだろう? 聡明ではないリリアンの頭脳は、この危機の中では大して役に立たなかった。計画の立て方も、戦い方も、よくわからなかった。
その平凡な頭脳はせいぜい小さな機械の一部でしかなかった。その機能はカキ程度であり、よくてもハマグリくらいだろう。貝が自分の思考回路という小さな管を、事実と状況という巨大な海にねじ込んだところで、あまりにも小さくて非力なものだから、直に触れたところで大勢に影響はないのだ。人生の微妙な変化などわかりようがない。その猛威や恐しさの小さな兆候でさえ、偶然以外では発見されない。この手紙が証明するような生々しくて示唆に富んだ事実が、平穏な出来事の流れの中に突如現れると、いわゆる日常生活に大きな苦悩や混乱や障害が生じてしまう。管は正常に機能しなくなり、恐怖と苦悩を吸い込んでしまう。機械に砂が混入するのに似てなくもない――環境に合わないと部品は大きく摩耗する――そして、人生でもよくあることだが、それ以降はとまるか、正常に動かなくなる。
クーパーウッド夫人は型にはまった考え方をする人だった。人生について本当に何も知らなかった。人生も彼女には教訓を与えなかった。考えるのが辛いと反応できなかった。アイリーン・バトラーの感覚でいうと夫人は生きてはいなかったが、それでも自分ではちゃんと生きていると思っていた。全部が幻想だ。夫人は生きてなどいなかった。穏やかさを愛する人には、夫人は魅力的だった。そうでない人にとっては、そうではなかった。魅力的とか、華麗とか、力強い、には当たらなかった。どうして彼女と結婚したのか、フランク・クーパーウッドだって最初は自問自答したかもしれない。今しないのは、自分の失敗や過ちで過去を振り返るのは賢明ではないと信じるからだ。クーパーウッドにすれば、後悔は愚行の極みだった。顔と思考は未来に向けていた。
しかしクーパーウッド夫人は自分なりに心底悩んだ。考え事をしながら、惨めな気持ちになりながら、家の中を歩き回った。手紙が自分で確かめろと言うので、クーパーウッド夫人は待つことに決めた。もしやるならば、どうやってこの家を見張るかを考えなくてはならなかった。フランクに知られてはならなかった。もし相手がアイリーン・バトラーだったら――まさかそんなことはあるまいが――両親の前で暴露してやろうと考えた。しかしそれでは自分までさらし者だった。ディナーの席ではできるだけ自分の気持ちを隠そうと決心した――しかしクーパーウッドはその場に居合わせることができなかった。とても急いでいて、密談を要する個人もいて、父親や他の人とも緊密に話し合いを持ったので、夫人はこの月曜日の夜も翌日も何日も、夫とろくに顔を合わせなかった。
クーパーウッドは、債権者集会を火曜日の午後二時半に招集して、管財人の手に委ねる決定を五時半に下した。オフィスで主要債権者――三十名――を前にしても、人生が破綻したとは感じなかった。一時的にばつの悪い思いをした。確かに、先行きは真っ暗に見えた。市財務官との関係は大騒ぎになるだろう。もしステーネルがやろうと思えば、六万ドルの市債の証書を担保にした件がもうひと騒動起こすだろう。それでも、完全に打ちのめされたとは感じなかった。
「みなさん」この集会の説明の締めくくりに、クーパーウッドはこれまでと同じように直立不動で、自信を持ち、毅然とし、説得力のある声で述べた。「みなさんは状況をおわかりでしょうが、これらの有価証券はこれまでとまったく同じ価値があります。背景にある資産には何の問題もありません。十五日から二十日ほど猶予を頂ければ、この問題はすべて解決できると確信しています。それができるのは私だけと言っていいでしょう。私はそのすべてを把握しておりますから。マーケットは必ず回復します。経済活動はこれまで以上にうまくいくでしょう。私に必要なのは時間です。この問題で唯一の重大な要因は時間なのです。みなさんが十五日から二十日――できればひと月――猶予していただけるか、それを知りたいのです。私に必要なのはそれだけです」
クーパーウッドは脇へどき、ブラインドが引かれたその広い部屋を出て自分のオフィスにこもり、債権者たちに自分の状況を内々で話し合ってもらう機会を提供した。集会には自分の味方をしてくれる友人がいた。話し合いが続く間、クーパーウッドは一時間、二時間、三時間近く待った。ようやく、ウォルター・リー、ジャッジ・キッチン、ジェイ・クック商会のアベリー・ストーン、他数名がやってきた。彼らはさらなる情報を集めるために選任された委員会のメンバーだった。
「今日はもう何もできないよ、フランク」ウォルター・リーは静かに告げた。「帳簿を調べる権利を欲しがる連中が大勢いるんだ。あなたがあると言っている市財務官との絡みにいささか不透明な部分があるからね。とにかく、みんなはあなたが一時休業を発表した方がいいと感じてる。後で再開させたくなれば、再開させられるからね」
「それは残念です、みなさん」クーパーウッドは少しばかり落胆して答えた。「それがどういうことかわかってますから一時休業するくらいだったらやれるだけのことをやりますよ。株式を通常の流通価格で評価すれば、負債をはるかに上回る資産がうちにあることはみなさんにもわかるでしょう。でもこの店を閉めれば、どうにもならなくなるんです。世間が私を信用しなくなりますからね。店は開けておくべきです」
「残念だが、フランク」リーは同情するように手を押しあてて言った。「私の一存で済む話だったら、あなたに欲しいだけ時間をあげましたよ。道理に耳を貸さない石頭の爺さんが多くてね。パニックになってるんです。向こうは向こうでかなりの痛手を被ってるんでしょうね。その人たちを責めるわけにもいかないでしょ。あなたが店を閉める必要はなかったと私は思うんだが、あなたなら大丈夫です。いずれにしても、あんな連中が相手じゃ我々は何もできませんよ。でも、まったくな、あなたが破産するなんて思わなかったよ。十日もすれば、こういう株なら持ち直すだろうけど」
ジャッジ・キッチンもまた同情してくれた。しかしそれが何の役に立つのだろう? クーパーウッドは一時休業を迫られていた。会計の専門家が来て帳簿を調べなければならなくなる。この市財務官関係のニュースをバトラーが広めるかもしれない。この最後の市債取引の件をステーネルが槍玉に挙げるかもしれない。六人の頼れる友人が午前四時までそばにいてくれた。 しかしそれでもクーパーウッドは休業しなくてはならなかった。それをした時点で、富と名声を求める競争で完敗とまではいかなくても深刻なダメージを受けたことはわかる。
ようやく寝室で本当に独りぼっちになってからクーパーウッドは鏡に映る自分の姿を見つめた。顔は青白く疲れてはいるが、余力も説得力もあると思った。「ふん!」クーパーウッドは自分に言い聞かせた。「へこたれるもんか。まだ若いんだ。何としてでもこの状況を抜け出してやる。必ずだ。何か突破口を見つけてやる」
ぐったりと疲れたように考え事をしながら、クーパーウッドは服を脱ぎ始めた。やっとの思いでベッドに身を沈めてしばらくすると、あれほど周囲は厄介事だらけだったのに不思議と眠ってしまった。クーパーウッドにはそれができた――眠ってとても穏やかにいびきをかくことができた。その一方で父親は自分の部屋で床を歩き回り、安らぐのを拒んでいた。老父の前途は真っ暗だった――未来は絶望的だった。息子の前途にはまだ希望があった。
そしてリリアン・クーパーウッドはこの新たな不幸に直面し自分の部屋で何度も寝返りをうった。実家の父親とフランクとアンナと義理の母親からの知らせで、フランクが破産しそうだ、破産するだろう、破産した――どういう状況かは断定しきれなかったが――突然明らかになった。フランクは忙しくて説明どころではなかった。シカゴの火事のせいだった。市財務官の話はまだ出ていなかった。フランクは罠にはまり必死に戦っていた。
この危機の中で、リリアンはひとまず夫の不貞に関する手紙のことを忘れた、いや、あえて無視した。驚き、怯え、呆れ、困惑した。その小さくて穏やかな美しい世界はめまぐるしくぐるぐる回っていた。家族の富を積んだ豪華絢爛な船はあちこちで情け容赦なく翻弄されていた。ベッドにとどまって眠る努力をするのがある種の義務だとリリアンは感じたが、目は冴え渡り、考えると辛かった。数時間前にフランクが、自分のことは気にしなくていい、きみには何もできないと言ったので、自分の義務の境界線はどこにあってどういうものかしら、と以前に増して悩みながらリリアンはフランクを独りにした。夫唱婦随と昔から言うから、リリアンはそれに倣った。そうよ、信仰でもそうだし、昔からそうだもの。子供だっているんだし。子供たちが傷つくのはよくないわ。むしろ、フランクに改心してもらわないと。フランクならそれくらい乗り越えるでしょう。でも、いい迷惑だわ!
