ふたつ 深まる森の奥
それから数日経った、ある日の夕暮れ時。
「ごめんくださぁい」
女性の声と、玄関の扉を叩く音。夕食の支度をしていたモナルダとダリアは思わず顔を見合わせた。
「こんな時間に、お客さんかい?」
「私、見てきます」
ダリアが扉を開けると、そこには見覚えのある栗色の髪と瞳の娘の姿があった。
「あなた、この間の……」
「あっ、あなた、あの時木の上にいた子よね! 良かった、やっと見付けたわ! こんな所に家があったのね!」
彼女はダリアの顔を見た途端、目を輝かせて叫んだ。
「あなたがいるっていうことは、あの赤い魔法使いもここにいるの? あなたなら、あの人のこと知っているわよね。あの人……いえ、精霊なのかしら? 魔法使いは人間じゃないというのも聞いたことあるし。あなたたちは人間?」
「人間、ですけど……」
「そうなの、良かった! とにかく、あたし、あなたとあの人にどうしても会いたくてここまで来たのよ」
矢継ぎ早に飛び出す言葉に気圧されていると、奥から魔法使いが顔を出した。
「ダリア、どうした?」
「モナさん」
「あっ、魔法使い!」
栗色の瞳をますます輝かせた彼女に、モナルダも気付いたらしい。ああ、と小さく頷いた。
「……あんた、あの時の娘さんだね。あの後、ちゃんと帰れたかい?」
「ええ、お陰さまで。あの時はお礼も言えなくてごめんなさい。とても怖くて、混乱していたものだから、あなたたちまで怖く思えてしまって」
「そんなのは構わないよ。無事で何よりだ」
申し訳なさそうに頭を下げる娘に、モナルダは笑いかける。そして、ふと真面目な表情になり、言った。
「それで、今日はどうしたんだい? まさか、わざわざこんなところまで礼を言うためだけに来たわけじゃないんだろう?」
モナルダの言葉に、娘は驚いたように目を丸くした。魔法使いの赤い瞳をじっと見つめる。少しの沈黙の後、娘はふふっと微笑んで呟いた。
「まあ、そりゃ分かっちゃうわよね。魔法使いだもの。……あのね、あたし、魔法使いにお願いがあるの」
真剣な栗色の瞳と、魔法使いの赤い瞳と、ふたつの視線が真っ直ぐに繋がった。
魔法使いは小さく頷いて、言った。
「こんなはざまの時間に、外で立ったままする話じゃあないね。お上がりよ。あんたを魔法使いの食卓に招待しよう」
恐る恐る玄関の戸をくぐった娘は、まずその天井の高さに目を引かれたようだった。屋根の形そのままの天井は高く、斜めに開いた天窓からは、夕日が薄れて紺色に近付きつつある空に、星がいくつか瞬いているのが見えた。食卓の上にはランプが梁から吊るされていて、やわらかく部屋を照らしている。食卓の大きな木製テーブルに敷かれた、手作りのクロスは淡い小花柄。上にはまだ何も乗っていないが、家中に料理の良い匂いが漂っていて、気付いた娘のお腹がきゅうと鳴った。
「話を聞くより先に、食事にしようか。さ、お客さんはそこに座っておいで。ダリア、スープとパンを先に出してくれるかい」
「はい」
赤い魔法使いと金髪の少女は、居間の奥の扉に向かう。客人の娘もつられてそこを見ると、その向こうは台所だった。二人はそこを行き来しながら、手早く夕食の支度を整えていく。
「……あたしも、ご相伴していいの?」
「もちろん構わないよ。どのくらい森を歩いてきたか知らないけれど、お腹が落ち着かなきゃ、ゆっくり話もできやしないだろう。それより、食べられないものや苦手なものは?」
「大丈夫よ、ありがとう。えっと、あたしも手伝うわ」
「こっちは狭いから、座っていておくれよ。すぐに終わるから……そうだね、チィの話し相手でもして、待っていておくれ」
「チィ?」
娘はきょとんとして首をかしげる。まさか、こんな森の奥の家に、魔法使いたち二人以外にも住人がいるなんて、思ってもみなかったのだ。
モナルダは玄関脇にある階段から、上階へと呼び掛けた。
「チィ。夕食だよ、降りといで。今日は珍しい、お客さんと一緒の食事だよ」
「おきゃくさま!? ほんと!?」
高い屋根を突き抜けるのではないかというほどに弾んだ高い声と、ぱたぱたと廊下を駆ける軽い足音。踊り場から顔を出したその姿を見た途端、娘の栗色の瞳が真ん丸に見開かれた。
「……宵闇の髪に、星の瞳……本当に? すごい、初めて見たわ! 本当にいるなんて!」
見知らぬ客人の驚きが自分に向けられたものとも気付いたようで、チコリは踊り場の手すりにしがみついたまま固まってしまった。だが、彼女の笑顔と弾む声から、喜んでいることは分かったのだろう。気圧されて戸惑ってはいるけれど、怯えてはいないようだ。
赤い魔法使いは苦く笑った。
「そんなに驚いたのかい」
