第7章「嘘」 後編
一進一退の攻防を繰り広げていたアリスとカレンは、共に動きを止めていた。下から聞こえる大声、怒れる『女王』の叱責。その姿に2人とも釘付けとなっていた。
アリスは『女王』を目で追う内に、建物の壁に倒れ掛かっている人影に気が付いた。夕日に伸びる建物の影、その先にいる力無き様子の誰か。
彼女は目を凝らす。白い衣服、白い髪。懐かしい姿の男。
「ローエングリン……!」
その正体に気付いたアリスは、一瞬で『女王』に向かう加速度を発生した。だが、一瞬で彼女に向かって蹴りが放たれた。
脇腹を狙ったその足を逆方向への急加速で回避し、続くカレンの蹴りも後退によって避けるアリス。連撃の後、カレンはアリスから距離を取り、2人は再び屋根の上で対峙する。
「やっぱり、貴女を倒さないと『女王』の所へは行けないみたいね」
「今更? 本当に馬鹿ね、貴女は」
カレンから冷ややかな笑いを受け、アリスはムッとした表情になってしまう。力任せに突進したくなる衝動を抑えながら、アリスは現状を整理し始める。
カレンは強いわ、とても。だけど攻撃はかわせないわけじゃないし、気長に頑張れば倒せるかも知れないわ。けれど、それだと時間が掛かり過ぎちゃう。ローエングリンを助けなきゃいけないのに。だから、今すぐ倒せる方法、何か、そう……
アリスは以前、ローエングリンに教わった言葉を思い返す。相手の考え付かないことをしろ。そのローエングリンの言葉が今の状況ではとても有効であると、彼女にはそんな予感がしていた。
攻撃は全て、カレンの両脚によって防がれていた。彼女の足捌きと『構造体』製の頑丈な靴は、鉄壁の防御と言っても過言では無い。しかし、アリスはそれ以上の防御を知っている。相手の力を受け流す、守護の剣を。
彼女は考える。ローエングリンの守護を破ったように、カレンの脚を無効化する方法を。防御を防御で無くする方法、攻撃を防がれない方法を。カレンのための、必勝法を。
カレンの右脚が上がり、アリスを挑発するかのように爪先で円を描き出した。一見隙だらけにも見える行動、しかしアリスの攻撃に対応出来る速度をあの脚は持っている。
むやみに接近すれば返り討ちに遭いかねない。アリスはそう判断し、すり足で1歩前進する。足に伝わる瓦の硬さ。それを靴越しに感じた時、彼女は不意にある手段を思い付く。
私が接近出来ないとしても、他の物なら……
その閃きを実行するため、アリスは右足を後ろに下げ、野球のバッターのようにバールのようなものを構えた。カレンは吹き出し、愚か者をあざ笑うような目でアリスを見る。
「こんなに頭のおかしい子だとは思って無かった。大丈夫なの、アリス」
「何がかしら?」
「貴女の頭。そんな所で構えたって私には届かないわ」
カレンとアリスの距離は3メートル以上。バールのようなものはカレンの右足にすら当たることは無い。
「確かにそうかも知れないわ。でもねっ!」
アリスはバールのようなものを大きく振り、自身の右にある瓦屋根の頂上を抉る様にして吹き飛ばした。
「なっ……!?」
瓦とその破片がまるで激しい水しぶきのようにカレンに襲い掛かかる。だが右足の一蹴りで、彼女は自身へと飛来する大きな破片をほぼ全て破壊した。
残った細かい破片がカレンに当たり、そして――
「ア……」
破片と共に加速していたアリスは、体勢を低くしてカレンの足元にいた。
振り下ろされるカレンの右脚、振り上げられるアリスの武器。高速の両者が激突した瞬間、美しい脚が血を撒き散らしながら、曲がるはずの無い方向へと折れた。絶叫が夕空に木霊する中、アリスは続く一撃を残った脚に放つ。痛みで無防備だったカレンの左脚が右脚同様に折れ、彼女は無様にも屋根へと転倒した。
勝利を得たアリスは立ち上がり、壊れた人形のように無残なカレンを眺める。左から差し込む西日に目を細めながら、アリスは愉悦の笑みを浮かべていた。
腹部からの出血を腕で押さえながら、ホンシアは屋根瓦の上で身体を丸めていた。
くそ……くそっ!