第三十一章
フランク・A・クーパーウッド商会が銀行業務を停止したことは取引所とフィラデルフィア全体に大きな波紋を広げた。あまりに予想外の出来事であり、額が割りと大きかった。負債額は約百二十五万ドルに及び、株価の低迷で資産の総額はかろうじて七十五万ドルだった。貸借対照表が最終的に公開されるまでに相当苦労があった。しかし発表されると株価は全体でさらに三ポイント下落した。翌日の新聞はこれに派手な見出しをつけた。クーパーウッドは永久に倒産したままでいるつもりはなかったが、いったん業務を停止して、可能であれば、債権者を説得して再開させたかった。それを阻むものが二つだけあった。馬鹿げた低金利で市から借りた五十万ドルの問題は、言葉よりもはっきりと何が起きていたのかを物語った。もう一つは六万ドルの小切手の問題だった。後々業務を再開するときに助けてくれそうな大口債権者たちに有利になる資産の譲渡方法を思いついたのでクーパーウッドは速やかに実行した。実際にハーパー・シュテーガーが、ジェイ・クック商会、エドワード・クラーク商会、ドレクセル商会などを優先者に指定する文書を作成した。たとえ不満を抱いた会社の小口株主が訴訟を起こして、後で再調整や倒産に至ったとしても、最も有力な支援者を優遇する意向を示すことが重要なのをクーパーウッドは知っていた。先方はこれを好感するだろうし、後でこの事態がすべて収まったときに尽力を願えるかもしれなかった。それに、株式と常識が回復するまで訴訟が多い方がかえってこの種の危機を乗り切るのに好都合だった。いくらでも訴えればいいと思った。問題を解決している間にハーパー・シュテーガーは、笑顔の少ないこの金融混乱の渦中でさえ、一度かなり残忍な笑みを浮かべた。
「フランク」シュテーガーは言った。「やりましたね。まもなくここで集団訴訟が広がりますよ。どうせ誰も勝てないのに。みんなで訴訟し合うんでしょうね」
クーパーウッドは微笑んだ。
「私はただ少し時間がほしいだけだよ」と答えた。それでも生まれて初めて少し落ち込んだ。何年も一生懸命働いて心血を注いたこの仕事がこれで終わったからだ。
この問題全体の中でクーパーウッドを最も悩ませていたのは、自分が市に返済義務を負っていて、これが広く知れ渡れば政治や社会の中心にまで波及することがわかっている五十万ドルではなく――少なくとも、こっちは合法というか合法に近い取引だった――減債基金に預けられずじまいで、たとえ必要な金が天から振ったとしても、今さら預けられない取り戻し損ねた六万ドル分の市債の証書の問題だった。現物がないのが事の起こりだった。クーパーウッドはこの状況をよく考えた。モレンハウワーかシンプソン、もしくはその両方のところへ行き(クーパーウッドはどちらにも会ったことはなかったがバトラーに見捨てられたとなるとこの二人だけが頼りだった)、今は五十万ドルを返済できないが、もし今自分に不利な措置がとられず、少しして通常規模での事業の再開に支障がなければ、問題の五十万ドルはいずれ市に全額返還します、と申し出ようと考えた。もし相手が断り損害を被ったら、どう考えてもありえない自分の「状況が回復して準備が整う」まで、相手を待たせておくつもりだった。しかし実際には、クーパーウッドへの不利な活動の妨げ方は――彼らでさえ――はっきりとはわからなかった。その金は、市への負債としてクーパーウッドの帳簿には記載されており、市の帳簿には彼から未回収と記帳されていた。そのほかにも「市民による自治体改革協会」という地方組織があり、時折、公務に関連した調査を行っていた。クーパーウッドの使い込みはきっとこの団体の耳に入るだろうし、公的な調査が始まるかもしれなかった。すでにいろいろな個人がこのことを知っていた。例えば、今クーパーウッドの帳簿を調べている債権者たちである。
モレンハウワーかシンプソン、あるいはその両方に会うということが、とにかく重要だとクーパーウッドは考えた。しかしその前にハーパー・シュテーガーにすべてを話しておくことにした。店を閉めてから数日後にクーパーウッドはシュテーガーを訪ねて、取引の全容を打ち明けた。しかし、無事に生き延びられない場合は減債基金に証書を収めないつもりだったことだけは打ち明けなかった。
ハーパー・シュテーガーは、背が高く、細身で、優雅な、かなり品のいい男性で、優しい声と完璧なマナーを兼ね備えていた。まるで彼が猫で、どこか近くを犬がうろついているかのようにいつも歩いた。かなり女性にもてそうな面長の細い顔をしていて、目は青く、髪は茶色で、砂のような赤が混じっていた。考え事でもするように口を覆った細い華奢な手の上から、じっと謎めいた視線を時々相手に向けることがあった。彼はどこまでも残酷だった。攻撃的だからではなく無関心だったからだ。そもそも何も信じていなかった。貧乏ではなく貧しい生まれでさえなかった。生まれつき繊細で、自分はもっと裕福になるべきだ――もっと脚光を浴びるべきだという、かなり建設的な考えの持ち主で、彼を仕事に駆り立てたのはおそらくそれだけだった。弁護士として成功するのにクーパーウッドは格好の手段だった。おまけに上客だった。シュテーガーはクライアントの中でもクーパーウッドのことが大好きだった。
「訴えさせればいいでしょう」このときシュテーガーは言った。その法律に詳しい頭脳は即座にこの状況のあらゆる局面を把握していた。「法解釈の技術的な起訴以外はやりようがないでしょうね。私はそうなるとは思いませんが、もしそういうことになったとしたら、その起訴内容は横領罪か受託者窃盗罪になるでしょうね。この場合だとあなたは受託者ですから。そして、それを免れる唯一の方法は、あなたがステーネルの了承を得てその小切手を受け取ったとはっきり言うことです。そうなると、私の見るところでは、あなたの側の無責任を技術的に訴えるしかないでしょう。この関係の実態を証拠にして、陪審があなたを有罪にするとは思えません。それでも、まあ、陪審の出方はわかりませんがね。ですが、裁判ではすべてが表に出ます。私が見た感じでは、すべてはあなたがた二人――あなたとステーネル――次第です。陪審がどちらを信じたがるか、それと市民がどれだけステーネルを生贄にしたがるか、です。次の選挙がかかってますからね。もしこのパニックがもっと別の時に起きていたら――」
クーパーウッドは手を振って黙らせた。そんなことは百も承知だった。「すべては政治家の決定次第だ。私じゃわからない。状況が複雑すぎるしもみ消しようがない」二人はクーパーウッドの自宅のプライベートオフィスにいた。「なるようにしかならない」と付け加えた。
「ハーパー、あなたの言うように受託者の窃盗容疑で、私が裁判にかけられて有罪判決を受けたら法的にはどうなるのかな? 最長で刑期は何年くらいになるんだい?」
シュテーガーは手で顎をなでながら少し考えた。「そうですね。そこが聞きたいところですよね? 法律では一年から最長で五年となってますが、横領事件では普通、平均で一年から三年の判決がでますね。もちろん、この場合――」
「その辺はすべてわかっている」クーパーウッドはいらいらしながら、さえぎった。「私の事件は他とは違う。そういうことだろ。政治家が話をそっちへ持っていきたければ横領は横領なんだ」クーパーウッドは考え込んだ。シュテーガーは立ち上がって、のんびりと歩き回った。彼もまた考えていた。
「裁判が続いている間は――上級審で最終的な判決が出るまで――ずっと収監されていないといけないのかい?」クーパーウッドはしばらくしてから厳しい顔をして率直につけ加えた。
「そうですね、こういう法的手続きでは一時的にその時期があります」今度は耳をこすって、この問題をできるだけ婉曲な表現にしようと努力しながらシュテーガーは慎重に答えた。「このような事件でも初期の段階は、ずっと収監を免れることができます。しかしいったん裁判にかけられて有罪が確定すると、何をするにしてもかなり難しくなります――実際ところは、再審請求と合理的疑いの認定を獲得するまでの数日間、五日くらいですが、刑務所に入ることが絶対に必要になります。普通はそのくらいかかりますね」
若い銀行家は座ったまま窓の外を眺めていた。シュテーガーは言った。「ちょっとややこしいでしょ?」
「まあ、そうだろうな」フランクは向き直って自分に言い聞かせるように付け加えた。「刑務所か! 五日も牢屋にはいるのか!」どう考えてもひどい仕打ちだ。得られるにしても、合理的な疑いの認定を受けるまで五日も牢に入るのだ! これは避けなければならなかった! 牢屋! 刑務所! そんなことにでもなったら会社の評判はガタ落ちだ。
第三十二章
この問題は時間を追うごとに深刻化していたため、バトラー、モレンハウワー、シンプソンによる最終的な話し合いが急務となった。シカゴの大火ですでにパニック状態だった金融状況をさらに悪化させる巨額の損失を出した上に、クーパーウッドとステーネルが、あるいはクーパーウッドと組んでいたステーネルが、あるいはその逆が、五十万ドルもの市の公金まで巻き添えにしていたという噂が三番街に流れていた。問題は、まだ三週間先の選挙が終わるまで、この件をどうやって伏せておくかだった。クーパーウッドが自分の破綻を知ったのちに、ステーネルの同意も得ずに、市から受け取った小切手のことで、銀行員とブローカーは互いに変な噂を交換していた。また、「市民による自治体改革協会」という、とても厄介な政治団体の耳に入る恐れがあった。この団体はスケルトン・C・ウィートという謹厳実直で清廉潔白な名高い製鉄工が会長を務めていた。ウィートは長年、与党共和党の政権の足跡を追い続けて、その政治腐敗を少しでも自覚させようと無駄な努力を続けていた。ウィートは真面目で厳格な人だった――真面目くさった独善的な魂の持ち主で、義務という独特のベールを通して人生を見つめ、いかなる種類の激しい動物的情熱にも心乱さず、物事のありのままの秩序よりも十戒の唱える説を支持しながら自分の道を歩んでいた。
