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はざまの森の魔法使い  作者: 神無月 愛
第四章  Mughetto
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ひとつ 緋色の空のころ

 その日は、昼過ぎから妙に森が騒がしかった。

 といっても、大きな音がするわけでもなければ、風が強いわけでも、鳥や動物が多く行き交っているわけでもなかった。ごく普通の、穏やかに晴れた日。昼の陽射しは暑いけれど、木陰の風はからりと爽やかで、日が傾くのがだいぶ遅くなった、当たり前の夏の日だ。

 それなのに、妙に落ち着かない。ダリアは小さくため息を吐き、籠に取り込んだ洗濯物にぱふっと顔を埋めた。


(よし、おしまい。よく乾いてる)


 籠を持って家の中へと上がると、台所から夕食のいい匂いが漂い始めていた。食卓の支度が始まる前にと、ダリアは居間で取り込んだ洗濯物を広げる。畳んで仕分けした服を小さな籠に入れて、それぞれの部屋へと運ぶ。全て終わらせて居間へと戻り、椅子に腰かけてテーブルへと突っ伏した。


「はあぁぁ……」


 つい、ため息が口からこぼれてしまった丁度その時、頭上から声をかけられた。


「お疲れさん、ダリア」

「モナさん」


 顔を上げると、赤い髪の魔法使いが硝子(ガラス)(コップ)を彼女の目の前に置いた。並々と満たされた冷たい茶が、窓からの夏の陽射しに涼やかに揺れる。


「ありがとうございます」

「このところ雨が多かったから、洗濯がずいぶん溜まっていたね。大変だったろう」

「いいえ、今日は一日ずっと良いお天気でしたし、とても気持ちよかったです」


 ため息の理由は、疲れとはまた違う。


「今日は、さっきから森が騒がしいですね。なんだか落ち着かなくて……」

「……ああ、そうだね。あんたにも分かるようになったかい」


 モナルダはふっと微笑んで、ダリアの向かいに腰を下ろした。


「まあ、そう大したことはないよ。精霊たちがちょっと騒いでいるだけさ。彼らが騒いでいても、人間にとっては些細なことや、全く関係がないことだって多い。こういう空気もよくあることだよ、気にしなくても大丈夫だ」

「……そう、でしょうか」


 不安そうに俯くダリアの金髪を軽く撫でて、モナルダは笑った。


「あんたの耳と、その鳶色の目は優秀だね。この子らの言葉までは分からなくても、存在を感じ取る力がめきめき上がっている。……少し、散歩でもしようか」

「えっ? でも、料理中じゃ……」

「あの鍋が煮えるまでの間だけさ。ずっと見ていなくても大丈夫、焦げつきはしないよ」


 モナルダは穏やかに微笑みながらダリアを立たせ、家の外へと連れ出した。

 だいぶ低くなってきた陽射しが、森の木々を横から照らしている。昼のままの青と、夕暮れの鮮やかな緋色とが混ざり合った空が、刻一刻とうつろっていく。


「落ち着かないなら、いっそ慣れてしまうのが良い。騒がしさにも度合いがあるからね、「このくらいなら大丈夫」と覚えてしまえばやり過ごせるさ。……私にも彼らの声は聞こえているけれど、今日のはただ噂話をしているみたいなものだよ」

「内容まで分かるものなんですか?」

「大まかにはね。危険があるとか、怒っているだとか、そういうのじゃないから安心していいよ」


 ダリアはきょろきょろと森を見回し、耳を澄ました。風が木々の間を吹き抜けて鳴り、繁みや梢を揺らして音を立てる。耳で聞こえる音はそれくらい。もともと動物は多くない森だ、鳴き声のたぐいは今は聞こえない。モナルダの言う「彼らの声」というのは、ダリアにはまだ分からない。


 と、突然空気がぴんと張り詰めた。

 音はしない。風向きも変わらない。気温も空模様も、雲の流れさえ変わっていない。それでも確かに何かが変わった。首筋にぴりっとした緊張が走る。


「モナさん、これは……?」

「……何か、近付いてきたね。敵意か、悪意か……何にせよ、良くないモノだ」


 モナルダも眉をしかめる。

 頭上で耳慣れた羽音がしてダリアが顔を上げると、青い木彫りの小鳥が空から一直線に降りてきた。高く差し上げたモナルダの左手に舞い降り、アクアマリンの瞳で魔法使いの赤い瞳を見つめる。そして、力強く羽ばたき、あっという間に木々の向こうへと飛んでいった。

