1 私になる前のわたくし
雨が上がったばかりだった。午後最初の講義の時間といえば、昼食後すぐだということもあり、どこか気怠い間延びしたような空気が漂っている。本日のこの時間は歴史の授業だから、余計にそう感じるのかも知れなかった。どちらかといえば貴族中心の学園である、このナミエンテル学園においては、退屈と称される授業だ。貴族は幼少期から家庭教師を雇い、基礎的なことを学ぶ習慣があるため、必須科目に入っている歴史の授業は、既に知っている知識をなぞることもあって、真剣に聞いている人の方が少なかった。王族や高位貴族の方の中には、午後から公務があるといって抜けられることもあるから、午後にこうした必須科目が入りがちなのだ。今日だって、三つほど空席があるのが、大講義室の後ろの方に座った私からはよく見えた。私、アメリア・フォン・マルシエはどうかというと、重要な役割などない、ごく普通の伯爵令嬢なので、当たり前のように授業を受けなければならないため、こうして自席に座っていた。
開け放された窓からは柔らかい風が吹いて流れてきた。少しだけ雨と、新緑の匂いが鼻をくすぐる。濡れた土に、雲の隙間から漏れた日差しが、淡い光を照らしていた。黒板の上から広げられた真っ白なスクリーンには、魔法で人物画が映し出されていた。スクリーンの真横には、歴史の教師であるピエール先生が教科書を広げ、その人物に対する解説を行っている。ピエール先生は、齢六十過ぎのベテランの教師で、歴史の専門家だ。優しく穏やかな話し方をする人だから、子守歌の授業だなんて言われていて、ちらほらと臥せってしまっている頭も見受けられた。
私もぼんやりとスクリーンに映し出された、百年ほど前の国王陛下の顔を眺めた。王族に関する授業は、不敬にならないように現王族が公務で欠席する日に行われている。例によって本日は、私の同級生であり隣のクラスに在籍されるベルナール王太子殿下が公務でご不在のため、私のクラスと合同授業で、王族に関する歴史の授業が行われていた。
私は、教科書と人物画を交互に見遣り、人名と顔を一致させる作業をしていた。私も幼少期から家庭教師に歴史を教えてもらっていたが、金銭的にあまり裕福でもない我が家では、人物画が手に入らなかったためだ。だから私にとって、こうした歴史の授業は、人の顔と名前を一致させる授業でもある。この時のこの政策を行った国王陛下は、こういう顔だったのか、と懸命に覚えている時だった。
ピエール先生が人物画の画面を切り替えた。ある代の王族がずらりと映し出される。この時代は、我が国リーファシュラード王国と、隣国エヴァンディエラ王国が政治的に緊迫した時代だった。原因は、政略結婚で結ばれたエヴァンディエラ出身の王妃陛下が、不審な死を遂げたためだった。政治的な緊張が何十年も続いてしまったのだ。
私にとって、初めて見る顔ぶれのはずだった。だが、私は王妃陛下の人物画を見て、雷を打たれたかのように衝撃を受けた。銀色の長い髪を頭の高い位置で編み込み結い上げた、若い女性。深い青色の瞳、白い肌に真っ赤な林檎のような唇。どこか不安げにこちらを見つめるその顔を、私は知っていた。
『――…私が嫁げば、喜んでくださるかしら』
知らないはずなのに、知っている声が頭の中で響いた。どこか夢見がちな浮ついた声だった。私は、知っている。
『――…ねぇ、どう思って…』
頭が割れるように痛かった。思わず臥せったけれど、幸いにも居眠りしている人が多い授業だからか、特に目立っていなかったようだった。目の前がチカチカする。身体が火照って熱いのに、どこか芯は冷えるような、そんな感覚。
「――リア、アメリア?アメリア!」
肩を揺さぶられ、ハッと顔を上げた。いつの間にか授業が終わっていて、みんなが席を立ち始めていた。私の目の前には、友人のヘルガ子爵令嬢が眉を寄せて立っていた。ヘルガは私の顔を見ると、ぎょっとしたように目を見開いた。
「具合悪いんじゃないの?真っ青よ!大丈夫?」
「ヘルガ…」
「とりあえず保健室に行く?それとも、お迎え呼んでもらう?」
「お迎えを…」
「アメリア?アメリア!え、ちょっと、アメリア!」
