8日目 2
暴力表現があります。
「サイキ様、サイキ様っ!!大丈夫ですか!?」
アイヴンさんの声が耳に届いていたけれど、私は固く目を閉じたまま顔を背けていた。
高いところから落ちた時に感じるような寒気に鳥肌が立つ。心臓は体の外に飛び出してしまったんじゃないかというくらいにうるさく鳴っている。
「......ふ~ん、やっぱり彼の方の庇護の元ではあなたに傷をつけることは不可能なのかぁ」
なんとなくガッカリしたような声に恐る恐る自分の左腕を見ると、レシュカくんの握るナイフが深々と刺さっていた。
ナイフは柄の部分で止まり、その切っ先は私の腕を貫通して反対側で鈍く光っている。
血が......出ていない......?
それどころか痛みが一切感じられない。
「全く手応えが無くて煙にでも突き刺した気分。便利な体にしてもらって良かったですね~。天上の方に感謝しておいた方がいいですよ」
次の瞬間、少年は刺した時と同様にあっさりとナイフを引いた。
一切の抵抗を感じさせないで、それはするりと私の腕から抜ける。
刺さっていた部分からはやはり出血もなく、見る限りでは小さな傷ですら残っていない。
......エルタさんが言っていた『私の命は天上の方に保証されている』ってこういうこと?
私に『理由』があってここへ運ばれて来たから?
「......た、確かめるために刺したんですか......?本当に刺さってたらどうするつもりで......」
「誰だって自分の身はかわいいでしょう?だから実際にあなたを傷つけることが出来たらそれはそれで好都合なんですよ。でもそれが無理なら標的を変更するしかないんですよね」
レシュカくんは私の腕から引き抜いたナイフの先に左手の人差し指をそっと当てた。
ほんの瞬きの間だけ当てたその指にはぷっくりと血の雫が浮く。
彼はそれを一瞥したあと軽く唇でその血を吸い、そのままその指で私の方を指した。
「あなたを直接傷つけることが叶わなくても、いくらでも脅し用はあるんです。あなたは随分とお優しい方のようだから。例えば......そこのアイヴンを使うとかね?」
「え.....?」
呆然と彼の話を聞いていた。
目の前の少年が一体何の話をしているのか、上手く理解できない。
私を脅すためにアイヴンさんを使う.....?
首を横に向けて、アイヴンさんを見ると彼女は私と違ってレシュカくんの言いたい事が分かっているようだった。
その顔を蒼くしながらも、私の方を強く見つめている。
「サイキ様、わたしのことなど構わず何を要求されても拒否なさって下さい」
「勝手に口を開くなって言っただろう?言う事が聞けないんなら無理矢理にでも黙らせるよ」
そう言うが早いか、後から入って来た男の一人がアイヴンさんの方へ近づいた。その手には片手にすっぽりと入るくらいの小さな塊が握られている。
アイヴンさんは男に気付いてなんとか逃れようと体を捩るけど、後ろで彼女の両腕を捻り上げる男がそれを許さない。
男が暴れる彼女の首筋にその塊を押し当てると、途端に力を無くし頽れるアイヴンさん。
後ろ手に拘束していた男がそのまま彼女を床に転がす。
その時に露になった彼女の顔はやはり青白いままで。ただ、いつもは意志の強そうなその双眸は閉じられ、彼女の意識が無いことが分かった。
「アイヴンさんっ!!彼女になにをしたんですか!?」
彼女に駆け寄ってその無事を確かめたくても、私の両腕はいまだ背後にいる男にがっちりと掴まれたままだ。
それでもなんとか彼女の方へ少しでも体を近づけようとソファから乗り出す私の顎を、レシュカくんがぐいっと自分の方へ向ける。
取り乱す私と違って、彼は落ち着いたままだった。今まで見た彼の無邪気な姿が他人だったんじゃないかと思える程、まったく違う空気を纏っている。
「ちょっと眠ってもらっただけです。あなた方二人を連れ出したのが僕だってことは公になってるんですから、ちゃんと無事に帰すに決まってるじゃないですか。ただ、ちょっと僕の言う事を聞いて欲しいだけです」
「......言う通りにしたらアイヴンさんにこれ以上ひどいことはしないんですね」
「それはあなた次第ですよ〜?」
たった今アイヴンさんの気を失わせた男が、今度は私の方へやって来る。
そして先ほどナイフを突き刺された私の左腕に細い腕輪のようなものを填めた。