 モナルダは静かに目を閉じ、いつも左手に着けている指輪をそっと額に当てた。


「……森そのものには特に異変はない。何か、紛れ込んだだけのようだね。この気配は……人間、かな」


 ばさばさと羽音がして、青い小鳥がモナルダの腕に戻ってきた。


「こっちだ」


 魔法使いが指さしたのは南、大きな町が近い方角だった。


「こちらから、誰か来る」

「……ええ、私にも聞こえました。人の声がします」


 かなり近付いてきている。モナルダは胸元に下げていた守り石を外して右手で握りながら、左手でダリアの腕を掴んで引き寄せた。身構えたまま、少しずつ家の方へと近付いていく。

 また、声が聞こえた。


「……誰か、助けて……!」

「女の子の声……?」

「ダリア」


 思わず足が動いたが、モナルダにぐいと引き戻された。


「駄目だ。無闇に突っ込んだって、ことは好転しないよ。むしろ悪くなる。まずは下がるよ」

「でも……! でも、放っておけません!」

「落ち着きな、誰も見捨てるなんて言っちゃいないよ。……そうだ。ダリア、あんた、木登りは得意かい?」

「え?」


 モナルダはダリアの耳元に顔を寄せ、ぼそぼそといくつか呟く。ダリアは目を見張り、緊張した面持ちで頷くと、静かにその場を離れた。ダリアを見送り、モナルダも慎重に声の聞こえた方へと足を向ける。


 風が駆け抜け、梢がざわざわと音を立てた。


 二人の話していた場所から、いくらかの茂みと木々を隔てた先に、その声と物音の主はいた。


「くそ、暴れるんじゃねえ」

「いやっ、離して!」

「痛い思いしたくなきゃ大人しくしな」


 ダリアより少し年嵩に見える、赤みの強い栗色の髪の娘と、それを取り囲む男が三人。背の高いがっしりとした男と、まだ年若そうな優男が、二人がかりで娘の細い肩と手首を掴み、恰幅のよい髭面の男が、脅すように武器を鞘のまま彼女に突き付けている。


「何を、しているんです?」


 突然の思わぬ声に、男たちも娘も声のした方を見上げる。そして、目を疑った。

 木の上に、金髪の少女がいる。

 太い枝に腰を下ろし、じっと自分たちを見下ろす真っ直ぐな瞳に、男たちは戸惑った。こんな森の中、たった一人でいる彼女の存在を(いぶか)しみながらも、彼らの視線はその見事な黄金の髪に吸い寄せられる。

 男たちは互いに目を見合わせ、まずは一番若い男がゆっくりと、少女の登る木の根元へと歩み寄った。


「……お嬢さんこそ、ここで何を?」

「何も。ただ、木に登っているだけです」


 金髪の少女──ダリアは答えて、枝の上に立ち上がった。男がもう一歩こちらに近付いてくるのを見ながら、極力ドキドキを顔に出さないように、枝を掴む手に集中する。大木の枝は太くしっかりしていて、彼女が立つくらいならびくともしない。


「危ないよ、降りておいで」


 若い男は、努めて優しい声を出して彼女に呼び掛けた。

 もう一人、髭面の男も少しだけ、こちらに足を踏み出した。手にした短刀は構えたままだが、栗髪の娘に突き付けられていた切先は逸れ、空を泳ぐ。これで、彼女を捕らえているのはあと一人、背の高いがっしりとした男だけ。

 まだだ、でももう少し。


「降りておいでよ、お嬢さん。もうすぐ日も暮れるよ。夜の森は危ない」

「あなたたちも危ないですよ」

「俺たちはすぐ森を出るよ。そうだ、お嬢さんも俺たちと一緒に行かないかい? 村まで、いや君の家まで送ってあげるよ」

「だ、だめよ! 来てはだめ!」


 声を上げたのは、男に腕を掴まれたままの娘だった。恐怖に潤んだ栗色の瞳で、訴えかけるようにダリアを見つめている。彼女を安心させるようにちょっと微笑んでみせながら、ダリアは首を横に振った。