この委員会はもともと税務部門の不正に抗議するために組織されたが、それ以降は選挙のたびにこのテーマからあのテーマへと移り変わり、新聞の論評や小役人の怯えた改悛の情にその時々の自分の存在価値の証を見い出していた。しかしいつもは相手が、もっと高い政治権力者の庇護下に逃げ込んで幕引きになった――最後にたどり着いたところにいるのはバトラーとモレンハウワーとシンプソンだった。ちょうど今この組織は肝心の燃料と弾薬がない状態だった。クーパーウッドの譲渡は市の財政に関する犯罪が絡むだけに、政治家や銀行家の中には、ちょうど探していた武器をこの組織に与える恐れがあると見る向きもあった。
しかし、クーパーウッドが破綻した五日後に、クーパーウッドと有力政治家の間で決定的な会議があった。場所はフィラデルフィアに古くからいる富裕層の中心地のリッテンハウス・スクエアにあるシンプソン上院議員の自宅だった。シンプソンは、抜群の芸術センスを持つ、クエーカー教徒で、優れた蓄財の判断力を持っていて、政治的に優位に立ちたい自分の強い欲望を満たすためにそれを大々的に利用した。有力なあるいは必要な政治的支持者を金で得られる場合は全然惜しまなかった。自分の命令を忠実に質問もせずに実行する者には役職――委員、評議員、裁判官、政治的な推薦、多岐にわたる行政職――をちゃんと与えた。バトラーやモレンハウワーに比べても国家と国民を代表するだけあって、どちらよりも力があった。国政選挙を有利に運ぼうとする政界の有力者が、ペンシルベニア州の共和党の動向を知りたいときに働きかける相手はシンプソン上院議員だった。その言葉の文字通りの意味で彼は知っていた。この上院議員は州政から国政に移って久しく、ワシントンの合衆国上院では興味深い存在で、そこの保守的で金が絡む評議会での彼の発言は大きな重みがあった。
ヴェネチア様式の四階建ての邸宅には、花模様の窓や、尖り気味のアーチを持つ扉や、壁にはめ込まれたカラーの大理石の円形の浮き彫りなどの建築上の特徴が数多くあった。上院議員はヴェニスが大好きだった。アテネやローマと同じように、その地をたびたび訪れては、古い時代の文明と文化を代表する多くの芸術品を持ち帰ってきた。例えば、ローマ皇帝のいかつい頭部の彫刻や、ギリシャへ芸術的な憧れを抱いているのがよくわかる神々や女神の断片的なものが好きだった。この家の中二階には、秘蔵の宝物の一つがあった――彫刻と装飾が施された台座には、高さ四フィートほどの先細りの一枚岩が乗っていて、それがヤギのような変な姿の牧羊神パンの頭部を頂き、両側に美しい裸のニンフと思しき残骸があった――足首のところで折れた小さな足があるだけだった。ニンフとの足と一枚岩が立つ台座には、牛の頭蓋骨の彫刻に、バラを絡ませた装飾が施されていた。応接間にはカリギュラやネロなどローマ皇帝のレプリカがあり、階段の壁には並んで踊るニンフと、羊や豚のささげ物を祭壇にそなえる司祭の浮き彫りがあった。家のどこかの片隅に時計があって、十五分、三十分、四十五分、一時間ごとに、風変わりな耳になじむ悲しそうな音を鳴らした。各部屋の壁にはフランドル地方のタペストリーがあり、応接間と書斎とリビングと客間にはイタリア・ルネッサンス様式の豪華な彫刻が施された家具があった。上院議員の絵画を見る目は十分ではなく、自分でも疑っていたが、所蔵する絵画は出どころが確かなだけあって本物だった。それよりも、小さな輸入品のブロンズ像と、ベネチアングラスと、中国の翡翠でいっぱいの美術品収納ケースを大事にしていた。何か強い思い入れがあってこれらを収集したわけではなく、目ぼしい数点がただ気に入っただけだった。立派な虎や豹の皮の敷物と、長椅子にあるジャコウ牛の毛皮と、テーブルのなめし革と茶色く染めたヤギと子ヤギの皮は、優雅さと控えめな豪華さを感じさせた。さらに、ジェームズ一世時代風の優れた趣のあるダイニングルームと、地元で一番のワイン醸造家が丹精込めて面倒を見てくれるワインセラーがあった。シンプソンは贅沢なもてなしが大好きな人だった。自宅が晩餐会やレセプションや舞踏会のために開放されると、地元の社交界でもトップクラスの姿がそこで見受けられた。
会議は上院議員の書斎で行われた。シンプソンは、得るものが多く失うものが少ない人物特有の温和な雰囲気で仲間を迎えた。テーブルの上にはウィスキー、ワイン、葉巻があり、モレンハウワーとシンプソンはバトラーの到着を待つ間にその日のありふれた話をしながら、葉巻に火をつけた。自分の心に秘めた思いは、自分の心にとどめておいた。
前日の午後、バトラーが地方検事のデビッド・ペティ氏から六万ドルの小切手のやり取りの話を聞いたのは偶然だった。同じ頃、この問題はステーネル本人からモレンハウワーのところにも持ち込まれていた。クーパーウッドの問題をうまく利用することで、地元の党は責任を免れるかもしれない、それと同時にバトラーとシンプソンには何も知らせずにクーパーウッドから路面鉄道株を巻き上げられるかもしれない、と考えたのはバトラーではなくモレンハウワーだった。やるべきことは、それとなく起訴をちらつかせて相手を脅すことだった。
バトラーが間もなく到着して遅れを詫びた。最近の悲しみが表に出ないように隠しながら、できるだけ明るい雰囲気で話し始めた。
「こっちは生き生きと暮らしているのに、街じゃどの銀行も自分たちの融資をどう扱っていいのかとやきもきしてますな」バトラーは葉巻を取ってマッチをすった。
「少し懸念材料になっているようですね」シンプソン上院議員は微笑みながら言った。「かけてください。さっきジェイ・クック商会のアベリー・ストーンと話したところなんですがね、クーパーウッドの破綻にステーネルが関係しているという三番街での話がとても大きくなっていて、何か手を打たなければ、じきに新聞がこの問題を取り上げるに違いないと言うんです。きっとすぐにこのニュースは『市民による自治体改革協会』のウィート氏にも届くでしょう。みなさん、ここらで今後の対応を決めないといけません。まずは、できるだけ目立たないようにステーネルを候補者から除外することだと思います。これはかなり深刻な問題になりそうに見えるんです。後でその影響を弱めるためにも今のうちにできることをやっておくべきです」
モレンハウワーは葉巻を深く吸い込むと、鋼色の雲が回るように煙を吐き出した。向かいの壁のタペストリーをじっと見て無言でいた。
「一つだけ確かなことがある」シンプソン上院議員は少しおいて、誰も話さないのを確認してから話を続けた。「それは、しかるべき期間内にこちらが起訴しなければ、他の誰かがそれをやってしまい、そのせいでこの問題がかなりひどいことになってしまうということです。私の考えは、他の誰かが――多分、あの『市民による自治体改革協会』あたりに、訴えられるのがかなりはっきりするまで待ちはするが、こちらも起訴を計画していたように見える形で、いつでも踏み込んで起訴できる準備を整えておくことです。やることは時間稼ぎですな。そこで、できるだけ財務官の帳簿に手が届きにくくする措置を講じることを提案します。もし捜査が始まれば――その可能性がとても高いと思うが――そこで真相の究明にかなり手間取るはずだ」
上院議員は重大問題になると、大事な仲間に気取った言い方はしなかった。ありのままを大げさに言うのが好きだった。
「私にはとても理にかなっているように聞こえます」バトラーはくつろごうとして少し深く椅子に座って、この問題に関する自分の本音を隠しながら言った。「あの連中なら三週間はその調査を続けるかもしれません。私の記憶違いでなければ、他のことも十分ゆっくりやってますしね」このときバトラーは、地元の党の活動全体を軽視していると思われないようにしながら、クーパーウッド個人の問題と彼の迅速な起訴を盛り込む方法を考えていた。
「そうですね、それは悪い考えじゃない」モレンハウワーは煙の輪っかを吐きながら、クーパーウッドの極めつけの犯罪がこの会議もそうだが、自分が彼に会うまで、議題にのぼらならないようにする方法を考えながら厳粛に言った。
「とても慎重に段取りを立てないとなりません」シンプソン上院議員は続けた。「やむを得ず行動するにしても迅速に実行できるようにね。そこまで早くないにしてもこの問題はきっと一週間以内には表に出ると私は信じてます。もう失う時間がない。私の今の進言でよろしければ、市長には財務官に手紙で情報の問い合わせをしてもらう、そして財務官は市長に答弁書を提出する、さらに市長は議会の権限でしばらく財務官の活動を停止させる――我々にその権限はあると思うが――あるいは少なくとも、その主たる職務を引き継ぐこととし、その期間は別として、とにかくこの措置を一切公表しない――もちろん、やむを得なくなるまでだがね。行動を取らざるを得なくなった場合に、この手紙のやり取りをすみやかに報道陣に公表できる準備を整えておくべきです」
