表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

第7章「嘘」 前編


 ローエングリンは待ち構えていた。突き立てた剣を握り締めながら。扉の向こうから聞こえる叫びに耳を立てながら。叫びは神崎の声だった。

 敗者の痛みが廊下に響く中、ローエングリンの心中は掻き乱されていた。『女王』への恐れでは無く、巻き込んでしまった人々に対する罪悪感によって。

 神崎は言った。陰島は自分の意志で戦ったと。だがローエングリンがいなければ、陰島は『女王』と戦うことは無かったはずだ。死ぬことは、無かったはずだ。陰島だけではない。多くの人間が死んだ。恐らく神埼も、生きられまい。

 ローエングリンの肩に圧し掛かる、贖いへの意識。死んでいった者たちの思いに、何を以って報いるか。何を以って報えるか。

 答えは1つしかなかった。

 しかし彼は分かっていた。それはとても困難なことなのだと。成せる見込みは薄いのだと。せめて、アリスが隣にいてくれれば――そう考えた時、ローエングリンの口元は自嘲気味に緩んでいた。

 俺は結局、アイツを頼りにしているのか。

 陰島や神崎に信頼を寄せていなかったわけではない。その逆だったから共に戦う気になれた。しかし他の誰であろうと、アリス以上に自分と連携が取れるはずは無かった。弟子とも妹とも言える彼女こそ、最高の共闘者。だからこそ、本来ならば巻き込みたくなかった。

 弱いものだな――

 僅かに薄れていた不安が再び色濃くなって行く。扉の向こうからは、もう叫び声は聞こえない。

 どうして自分は勝ち目の薄い戦いを始めてしまったのか。ローエングリンはほんの少し昔に抱いた、あの決意を遠く想う。

 ただ、そうせずにはいられなかったから。

 その単純で、決定的な衝動によって彼はここで待ち構えている。そのことに彼自身、後悔は無い。あるのはただ、無力な自分に対する不安だけだった。

 そして、前方から物凄い勢いで吹き飛ばされて来る扉。それをローエングリンは冷静に剣で捌いた。目の前で扉は真っ二つに縦割れ、彼の左右をそれぞれ横切る。

 扉の無くなった部屋と廊下の境目、その後ろに赤く染まった怪物がいた。

「お久しぶりです、『女王』」

 頭は垂れず、けれど恭しい声調でローエングリンは挨拶をした。

「やはり君か、ローエングリン」

 感慨なさげに『女王』は言い、一歩だけ足を進める。部屋との境い目を、越えた。

「お顔が汚れています。お拭き下さい」

 ローエングリンは服のポケットから真っ白いハンカチを取り出し、魔力による加速度で『女王』へと投げ渡した。

「済まないな、ローエングリン。いや、それともこれは一種の皮肉か?」

 返り血を拭った『女王』の顔は仄かに赤みを残すものの瑞々しく映え、逆に白いハンカチは朱色に汚れた。

 そのハンカチを『女王』が投げ返す。ローエングリンはそれを受け取らず、ハンカチはゆっくりと床に落ちた。

「それにしても異様なものだな、この光景は」

 『女王』は廊下の壁面、天井を見回した。所々に四角い包装物と小型の機器が貼り付けられており、あたかも獣避け、もしくは心霊的な結界のようだった。

「プラスチック爆弾の類か。あからさまに」

「その通りです。もし私に近づいたのなら、この全てが同時に爆発します。たとえ貴女でも、これ以上前に進めば回避することは難しいでしょう」

「君の言う通りだ。陰島の爆弾を避けるのにさえ全力を使ってしまったのだからな。しかしローエングリン、その爆発には君自身も巻き込まれてしまうのでは無いか?」

 無表情に、そして力強くローエングリンは答える。

「覚悟の上です」

「そうか……」

 ふふっ、と『女王』が小さく笑った。だが何か刺激を感じたのか、その顔は不意に歪み、眉間に皺が寄る。

「全く、おかしなものだと思わないか。魔力を行使するのを前提に作られた我々でも、自身の力に身体が耐え切れるわけでは無いというのは」

 『女王』はドレス越しに右太股を擦る。

「陰島を蹴り離したこの右足、今も痛む。私でさえこうなのだから、彼らはどれほどの痛みを感じていたのだろうか。陰島も神崎も、どんな痛みに耐えたのだろうか」

 見せ付けるかのように、『女王』は左手を開いて前に伸ばした。

「この傷を見ろ。泣き叫んでいた神崎が付けた傷だ。痛みも、恐怖も、彼らの意志の前ではさほどの抑止にならない。それどころか、それらを乗り越えようとする心がより強い力を与えるのだと、私は身を以って教えられた。それならば……ローエングリンよ、私も彼らと同じになれるのだろうか」