痛みに耐えるだけで精一杯の彼女は、悔しさを口から漏らすことも出来ない。最大の機会を目の前にしながら、あまりにも無力な自分。狙撃手として多くの命を撃ち殺してきた末路がこのような死に様であることを、彼女は毛頭受け入れられなかった。
復讐の中で彼女は見出していた。人を撃つ達成感。魔導士としての優越感。自分がそれらを感じていることに嫌悪を覚えながらも、その快楽があったからこそ彼女はここまで来れた。死に向き合う恐怖から逃れることが出来た。
恐怖への勝利が、彼女を『女王』まで導いた。
あと一歩。頂点を撃ち抜けば、もはや撃つべきものは無い。全ては終わるはずだった。その先に、夜明けが待っている。殺人の恐怖からも狙撃の快感からも解放される朝。命と自信だけを残した、無垢な夜明けが。
しかし今、その夢は潰えた。日没の朱色の中、命も自信も奪われて。
足音が聞こえ、ホンシアは必死で顔を上げた。最も大事なものを奪った敵を見るために、必死で。
敵の足、脛、幼さの感じられる膝――レースの付いた透け感のあるワンピース状の下着。とても刺客とは思えない姿。彼女はさらに上を、その顔を見た。
「ぁ……」
驚きは声にならなかった。こげ茶色のショートヘア。幼い顔立ち。ガラス玉の瞳。夕日に照らされたその顔は、あの日に出会った少女。アリスの友人。
――ベイビードール。
あのクマを模した特徴的な格好はしていなかったが、下着姿のそれは間違いなく彼女であり、そしてその右手は血で汚れていた。
ホンシアは思い起こす。高級な電子ボードを持った、異様な風体の少女。彼女は結局の所、何者だったのだろうか。何故、「偶然にも」あのカフェにいたのだろうか。
その答えが、目の前にあった。
どうしてあの時、気が付けなかったんだろう。アリスの友達なら『女王』と面識があってもおかしくない。『女王』の命令で、自分を監視している敵であると、それくらい、想像できても良かったはずなのに。なのに、どうして私は――
ベイビードールがしゃがみ込み、ホンシアの顔を覗く。彼女は悲しそうな目付きでホンシアを見つめ、「ぐぁ……」と寂しげな声を出した。
どうしてあの時、ベイビードールを敵と考えなかったのか。今にも泣きそうな彼女の表情から、ホンシアはその理由を理解した。
考えたくなかった、それが答えなのだと。
自分が殺しの道を歩み始めた18歳、それよりも遥かに幼い姿の少女。クマの着ぐるみを着ていた奇妙で無垢な少女。そんな少女が敵である事を、ホンシアの脳は想像出来なかった。想像するのを拒否した。
彼女は信じたかったのだ。少女の純粋を。
腹を貫かれてもなお、ホンシアはそれを信じたかった。ベイビードールが本当に悲しんでいることを。望んで自分を殺したのでは無いことを。
だからホンシアは微笑み、首を振った。泣かなくて良い、アナタは悪くないから――そう伝えるために。
それが伝わったのかどうなのか、ベイビードールは「があぁぁぅ……」と悲しい泣き声を発し、やがて居たたまれなさげに俯いた。
果たして、どんな葛藤の末にベイビードールはその手を血に染めたのか。ホンシアはその心情を推し量ろうとしたが、痛みの中で朦朧としつつある思考には無理な仕事だった。唯一思い浮かべることが出来たのは、恐れと決意の狭間で弾丸を放った、最初の射殺の記憶。初めて人を殺した記憶。
あの時の自分はここまで悲しい顔をしていただろうか。ホンシアにはその自信が全く無かった。狙撃が成功した瞬間には達成感と解放感が心を満たしていて、悲しむ理由なんて皆無だったのだから。
それが、この末路への第一歩。あの日、ホンシアは少女では無くなっていた。
だけど、この子はまだ大丈夫――
ベイビードールは俯いたまま、未だ狙撃銃を握っていたホンシアの右手を解き始めた。見た目よりも遥かに強いベイビードールの力に抵抗できず、ホンシアは銃を取られてしまう。そして空いてしまったその手に、代わりの何かが握らされた。