「もしみなさんに異存がなければ、私の方でその手紙は準備できます」モレンハウワーは静かに、すかさず割り込んだ。
「まあ、その辺が妥当ですね」バトラーはあっさり言った。「他に責任をとらせる相手を見つけられない限り、この状況で我々に出来るのはそれくらいですな。そこで私はその方向で一つ提案があります。よくよく考えてみると案外我々は手がないわけではないのかもしれません」
この発言中バトラーの目にはわずかに勝利が輝き、同時にモレンハウワーの目にはわずかに失望が影を落とした。そうか、バトラーは知っていたのか、ひょっとしたらシンプソンも知っているかもしれない。
「と言いますと?」上院議員は興味津々な様子でバトラーを見ながら尋ねた。六万ドルの小切手のやり取りについてシンプソンは何も知らなかった。上院議員は自治体の会計内容まで念密に把握してはいなかったし、このメンバーの最初の会議以来、どちらとも話をしていなかった。「これには外部の人間は関わっていなかったのではありませんか?」持ち前の抜け目のない政治的思考が活動していた。
「関わっていません。確かに彼を外部の人間とは言いませんからね、上院議員」バトラーは穏やかに続けた。「私が考えているのはクーパーウッドなんです。最後にみなさんと会ってから、あることがありまして、もしかしたらあの青年は見かけほど無害ではないのかもしれないと思いましてね。まるで彼の方がこの事件の首謀者で、ステーネルの意に反する方向へ誘導していたように私には見えるんです。私なりに調べてみたのですが、私の見る限りではこのステーネルという男は思ったほどひどくはありません。わかった限りですが、クーパーウッドはもっと金を渡さないのかとステーネルをああだこうだと脅していたんです。つい先日も、虚偽の申し立てで大金をせしめましたからね。そういうわけですから彼をステーネルと同罪にできるかもしれません。代金支払い済みの六万ドルの市債の証書が減債基金に収められていないんです。それに党はこの秋にイメージダウンを食らうのですから、何も我々が彼に特別な配慮をする必要はないでしょう」言うそばからバトラーはこれでクーパーウッドにこの上なく危険な矢を放ったと強く確信して話をやめた。前回会ったとき、バトラーはこの若い銀行家にかなり好意的だったのを見ていただけに、このときばかりは上院議員もモレンハウワーも少なからず驚いた。それにこの新発見はバトラーの態度を悪化させるきっかけになるほどのものには思えなかった。バトラーがクーパーウッドと親しいのがネックになるかもしれないと考えていただけに、とりわけモレンハウワーの驚きはひとしおだった。
「うーん、よく言ってくれました」シンプソン上院議員は青白い手で口もとをなでながら考え込むように言った。
「はい、私もそれを裏付けることができます」クーパーウッドを脅して路面鉄道株を巻き上げるちょっとした秘密の計画がちらちらするのを目の当たりにしながら、モレンハウワーは静かに言った。「先日まさにこの問題のことでステーネルと話をしました。クーパーウッドはステーネルにさらに三十万ドル出せと強要し、ステーネルが拒否すると、ステーネルが知らないうちに了承も得ずにさらに六万ドルをせしめたと言うんです」
「どうしてそんなことができたんですか?」シンプソン上院議員は信じられないといった様子で尋ねた。モレンハウワーはそのやり取りを説明した。
「なるほど」モレンハウワーが説明を終えると上院議員は言った。「どうやらかなりの切れ者ってわけですな? そしてその証書が減債基金に収められていない、と?」
「ないんです」バトラーはかなり熱くなって口を挟んだ。
「むしろ」シンプソンはかなり安心した様子で言った。「これで事態はかなり好転したように私には見えますね。責任をかぶせるのもいいかもしれない。こういうのが必要なんです。こういう事情ではクーパーウッド君を守る理由が見当たらない。もしやらねばならなくなったら、その点を強調したほうがいいかもしれない。新聞がこれを他のこと並に声高に取り上げるといいな。きっと取り上げるに違いない。もし我々が新聞に正しい取り上げ方を提示すれば、たとえウィート君が干渉したとしても、この問題がうまく片付く前に選挙は終わるかもしれない。新聞対策は喜んで私が引き受けよう」
「まあ、そうなると」バトラーは言った。「今できることはあまりありませんな。ですがクーパーウッドが仲間と一緒に処罰されないとしたら、それこそ間違っていると思う。それ以上ではないにしてもステーネルと同罪ですからね。私としてはあいつがそれ相応の報いを受けるところを見たいものだ。あいつは刑務所へ行けばいい。私の意見としてはそこがあいつの行くところですよ」モレンハウワーとシンプソンは、いつも温厚なこの仲間にそれとなく好奇の目を向けた。突如クーパーウッドを罰しようと決意した理由は何だろう? モレンハウワーとシンプソンはそう見たし、バトラーも普段はそう見ていたように、厳密には法的権利ではないにしてもクーパーウッドは十分にバトラーの身内だった。だからクーパーウッドにそれをやらせたことでステーネルを責めることはあっても、クーパーウッドがしでかしたことをやろうとしたからといって、その半分も彼を責めてはいなかった。しかしバトラーは彼が罪を犯したと感じたし、解釈によってはここには確かに犯罪が存在したので、たとえクーパーウッドが刑務所に入ったとしても、党はそれをうまく利用すべきであると全会一致した。
「そのとおりかもしれません」シンプソン上院議員は慎重に言った。「手紙の準備は頼んだよ、ヘンリー。もし選挙前に誰かに対して訴訟を起こさなければならないのなら、クーパーウッドに対して起こすのが得策だろう。その必要がなければやらないが、やらなければならない場合はステーネルも含めないといけません。私は来週の金曜日にピッツバーグに行かねばならないので、その件はお二人にお任せします。 あなたたちなら何事にも抜かりはないでしょうからね」
上院議員は立ち上がった。彼の時間はいつだって貴重だった。バトラーは自分が成し遂げた成果にえらくご満悦だった。党に対して市民が騒いだりデモを起こした場合は、最初の犠牲者をクーパーウッドにすると三人の前で態度を表明することに成功した。そのために今必要なのは、騒ぎが起きることだった。地元の状況を見る限り、それは遠い先の話ではなかった。クーパーウッドに不満を持つ債権者たちのことも調べなければならなかった。もしその分を買い取って、クーパーウッドが金融事業を再開するのを阻止できれば、バトラーはクーパーウッドをとても不安定な状態に置くことができるのである。今日はクーパーウッドにとっては悲しい日になったとバトラーは思った――クーパーウッドが最初にアイリーンを悪の道に誘おうとした日だった――そしてバトラーがそれをクーパーウッドに証明できる日も遠くはなかった。
第三十三章
一方、クーパーウッドは自分が見聞きしたことから、政治家たちが自分に罪をなすりつけようとしていることと、それが間もないことをますます確信するようになっていた。店を閉めてからほんの数日後に、まずスターズがやってきて重要な情報を教えてくれた。アルバートはステーネルと同じようにまだ市の財務局に関係していて、ゼングスタックともう一人のモレンハウワー直属のスタッフと一緒に財務官の帳簿の調査や財務内容を説明する仕事に従事していた。スターズがクーパーウッドのところに来たのは、主に六万ドルの小切手とそれに関する私的な問題について、追加のアドバイスを受けるためだった。ステーネルは自分の主席事務官を訴えると脅していて、金を失ったのはその者の責任であり、その者の保証人にもその責任があると言っているらしかった。クーパーウッドはただ笑って、そんなことはできない言ってスターズを安心させた。
「アルバート」クーパーウッドは笑顔で言った。「はっきり言っておくが、何てことはないんだ。あの小切手を私に渡したからといってあなたに責任はない。どうすればいいか、今すぐ教えてあげよう。私の弁護士のシュテーガーのところへ行って相談しなさい。あなたが一セントも負担しなくても、彼が何をすればいいのかをきちんと教えてくれるからね。さあ、もうそんなことは心配せずにお帰りください。この私の異動であなたにはすっかり迷惑をかけましたね。すいません。どうせ百に一つもあなたは新しい市財務官とは一緒にいられなかったでしょう。もし後であなたにふさわしい職場を見つけたらお知らせしますよ」
このときクーパーウッドを立ち止まらせて考えさせたもう一つのことは、アイリーンが寄越した手紙だった。ある晩、バトラーが不在のときにのバトラー家のディナーの席で交わされた会話が詳しく書かれていた。アイリーンは兄のオーエンが実際にどんなことを言ったかを説明した。それによると、政治家たち――つまり自分の父親、モレンハウワー、シンプソンが、何かの犯罪的な金融操作――アイリーンには説明できなかった――と小切手か何かの容疑で「彼を捕まえる」つもりだった。アイリーンは心配でたまらなかった。刑務所に入れるってことかしらと手紙の中で尋ねた。あたしの大事な愛する人が! あたしの愛しいフランクが! こんなことが本当にあなたの身に起こるの?