 ローエングリンは『女王』の全身を改めて見た。顔以外の全身が血に塗れているが、その全てが殺めた者の返り血で無いのは確かだった。左手だけで無く左肩でも、傷口が艷めいていた。

「陰島と神埼によって、私の四肢はもはや満足に動かせなくなった。しかし彼らのような闘志があれば、それに呼応する魔力の助けで充分な威力を保つことが出来るだろう」

 左手を降ろし、『女王』は言葉を続ける。

「私は、そうでありたい。敬意を払うべき人間のようでありたい。彼らの与えてくれたこの傷は、痛みは、私を彼らと同じ高みまで昇らせてくれるだろうか」

「『女王』、貴女は既に頂点にあります。貴女が彼らに勝利したことこそ、その証明です」

「本当にそうであれば、君の仕掛けた姑息な結界など恐れるに足りないはずなのだ。しかし、今の私にはそこまでの勇気は無いのだよ、ローエングリン。私は勇敢でも、愚かでも無いのだから」

「謙遜はお止め下さい。貴女は勇敢です。実際、私も不安なのです。貴女が爆発物を物ともせず、私の首を掻き切るのではないかと」

「そこまでの蛮勇を私は持ち合わせていない。難しいものだな、染み付いた保身の価値観と彼らから学んだ捨身の価値観を両立させることは」

 『女王』は微笑を浮かべたまま、静かにローエングリンを見据える。ローエングリンも同様に『女王』の目を見つめ返すが、その心中ではある行動を待っていた。

 沈黙の時間、静寂の空気。激情は両者共に無いとしても、一触即発の緊張は間違いなくあった。どちらかが動いた時、戦いが始まる。そして先に動くのは『女王』の方であり、『女王』自身もそれを許容しているはずである。ローエングリンはそれを読んでいた。

 『自由の女王』と『守護の王』、それはただの称号であったが、お互いの本質を表す言葉には違いなかった。自分が名の通り「守護」を続けるのと同様に、『女王』は名の通り「自由」で在らざるを得ない。性格以上の性質として、それは揺ぎ無い行動理念だった。

 加えて、ホンシアの狙撃も関係していた。今の『女王』の立ち位置は窓から離れていて、危険性は無いように見える。しかし狙撃ポイントを選ばないホンシアに対して絶対の保障など無いことを、『女王』も承知しているはずだった。

 進めば、爆死。留まれば、射殺。ならば、残された道は退避以外に無い。

 『女王』が退避行動を取るとローエングリンは確信していた。そしてそれこそが、彼の狙いだった。

 膠着状態を破るように、『女王』が溜息を吐く。

「いつまでも対峙するのは致命的なのだろうな」

 その通りだと、ローエングリンは心の中でほくそ笑む。

 早く、早く動き出せば良い。その瞬間、必ず隙が生まれる。一瞬でも、僅かでも油断してしまえば、俺の勝ちだ。だから早く、早く。

 焦るローエングリンの耳が、奇妙な音を捉える。彼は思わず唾を飲んだ。みしり、みしりと、まるで見えない何者かが床を軋ませるような音。音の次は視覚的に、床に走る亀裂となってそれは現れる。

 間違い無く、それは『女王』の退避行動。プラスチック爆弾の貼り付けられた一帯を切り取るように、彼女の振動破砕が亀裂を走らせて行く。廊下ごと無数の爆弾を落下させるための、意図ある破壊。

 危険を排除するという退避。醜態無き逃亡。だから『女王』は誇らしげに破砕を続けているのだ。勝利を思い描いているかのような、薄ら笑いを浮かべて。


 そしてそれは、決定的な油断だった。


 ローエングリンは服のポケットに隠されたスイッチを魔力で作動させた。

 爆音、熱風、衝撃。神崎の眠る部屋の床下で本命の爆弾が爆発し、爆風が廊下内へと一気に吹き荒れる。

 廊下に仕掛けられた爆発物は、全てダミー。全ては『女王』を止めさせるための結界。『女王』は見事なまでにその罠に囚われ、足を止めた。

 だから、彼女は死ぬ。進むことを止め、警戒することも止めた『女王』には避けられない。速く、熱く、激しく。暴力的な勢いが背後から迫るのを、彼女は回避出来ない。

 そう――そうであるはずだった。

 『女王』の薄ら笑いを見た時、ローエングリンがその表情をほんの一瞬、勝機に緩めさえしなければ。

 その決定的な油断さえ、無ければ。

 