ホンシアの指に触れたのは、ビニールのような物に包まれた何か。彼女がその正体を確かめようと手を開く前に、ベイビードールが立ち上がった。狙撃銃を抱え、ホンシアの視線から逃げるように目を伏せ、少女は静かに立ち去って行く。
瀕死となり狙撃銃も奪われたホンシアは、もはや戦力では無い。よって、ベイビードールの任務は達成したに違いなかった。
ホンシアは手を開き、狙撃銃の代わりに貰った物を確かめる。
ビニールに包まれた飴玉3つ。それが、ベイビードールの想いだった。
激痛に耐えながら、ビニールを解き、その3つを一気に口中へ入れるホンシア。
甘い……か……
その甘味によって、ホンシアの痛みがほんの少しだけ和らぐ。僅かに生じた、生きる余裕。
まだ私……死んでないんだよね…………
ホンシアはゆっくりと身体を起こし、腹部の傷を確かめる。出血は多いが、幸運にも傷の位置自体は致命的では無いようだった。まるで、故意に逸らしたかのように。
もしこのまま動かずにいれば、命だけは助かるかも知れない。だがその選択肢を選ぶことを、彼女は許せなかった。
ホンシアは分かってしまったのだ。たとえ生き残ったとしても、もはや自分はベイビードールのような少女には戻れないことを。そして死んでしまった者たちを――雇い主である陰島、その秘書である神崎、自分と同じく雇われた幾人の兵士たちを――無視して生き延びる罪に、自分が耐えられないことを。
ホンシアはズボンのポケットから小さな短銃を取り出し、立ち上がった。意識は朦朧としている。腹部からは血が流れ続けている。眼下の中庭では『女王』が背を向けている。その先ではローエングリンが息も絶え絶えに、壁に倒れ掛かっていた。
最悪の危機、絶好の機会。その両立の中、ホンシアは銃を構え、狙いを定める。
まだ……やれる……!
『女王』までの距離は50m程度。狙撃銃ならば確実に命中できる距離だったが、短銃で狙える距離では無い。それでもホンシアは諦めること無く集中した。相手を見据え、銃と腕を魔力による加速度で固定し、精神を統一して。
彼女は残った全てを用い、慎重に狙いを定める。魔導士としての、狙撃手としての自分全てをその1発に託すかのように。選んでしまった道を、もう二度と後悔しないように。
人生で最後に殺したい相手へと向けた銃。その弾道が完璧に『女王』を捉えたと確信した瞬間、合図であるかのように風が弱まった。狙撃手としての感性に押され、ホンシアは無意識に引き金を引いていた。
意識と命と誇りの全てを込めた、直線軌道の弾丸。それが真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに、『女王』に向かって――
操り人形のようにぶらりと宙に浮いたローエングリンが、右手に握った剣を魔力による加速度発生で無理矢理に振りかぶる。しかしその腕は、『女王』に容易く掴まれてしまう。
「何故……何故俺に命じたっ!? 何故俺にアイツを殺させようとしたっ!!」
「選択権を与えたかったのだ。君にも、エルザにも」
そう言ってから『女王』は掴んでいた腕を放し、その拳でローエングリンの腹を強く突いた。その一撃はローエングリンの集中を切らし、彼は弛緩した身体で再び壁に倒れこんだ。
「『構造体』で過去に造られた物なのか、それとも本当に神の奇跡なのか……どちらにしろ、聖杯には超自然の分子操作を発生させる力がある。そして、その力を利用して造られたシンボルこそ、エルザだった。不安定な組成を聖杯の力で無理矢理に保たされ、聖杯が無ければ肉体が滅んでしまう哀れなエルザ。君が考える通り、聖杯を手に入れるためにはエルザを殺さなければならない。なればこそ、手に入れるべきかどうかの『自由』を君に託したかった」
「自由……」