手紙を読むうちに顔が曇り、クーパーウッドは怒りで歯を食いしばった。これは何とかしなければならない――モレンハウワーかシンプソン、あるいはその両方に会って、市に何かを申し入れなければならない。今のところお金を約束することはできない――手形を切るしかない――しかしそれでも向こうは受け取るかもしれない。まさか向こうだって、こんな小切手の受け渡しのような些細で不確かな問題で、自分に責任をなすりつけたりはしないだろう! 前任の市財務官たちの過去のいかがわしい取引は言うまでもないが、その前にステーネルの五十万ドルがあるではないか! 汚いぞ! まさに政治、しかし現実であり危険なのだ。
しかしシンプソンは十日ほど街を離れていた。そしてモレンハウワーはクーパーウッドの悪事を党のために利用しようというバトラーの提案を念頭に置いて、すでに計画通りに動いていた。手紙は準備が整い出番を待っていた。実際、あの会議以来、子分の政治家たちは親分に倣って六万ドル小切手の話を熱心に広め、もしあるとすれば公金の不正支出の責任は銀行家にあると力説していた。しかしモレンハウワーはクーパーウッドを見た瞬間に、侮りがたい強烈な個性の持ち主だと気がついた。クーパーウッドは怯えた様子を見せなかった。落ち着きはらって、習慣で市から低金利でお金を借りていたら、このパニックに巻き込まれてしまい、今は返そうにも返せないと述べただけだった。
「噂を耳にしたんですが、モレンハウワーさん」クーパーウッドは言った。「この件でステーネルさんの共犯として私が告訴されるそうですね。私は市がそのようなことをしないことを望んでいます。そして、それを防ぐためにもあなたの影響力をお借りできればと思った次第です。問題が片付くのに少し時間さえいただければ、私の財務内容は決して悪い状態ではありません。私は今、債権者全員に一ドルあたり五十セントを打診して、一年、二年、三年の期日の手形を渡しています。ですがこの市からの融資に関しては、もし折り合いがつけばですが喜んで百セント出したいと思っています――ただ、もう少し時間が欲しいんです。ご存知のように株は必ず回復しますから、現時点の損失を除けば、私は大丈夫なんです。この問題はすでにかなり行くとこまで行ったと私は思ってます。新聞っていうものは、コントロールできる人がとめない限り、いつ喋り出してもおかしくないですからね」(クーパーウッドは敬意を表してモレンハウワーを見た)「もしできるかぎり訴訟沙汰に関わらないようにできれば、私の地位は傷つかないですむでしょうし、立ち直るいいチャンスもつかめるんです。そのほうが市のためになります。そうなれば私は借りたものを返せるのですから」クーパーウッドはとびっきり魅力と愛嬌のある微笑みを浮かべた。初めてクーパーウッドを見たモレンハウワーは感じ入らないでもなかった。現に、この若い資本家に興味の目を向けた。もしこのクーパーウッドの提案を受け入れて、提供されたお金が最終的に自分のところへ来る方策が見つかっていたら、そして、もしクーパーウッドが早急に立ち直るという合理的な見込みがあったなら、モレンハウワーは自分が言わねばならないことを慎重に考えただろう。だってそうなれば、クーパーウッドは回復した財産を自分に譲り渡すことができたからだ。今のところ、この状況が先々よくなる見込みはほとんどなかった。聞くところによれば「市民による自治体改革協会」はすでに活動していた――調査をしていた、あるいはしようとしている。あいつらはいったんこれに着手したら、間違いなく最後まで追求するだろう。
「この問題の困った点はね、クーパーウッドさん」モレンハウワーは愛想よく言った。「これが事実上私でも手が届かないずっと遠くまで行ってしまったことなんですよ。実際、手の施しようがありませんしね。しかし、この五十万ドルの融資の問題なんて、先日あなたが受け取った六万ドルの小切手の問題に比べたら、それほどあなたを悩ませることじゃないと思うんですがね? ステーネルさんはあなたが違法に入手したものだと主張してますし、この件に関しては非常に憤慨してますよ。今じゃ、市長や他の市の職員たちの耳にも入ってますからね。彼らが何か行動を起こすかもしれませんよ。私にはわかりませんが」
モレンハウワーは明らかに率直な態度ではなかった――自分が役所で道具にしている市長をわざわざ引き合いに出して少し言い逃れをしていた。クーパーウッドはそれに気がついた。腹立たしい限りだったが、如才ないだけあって愛想と礼儀は欠かさなかった。
「確かに、私は六万ドルの小切手を受け取りましたよ」クーパーウッドは正面切って率直に答えた。「譲渡の前日の話です。ですが、あれは私がステーネルさんの指示で購入した証書に対するものですから、私が受け取るのは当然です。あの金は必要でしたからね。だから請求したんです。それのどこに違法性があるのか私にはわかりませんね」
「もしその取引が細部に至るまですべて完了したのであれば、違法ではありませんよ」モレンハウワーは平然と答えた。「この証書は減債基金向けに購入されたものだと私は理解しておりますが、それがそこにはないのですよ。あなたはそれをどう説明するのですか?」
「見落としただけです」クーパーウッドは何食わぬ顔で,そしてモレンハウワーと同じように平然と答えた。「あまりに思いがけない業務の明け渡しさえ強いられなかったらそこにあったでしょうね。自分だけではすべてに目が行き届かなかったんです。我々の慣習ではすぐに預け入れするようにはなっていませんでしたので。ステーネルさんに問い合わせれば、そう説明してくれますよ」
「ほお、そうですか」モレンハウワーは答えた。「彼からはそういう印象を受けませんでしたね。それに証書がそこにありませんから。そうなると法律的には何らかの違いが出ると思いますよ。いずれにしても私は、他の善良な共和党員の問題以上にはこの問題に関心ありませんね。あなたのために私に何ができるのか、よくわかりません。あなたは私に何ができるとお考えなのですか?」
「あなたが率直に私と取引したがらない限りは、あなたが私のために何かできるとは思いませんよ、モレンハウワーさん」クーパーウッドは少し厳しく答えた。「私はフィラデルフィアの政治に関して全然知らないわけではありません。指揮権を持つ方々についても多少は存じ上げてます。あなたならこの問題で私を起訴する計画を中止して、私が再起する時間を与えてくれると思ったんです。あの六万ドルには、その前に借りていた五十万ドル以上の刑法上の責任はありません――同じじゃないんです。私がこのパニックを引き起こしたわけじゃないし、シカゴの火事だって私が起こしたんじゃない。ステーネルとその仲間だって、私との取引で利益を得ていたんです。長年勤め上げたんですから、自分の身を守るために何らかの努力をする権利は絶対にあったはずです。それに現市政にこれだけ貢献した私が、なぜ特別な扱いをされてはいけないのか理解できませんね。市債はちゃんと額面価格を維持したんです。ステーネルのお金に関しては彼が利息も利息以上のものも欲しがらなかったんです」
「確かに」モレンハウワーはクーパーウッドの目をじっと見て、相手の力と正確さを実物の価値で評価しながら答えた。「経緯はすべて承知してますよ、クーパーウッドさん。間違いなくステーネルさんはあなたに感謝しているし、市政を司る他の方々も同様です。私は市政が何をすべきかすべきでないかを言ってるんじゃありません。私が知っているのはせいぜい、故意にせよ故意ではないにせよ、あなたは自分が危険な状況にいることと、ある方面の市民感情がすでにあなたにとても強い反感を抱いていることに自分でも気づいているってことくらいですよ。いずれにせよ私自身は何も感じてはいませんし、もしそれが手に負えないような状況でなかったら、何らかの合理的な方法であなたを支援することに反対するつもりもありませんでした。ところが、どうでしょう? 今度の選挙で共和党はとてもひどい立場にいる。悪意はないにせよ、ある意味で、あなたはそれを後押ししてしまったんです、クーパーウッドさん。私にはわからない何かの理由で、バトラーさん個人がえらくお冠のご様子だ。それにバトラーさんはここでは大きな力をお持ちでね――」(クーパーウッドはひょっとしたらバトラーが自分の反社会性をあおっているのかと思い始めたが、それを信じようという気にはなれなかった。それはありえなかった)「あなたには大いに同情しますよ、クーパーウッドさん。でもまずはバトラーさんとシンプソンさんに会うことをお勧めする。もし二人が何らかの救援活動に合意するなら、私は参加することに反対しない。しかし、それ以外だと私に何ができるのかよくわかりませんね。私はフィラデルフィアの問題にちょっとした発言権を持つメンバーの一人に過ぎませんから」
てっきりここでクーパーウッドが自分の資産の提出を申し出るとモレンハウワーはかなり期待したが、クーパーウッドはそうしなかった。その代わりに言った。「モレンハウワーさん、こうしてわざわざお会いしていただき、大変感謝しております。もしあなたにできるのであれば、あなたは私を助けてくださる方なのだと私は信じます。私としてはただ自分ができる最善の方法でこれと戦うしかないのです。失礼します」
クーパーウッドは一礼して退出した。自分が求めていることがいかに絶望的であるかがはっきりとわかった。