気持ち悪くてそのまま瞼を閉じた。驚き慌てふためくヘルガを心配させてはいけないと思うけれど、どうしても瞼が重くて開かない。私はそのまま、意識を手放した。
◇
夢の中で私は、陶磁器の花柄の絵付けがされたティーカップを持っていた。赤みがかった色合いの紅茶は、私のお気に入りのものだった。私は紅茶を一口飲むと、そっと盗み見るように目を遣った。
薔薇の花園の向こうに人影がある。金色の髪の、背が高い男性がいた。彼は誰かと話をしているようだった。向かいにいるはずの人物が誰なのか、薔薇の花が邪魔で全く見えない。それなのに、私は彼が誰と話をしているのか分かった。彼が柔らかい表情をしていたからだ。あの人と話す時の彼は、とても優しい貌をしている。私には見せない、優しい貌。
「王妃様」
そっと、声が掛かる。気遣うような、優しい声音は、私がずっと昔、嫁ぐよりも、もっともっと昔から馴染みのあるものだった。一拍置いて、私は振り返る。私の傍に立っているその人は、茶色の瞳を細めて私を見ていた。
「お茶のお代わり、いりませんか?」
彼がティーポット片手に尋ねる。嫁いできた時に付けてもらった侍女ではなく、私は自国から連れてきた彼を、とても信頼していた。彼が淹れてくれる紅茶が唯一の癒しだった。味方のいない宮中で、彼の紅茶だけが私を癒した。
気遣うような目をしているのに、彼は私に、大丈夫かだなんて問わない。そんなことを訊いても、私が答えられないことを知っているのだ。一人になることがほとんどない私は、どんな一言でも拾われてしまう。気を抜くことなんて出来なかった。他国からやってきた私には、この国に味方なんていない。誰もが私に気遣い、頭を垂れるのに、その胸中には別の思惑がある。まるで針の筵のようだった。
それでも私は、あの御方が私を望むのであれば、乗り越えられると思っていた。優しい水色の瞳で私だけを見つめ、甘い声音で名を呼んで、力強く抱きしめてくれたのなら、私はそれだけで、嫁ぐ価値があると思っていた。他に何もいらなかった。どんなに珍しい宝石も、美しいドレスも、美味しい料理も、安らかなひと時だって、いらなかった。あの御方がいれば、あの御方が私を愛しさえしていれば、何だって乗り越えることができると、そう思っていた。心から、そう、願っていたのだ。
「王妃様」
そっと呼びかけられ、私は落とすように微笑んだ。大丈夫、と胸の中で呟く。まだ、大丈夫。大丈夫だと思っているうちは、きっと、大丈夫。私は王妃だ。あの御方の妃だ。胸を張って、自分の中の全ての力を使ってでも、虚勢を張る。こうして王妃らしくいるうちは、私はまだ王妃でいられる。あの御方の王妃でいられるはずなのだから。
「お茶は結構よ。美味しかったわ」
声が震えないように努めて返事をし、笑ってみせる。彼はティーポットを持ったまま、私を見つめていた。まるで痛々しいものを見るような、そんな目をしていた。その視線に気づかないふりをした。気づいてしまったらもう、虚勢なんて張れなくなる。泣きわめきたくなる。どうして、どうして、どうして。どうして私のことを見てくれないの、どうして私を愛してくれないの。どうして。私があの御方に望むことなんて、そう難しいことではないはずなのに、どうしてと、あの御方の胸に縋って泣き叫びたくなってしまう。
だけど、そんなこと、できるはずがない。私は王妃だ。エヴァンディエラ出身の王女であり、リーファシュラードの、あの御方の王妃だ。そんなみっともないこと、できるわけがない。
そんな私の気持ちを察してくれたのか、彼も微笑む。そっと、優しく微笑んでくれた。
「それは良かったです。王妃様、風が強くなってまいりました。中に入りましょう」
「そうね、そうするわ」
彼の提案に、私は素直に頷いた。もう一度だけあの御方を見遣る。相変わらず話が弾んでいるのか、まだ盛り上がっているようだった。あの御方はこちらを見ない。視線が交わることはない。私も目を逸らし、ゆっくりと立ち上がる。彼のいうとおり、風が出て少し肌寒くなってきた。
「中に入りましょう」
私の一声で、侍女たちが慌ただしく準備を始める。私はもう振り返らず、彼のエスコートで庭から離れた。