「そうだ。君が私の命令を無視し、聖杯の探索を放棄するのであればそれでも良かった。逆に君が命令に忠実であるようならば、エルザへの説得を行わせる考えもあった。聖杯のために彼女がその命を捧げてくれるように」
「俺がそんなことを、するとでも……」
「思ってはいない。だが、第3の選択肢を選ぶ可能性は充分にあった。聖杯の在処を知った君が、私への謀反を企む可能性。そしてそれは、現実になった」
ローエングリンは苦々しく表情を歪める。自分の行動が読まれていた腹立たしさ、胸が詰まるような痛みが込み上げてくる。
「この場合、君を殺す正当な理由が充分に生まれる。そして君を殺したならば、エルザは必ず私へ反旗を翻すだろう。そうなれば次は、エルザを殺す正当な理由が生まれる。そして最後に、正当に聖杯が手に入る」
ローエングリンにとって、それは吐き気を催す論法であった。
「私とて咎の無い同族を殺す権利は持っていない。それ故、聖杯を手に入れるためにはエルザ自身が罪を犯す必要があった。その呼び水となることも考えた上で、君に聖杯探索を命じたわけだ。エルザと懇意である君こそ、エルザに罪を負わすことの出来る者であると考えて。流石にここまで都合の良い方向で事が進むとは考えていなかったが」
「悪魔め……」
その言葉に、『女王』はさも嬉しげに微笑んだ。
「悪魔か、そう言われても仕方無いさ。だが、私を悪魔にしたのは君だ、ローエングリン」
「何を……」
「違うとでも言うのか? 君には選択肢があった。自由があった。その自由の中から君が選んだのは、君にとって最悪の選択だった。私への抗い、君とエルザを破滅に導く罪。それを選んだのは君自身なのだよ、ローエングリン」
「それを選ばせたのは貴女だ、『女王』」
「本気でそう思っているのか? 私は『自由の女王』の名に恥じぬよう、そして『女王』という分不相応な通称に足るよう、卑劣な策を避けてきた。せめて相手に選択権があるように、『自由』があるようにと。君にも相当な選択肢があったはずだ。私に抵抗するにしても、他の選択肢がいくらでもあっただろうに」
「他の選択肢だと……」
「教えてくれないか、ローエングリン。君は何故エルザの傍を離れたのだ? 最も守るべきだった者の傍を離れた、その理由は何だ?」
「アイツに辛い真実を知られぬまま、貴女を倒すために決まっている」
「それが過ちなのだ、ローエングリン」
思いも寄らぬ言葉に、ローエングリンは呆然となった。数ヶ月間、悩んだ末の結論。エルザを傷つけずに、全てを守り抜くための選択。その決意が今、言下に否定されたのだ。
「何故君は、エルザに真実を知らせなかった? エルザが真実に傷付くことが怖かったのか? しかしだ、ローエングリン。私には過酷な真実に負けるほど、エルザは弱く無いように見える。もしかしたら、だ。君よりも遥かに強い心を、彼女は持っているのかも知れない。心だけでない。聖杯の加護は彼女を戦う者としても高めているはずだ。エルザを守る最も良き方法は、エルザに真実を知らせ、エルザ自身に道を選ばせ、そして君はそんなエルザの傍を片時も離れない。それで、それだけで良かったはずだ。彼女がどんな選択をしようとも、君はエルザを守り、エルザは君を支えただろう。エルザにとっても君にとっても、それこそが最良の選択であったと私は思う。だから、問い続けよう。君は何故、そうしなかった? 何故君は今、エルザの傍にいない?」
「俺は……」
言葉が、続かなかった。
「真実を隠し通し、たった1人で全てを背負い込み、君は一体、一体何が守りたかったのだ? 答えろ、『守護の王』、答えろ、答えるんだローエングリンッ!!」
『女王』の怒声を受け、ローエングリンの思考は溢れ返る。想起される様々な光景、その中にあの日があった。数ヶ月前、アリスと別れたあの冬の日が。