その間も、気づいてみれば噂はどんどん大きくなる一方だった。誰も積極的にこの問題を解決しようとしなかったので、「市民による自治体改革協会」のスケルトン・C・ウィート会長は、ついに、決して渋々ではなく、自分が議長を務める十名のフィラデルフィアの名士から成る委員会をマーケット・ストリートの地方委員会ホールに招集して、クーパーウッドの破綻の問題を議題にのせた。
「さて、みなさん」ウィートは語った。「これは、この組織がフィラデルフィア市と市民のために目覚ましい働きをして、そのために最初に選ばれたこの名称の意義と価値を証明できるいい機会だと思います。この事件のすべての事実を明らかにする徹底的な調査を行って、その背後にしっかりと立つことが、この事件であったと我々に知らされたこうした悪事が根絶することにつながるのです。それが困難な仕事かもしれないのは承知の上です。共和党と、党の地方と州の関係者たちが、私たちと対立することは確実です。党の指導者たちは間違いなくコメントを避け、自分たちの候補者が難なく切り抜けることを最も望んでいます。この問題で我々が活動を開始するのを、彼らが黙って見過ごすことはないでしょう。しかしもし我々がやり通せば、きっと大きな正義がそこから生まれます。このとおり、公の場にはあまりにも多くの不正行為が存在します。これらの問題には、永久に見過ごされてはならない、そして最後には守られねばならない正しい基準が存在します。みなさん、この問題を丁重に考えていきましょう」
ウィート氏は着席した。目の前にいるメンバーたちはさっそく彼が提案した事案を審議にかけた。(最終的に市民に発表する声明を出すために)「市政の最も重要で名高い部署の一つに今悪評を振りまいている異常な噂」を「調査する」分科会を設置して、翌日の夜九時に開かれる次の会議で報告することが決定された。会議は閉会して翌日の夜九時に再開した。その合間に、財務に非常に鋭い判断力を持つ四名が、与えられた仕事に取り組んでいた。完全に事実と一致するわけではなかったが、短時間で確認したにしてはほぼ事実に近い、非常に詳細な声明文を作成した。
(委員会が設立された理由を説明する前文の後で報告は始まる。)「市債が議会で承認されて、売却を担当する随意のブローカーの手に渡されると、短期間の売却で得た資金は、通常毎月一日にブローカーが財務官に報告するということが数年に渡って市財務官の慣例になっていたようである。本件では、フランク・A・クーパーウッドが市財務官のためにそのブローカー役を担当していた。しかし、この悪質で事務処理らしからぬシステムでさえも、クーパーウッド氏の場合は守られていなかったと思われる。シカゴ大火という偶発事態、それに伴う株価の下落、それに続くフランク・A・クーパーウッド氏の破綻が、一時的に問題を大きくしたため、当委員会は通常の会計処理が行われたかどうかを正確に確認することができなかった。しかし、クーパーウッド氏が担保設定用の債券(市債)を所有していた様子などから、同氏はこの問題について無責任な態度を取り続けた、そして数十万ドル相当の市の現金または有価証券を常に自分の管理下において、さまざまな目的のために操作していたと思われる。なお、これらの取引の結果の詳細は容易に知ることができない。
操作の中には、有価証券が発行される前に担保に入れられた多額の市債などもあり、担保に入れられた有価証券に対する注文が財務官の帳簿に正式に記載されていることが勘定項目の貸方欄で確認できる。このような手法は長期間にわたってとられていたようである。市財務官がこの業務内容を知らなかったというのは信じられないことであり、法令違反をして市の信用を利用し、利益を得るために、財務官とクーパーウッド氏の間で共謀があったことがうかがえる。
さらに、これらの担保が設定されて、市が市債の利息を支払い続けていた時期に、その分のお金は財務官のブローカーの手元にあり、市に対する利息は負担していなかった。市債の償還は延期された。市債は本来、市の金庫にあるべき資金で、クーパーウッド氏によって割引され大量に購入されていた。善意の市債購入希望者は、現在入手することができない。このため市の信用は、五十万ドル以上にのぼる現在の不正流用以上に大幅に傷つけられている。目下、会計士が財務官の帳簿を調べている。数日後には、その手口の全体像が明らかになるだろう。こうした取得手口を公開することがこのような悪質な行為を断ち切ることにつながることを期待する」
公益信託の悪用に関する法律の引用文がこの報告書に添付された。そして、しかるべき納税者が関係者を起訴する手続きを取らない場合、そうした行動は当委員会が設立された目的におよそ該当しないが、当委員会がそれを行うことが求められるだろう、と続いた。
この報告書はすぐに報道陣に配られた。クーパーウッドも政治家たちも、何らかの発表があるとは予期していたが、これは大きな痛手だった。ステーネルは恐怖で我を忘れて「自治体改革協会 会合開く」といういつもの見出しの発表を見て冷や汗をかいた。新聞はすべて市の政財界と密接な関係にあったので、あえて表に出たり、自分たちの考えを発表したりはしなかった。おおよその事実はすでに一週間以上も前から、さまざまな編集者や出版社の手に渡っていた。しかし、モレンハウワー、シンプソン、バトラーから、当面は軽く扱えとの指示が回っていた。騒ぎ立てたところで、フィラデルフィアのためにも、地域経済のためにもならなかった。市の名前に泥を塗ることになるし、昔からある話だった。
すぐに疑問が沸き起こった。本当に悪いのは誰だ、市財務官か、ブローカーか、両方か。実際に被った損失はいくらだったのか? それはどこに消えてしまったのか? フランク・A・クーパーウッドとは、いったい何者なのか? なぜ逮捕されないのか? どういうわけで彼が市の財政運営に深く関与するようになったのか? 後に「扇動的ジャーナリズム」と呼ばれるものはまだ登場しておらず、地方紙も、後で出てくるような要人のコメントを掲載してはいなかったが、地元の政界や社会の大物に手足を縛られながらも、何らかのコメントをしないわけにはいかなかった。社説も書かざるを得なかった。一個人が大都市と大政党にもたらしうる恥と不名誉について、厳粛で控えめな言及をわざわざしなければならなかった。
ひとまずクーパーウッドに責任を負わせて、しばらく党をその犯罪に対する非難の圏外に置くために、モレンハウワー、バトラー、シンプソンによって仕組まれたあのなりふり構わない計画が、ここで持ち出されて実行に移された。興味深くて不思議なことだが気づいてみれば、新聞はもちろん「市民による自治体改革協会」までもが、単独ではないにせよクーパーウッドに大きな責任があるという論調をすぐに採用した。ステーネルがクーパーウッドに金を貸したのは事実である――市債の販売をクーパーウッドの手に委ねたのも事実である。しかしどういうわけか誰もが、クーパーウッドが財務官をとことん悪用したという印象を持ったようだった。新聞社も委員会も自分たちで実際にそれを確認するまで、国の名誉毀損法を恐れてこれを口外できなかったが、減債基金にない証書の分の六万ドルの小切手を彼が略取した事実が示唆された。
やがて、市長のジェイコブ・ボルハルト氏がジョージ・W・ステーネル氏に宛てた、氏の行為について迅速な説明を求める厳命とされる重大な内部文書数通と、それに対する回答書が出てきて、すぐに新聞や「市民による自治体改革協会」に提供された。この手紙なら、共和党が党内の不届き者を一掃しようと躍起になっていることを示すのに十分だと政治家たちは考えた。そしてその手紙は選挙が終わるまでの時間もかせいでくれた。
―― フィラデルフィア市 市長室 ――
市財務官ジョージ・W・ステーネル 殿
一八七一年十月一八日
拝啓、あなたが市のために発行した多額の市債の証書は、市長からのいつもの引渡請求後にあなた管理下を離れたはずですが、その証書分の売上金が市の金庫に入金されていないという情報が入りました。
また、市の巨額の資金が三番街で事業を営む複数のブローカーもしくは銀行家の手に渡ることが容認され、その後当該ブローカーもしくは銀行家が財政難に陥ったとも聞きました。上記の理由により、市の利益は非常に深刻な影響を被る可能性があります。
この市の最高責任者として私に課せられた職務が、きちんと履行されるためにも、このような事実が存在するのであれば、これらの指摘事項の真偽を速やかに私に報告してください。
敬具
フィラデルフィア市長
ジェイコブ・ボルハルト
―― フィラデルフィア市 財務官室 ――
ジェイコブ・ボルハルト閣下
一八七一年十月一九日
拝啓、ただいま第二十一号連絡事項を受け取りました。残念ながら現時点ではお問い合わせの内容にお答えできない旨をご報告申し上げます。数年前から市債の換金を手がけてきたブローカーの滞納により、市が財政困難に陥ることは間違いありません。私はこの事実を知って以来ずっと市が被る損失を回避、軽減することに専念しております。
敬具
ジョージ・W・ステーネル
―― フィラデルフィア市 市長室 ――
市財務官ジョージ・W・ステーネル 殿
一八七一年十月二十一日
こうなった以上は当該責務がまっとうされない限り、あなたはこの通知をもって私が託した市債売却の全権を撤回、取消されたものとお考えください。市債に関する業務は当面の間、こちらで担当します。