 ローエングリンがスイッチを作動させたのより早く、『女王』は前方へと加速していた。

 爆風より早く迫る『女王』、ローエングリンは咄嗟に剣を振り上げた。空を斬る剣、背後に感じた重圧にローエングリンは振り返り、その頭を冷たい手によって鷲掴みにされる。

 それとほぼ同時に、ローエングリンは爆発の熱を感じた。肉を焦がすことも無い低温の熱さ。威力とは裏腹に、効果範囲を調整された殺傷はローエングリンの位置まで届かない。

 ローエングリンは覚悟していなかった。死ぬ気など、毛頭無かった。アリスと約束するずっと前から、生き延びることを考えていた。

「ローエングリン……君の敗因は」

 そうとも、俺は――

「自分の命まで『守護』しようとしたことだ」

 ――弱い男だ。

 頭骨を砕きかねない強烈な圧迫。ローエングリンは力任せに剣を薙いだが、当然のようにそれは『女王』の身体を掠めすらしない。いつの間にか離れていた『女王』、そして再接近。

 直後、ローエングリンの身体は『女王』の殴打によって吹き飛ばされた。廊下の天井に頭がぶつかり、それを合図として振動破砕と爆発で崩落寸前だった廊下が崩れ始める。

 瓦礫として落下する廊下の中から無我夢中で飛び出し、ローエングリンは中庭の芝生に倒れ込む。先程まで『女王』と居た廊下は轟音を立てて地面に墜ち、彼の背後にあった書斎もその衝撃の余波で崩落していく。

 ローエングリンは粉塵の舞う中、上空を見回す。頭上の空間は無人だった。

「名に恥じぬ戦い方が出来るかな、『守護の王』よ」

 真正面から聞こえた声。素早く立ち上がり、彼は剣を構える。

 『女王』が眼前まで迫っていた。


 ホンシアはスコープから目を離し、煙の中に『女王』の姿を探した。爆発の直前、スコープ越しに捉えたその姿を。

 恐らく、第1の策は失敗したのだろう。その予感に、ホンシアは何故か気分が高揚していた。

 第1の策――狙撃を警戒する『女王』を足止めした上での、爆発物による奇襲。それが失敗した場合、ローエングリンは遮蔽物の無い中庭に『女王』を誘導する手筈になっている。

 その状況から始まる第2の策――ローエングリンが近接戦で『女王』の動きを抑え、ホンシアが狙撃により射殺するという連携。それはホンシアの手で『女王』を殺せる作戦であった。

 だから彼女の胸は高鳴っていくのだろう。成功すれば、狙撃手としての、そして復讐者としての本懐を遂げることが出来るのだから。

 そう、成功さえすれば――

 そんな彼女の緊張を邪魔する様に、狼狽した調子のアリスが傍らに着地した。

「び、びびびびっ」

 言葉にならない声を漏らす情けない姿に、ホンシアの調子が狂わされる。

「落ち着いてよ、アリス」

「びっくりしたわっ!! 突然、あんな近くで大きな音がして、建物が壊れたのですもの!! 一体何が、どうしたっていうのかしらっ!?」

「ただの爆発だって」

「ただの爆発って、あんなにびっくりしたの初めてよっ! 貴女のドーンっていう銃の音より、ずっと大きかったわ! どんな凄いものを使えば、あんなに大きな音が出るのかしら」

 ホンシアは興奮するアリスに呆れつつ、ガンケースから狙撃銃の弾を数発掴んで投げ渡した。

「あっ……」

 反射的にそれらを取るアリス。手の中の物を見て、目をぱちくりとした。

「たとえば私の銃の場合、音の正体はそれ。そんな小さな物で、あの大きな音を出したわけね。だからさっきの爆発も、そんなに凄いものを使っているわけじゃ無いんだよ」

「そうなの……かしら?」

「そうなの。どんなに迫力があっても、正体なんてちっぽけな物だったりするわけ。だから、大丈夫。私達は勝てるって」

 言葉にしてから、ホンシアは自身の論理展開が意味不明である事に気づく。もしかしたら、「勝てる」という言葉を言いたかったのかも知れない。アリスのためではなく、自分自身のために。