あの日、ローエングリンはアリスを巻き込もうと考えていた。エルザを守るために、共に『女王』と戦おう。そう言うつもりだった。だが、彼は出来なかった。死地に誘うことなど出来なかった。
何かが怖かった。誰かが怖かった。彼は次第に分かってきた。自分が本当に恐れていたこと。自分が一番見たくなかったもの。
それは大切なものが、汚されること。傷付いてしまうこと。
「『女王』、俺は……」
幸せだった、あの日。3人の時間、その記憶。
「傷一つ、付けたくなかったんだ。アイツにもアリスにも、あの場所にも」
エルザに真実を伝えたならば、エルザと共に戦うことを選んだのならば、彼女の生命にとってより良い方向に進んだのかも知れない。だが、真実や現実は少なからず彼女の無垢を汚し、彼女の構造体『トルソー』は『女王』から身を守るための要塞と化してしまう。きっとアリスまで巻き込み、全てが戦いへと向かってしまう。
自分はそれを避けたかったのだと、ローエングリンはついに気付いた。それを見て、心を傷つけたくなかったのだと。だから彼は秘密を守り続けた。全ての脅威を自身の胸の内にしまい、彼は『守護』しようとしたのだ。エルザを、アリスを、あの場所を。そして自分の心を。
相手がたとえ、絶対に敵うことの無い者だとしても。
「だが、怖かった。相手が貴女だったから。守りきれる自信が無かった。貴女がアイツを殺しに来るのを待ち構えるなんて事は、とても耐え切れそうになかった。怖くて、怖くて、どうしても」
ローエングリンは瀕死の縁で自分の本心を受け入れていた。恥と言える臆病さの吐露。多くの死と失敗によって、彼にはもはや虚勢を張り続ける力など残っていなかった。
「耐えられなかったんだ。貴女からエルザを守れないかも知れない、そんな想念に。だから俺は1人で行くことにした。耐え切れなくなるその時が来る前に、貴女を殺すために」
そう言って、ローエングリンは言葉を止める。彼の告白の間、『女王』は終始無言だった。ローエングリンの苦悩を受け止めているような、そんな神妙な表情で。
「それが……君の答えか」
静かに、『女王』が口にした。
「『女王』、私は弱い者なのです……」
自嘲気味に笑ったローエングリンに対し、『女王』はゆっくりと首を振った。
「ローエングリン、弱さは誰にでもある。君は私への畏れの中、エルザを傷付けずに全てを済ませる道を探した。恐怖に耐えられなかったのだとしても、君は逃げ無かった。守るべきものを守り通そうとした。耐えられないものを受け流し、自分が耐えられる適切な『守護』を君は選んだ。その苦悩は計り知れないものだっただろう。何度も己に問い掛けただろう。だがその結果エルザに何も知られること無く、君は私にここまでの傷を与えた。まさしく『守護の王』に相応しき、敬意を払うべき精神なのだと思う。だが――」
『女王』は言葉を切った。
「それは本当に君1人が背負うべきものなのか?」
ローエングリンは微笑み、こう返した。
「他の誰かに背負わせるわけには、行かない」
「だが、君は死ぬ。そうしたら、誰がエルザを守るというのだ」
「死ぬ気なんて、最初から無かった。俺が死んだら、やはり」
『女王』の背後、屋根の上で黄昏ていく空を見つめながら。
「アイツは、泣いてしまうから」
その時、空と屋根の間に彼は発見した。まだ終わりで無いことを告げる、勇姿を。
「……『女王』」
その姿が彼に希望を呼び起こさせた。諦めつつあった、命。それはまだきっと、生きている。
「何だ、ローエングリン」
誰がエルザを守る? きっと誰も守ってはくれない。だが、ローエングリンは信じようと思った。『女王』を倒す者ならばまだ生きていると。それを託せる友が、自分には居るのだと。
「お別れです」
魔力による加速度を発生させ、ローエングリンは右手を首の高さまで上げた。剣の刃が顎の下、喉元のすぐ近くで光る。