敬具
フィラデルフィア市長
ジェイコブ・ボルハルト
果たして、ジェイコブ・ボルハルト氏は自分の名前が付記された手紙を書いたのだろうか? 否。アブナー・セングスタック氏がモレンハウワー氏のオフィスで書いたのである。そしてこれを見たときのモレンハウワー氏のコメントは、これならうまくいくと思う――うん、これなら上等だ、というものだった。では、フィラデルフィアの市財務官のジョージ・W・ステーネル氏はこんなとても気の利いた返事を書いたのだろうか? 否。ステーネル氏は完全に憔悴しきった状態で、一時は自宅の浴槽で泣き続けることさえあった。これを書いたのもアブナー・セングスタックで、これにステーネル氏の署名をもらったのである。これが送られる前にモレンハウワー氏が言ったコメントは、これなら「大丈夫」だと思う、だった。その頃は、暗闇のどこかに目をギラギラさせた大きな市民の味方の猫がいたために、小さなネズミたちはみんな慌てて身を隠し、年季の入った賢いネズミしか行動できない時期だった。
実はまさにこの時、モレンハウワー、バトラー、シンプソンの三氏は、数日かけて、地方検事のペティ氏を交えて、もしできるのであればその方向での責任をさらに強調するためにクーパーウッドに対してどんな措置がとれるか、またステーネル対してはもしあるのならどんな弁護ができるかを検討していた。バトラーは当然、クーパーウッドの起訴に積極的だった。ステーネルのために購入された路面鉄道株のいろいろな記録が、クーパーウッドの帳簿にたくさんあったから、ペティはステーネルの弁護ができるとは思わなかった。しかしクーパーウッドに対してなら――「考えさせてください」ペティは言った。まずはクーパーウッドを逮捕し、必要なら裁判にかけるのが良策ではないか、と考えていた。なぜなら、ただ逮捕されたというだけで、行政がすごく怒っているように見えるのは言うまでもないが、少なくとも一般大衆には、彼の方が罪が大きいというはっきりした証拠に見えるだろうし、結果として、選挙が終わるまで党の悪いイメージから注意をそらせるかもしれなかったからだ。
一八七一年十月二十六日の午後、ついにフィラデルフィアの市議会議長エドワード・ストロビクが、モレンハウワーの最終命令に従って市長の前に出頭し、横領罪と受託者窃盗罪を犯したとして、市債を販売するために財務官に雇われたブローカーのフランク・A・クーパーウッドを宣誓供述書をもって告発した。議長が同時にジョージ・W・ステーネルを横領罪で起訴することは問題にならなかった。彼らが責任を負わせたい相手はクーパーウッドだった。
第三十四章
この時、クーパーウッドとステーネルが見せてくれた対照的な姿には一考の価値がある。ステーネルの顔面は灰色に近い白で、唇は青かった。クーパーウッドは、この大騒ぎが暗示する投獄の可能性や、それが両親や妻子や仕事仲間や友人に及ぼしそうな影響を、いろいろ厳粛に考えはしたが、彼ほどすごい精神力ならそんなものだろうと人が思う程度に冷静沈着だった。この災難の渦中でさえ一度たりとも冷静さと勇気を失わなかった。あの良心というものは取り付いた相手を苦しめて破滅に追い込むことがあるというが、クーパーウッドのことは全然悩ませなかった。クーパーウッドは罪として広く知られているものなど眼中になかった。クーパーウッドの変わった二元論的考え方からすると、人生の盾には二つの面しかなかった。正しいと間違いか? そんなことは彼の知ったことではなかった。そんなものは気にも留たくない抽象的な難しさに縛られていた。善と悪か? それは聖職者のおもちゃであり、聖職者はそれを使って金儲けをしていた。時として、社会に受け入れられるとか、社会から追放されるということが、どんな不幸にも追い打ちをかけることがあるが、その、社会から追放とは何なのだろう? 自分や自分の両親はまだ上流社会の一員なのだろうか? そうでないなら、この今の混乱が収まっても、この先自分には社会的な復権や地位を築くことはないのではないだろうか? ありうることだった。道徳と背徳か? クーパーウッドは決してそんなことを考えなかった。となると、強さと弱さか――そうだ! 強ければ常に自分の身を守れるし何とかなる。もし弱者であるなら――さっさと後方に回って銃の射程外に出ることだ。クーパーウッドは強いし、それを知っていた。なぜか常に自分の運命を信じていた。何かが――自分にもわからないものが――ただの悩ましい目に見えないものが――自分に何かをしていた。それはいつだって自分を助けてくれた。時々物事を順調に進めてくれた。数々の絶好の機会をくれた。どうして自分はすばらしい思考力を授けられたのだろう? どうしていつも金運や人に恵まれるのだろう? その資格があったわけではない――獲得したのだ。偶然かもしれないが、自分はいつも守られていると思った――勘が働いた、行動しろという「虫の知らせ」がよくあった――そう簡単には説明できなかった。人生は暗く解けない謎だったが、それがどういうものであれ、強さと弱さは人生の二つの構成要素だった。強ければ勝つし――弱ければ負ける。自分が頼らねばならないのは、考える速さ、正確さ、判断力であり、それ以外はないのだ。自分は勇気とエネルギーに満ちた実に華麗な姿をしている――元気溌剌できびきびと動き回り、口髭はカールし、服にはアイロンがかかり、爪にはマニキュアが施してあり、顔はきれいに髭を剃り、健康的ないい色だった。
一方で、クーパーウッドは自らスケルトン・C・ウィートのところに出向き、自分は多くの前任者と違うことは一つもしていないと主張しながら、自分の立場を説明しようとしたが、ウィートは疑いを解かなかった。六万ドル分の証書が減債基金にないことがどういうことなのか、わかってくれなかった。クーパーウッドが慣習だと説明しても無駄だった。それどころかウィート氏は、他の政治家もクーパーウッドと同じように別の方法で金儲けをしていると見抜いて、クーパーウッドに共犯証言をするように勧めた。しかしクーパーウッドはそれを即座に拒否した――自分は「密告者」ではないとその旨を告げると、ウィート氏はただしかめっ面に笑みを浮かべた。
バトラーは(選挙結果が心配だったが)これでこの悪党を網にかけて自分は現状を脱しながらいいひとときを過ごせると思ったので上機嫌だった。共和党が勝利した場合、デビッド・ペティの後任の地方検事は、予定どおりバトラーが任命することになっていた――バトラーのために法律関係の仕事を随分してきた若いアイルランド人――デニス・シャノンだった。他の二人の党のリーダーはすでにその旨をバトラーに約束していた。シャノンは頭がいいスポーツマンのハンサムな男だった。身長は五フィート十インチ、砂色の髪、ピンク色の頬、青い目をした、かなりの論客の優秀な法律の戦士だった。この老人に気に入られた――候補者名簿に載るのを約束された――ことをとても誇りにしていた。シャノンは、もし当選したら、自分の知識と能力の限りを尽くしてバトラーの言うことを聞きますと言った。
クーパーウッドが有罪ならば、ステーネルも有罪にしなければならないことが、一部の政治家の間で一つだけ難点となっていた。誰がどう見ても、市財務官は逃れようがなかった。もしクーパーウッドが六万ドル相当の市の公金をだまし取ったことが罪なら、ステーネルは五十万ドルを確保してやったことが罪だった。その場合の刑期は五年だった。クーパーウッドなら無罪を主張し、自分の行為が習慣だったことを証拠として提出して、有罪を求める忌まわしい窮状から抜け出せるかもしれなかった。しかしそれでも彼は有罪を宣告されるだろう。彼に関する事実を突き止められる陪審などいないのだ。世論とは裏腹に、裁判ではクーパーウッドにかなりの疑問が生じかねないが、ステーネルにはその余地がなかった。
クーパーウッドとステーネルが正式に起訴されてからの状況の進展について具体的な流れを簡単に記しておこう。クーパーウッドの弁護士のシュテーガーは、クーパーウッドが起訴されることを事前にこっそりつかんでいた。シュテーガーはすぐに手配して、令状が出される前に依頼人を出頭させ、もし捜索が行われたらその後に生じる新聞の騒ぎを未然に防ごうとした。
市長はクーパーウッドの逮捕状を発行した。クーパーウッドはシュテーガーの計画に従って、直ちに弁護士随伴でボルハルトの前に出頭し、次の土曜日に中央警察署で事情聴取を受けるために(ジラード・ナショナル銀行頭取W・C・デービソンを保証人にして)二万ドルの保釈金を支払った。マーカス・オールドスロー弁護士が、市議会議長の代理人としてストロビクに雇われて、市に代わってこの事件を告訴することになった。市長はクーパーウッドをじろじろと見た。市長はフィラデルフィアの政界では比較的新人だったために、他の人たちほどクーパーウッドに馴染みがなかった。クーパーウッドはその視線に感じよく応えた。
「大したパントマイムですよ、市長さん」クーパーウッドは一度静かにボルハルトに言ってみた。市長は微笑みながら穏やかな目で、こっちだって、こうなってしまっては絶対に避けられない儀礼的な手続きなんだと答えた。
「あなただってその辺のところはわかってるでしょう、クーパーウッドさん」と言った。相手は微笑んで「まあ、そうですがね」と言った。