「ええ……そうね、そうよね」

 落ち着きを取り戻したアリスが頷く。そして彼女はじっと、手の中の銃弾を見つめた。

「ねぇホンシア、これ貰っても良いかしら」

「別に良いけど、どうして?」

「よく分からないけど、持っていると落ち着くと思うのよ」

 そう言って、アリスはスカートのポケットの中へと弾を落とした。

「御守りって言うのかしら?」

「そうかもね」

 頬を緩ませてしまうホンシア。死地において、どうして自分たちはこんなにも呑気に言葉を交わせるのか。恐らくアリスは最悪の結末なんて考えていないのだろう。遊び気分でここにいるのだろう。

 だが、ホンシアはそうでは無かった。

「私だと思って、大切に使ってね」

「私でも使えるのかしら」

「底を思いっきり叩けばもしかしたらだけど、危ないし……止めといた方が良いかもね」

「そうね、それに勿体無いわ」

 微笑んだアリス。その後ろで、ばりんっ、と瓦の割れる音がした。

 アリスが振り向き様にバールのようなもので薙ぎ払う。デジャブのように、バールのようなものと赤い靴がまたしても交差した。すぐさまカレンは後方に宙返りして着地し、揚げた右足でアリスを指した。

「あの方には手出しさせないから。貴女なんかに、あの方の決闘を邪魔させるわけにはいかない」

「決闘……?」

 アリスは首を傾げる。一方のホンシアは言葉の意味を察し、視線を中庭に移した。

 芝生の上、2つの人影が確かにいる。片方は立ちながらも動かず、もう片方は尋常でない速度でその周りを動いていた。

 異様な2つの影。間違い無く、その片方こそ――

「『女王』……!!」

 そう呟いたアリスが、堰を切ったように中庭へ向かって加速する。だが1秒の差も無く、その身体にカレンの蹴りが打ち込まれた。

「くはっ……!!」

 声を漏らし、蹴りの作用であらぬ方向へと飛ばされるアリス。それを追って、カレンの第2撃。寸での所で方向転換をして、アリスはそれを避けた。

「当たったのが爪先じゃなくて良かったわね、アリス。私にとっては、嬉しくないけど」

 言葉と共に連続で繰り出され、止まることを知らないカレンの蹴り。スズメバチのように執拗に、アリスを追い立てる。

「あの方は貴女に会いたいと思っているようだけど、そんなの関係無い。邪魔者は全部、消す」

 攻撃はかわしつつも、アリスは次第に西へ西へと追いやられていく。仕返しの反撃は赤い靴によって受け止められ、無力化される。

「上からなら!!」

 その言葉と共にカレンよりも高く上がり、頭を狙った一撃を打ち出したアリス。しかしその攻撃も垂直に蹴り上がったカレンの右足によって防がれてしまう。

「愚かなアリス。宣言された攻撃なら、受けられるのは当然」

 左足による反撃を回避し、アリスは加速する。カレンの頭上をすり抜け、ローエングリンと『女王』が守と攻を噛み合わせているその真上を通り過ぎ、彼女は東棟の屋根に降り立った。カレンもそこから少し離れた位置に降り立ち、2人は対峙する。睨み合い、そして再び応酬が始まった。

 その場に1人、残されたホンシア。そして彼女は、中庭へと向き直る。

 眼下には、撃つべき敵。彼女はそこに、何かの終わりを見出しつつあった。

 両親の会社の破綻。そこから始まった企業買収は確実に家族の富、幸せ、そして心を蝕んでいった。資本家たちにより日常は養分と化し、ホンシアは全てを失った。一番大事な、両親の命さえも。

 哀れな少女は、己の魔力を復讐の手段とすることを決めた。彼女の適性はそれを充分に可能とし、数年の後、彼女は狙撃手として最初の仕事を成し遂げた。

 殺した相手は、両親の会社の買収において中心的な役割を果たした人物。そして彼女は私怨と依頼の中、次々と殺していった。両親の死に間接的に関わった人間たちを。資本主義の名分を掲げ、奪い続ける人間たちを。

 その果てで彼女が感じたのは、喪失だった。

 ホンシアは今までの道程を思い出しながら、ゆっくりと身を伏せ、銃を構える。

 彼女は思う。これ程の大物を狙撃することは、もう二度と無いだろうと。では次は、誰を撃てば良い? 撃つべき相手が、自分には残っているのか?