「何のつもりだ、ローエングリン」
「……」
お互いに微動だにしない、沈黙の緊張。真意を探るように凝視する『女王』の目を、ローエングリンは黙って見つめ返す。
「何を考えている、気に入らない、気に入らないことばかりだぞローエングリンッ! 貴様は孤独に戦い、孤独に死ぬつもりかっ!? 自身の死すら、他者の手を借りぬと言うのかっ!!」
『女王』が怒りと共に全ての注意を自分に注いでいることが、可笑しくて。ローエングリンは思わず口元に笑みを浮かべながら、祈った。
奇跡の弾丸を。偶然の命中を。救いの、一撃を――
――そして、ホンシアの弾丸が『女王』の右肩を掠って行く。
『女王』が苦痛に怯んだ刹那、ローエングリンは出せうる全ての魔力で剣を振った。振り上がることも無い弱々しい斬撃は、しかし『女王』の左脛に食い込む。
「ローエングリン……!!」
憎々しげに『女王』がローエングリンを見る。
「自分の命を囮に、ホンシアの銃撃を成功させたということかっ!!」
『女王』は即座に左脚を動かし、赤く染まる傷から剣を抜き、そのまま左の足で剣を踏みつけた。
「見事、だが失敗だっ! だが、だが、だがっ!! 分かったぞ、ローエングリンッ!! エルザを守ろうという信念は君だけが背負っていた、しかし君は目的が同じ者、即ち私を打倒せんとする者たちと共に歩むことでその重みに耐えたということかっ! 攻撃は最大の防御、つまり陰島、神崎、ホンシアという剣がエルザにとっての盾と成り、そして君は剣としての彼らを信頼していた、そうだ、そういうことなのだろうローエングリンッ! まさしく君たちは仲間、それぞれが何かを背負いつつも決してそれを誰かと分かち合わない、だが全員が同じ目的に向かう、そんな対等の仲間だったのだろう!? それぞれの意志を、それぞれの敬意を持つ者たち、だから私がここまで、ここまで血を流したのだっ!!」
『女王』の右腕が大きく振り上げられた。
「君の主であったことを、私は誇りに思う。『守護』を目指す中で人間と深く関わり合い、共に歩むことが出来た君の主であったことを。『守護の王』の名に相応しい、君の主であったことを」
最後に、『女王』は満足げに微笑んだ。
「見事だった、ローエングリン」
鮮血を飛ばしながら振り下ろされた手刀によって、ローエングリンの首から血が噴出す。それを背に浴びながら『女王』は振り返る。南棟の屋根、ホンシアのいる場所を見つめ、彼女は猛速で飛び立った。
残されたローエングリンは、静かに目を閉じる。
大丈夫、まだアリスがいる。アリスはまだ、生きている。アイツならきっと、必ず。
あんなに巻き込みたくなかったはずなのに、何故だ、願ってしまう。アイツが俺の、俺達の遺志を継いでくれることを。エルザと同じように、汚したくはなかったのに――
瞼の裏、あの湖の記憶が映る。栗毛色の無垢な笑み、不機嫌そうな金色、自分はどんな顔を――
あぁ、そうか。もう、駄目なんだな、3人じゃないから。俺が死んだら、もう二度とあの日々は戻らないから。
だから、もう……いいんだ。あの2人が、生き延びてくれるのなら……
そう……ああ……エルザ……もう一度だけ、会っておけば……何かが……
何かが、変わったかもしれない。そのイメージが言葉の形を成す前に、ローエングリンの精神は途切れた。
残されたのは白い死体に赤い血、白銀の刃。
真っ黒にくすんだ思考、苦悩も後悔も恐怖も、もはや無い。
栗毛色と金色の思い出も、もうそこには無い。
死んだ男にはもう、何も、無い。
全身全霊を込めた射撃の後、ホンシアはゆっくりと腰から崩れ落ちた。立つことも難しい出血。戦うことの出来ない重傷。だが倒れる直前、彼女の目は確かに捉えていた。『女王』が痛みに怯んだ、その動きを。
もしかしたら、もしかしたら。ホンシアの中で生まれる淡い期待。あの弾丸があの化物の頭か心臓を貫いている可能性。ただそれだけが希望であり、それ以外は全て、考えるに及ばない想像ばかりだった。