「当然よ! だって、“星の御子”なんて御伽噺でしか聞いたことがないもの! ……もちろん、魔法使いの赤い目と髪も初めて見たけれど、それよりもうんと珍しいわ!」
「ホシノミコって、なあに? チィはチコリだよ」
初めて聞いた言葉に、チコリは首を傾げている。モナルダに促されて階下へ降りてきたチコリに、娘は丁寧にしゃがんで目線を合わせた。
「チコリちゃん、っていうのね。あたしはセナ。“星の御子”は、チコリちゃんみたいな目と髪の色をした子のことよ。古い御伽噺や歌に出てくるの」
「おとぎばなし?」
「そう。御伽噺は好き? あたし、結構詳しいのよ。星の御子のお話も、魔法使いのお話もいろいろ知ってるわ。教えてあげる」
「ほんと!?」
セナと名乗った娘は、目を輝かせたチコリに笑顔で頷く。モナルダが呆れたように笑いながら、二人の間に割って入った。
「御伽噺もいいけど、先に夕食だよ。それに、あんたは大事な話があるんじゃなかったのかい」
「ああ、そうだった」
ぺろりと舌を出した彼女は、まるで悪戯を窘められた小さな子供のようだった。
客人のセナと、チコリ、ダリア、そしてモナルダ。食卓を囲む四人の足元に、いつの間にかソホも加わる。動物が好きだと構いたがるセナを軽くいなして、ソホは一言も喋らずにいた。“精霊”であることもおくびにも出さず、じっと彼らの様子を見守っているようだった。
いつもと人数の違う食卓は、雰囲気までもいつもと少し違っていて、賑やかで、和やかで、そして何故かほんの少しだけ緊張感を孕んでいた。
「で、セナと言ったね。あんたの「お願い」っていうのは、何なんだい?」
食事があらかた済んだ頃、モナルダが切り出した。セナは頷く。
「端的に言うわ。あたしの……あたしたちの楽団の舞台を、見に来てほしいの」
予想外の申し出に、モナルダは眉をひそめた。
「舞台?」
「ええそう、舞台。あたしのいるイ・フィオリは移動楽団でね、歌に踊りに楽器に芝居に……色々あるのよ。魔法使いさんやダリアちゃんにはもちろん、チコリちゃんにも楽しんでもらえると思うわ。チコリちゃん、舞台見たことある?」
「ぶたい、みたことない」
「本当!? なら絶対に見てほしいわ! あ、もちろん、あたしが招待するんだから、代金や泊まるところ、食事なんかも全部気にしないで。あたしの命の恩人だもの。楽団のお客人扱いでおもてなしするっていうことで、団長に話は通してあるわ」
つらつらと話すセナに、モナルダはますます怪訝な顔をした。
「理由は? その舞台ってのをどこでやっているのかも知らないけれど、そういう興行をやるのは、それなりに大きい町なんだろう。ここから町へは、どこも距離がある。ひょいと行って帰るってわけにもいかないから、行き来も骨だし、あんたの言う通り泊まりも必要になるね。そこをあんたが負ってまで、その舞台を私達に見てほしい理由があるんだろう? それを先に教えておくれ」
「理由のひとつは、お礼のため。自分で言うのも何だけど、うちは結構いい舞台って知られてて、客席に人が入りきらなくなることもあるくらいの人気があるのよ。だから、純粋にそれを楽しんでほしいの。もうひとつは……その、弟を……いえ、実の弟じゃないんだけど弟みたいな子がいて、その子を、見てみてほしくて」
セナは急に歯切れが悪くなり、言葉に迷っているように、考えながら話し始めた。
「その子……ムゲットは、楽団で姉弟みたいに育った幼馴染みなの。楽団で一番上手い歌い手で、今回の舞台でもたくさん歌うんだけど……この稽古が始まってから、ううん、今の町に来てから、なんだか様子がおかしいの」
「おかしい、っていうのは?」
「上手く言えないんだけど……歌っていても心が他所を向いてる、って感じがするの。でも、声もいつも通りだし、音も詞も間違わない、舞台としての質は確かだから、あたし以外はほとんど誰も気付いてないと思うわ。本人に聞いても何もないって言うし……。稽古だっていつものことだから、疲れているとか、体調が悪いとかではないと思うの」
「なんだい、そりゃ」
セナの話を聞いて、モナルダは呆れたように肩をすくめた。
「あんたにしか分からないんなら、私達が行ったって何も分かりゃしないさ。魔法は奇跡じゃないし、魔法使いだって万能じゃない。あんたの弟みたいな子ってのが「おかしい」としても、「おかしくない時」と比べられなくちゃ何も分からないよ。それに、舞台だって見たこともない、ずぶの素人だ。それで、あんたの言う「おかしい」に気付けると思うかい?」
「……それは、確かにそうかも……だけど……」
セナは急にしょぼんと肩を落とし、見るからに顔を曇らせた。きっと彼女自身にも、何がおかしくてどうすればいいのか、よく分からないのだ。少しでも手がかりになりそうなものを探しているのだろう。