その後、中央裁判所と呼ばれる地元の警察裁判所に、多少形式的に何度か出頭し、そこで起訴されると無罪を主張し、最後に十一月の大陪審に出頭した。ペティの起訴内容の複雑さを考えると出頭するのが賢明だと考えたからである。クーパーウッドは地方検事に正式に起訴された。(新たに選出された地方検事のシャノンが実権を振っていた。)クーパーウッドの裁判は、十二月五日にこの種の犯罪を扱う州裁判所の地方支部である四季裁判所の第一法定でペイダーソン判事のもとで行われることになった。しかし起訴は、大騒ぎだった秋の選挙前に行われた。結果はモレンハウワーとシンプソンの巧みな政治工作(許されない投票箱への詰め込みや投票所での個人への暴力)のおかげで再び勝ったが、大きく過半数割れしてしまった。不正以外には起こり得なかった選挙の大敗を尻目に「市民による自治体改革協会」は悪の親玉と見なした相手に勇敢に攻撃を続けた。
この間ずっとアイリーン・バトラーは自分の強い体力と愛情の限りを尽くし、クーパーウッドに対する興味と先入観と熱意を抱いて、新聞や地元のゴシップが伝えるクーパーウッドの外見的な変化の流れを追い続けた。アイリーンは愛情が入ると全然理屈が通じなくなるが愛情が絡まなければ十分に賢かった。そしてしばしばクーパーウッドに会った。クーパーウッドはアイリーンに――彼の持ち前の警戒心が許す範囲で――多くのことを話した。アイリーンは新聞や家族の食卓や他の場所での私的な会話から、回りは彼を悪いと言うがそこまで悪くはないことを知った。アイリーンを慰めてその心を安らかにしてくれるのは、クーパーウッドが横領罪で公然と訴えられた直後の「フィラデルフィア・パブリック・レジャー」紙から切り取った一つの記事だけだった。アイリーンはそれを切り取って肌身離さず持ち歩いた。愛するフランクが犯した罪以上に非難されていると何だかその記事が示しているように思えたからだ。それは「市民による自治体改革協会」が発行した膨大な数の発表もしくは報告書の一部で、こうあった。
「この事件の数々の側面は、これまで世間に知らされた内容よりも深刻である。五十万ドルが失われたのは、販売されて計上されなかった市債が原因ではなく、財務官がブローカーに行った融資によるものである。当委員会は確かな情報筋から、ブローカーに売却された市債がその月の最安値で月次決済書に計上されたことや、このレートと実売レートとの差額分が財務官とブローカーとの間で山分けされたことや、決済用の低い価格を得るために、その月のいずれかの時点でマーケットを「売り崩す」ことが両者の利益になっていたことも知らされた。当委員会には、ブローカーのクーパーウッドに対して起こされたこの起訴が、世間の注意をもっと罪の重い当事者たちからそらすための努力にしか見えない。その一方でこの関係者たちは自分の都合のよいように問題を『片付ける』ことができるかもしれないのである」
「そうよ」アイリーンはこれを読んで思った。「わかってるじゃない」政治家たちは――クーパーウッドと話してわかったことだが自分の父親も含めた連中は――自分たちの悪事の責任をあたしのフランクに押し付けようとしているんだわ。フランクは言われているような悪人ではない。記事はそう言っている。アイリーンは「世間の注意をもっと罪の重い当事者たちからそらすための努力」という言葉にほくそ笑んだ。それはまさに、フランクが最近二人であちらこちらに出かけた幸せな二人だけの時間に、特に古い場所を放棄しなくてはならなくなってから南六番街に新しく構えた密会場所で、話していた言葉だった。フランクがアイリーンの豊かな髪を撫でて体を愛撫し、語ったところによれば、すべては彼にできるだけ多くの責任を負わせて、ステーネルと党全体への分をできるだけ軽くするために、あらかじめ用意された政治的な計画だった。きっと抜け出してみせると言ったのに、フランクは喋らないように釘を刺した。ステーネルとの長い実りの多い関係を否定しなかった。それがどういうものなのかを正確に話してくれた。わかった、あるいはわかったと思った。とにかくあたしのフランクがあたしに説明してくれた。それで十分だった。
クーパーウッド親子は最近でかい態度で成功者の仲間入りをしていたが、今はすっかり落伍者に身をやつしてしまい、生活まで立ち行かなくなっていた。フランク・アルガーノンがその生活を担っていた。フランクは、父親にとっては勇気であり力であり、弟たちにとっては精神でありチャンスであり、子供たちにとっては希望であり、妻にとっては財産であり、クーパーウッドの家名に威厳と重みをもたらすものだった。彼に関わりがある人々にとって彼は、チャンス、力、報酬、威厳、幸福を意味するすべてだった。そして、そんなすばらしい太陽が、明らかに黒い日食によって欠け始めていた。
たとえば、リリアン・クーパーウッドは家庭をバラバラにする砲弾のような破壊的な手紙を受け取ったあの運命の朝以来、トランス状態の人のように歩き続けた。この数週間毎日、外見はどう見ても平穏に自分の仕事をこなしていたが、内心は悩ましい思いに駆られていた。不幸のどん底だった。本来なら人生がしっかりした土台に立って、足場を固めるべき時期に、四十歳を迎えてしまった。ここでリリアンは、自分が成長して花を咲かせていた家庭という土から体を引きちぎられて、焼け付くような真昼の太陽の下とでもいう状況に無造作に放り出されて枯れようとしていた。
ヘンリー・クーパーウッドは銀行でも他のところでも立場が急速に頂点に近づきつつあった。すでに述べられたとおり、ヘンリーは息子に絶大な信頼を寄せていた。しかし、彼が考えても過ちが犯されていて、フランクは今そのことでとても苦しんでいると見なさずにはいられなかった。もちろん、フランクにだってああして自分を救おうとする権利があったとは考えた。しかし、今起きているような議論を巻き起こす事態に息子が足を踏み入れたことはとても残念だと思った。フランクはすばらしく優秀だった。すばらしい成功を遂げるにしても、市財務官や政治家に取り入る必要などなかったのだ。地元の路面鉄道と投機好きの政治家が敗因だった。この老人は、自分の太陽は沈みかけている、フランクの破滅に引きずられて自分も破滅する、この不名誉で――こうして公然と非難されるようでは――自分はおしまいだ、と悟りながら、終日、床の上を歩いた。ほんの数週間で髪は真っ白になり、足取りはおぼつかなくなり、顔は青ざめ、目は落ち窪んだ。かなり目立つ頬髯は今となっては過ぎ去ったいい時代を偲ぶ旗か飾りに見えた。その中でも唯一の慰めは、フランクが一ドルの未払いも残さずに第三ナショナル銀行との関係を事実上清算したことだった。だからといってその組織の経営陣たちが、その息子が市の金の略奪の片棒を担いだり、その名前が今やそれとの関係で世間に知れ渡った人物の存在を黙って許すはずがないことも知っていた。その上ヘンリー・クーパーウッドは年を取り過ぎていた。引退すべきだった。
だから、ヘンリーの危機はフランクが横領の容疑で逮捕された日に訪れた。シュテーガーからその情報をつかんだフランクを通じて、老人は危機の到来を知った。それでも銀行に行く勇気はあったが、行くのは重い石の重圧の下でもがくようなものだった。しかし出かける前に眠れぬ一夜を過ごして、取締役会会長のフレウェン・キャソン宛てに辞表を書き、すぐに手渡せるように準備をしておいた。キャソンは、ずんぐりした、がたいのいい、人を惹きつける、五十歳の男性で、それを見て内心ほっとため息をついた。
「大変なことだとお察ししますよ、クーパーウッドさん」キャソンは同情して言った。「我々は――取締役会の他のメンバーを代表して私から申し上げますが――あなたの立場のご不運を痛切に感じています。ご子息がこの件に巻き込まれた経緯だってちゃんと承知しています。市の仕事に関わったことがある銀行家はご子息だけではありませんからね。いずれにせよ、やり方が古いんです。我々はみんな、過去三十五年間にわたって、あなたがこの組織に貢献してこられたことを心から感謝しております。この難局を乗り切るにあたって我々にできることが何かあれば喜んでさせていただくところですが、あなたも銀行家である以上、それがいかに無理なことであるか、おわかりいただけることでしょう。すべてが波乱含みです。もし事態が落ちけば――もしこの事態がすぐに落ち着くのがわかったら――」キャソンは口ごもった。自分も銀行も、今このような形でクーパーウッドさんを失わざるを得ないのは残念です、と続けて言うことはできないと感じたのだ。クーパーウッド氏本人から切り出さねばならなくなった。
この間クーパーウッド氏はちゃんと話ができるようにと精一杯に気を引き締めていた。大きな白いリネンのハンカチを取り出して鼻をかみ、椅子に座ったまま姿勢を正し、かなり穏やかに両手を机にのせた。しかしひどく動揺していた。
「こんなことには耐えられん!」クーパーウッドはいきなり叫んだ。「もう、ひとりにしておいてください」
とても慎重な服の着こなしで、マニキュアまで塗っているキャソンは、立ち上がるとしばらく部屋から出ていた。たった今目撃したばかりの緊張のすごさは痛いほどわかった。ドアが閉められた瞬間に、クーパーウッドは両手で頭を抱えて、痙攣したように震え「自分がこんな目にあうなんて考えたこともなかった」とつぶやいた。「考えもしなかった」それから、しょっぱくて熱い涙をぬぐい、窓辺に行って外を眺めながら、これからどうしようかと考えた。