第48話
今日も今日とて早朝からシェーバお手製の弁当を作ってもらい、リリに元気な笑顔で宿から送り出してもらうと、エルは35階層に転移した。
本日は、この1か月間ひたすら修行に勤しんだ総仕上げとして、守護者と闘う積もりなのである。といっても、既にエルは何度か守護者と闘い打ち勝っていた。
今回の真の目的は、未だ出会えていない35階層最強の守護者、無慈悲な巨魔なのである。
35階層は他の階層と同じく転移陣を護る複数の守護者のうち、ランダムで出現する1体と闘うことができる。ただし、出現確率には偏りがあるのだ。
35階層に現れる守護者は3体であり、もっとも遭遇確率が高いのが電撃の雄羊、その次にポピュラーな守護者が砦犀である。この2体の出現確率は凡そ3対1程度であり、35階層の最奥にある転移陣に辿り着けば容易に出会える魔物達である。
電撃の雄羊は35階層の守護者の中で中間の強さを有しており、この魔物を倒せるがどうかで36階層に進める力があるか測れる、一種の指針となっている。名前の由来通り電撃を放ったり、羊毛に雷を蓄え巨体を生かした強烈な突進をしてきたり、またある時は麻痺性の雷球を放って冒険者を苦しめる、多彩な攻撃を有する魔物である。エルも初対戦の時は、回避の難しい厄介な攻撃に悩まされ手を拱いた。
ただ魔物にとって不幸だったのは、エルが鍛え過ぎていた事である。この1ヶ月の間に、気の武器化の練度を上げるために数多の魔物達と闘いを繰り広げ、倒した魔物の魔素を吸収する事で心身を大幅に強化していたのだ。電撃の雄羊の強烈な電撃も、全身を強固に圧縮した多量の気で包む事でエルまで届かせず、ご自慢の突進さえも気で強化したエルの発剄による体当たりで逆に吹き飛ばしてしまうという、無理やりな力技での攻略も可能になってしまっていた程であった。ただし、力押しで楽を覚えると自分の成長の妨げになるので、高速で飛来する電撃を躱す訓練をしたり、雄羊の弱点部位以外を攻撃したりして、あえて自分の行動に枷をする事で、守護者との闘いに緊張感を持たせ、己を磨くのだった。
また、砦犀については特筆すべき箇所が少なく、端的に述べれば35階層最弱の守護者である。攻撃手段は少なく、小山の様な巨体を用いた大質量の体当たり、あるいは頭に付いた角を下から上に持ち上げる事で相手を空に舞わせる跳ね上げぐらいである。ただし、鋼鉄もかくやという硬質な表皮と筋肉で刃を通さず、高い生命力も合さって長期戦を強いる面倒な敵でもある。まあ、攻撃手段が限られているので、避け損なうと致命傷を受ける体当たりにさえ注意しておけば問題なく倒せる敵であり、30階層最強の守護者であり驚異的な生命力と激しい連撃を得手とする九頭大蛇にも劣る魔物であった。また、堅牢な皮膚や筋肉があるといっても、悲しいことにエルには内部に衝撃を伝搬させる発剄の技や、徹気拳などの気を内部に浸透させる荒技を修めている。砦犀にとって、エルは天敵にも等しい存在であったのだ。
エルにしても、頭部に猛武掌を打ち込むだけで脳を破壊し倒せてしまったので、35階層を徘徊している魔物に毛が生えた程度の強さという認識しか持てなかった。この魔物は内部に気や衝撃を通すと余りにも脆く修行にもならないので、守護者の最大の特徴である強固で堅牢な表皮をあえて気の武器化を用いて貫く、ないしは切り裂く鍛錬相手として利用するのだった。
そして、未だ遭遇できていない無慈悲な巨魔であるが、出現確率は非常に低い。その強さは40階層の守護者並という噂であり、余裕のある冒険者以外は逃げる事を推奨される魔物でもある。出現率が悪いのも、35階層をやっと攻略できる程度の冒険者では勝ち目が無さ過ぎるので、神々が確率を調整したのだと言われる程の相手でもある。