「弟さんは、どんな人なんですか?」
セナとモナルダの話を黙って聞いていたダリアが、おもむろに口を挟んだ。
「私にも姉や兄がいるから、弟さん、いえ、弟みたいなその人のことを心配するセナさんの気持ち、少し分かる気がします。ムゲットさんのこと、もっと教えてもらえませんか。そうしたら、何か分かるかも」
「ダリア、そんな安請け合いをするものじゃないよ」
苦い顔をして窘めるモナルダに、ダリアは珍しく食い下がった。
「でも、せっかく頼って来てくれたんですから、力になってあげたいです。それに、わざわざ魔法使いに相談するなら、魔法使いにしか相談できないことなんじゃないでしょうか。私も、そうでしたから。……舞台のことを相談したいなら、きっとセナさんの周りに詳しい人はたくさんいるでしょう? ならきっと、それ以外のこと……近くの人に言っても分からないことか、言いにくいことだと思います」
ダリアの言葉に、モナルダははっと目を見開いた。
「……確かにそうだね。ダリア、あんたなかなか鋭いことを言うじゃないか」
モナルダは改めてセナに向き直り、彼女の栗色の瞳を真っ直ぐに見つめた。少し緊張した面持ちの彼女に問いかける。
「あんたが「魔法使いに相談したい」と思った理由を、教えてもらえるかい」
「ええ」
セナは心を決め、魔法使いの目を見つめ返して、しっかりと頷いた。
「ムゲットは、生まれつき銀の髪に淡い瞳……風の精霊の色を持つ、精霊に愛された子なの。あたしには精霊のことはよく分からないけれど、あの子は精霊の声を聞くことも出来る。今回のことも、あたしや周りのみんなが分からないのは、精霊が関わっているからじゃないかと思って」
「……なるほどね」
精霊の色を持つ人間は多くない。その中でも、精霊の存在を感じ、声を聞き、姿を見ることまでできるのは、ほんの一握りだ。精霊を感じられる者と、精霊を感じられない者とでは、身近なものや風景、世界そのものの見え方さえもまるで違うという。
精霊に関わることは精霊の色を持つ者に聞こう、というのは、至極当然の考えだと言えた。
「とはいえ、私はご覧の通り“赤”だからね……風の声も聞こえはするけれど、意志の疎通も曖昧な程度だよ」
「えっ、そうなの!?」
精霊の色を持つ者が「全ての精霊」を感じられるわけではないということは、あまり知られていない。
「まあ、幸いにも風なら他よりは縁があるから、多少のことは分かるかもしれない。……そういうことなら、私が行く意味はあるかねえ」
「……本当? 来てくれる?」
「まあ、そう結論を急かさないでおくれよ。こっちにも色々と都合があるんだ。家を空けるのなら、それなりに準備だっているからね」
「そ、そうよね……ごめんなさい」
しょんぼりと肩を落としたセナの栗色の頭を、モナルダは軽くぽんと撫でる。セナは驚いたように目を見開いて魔法使いの顔を見上げ、一瞬だけ何か逡巡してから、照れたように顔を伏せた。
「子供みたいに撫でられると、恥ずかしいわ」
「ふふっ、それは失礼した」
モナルダは手を止めて、セナに真剣に、しかし優しく言った。
「あんたのお願いを受けるか、返事は一晩待ってほしい。もう夜だから、今からあんたに森の中を帰らせるわけにもいかないしね。今晩はここに泊まってもらって、その間にこちらも出来るだけ調整はしよう。それで明日、あんたが帰る時までに伝えるよ。それで良いかい?」
「……ええ。ありがとう」
魔法使いの言葉に、セナは笑顔で頷いた。
「話を聞いてもらえただけで、なんだかほっとしちゃった。ここまで来て、良かったわ」
食卓を片付け、洗い物も全てが済んだ後。今の時期は使っていない居間の暖炉前に、長椅子と余っている敷物、寝具、クッションを寄せ集めて、急拵えの寝床が作られた。当のセナが一番手慣れている様子で、居心地よく寝られそうな場所を整えていく。ほどなくして、小さな寝台もどきがそこに出来上がった。
手伝ってくれたダリアとチコリも、彼女におやすみを言って二階の自室へ行ってしまった。魔法使いの部屋は地下だという。セナはごろんと寝具に寝転がり、ふぅと息をついた。自分以外のいない居間は広く、少しだけ寂しく感じた。
と、寝転んでぼんやりと天井を眺めていたセナに、すっと土色の大きな犬がすり寄った。
「ソホ、だったわね。暖炉前がお気に入りなの? 場所を取ってしまったのね。よければ一緒に寝ましょうよ」
セナはソホを撫でながら抱き締め、その毛皮に気持ち良さそうに顔を埋める。ソホもやれやれと彼女の隣に横になり、彼女を守るように寄り添って寝具に潜り込んだ。
灯りも消えて静まり返った部屋の中、即席の寝床からすうすうと微かな寝息が溢れ始めるまで、時はかからなかった。