 復讐のために銃を構える機会など、もはや訪れないのかも知れない。この瞬間だけが辛うじて、そう呼べなくも無いだけで。

 今が潮時なのだ。殺す相手を選ばない冷徹な狙撃手として生き続ける覚悟など無い。だから、彼女は新しい生き方を探さなければならなかった。かつて復讐を選んだ、少女の日と同様に。そして、そのための転機が必要だった。狙撃手を辞める理由に足る、大きな出来事が。

 息を整えながら、素早く動き回る『女王』を捉えようとするホンシア。もしこの一撃が当たったなら、自分は解放されても良いのだと。そう信じて、彼女は狙いを定める。

 多くの人間が殺害に失敗した目標。憎しみと羨望を受ける資本の象徴。それを撃ち抜く以上の成功など、狙撃手としての自分には存在しない。だから、終わらせても良い。そう、終わらせて良いのだ。新たな道への恐れを、在りし日々の記憶が掻き消してくれるから。平和な日常の記憶が射殺という行為を肯定してくれたように、この仕事が誇りとなり、後の全てを肯定してくれる。生まれ変わることを許してくれる。

 彼女は想像する。新しい日々とは何か。新しい日常とは。新しい自分とは。

 狙撃手みたいな裏の仕事じゃなくて、真っ当な仕事で、普通の生き方をしたい。どうしよう、アリスにでも仕事を紹介してもらおうか。だけどあの子、普通の仕事なんて知らなそう。それでもあの子と付き合えば楽しくやれる気がする。それなら、お店でも開こうかな。今の貯金なら、小さい店くらい十分開けるし。服とかいっぱい並べて、アリスにモデルになってもらえば宣伝効果はありそうだし。今まで頑張ったんだから、それくらいは贅沢じゃ無いよね。

 スコープ越しに見える『女王』はあまりに速く、捉えることが出来ない。それでもホンシアは狙い続ける。機会を待ち続ける。ただ1発、1発撃ち込めれば終わるのだから。

 必ず、その時が来る。その時が来れば、全てが新しく、全てが許され――――

 

 突然の激痛に、ホンシアは吐血する。夥しい量の血が、彼女の腹部から広がり始めた。


 『女王』の猛攻に耐えるため、ローエングリンは己の集中力全てを視覚と聴覚に注いでいた。その2つが受信する『女王』の動作に対して彼の剣が的確に振られ、彼女はそれを避けつつ新たな攻撃動作へと移る。それが既に数分間、絶え間無く続けられていた。

 草を撫でるほどの低空で、『女王』はまるで氷上の舞姫のように高速かつ機敏に飛行している。だが踊るような飛行はそれとは正反対の醜いものにも似ていた――それはまるで蝿のようでもあった。

 その移動から繰り出されようとする攻撃を、ローエングリンは剣による牽制で防ぐ。一方的な防御、だがそれはむしろ彼にとって好ましい状況と言えた。『守護の王』の称号通り、防戦を得意としている彼にとっては。

 防戦を主軸として勝利するためには、相手の力が重要であった。力を浪費させ、疲弊させるか。それとも力を受け流し、隙を狙うか。だがローエングリンには分かっていた。『女王』は自分が守から攻に転じる瞬間を決して見逃さず、正確に急所を打ち抜いて来ると。自分自身が攻撃を行うようでは、決して『女王』に敵うことなど無いと。

 勝利に必要なのは、第三者の介入。たとえ己が攻撃に転じずとも、他の誰かが代わりに攻撃をしてくれるのであれば。誰かが、『女王』を殺してくれるのであれば――

 彼はそれを期待し、剣での牽制を続ける。『女王』が攻撃を仕掛けてくる方向へ、彼女が仕掛けるも早く刃先を向けた。攻撃が最大の防御と成りうるように、防御もまた最良の攻撃と成りうる。速度は相対的な要素であり、『女王』の神速に対しては不動の刃すら必殺の凶器なのだから。

 ローエングリンは淡い望みも抱いていた。『女王』が僅かに目測を誤り、自ら刃に触れてしまうことを。それは切り株に兎がぶつかるのを待つような、愚考かも知れない。それでも、その一瞬の怯みがあれば確実に『女王』は撃たれる。ホンシアの弾丸によって、必ず。