成長したエルにとって他の守護者達は、もはや技の練習相手ぐらいにしかならないので、強敵と称されるこの悪魔に挑戦するために守護者達と連戦し続けた。
朝からほぼ守護者のみと闘い、時には挑戦しに来た他の冒険者に戦闘を譲ったりしたながら闘い続け、ようやく待望の敵と会い見えれたのは昼をとっくに過ぎ、体感で夕方に差し掛かるかという時のことであった。
転移陣から現れた巨魔は、巨人の肉体に山羊の頭部と蹄を持ち、全身がこげ茶色の毛深い体毛に覆われ、その肉体に反して飛ぶにしては不釣り合いに小さい蝙蝠の羽の様な気味の悪い翼を背に有していた。
エルをぎょろっとした気持ち悪い瞳で睥睨すると、理解できない不気味な大声で嘶いた。人間が生理的に嫌悪を感じる様な声である。それも大気が震えるほどの大声なので、エルも少々気分が悪くなり顔を顰める程であった。
そんなエルの表情の変化を感じ取り、悪魔は嬉しそうに笑った。人間の負の感情や苦しむ姿を見るのが、この魔にとって喜びなのだ。
悪魔
それは邪神の眷属であり、人間や生物達の負の感情を糧とし悪意と災禍を振り撒く、根本的に人類とは相容れない存在である。
エルもこの巨魔の明け透けな悪意から、直ちにあの残虐な魔神と同様に人を弄び、相容る事のできない不倶戴天の敵だと理解した。
この悪魔が生きている事が我慢ならない。
他の魔物相手では、ここまで敵意や害意を覚えた事などなかったが、この生きとし生けるものの敵である魔に相対すると、心の深奥から殺意が沸き上がってくる。
エルの身体から混沌の気が立ち昇り、瞳に必殺の意志が宿った。
エルの強烈な敵意を感じ取ったのか、巨魔は再び底気味悪い甲高い声で鳴くと、無数の拳大の火球を周囲に出現させると高速で射出した。
エルは何の逡巡もなく無慈悲な巨魔に向かって突っ込んだ。迫り来る大量の火球に恐れる事無く俊敏な動きで左右に回避すると、真一文字に悪魔目掛けて疾駆したのだ。
地に衝突し爆炎を撒き散らす火球の群れも、様々な敵の多点攻撃に慣れたエルにとっては特に脅威を感じる様なものではなかった。足に気を溜め脚力を強化した武神流の技、疾歩によって悪魔への間合いを一気に詰める。
そして、右手を手刀の形にして武器化させると悪魔の巨体目掛けて飛び掛かった。
断魔剣
悪しきものを断つ剣となれと願いを込め、気の武器化の修練によって恐ろしい程の斬れ味を得た手刀で、巨魔を両断せんと垂直に斬り付けたのだ。
だがこの不気味な悪魔も負けてはいない。腕の毛を逆立て、右肘辺りから長い毛の刃を作り出すとエルの斬撃を迎え撃ったのである。
金属通しがぶつかり合う、甲高い音が辺りに響き渡る。
エルの手刀が悪魔の長刃を破る事無く弾かれたのである。毛に魔力を通し硬質化させているのか、刃と化した部分は禍々しい黒色に覆われている。今のエルの断魔剣なら、この階層付近で手に入る最上の名剣と同等か、それ以上の切れ味をあるといっても加減ではないというのに、巨魔の作り出した長刃も大したものである。
しかも休む間もなく着地したエル目掛けて、胸の毛に魔力を纏わせて針の様にして大量に飛ばしてくる。気を推進力として肉体を移動させる、迅歩によって毛針を躱す事に成功したが、避けた針は地面に深く突き刺さり、その姿が見えなくなるくらい深く埋まってしまっている。思わず感心してしまいそうになるくらいの、素晴らしい貫通力であった。
エルはにんまりと笑みを浮かべた。やはり、強敵と闘うのはいいものだと心が躍る。この巨魔こそこの1ヶ月の修行を締め括るのに相応しい相手だと見定めると、エルは猛り昂ぶり獰猛に犬歯を光らせた。愉快そうに笑い声を上げると、エルの戦意に呼応するように全身から次から次へと混沌の気が立ち昇ってくる。