ホンシアはどうにか自分の射撃の結果を確認しようと、手足に力を込めて立ち上がろうする。顎を引き、屋根を手の平で突いて――カシャッ、と瓦の鳴る音がした。
……畜生。
ホンシアは仰向けのまま、音のした方向に短銃を構える。ゆっくりと顔もそちらに向けると、案の定そこには血まみれの『女王』がいた。
畜生。
殺せなかったゴール。果たせなかった夢。ホンシアにとって、『女王』のその姿は実体化した悪夢であった。
「手ひどくやられている様だな、周紅霞」
震えて照準の定まらない右手、ホンシアは左手を右腕に添える。今度は両手両腕が震えだした。
「よくぞその傷で、そんな銃で私を……」
傷と痛みだけが原因では無かった。彼女は怯え切っていた。殺すはずの相手に殺される、この状況に。
嫌だ……
恐怖に背を押され、ホンシアは引き金に指を掛ける。その瞬間、無力にも短銃は2つに切断され、落ちた部品が乾いた金属音を立てた。
抵抗すら許されない残酷、運命に従う他無いという絶望。ホンシアは泣いてしまいたかった。夢なら覚めて欲しかった。
壊れてしまいそうな心で、それでも彼女は銃の残骸を握りしめ、構え続ける。それが最後の意地。殺せないまま殺されたくはないという、最期の意思表示だった。
「……ホンシア、君のことは調べさせてもらった。君の両親のことも」
憐れむような目でホンシアを見下ろしながら、『女王』は言葉を続ける。
「君の父親の会社が破綻に追い込まれた件、確かに我が社の傘下企業がその一翼を担っていた。だが、君の両親が死んだのは完全な事故――」
「いや」と小さく呟き、『女王』は首を振った。
「そこまで君の両親を追い込んだのは、やはり我々なのだろう。そう、そうだとしても、私は君を殺さなければならない。殺さなければならないのだ、周紅霞」
黙れ、黙れ、と心の中で拒絶しながら、ホンシアは『女王』を殺す糸口を考え続けた。
何も、浮かばなかった。
「私の部下が2人、君に殺された。彼らの鎮魂のためでもあるが、それ以上に私自身の誇りのために、私は君を殺さなければならない。部下を殺した敵に対して、私は寛容でいたくは無い。命がけで立ち向かって来た勇士に対し、手加減もしたくは無い。本当に、本当に申し訳無いが、周紅霞、君には死んでもらう。私の、この手で」
振り上げられる『女王』の右腕、その肩口には明らかな弾痕があった。自分の成果をその目で確認した時、ホンシアの中で何かが込み上げて来た。
そして気付いた時には、涙が頬を濡らしていた。
『女王』は殺せなかった。でも、ただ無様に殺されるだけじゃない。少なくとも、届いた。見果てぬ頂点に、弾を当てることが出来た。その事実にホンシアは自身のゴールを見た。
全く無力のまま死ぬような終わりじゃない。かと言って、見事な射殺を成し遂げるわけでもない。一矢報いた、それだけの終わり。それが自分に相応しい結果であると、彼女は納得してしまった。狙撃手として思い残すことが無い、そう思えるほどに。
それなのに、彼女の涙は止まらなかった。
「ホンシア……もし君ともっと早く、私の部下を殺す前に出会えていたら、きっと私は何としても君を仲間に引き入れようとしただろう。それが残念でならない」
どうして、私、泣いてるんだろう……
「今まで多くの狙撃手が私を撃とうとした。だが、成功したのは君だけだ、周紅霞。つまり君は私が知る限り、世界で最高の狙撃手なのだ」
とても寂しい……頑張ったのに、思い残すことなんて、無いのに。
「その技術、精神へ敬意を払い、周紅霞、君の事は忘れない。君が死んだ後も多くの者に語れるように。君の存在が人々の精神からも消えてしまわないように」
狙撃手として、立派に……
「狙撃手、周紅霞。その名を決して、忘れない」
違う……違う……!!