一見するとシンプルなバングルのようなそれは合金か何かで出来ているのか、ひんやりと冷たい。
繊細な彫刻が施されていて品のいいアクセサリーの様だけど、この状況でこれが彼からの好意のプレゼントだと思えるほど、私だってお気楽な頭はしていないわよ。
腕輪を付けられた後、漸く私の両腕は解放された。
「それね、盗聴器になってるんです。で、次はこっち〜」
言いながらレシュカくんは男の一人にナイフを渡し、代わりに受け取った注射器のようなものを目の前に掲げた。
私の知っている注射器と形は似ているけど、全体がスチールのような金属で出来ていて中身はわからない。
「今からアイヴンの中に埋め込むんだけど、これね、中に小さいカプセルが入ってるんですよ。毒の。あ、カプセルが割れない限り毒は出ないんで、安心して下さい。僕が持ってるリモコンの操作一つで割る事は出来るんですけどね。もし毒が体に廻ったらしばらく苦しむだろうけど死に至ったりはしませんから。でも手足に麻痺が残るくらいの後遺症は出るかなぁ?そうしたらアイヴンは近衛じゃいられなくなりますね。もしかしたら自力で生活することも出来なくなるかも」
「毒って......そんなこと絶対にやめて下さい!!お願いします!!」
「悪いけど、アイヴンにこれを埋めるのは決定事項なんです。でも、あなたが大人し〜くこちらの指示に従ってくれたら、カプセルは割らないと約束しますよ?」
「い、言う通りに従いますから!!」
「いい答えですね」
さっき注射器をレシュカくんに渡した男が再びそれを受け取り、アイヴンさんの首筋に躊躇う事なく射した。
彼女の意識はよほど深く沈んでいるのか、身じろぎ一つしない。
「まず、今日のことは誰にも口外しないで下さいね」
アイヴンさんに注意を向けていた私は、レシュカくんの声に視線を戻した。
相変わらずその顔にはにこやかな笑みが浮かんでいる。
私は自分がどんな顔をしているか分からなかったけど、笑っていないことは確かだろう。
「わかりました......」
「あと、マリグェラ殿下のことを詮索するのは止めて下さい。王太子に誰が相応しいかなんてことも言わないで下さいね。もちろん新しい王太子を選出することも言語道断です」
「......王太子のことなら最初から誰も選ぶつもりはありません」
「それならいいんですけど。あと最後に、明日から四大老の会議に出席してください。僕がいいと言うまで毎日ね。とりあえずはここまでかな。後のことはまた指示します。あ、それとその腕輪ね、取ったら同じようにアイヴンのカプセルが割れちゃうようになってるから。気を付けて下さいね?」
その説明にゾっとして、思わず右手で腕輪を庇う様に胸に抱き込んだ。
こんな小さなものでアイヴンさんの一生が左右されてしまうなんて......。
急に自分の左腕が砂でも詰まっているかのようにずしりと重く感じた。
「それだけ、ですか......?」
「さっきも言いましたけど、それであなたの会話はこっちに筒抜けなんです。だから滅多なことは言わないで下さいね?僕も優秀な近衛を失うのは惜しいし。もちろんアイヴン本人にカプセルの話をするのもダメですよ?そうだなぁ、あまりその腕輪が目につくのも都合が悪いから、後で何か上に着れるものを用意しますね。明日からは袖のあるものを着て下さい」
彼の目的が全然分からない。
四大老の会議に出席?彼は四大老から何か知りたい情報でもあるんだろうか。
それに死んだ王太子について詮索することを嫌がる理由もわからない。
この二つがどう関係あるんだろう。
でも今さらそれを疑問に思ったところで私にはどうしようもない。彼の言う通りに行動する以外に。
「全部言う通りにします。それで、いつアイヴンさんからカプセルを取ってくれるんですか?」
「あなたが元の世界のお帰りになるとき、かな?」
「そんな......!いつになるかも分からないのに!!」
「だから頑張って『理由』をなんとかして下さいね?」
私が『理由』を見つけないと、アイヴンさんはいつその自由を奪われるか分からない。
漠然と帰りたいとは思っていたけど、こんな形でそれを渇望することになるなんて......。
アイヴンさんは自分の体にそんな恐ろしいものが埋め込まれてるなんて知らずに、未だその目を閉じたまま横たわっていた。