「私は、村には行きませんよ」

「どうして? 家出でもしているのかい」

「いいえ。だって、私が住んでいるのは村じゃなくて、この森ですから」


 ダリアの言葉に、男たちも娘もぽかんとして固まった。その言葉の意味が理解できない、といった表情をしている。


「それって、どういう──」


 男が聞き返そうとした刹那、ダリアは勢いをつけて隣の木の枝に跳び移った。

 不意を突かれた男たちは咄嗟に、全員そちらへと動いてしまった。栗色の娘をしっかりと押さえていた筈の長身の男さえ、ほんの一瞬、娘から意識が逸れた。

 ばちっと大きな音がした。


「ぎゃあっ」


 長身の男の肩に激痛が走り、その手から娘の腕が引き剥がされる。


「何……!」


 音と声に驚いて振り向いた男たちが目にしたのは、痛みに蹲る仲間と、栗色の娘を背に庇うようにして立つ、真っ赤な魔法使いの姿。


「うわっ」

「きゃああっ」


 何が起きたか分からずにいた娘も、魔法使いの姿を目にした途端、悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。

 微かな風に、鮮やかな赤い長髪がふわりと靡く。


「こんなところに、今度は人(さら)いかい。まったく、ここらも物騒になっちまったもんだねぇ」


 穏やかな口調で言いながら、魔法使いは男たちを真っ直ぐに見据える。その瞳は燃え盛る炎のように赤く、底知れぬ強い光を湛えており、気圧された男たちは思わず一歩あとずさる。


「ま、まさか、魔法使い……」

「そうだよ。「はざまの森」も魔法使いも、ただの御伽噺(おとぎばなし)だと思っていたのかい?」

「う……うわああぁっ!」


 唐突に、髭面の男が言葉にならない声で喚きながら短刀を鞘から抜き放った。闇雲に突進する男に、魔法使いはすっと右手を(かざ)す。突風が男の身体を造作もなく吹き飛ばし、背中を地面に打ち付けた男は呻いて動かなくなった。


「ひっ……た、助けてくれぇ!」


 残った一人は、裏返った叫び声を上げながら一目散に逃げ出した。

 その背を見送って、魔法使いはやれやれと息を吐く。右手に握り締めていた守り石を懐に仕舞ってから、栗色の髪と瞳の娘に向き直る。腰が抜けたように草地に座り込んだ娘は、大きく目を見開いて魔法使いを見上げていた。


「災難だったね、娘さん。怪我はないかい?」

「ひゃあっ」


 娘は小さく悲鳴を上げて飛びずさった。まるで怯えた小動物のように、魔法使いをじっと睨み付けたままじりじりと後ろに下がっていく。そして出し抜けに、バッと立ち上がって駆け出した。


「あ、ま、待って!」


 樹上から降りてきたダリアが彼女を追いかけようとするが、栗色の後ろ姿はすぐに見えなくなってしまった。


「……あの子、大丈夫でしょうか」

「あれだけ走れるなら怪我はしていなさそうだね。あちらの方角ならじきにシュイエの町に着くし、迷うこともないだろう。一応、アイが追いかけてるから大丈夫だよ」


 魔法使いは溜め息をつき、下ろしていた髪を手早くまとめて束ねながら言った。


「まったく、とんだ散歩になっちまったものだよ。ダリアにも手間をかけたね。怪我はないかい?」

「大丈夫です。あの、モナさん、この人たちは……人攫い、なんですか?」

「ああ。あんたの村みたいな穏やかな所や、こんな森の中じゃまず滅多にいないけど、見目(みめ)の良い娘や子供を(かどわ)かして売ろうって人間もいるんだよ。ダリアも気を付けな」


 モナルダは地面に転がったままの男たちを見下ろして、肩を竦めた。


「……さて、こいつらはどうしてやろうかね。このまま放っておいて、夜の森を迷わせてやってもいいけど、万一生き残って仲間と報復になんか来られちゃ困るし……面倒だけど町の警備兵に突き出しておこうか。ダリア、帰ってソホを呼んできてくれるかい」

「ソホさんを、ですか?」

「さすがに私一人じゃ、大の男二人を町まで運べないからね。ああ、それと、あんたとチィで先に食事にしていておくれ。あの鍋ももう充分煮えている筈だから」

「は、はい、分かりました」


 素直に家の方へとぱたぱたと駆け去っていくダリアの後ろ姿を眺めながら、モナルダはもうひとつ大きな溜め息を吐いた。

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