さあ、お互いの命を賭けた心躍る闘いをしよう。
まずはその長刃をたたっ斬ってやると気焔を上げ、四肢を気で武器化させたエルは悪魔に飛び掛かるのだった。
轟音と共に火炎が爆ぜ辺りを焼き焦がし、気の奔流が大地砕いた。
エルと無慈悲な巨魔との激烈な闘いは、周囲に多大な被害を撒き散らしながら、決着が着くまで実に長い時を要した。
エルが武人拳や徹気拳などの慣れ親しんだ技を封印し、気の武器化の技のみで闘った事も原因の一つであるが、巨魔は全身の毛を魔力で堅牢な鎧と化しエルの刃から身を守ったり、脅威的な再生能力によって傷つけた端から回復し、致命傷を与えるのが苦労する難敵であったからである。加えて、火球や毛針、毛を長刃と化す以外にも、背中の蝙蝠の様な不気味な羽を伸縮させて槍の様に用いたり、当たれば肉体だけでなく精神をも損傷させる暗黒球や見え辛い半透明や風の刃など、驚くほど多彩な攻撃手段を有しており、まさに35階層最強の守護者の名に恥じない強者だったのだ。
エルをもってしても悪魔の多様な攻撃を完全に回避する事を叶わず、その身を焼かれたり、切り裂かれたり、あるいは肉体と同時に心も擦り減らされるという初めての疼痛も味わった。様々な痛みがエルに押し寄せ、呼吸は乱れ冷汗を流させ、苦痛の声を上げさせた。
だが、エルは痛みを感じる度に衰える所か勢いを増し、己が傷付くことも厭わずに烈火の如く攻め掛かった。自分をこれだけ痛め付ける素晴らしい強敵に出会えた事を感謝すると共に、流れ出す血が、焼かれた肌から感じる痛みが益々エルの心を昂ぶらせたのだ。哄笑を上げながら修羅の如き戦闘を繰り広げるエルは、もし観戦者がいたならどちらが悪魔かと言われたであろう程の、戦鬼さながらの姿であった。
高揚し戦闘を楽しみつつも、集中力を増し怒濤の連撃を続けるエルに、さしもの巨魔も次第に抗えなくなってくる。無尽蔵の体力と錯覚する程のエルの猛撃によって腕の長刃を叩き斬られ、毛の鎧ごと胸元から下腹まで大きく裂かれれば、その醜く不気味な山羊の口から絶叫を迸らせた。
自慢の再生能力も追いつかず、悪魔は不様に地に手を付きもはや動けない死にたいとなった。その状態に陥りながら、無慈悲な巨魔は止めを刺しに静かに歩み寄るエルに、自身を中心に巨大な火柱を上げる奥の手の自爆技を放ち、最後の抵抗を試みたのだ!!
だが、極悪な自爆技に対し、エルは瞬時に脅威的な対応をみせ、何とか堪え凌いだ。咄嗟に全身からありったけの気を全方位に放出し続け、焼き殺されるのを免れたのである。以前にアリーシャと苛烈な模擬戦を試合した時に、地に落ちる太陽の様な恐ろしい神の御業、爆炎顕現を己が身で体験し、爆炎から気の力でその身を守った経験が生きたのである。あの時は気を纏わせた手で爆炎球を攻撃し爆発の方向をさせたのだが、間に合わず火炎を全身に浴びた場合の対策を考えていたのである。そのおかげで表面を軽く焼かれた程度で済んだが、もし対処法を思いついていなかったら致命傷を受けていた可能性もある程の、巨魔の断末魔のあがきであった。
自らの炎によって灰となり崩れ落ちる悪魔を横目で見ながら、これはアリーシャに感謝せずにはいられないなと心の中で謝意を述べると共に、冷汗が止めどなく流れ出した。自分が死んでも相手も殺そうという、仄暗い悪意がエルの心胆を寒からしめたのだ。
悪魔、邪心の配下。人類を虐殺するために生まれた闇の眷属。一歩間違えれば死んでいたという状況で、漸くにしてエルは決して共存できない存在がいる事を悟ったのであった。
それにどこか楽観していた所があった。迷宮での油断は死を招くと何度も注意されていたというのに、勝利を目前にして驕りがあった事は否めない。
運良く対策を練っていなければ?対応が後少しでも遅れていれば?