 『女王』の殺戮円舞の真っ只中において、彼はまだ生きることを諦めていなかった。相打ちですら覚悟していない。守り続けることによって、自らを貫き通すことによって、彼は『女王』の打倒を成そうとしていた。

 そんな彼の心理を嘲笑うかのように『女王』は寸分も刃に触れる事は無く、一方でローエングリンの身体に傷を付けることも無い。傍目から見ればローエングリンと踊りを愉しんでいるかのようにも見える動作。そして事実、彼女は笑っていた。

 殺す者と殺される者、歴然とした立場。それを意識してしまったローエングリンの思考に、逃げの一手が過ぎる。

 気まぐれで生かされているのかも知れない、防戦一方の現状。ここで一手、不意打ちの反撃を行ったならば。『女王』は予想外のことに対応できず、胴を裂かせてくれるのでは無いか。

 名案だと思い込む前に、彼はその妄想を頭から振り払った。防御で手一杯の現状から、さらに反撃動作を加えた所で当たるはずは無い。ただ守ること、それだけが自分に許されているのだ。

 何度目であろうか。『女王』の動作に合わせてローエングリンが剣を振った時、『女王』が彼から大きく離れた。剣の届かない距離で『女王』は直立し、獲物を狙うかのようにローエングリンを見つめ出した。

 僅かに余裕の生まれたローエングリンは剣を構えたまま、その意図を探ろうと訝しげに『女王』を睨み返す。そして彼はふと、気付く。何故『女王』は狙撃手であるホンシアがいる中、動きを止めているのだろうかと。『女王』は決して、死に直結するミスを犯さないはずなのに。

 何かが、おかしい。

 立ち止まっている『女王』は視線を上方に向ける。彼女が見ているのは、恐らく屋根の辺り。ローエングリンの背後、館の南側の屋根。そこにいるのは――

 その結論に達した時、ローエングリンは青ざめ、彼の手は剣に伝わるほど震えだした。『女王』が動きを止めたのは、もはや撃たれる可能性など無いから。彼女を撃とうとする者は、既に排除された。それが意味するのは、とても簡単で、単純な事実。

 ホンシアが死んだという、事実。

「どうかしたか、ローエングリン」

 『女王』の澄み切った声に、ローエングリンは危うく平静を失いそうになる。

 残るは自分とアリス――だが、ホンシアが倒された今、アリスもまた――

 自らの選択が招いた、この末路。ローエングリンは心の中で謝罪の言葉を繰り返し始めた。

 すまない、すまない、すまない。

 彼は謝り続けた。陰島俊二に、神崎忠光に、周紅霞に、アリスに。

 誰もかも、何もかもが死んでしまう。『女王』の裁きは殺意ある者を決して許しはしない。恐ろしき『女王』の、その腕が届く場所へ多くの者を導いてしまった。そのことをローエングリンは謝り続け、だがそれで自分が許されるなんて微塵も思えなかった。

「顔色が悪いぞ。そんなことで私を殺せるのか?」

 ゆっくりと『女王』が近づいてくる。低速の接近、それは『女王』の暴速に勝機を感じていたローエングリンにとって、死の宣告に等しかった。

「そんなことで、誰が守れるのか」

 誰も守れない、誰も守れないのだろう。絶望がローエングリンの心に湧き始める。

 もう、何もかも諦めてしまえば良いのか。諦め、正当な裁きを受け、そして処刑されるべきなのか。

 戦意を失いつつあるローエングリンを『女王』の右足が蹴り飛ばした。防御することも考えられずにローエングリンは空中を舞い、数メートル先の地面に叩き付けられた。

「情けないぞ、我が臣下だった男がっ!!」

 その言葉が言い終わるまでの2秒足らず。その僅かな時間に『女王』の右手はローエングリンの胸倉を掴み、高々と持ち上げていた。

 絶好の機会、しかしローエングリンの腕は剣を振るうことを放棄していた。

「痛いのだぞ、ローエングリンッ!! 私は痛い、右脚が痛い、左腕が痛い、左足はもっと痛い! 左手はもはや握ることすら出来ない程に苦痛だっ!! だがな、ローエングリン、死んだ者たちはもっと痛かったのだぞ! それなのに、立派に戦った! 戦ったのだ、彼らは! 戦えば痛い、だがそれに耐えてでも戦う、それが戦士、それが人間なのだからっ!! ならば問おう、『守護の王』!! お前は今、何処が痛い!? どこが痛むというのかっ!?」