否定の声を出そうと喉に力を入れようとするも、その喉は目の前を過ぎった手に切り裂かれていた。
噴出す血液が『女王』を染める。ホンシアを染める。構えていた両腕が力を失って崩れ、それも血に染まる。
違う、私は……狙撃手として死にたかったんじゃない……
走馬灯のように、ホンシアの心に涙の理由が浮かんで行く。父の顔、母の顔、友達だった少女たちの顔。何気ない食卓、退屈だった授業、楽しかったふざけ合い。たった7年前までありふれた日常だった情景。
両親と共に失ったものを、復讐の先に求めただけ。狙撃なんてその手段に過ぎないのに。狙撃手としての自分は、一時の役割でしかないのに。そんな役割を終える事無く、そんな役割を「周紅霞」として記憶されて、あの懐かしい時間を取り戻せないまま、死ぬなんて。
そんなの……嫌なのに……
――ホンシア……!
声が……あぁ、アリス、アリスの声か……あの子は……そうだ、あの子といた時間は、どこか……懐かしくて……
そっか……あの子がほんの少しだけど、取り戻して……
ありがとう……ありがとね、アリス……
どうか……忘れないで……私のことを――
ごく普通の少女だったホンシアは、事切れた。
山の陰に沈む夕日、その消え行く赤に照らされながら。ごく普通の願い、死に行く人間として当然の願いを胸に秘めたまま。
発せなかったその願いを聞き入れられる者は、もはやいない。その思いを伝えられる相手など、何処にもいない。
死んだ女にはもう、誰も、いない。
ホンシアが殺される間際。戦闘不能となったカレンを見下ろしながら、アリスは誇らしげに笑っていた。
「私の勝ちね、カレン」
「……」
だが、カレンの目はアリスの顔を見ていない。顔の右側を屋根に付けたまま、その目は虚空を見つめているかのようだった。
「悔しくて、何も言えないのかしら?」
「アリス……確かに貴女は私に勝った」
カレンの敗北宣言に、アリスはさらに得意げな表情になってしまう。
「でも、それだけ」
そう言って微笑んだカレンの、その目付きが愛しげに細まる。
「やはり、貴女は素晴らしいです、『女王』……」
咄嗟に、アリスはカレンの視線を追う。南棟の屋根の上、2人の影。1人が立ち、1人が倒れ――アリスはすぐに気付いた。立っている1人が誰なのか。そして、倒れている1人が誰なのか。
「嘘……」
頭の中が真っ白になったような感覚。アリスは全力の加速で以って飛び立っていた。
距離を考えない速度。不安に思考が押しつぶされる中、過ぎるイメージ。胸騒ぎに耐えかねて、彼女は叫んだ。
「ホンシアッ!!」
叫ぶと同時に振るう、バールのようなもの。『女王』を倒すためではなく、『女王』をホンシアから遠ざけるための一撃。『女王』はその一撃を上昇してかわし、アリスは己の速度を相殺するため、加速度を心の限り発生させた。
停止と同時に振り返るアリス。『女王』が離れた位置に着地したのを確認した彼女は、ホンシアへと駆け寄る。
「ホンシア……」
喉を切り裂かれ、血まみれのホンシア。アリスはぺちぺちと、頬を叩いた。応答は無かった。
「ホンシア、こんな場所で寝てないで。しっかり起きて、ホンシア」
両肩を掴み、揺さぶった。力の無い表情はそのままだった。頬をつねり、引っ張った。痛みすら感じていないようだった。閉じた瞼を無理矢理開いた。瞳孔は開ききっていた。
「ホンシア……ホンシアぁ……」
溢れる涙、こぼれる雫。
どうして、どうしてこんなことになったのかしら。私がカレンに構って、ホンシアを守らなかったから? それとも人をたくさん殺した、ホンシアが悪いの? それとも、それとも、それとも……
止まらない涙、漏れる嗚咽、まとまらない思考。それらを一蹴するかのように、その声は言った。
「久しいな、アリス」
夕日の最後の一射しを受けながら、凛と立つ。その姿はまさに――