自身の過怠によって、勝利を手中に収める寸前であったのに無念の死を遂げていたに違いない。あそこで骸を晒したのは自分だったかもしれないと思うと、エルは堪えようもない恐怖に身震いした。
未熟だ。僕は何て未熟なんだ……。
様々な負の感情が綯い交ぜになったエルの身体は、炎に焼かれ熱を帯びていたというのに、極寒の地にいるかの様に冷え切っていた。
迷宮から戻った後、慢心を恥じたエルは武神流の修練場で己の甘えを取り除くために修行に没頭した。疲れた体を引きずるようにして宿に戻ったのは、深夜近くになってのことだった。
出迎えてくれたリリに食事を頼んと、食堂のテーブルに備え付けの椅子に倒れ込む。疲れて考える事さえ億劫になりぼーとしていると、リリが湯気を立てた温かな食事を次々に運んで来てくれた。
表面を軽く焼いたパンに瑞々しい野菜の盛り合わせ。そして、本日のメインの砦犀の肩肉を使ったシチューだ。砦犀の肉は恐ろしく固く、美味しく食べるには料理人の腕にかかっている。お湯に浸し昨日の内から鍋でことこと長時間煮込み柔らかくした後、野菜やワインから作ったシェーバ特性のソースを加えて更に煮込むというとい実に手の込んだ仕事がしてある。軽く噛むだけで繊維がはらはらと解け、濃厚な肉の旨味とソースの味が忽ち口内に広がり、エルの拙い学力では言い表せない感動を与えてくれる極上の逸品である。数日前に初めて食べた時は、飛び上がりそうになったほどだ。
だが今はあまり喜べなかった。ただ黙々と食事を済ませるのであった。
「ねえ、どうしたの?
何かあったんじゃない?」
いつの間にか隣の席にリリが座り、心配そうに覗き込んでいる。食事を終えて一段落した所を見計らって声を掛けてくれたのだ。その優しい気遣いに頭が下がる。
エルはリリの心配りに感謝しつつ、今日の出来事を淡々と語り出した。
人類の敵である悪魔と闘ったこと。闘い自体は圧倒したが、最後の際で相打ちを狙われ危うく死にかけたこと。どうしても相容れない悪意の塊の様な敵がいるのを、殺されそうになってようやく理解したこと。迷宮では死が隣同士のはずなのに知らず知らずの内に慢心していたことなど、今日味わった恐怖と自分の失態を残らず打ち撒けた。
リリはそんなエルを静かに見守り、母性を感じさせる慈愛の笑みを浮かべた。
「大変だったのね。
でも、エルが無事帰って来てくれてうれしいわ」
エルは思わず見惚れて二の句が継げなくなった。
リリの慈しみ溢れる笑顔を見ている内に、氷固まり冷え切った心がゆっくりと溶かされて行く様に感じたのだ。
「エルは運が良いわ。
致命傷を受ける事無く、自分の未熟を後悔できる機会が得られたんだから。
後悔するのも、エルが生きているからこそできるのよ」
穏やかな口調で言い聞かせるように話すリリの言葉に、エルは深々と頷き同意を示した。たしかに、今五体満足で己の驕慢を悔い改める事ができるのは幸運なことだ。自分の過ちを悔いる事もできずに冒険者が死ぬことなんて、有り触れた話である。
ああ、一体自分は何故こんなに思い悩んでいたのだ。
敵からの悪意、怖気の走る恐怖、自分の愚かな慢心、色んな感情に支配され空回りしていただけじゃないか。
やり直す機会を得たならいつまでも思い悩んでいないで、同じ過ちを繰り繰り返さない様に努力すればいいのだ!!
エルの瞳に光が灯った。
「ありがとう、リリ。
自分が情けなくて落ち込んでいたけど、やる気が沸いてきたよ」
「エルはやっぱりそうやって元気に笑っているのがいいわ。
落ち込んだ姿なんて全然似合わないわよ」
その調子よと、立ち直ったエルの姿にりりは目を細め微笑んだ。リリは希望に満ち溢れ、自分の夢に向かって邁進するエルの姿を見るのが好きだ。帰って来た時の昏く沈んだ姿にいても立ってもいられず、エルに立ち直って欲しくて声を掛けたのである。
自分の言葉でなんとか生気を取り戻してくれたので、ほっと胸を撫で下ろした。
「うん、頑張るよ。
二度と同じ失敗はしない様に、もっともっと修行するよ」
「ええその調子よ。
でも、やり過ぎて体を壊さないようにね」
「わかってるよ。
僕もそこまで無鉄砲じゃないさ」
「ふふふっ、どうかしら」
すぐ拗ねて表情を変えたエルに、リリは愉快気に声を上げた。
やっといつものエルに戻ってくれたと内心は喜びでいっぱいになったが、表情には少しも見せない。自分をこんなに心配させた分、甘い顔をせずにいっぱいお小言を言ったり、からかってやるつもりなのだ。
その夜はいつまでも楽しげなリリの声と、エルのちょっと情けない声が宿に響いたのであった。