 『女王』は自身の背後へとローエングリンを放り投げ、即座に右足で蹴り飛ばす。再び宙を舞った彼は北棟の壁に当たり、落ちた。

「まさか心が痛むとでも言うのか、馬鹿なっ!! お前が悲しむことが何処にある!? 死んだ者たちが死んだ理由はただ1つ、私を殺そうとしたからだ!! そして彼らには、私と戦わない自由があった! だが彼らはそれを選択しなかった、自分の意志でなっ!! そして死んだ!! 意志を貫き通して死んだっ!! 彼らの死を悼むほどの心があるなら、何故お前は戦わない!! 彼らの遺志を受け継ぎ、彼らと同じように、何故戦わないッ!?」

 大声を張り上げて、『女王』がローエングリンへと歩み寄る。彼は起き上がろうとして、結局力無く、壁に背中をもたれ掛けてしまう。背中から伝わる激しい痛みと全身の痺れが、彼の身体を無力にしていた。

 彼の空ろな目が燃えるような『女王』の目と交差する。彼女は歩みを止め、静かな口調で言った。

「少し……済まない、私は気が立っていたようだ。冷静で無かった。謝ろう、ローエングリン」

 ローエングリンは瀕死で在りながら、思わず微笑んでしまった。情緒不安定と言える『女王』の変わり様が、何処か可笑しくて。

「戦わないのも君の自由なのだ。もし君が、私を殺すことを諦めるというのなら。それなら私は君を再び臣下として、頼るべき仲間として迎えたいと思う」

 馬鹿を言え、それなら俺は死ぬ。死んでやる。

 その返事を、か弱きローエングリンは言葉に出来なかった。

「だが、その前に1つだけ教えて欲しいのだ、ローエングリンよ。何故、君が私を裏切ったのかを」

 その言葉を聞いたローエングリンの脳裏に、懐かしい顔が浮かび上がる。断片的な面影が次第に1人の少女となり、彼はその名を口に出しそうになる。

 それを必死に押し留めて、彼は別の言葉を吐いた。

「『女王』……貴女はあまりに自由過ぎたのです。私は……危険だと判断しました。人間社会に対する過剰な介入、それには何らかの目的があり、それによって人間達、そして『構造体』と共に生きる者たち全ても危険に晒されると……私はそれを危惧し、貴女に……」

「アリスにもそう言ったのか、ローエングリン」

 微かに嘲笑を浮かべる『女王』の口元。

「私にまで嘘を守り通す必要は無いのだよ、ローエングリン」

 背筋に走る、悪寒。ローエングリンはある可能性に気付き始めた。

「君のその理由は、あまりに漠然とし過ぎている。私が思うに、君が私を殺すとしたらあの聖遺物に関する何かが理由だ。私が探索を命じた伝説の杯、聖杯。あの電子メールでそれについて仄めかしたのは、私を誘き出すと同時に聖杯を私に渡すまいという意志表示なのだろう? だとしたらローエングリン、君はもしや、聖杯が何処にあるのか分かったのか?」

 恐怖がローエングリンを震わせて行く。『女王』がもし、あの事に気付いているのなら――

「君は私の命令通り動いたはずだ……となると、存在するのは北欧近くか? 北欧……調べてみる価値はあるようだな」

 『女王』は嬉々とした表情を浮かべる。

「北欧といえば、ローエングリンよ」

 ローエングリンには、その笑みがまるで狙いを定めた槍のように思えた。

「――エルザは元気か?」

 その一言によって、ローエングリンはまさに心臓を貫かれたような感覚に陥った。

 間違いない、『女王』は、『女王』は知っているっ! 知っていて……

「知っていて……分かっていて俺に命じたのかっ!!」

 憤怒が胸に溢れ、喪失した戦意が一瞬で蘇る。ローエングリンは力の入らない脚をどうにか動かそうと、必死に力を込めた。無駄だった。

「そうだ、知っていた。最初から聖杯の在処は分かっていたのだよ、ローエングリン」

 ローエングリンは動かない脚を諦め、魔力に神経を集中した。浮き上がる身体、地面から離れた両脚は力無く垂れ下がる。

「殺す……絶対に、絶対に殺す……殺さなきゃ、アイツが、アイツが……」

「そう、君の調べ上げた通りだ」

 『女王』は微笑んだまま、言い放った。

「聖杯の在処は、エルザの心臓部だ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