船場さんと、ストレッチ
松下さんの後ろを走り辿りついた先は、ここに初めて来たときに入った、あの大きなガラス張りのドアの建物だった。先日と同じように靴を脱ぎ、この前は上がった階段をスルーして右に曲がると、木目の引き戸が出現した。引き戸を開けると、中は卓球部が使うみたいな、小さな体育館のようなスペースがあり、先ほど会った子たちも含めた、10人程度の小さな子どもたちが体育座りをしていた。
「さぁさ、みんな集まったかな」
皆の前に立った、エアロビクスのトレーナーみたいなカラフルで光沢のあるスーツを着たおばあさんの問いかけに、集まった子どもたちが「はい!!」と大きく返事をする。
ひとつにまとめた短めの白髪に、骨の浮き出た腕をしつつも、真っ赤な口紅を引き、ピシッと姿勢を正して、ニカッと笑う様子は、テレビCMで流れてくる「いつまでも若々しい」を体現しているようだった。
「よし、それじゃあ、昨日と同じように、準備の体操からはじめていきましょうか」
そう言ってパンパンと手を叩いたのを合図に、子どもたちはわっと広がり、手をブンブン振り回して、周りに当たらないことを確認すると、おばあさんの「1,2」の掛け声に合わせて「1,2」とストレッチを始めた。
「あの前に立ってるのが、舩場さん」
ぼんやりと眺めていた俺に、子どもたちがワイワイと上げる声に紛れて、松下さんがこそっと耳打ちをしてくれた。
「もともと、福徳園で心理職をしてたんだけど、3年前に定年でご退職されて。それ以降は、こうやって企画の補助をしたり、イベントを開いたりしてくれてるんだって」
小さく頷きながらそんな話を聞いていると、俺の斜め前に立っていた長谷が何かに気が付いたかのように船場さんの方から目線を外したかと思うと、「あれ?」と言いながら、ふっと視界の下の方にフェードアウトしていった。
目で追いかけてみると、片方の松葉杖を置いて器用に少しかがんだ長谷の視線の先には、先ほどの幼児たちよりは少し大きな、しゃがんだ長谷と丁度同じ位の身長の男の子が立っていた。
「ねぇ、一緒に準備体操しよ」
くりくりとした瞳で長谷を見つめる彼はそう言って長谷の右腕を掴むと、身体の反動を使ってブルブルと振った。サラサラの髪の毛は目の辺りで切りそろえられており、白い肌の上整った顔のパーツが丁寧に配置されている様子は小学校を舞台にしたドラマで「王子様」とニックネームを付けられていた子役を彷彿させる。
「りくくん、ごめんね、今私怪我しちゃってて」
そう言った長谷はゆっくりと自分の腕から『りくくん』と言う名前らしい彼の手をそっと離すと、そのまま少し困ったみたいな表情をこちらに向けた。
「だからね、あのお兄ちゃんと一緒に体操してもらっても良いかな」
一瞬時が止まったのが、俺にも分かった。ホールは狭いはずなのに、すでにペアになった子どもたちのキャッキャとはしゃぐ声がやけに遠くに感じられてしまった。
「え、なんで!」
そう言って、りくくんは足を一つダンと鳴らしたが、長谷がこちらからりくくんの方に視線を戻すと、「ふん」とほとんど鼻息ような、ただ不服だけを表す声とも言えないような声を上げてこちらにやって来て、ズボンの端の方をぎゅっと握った。
「ありがとう。一緒にはできないけど、ここから見てるね」
そう言って、手の平を瞼に当てて「ジーッ」と言う長谷の方を見ることなく、りくくんと言う少年は俺のズボンの端をぎゅっと握って下を向いたまま、ホールの少し真ん中の方へと歩いて行った。
俺達がスペースのある場所に移動できたのを見てか、りくくんが立ち止まるとすぐに、舩場さんが声を上げた。
「それじゃあ、まずは足のストレッチから」
そう言って手をパンと鳴らすと、それぞれペアになった子どもたちは「いーち、にー」と明るい声を上げ始める。
「なぁ、なぁってば」
不機嫌そうなそんな声にぼんやりとしていた視線を足元に向けると、開脚をして背中を丸めたりくくんとやらが、不服そうな顔をしてこちらを見上げていた。
「早くしてよ」
そう言ってムスッと地面に手をついて顔を下げるりくくんに言われるがまま、背後に回ってしゃがみ込む。これは、押せば良いのだろうか。自信が持てないまま、自分の手の平がはみ出してしまいそうなほど小さな背中をぎゅっと押すと、「ふぅぅぅ」と溜まった不満を吐き出すようなため息が聞こえて来た。これで正解だったのだろう。
「はい。それじゃあ、交代!」
しばらくしてから上がったそんな船場さんの言葉に、ゆっくりと手を離すと、前に姿勢を倒していたリクくんは、パッと立ち上がり、先ほどとは変わってニヤリとした表情を浮かべて俺の後ろへと回り込んだ。
「早く、早く、座って」
ジャンプをしているのであろう小さなダンダンという足音と聞きながら、背中に当てられた手に従うがまましゃがみ込み、先ほどのリクくんと同じような体勢をとると、待ってましたと言わんばかりに背後からドンという衝撃が走った。体当たりをしているのだろうか、背骨にそってぐっとかけられた力に、前に逃げようとするが、あいにく自分の身体はそんな柔軟性を持ち合わせていなかった。
何も言わず、ただグイグイと背中を押し続けるリクくんに何を言える訳でもないが、自分の太ももに帰着する筋肉の筋だけは、確かに静かな悲鳴を上げていた。やばい、どうすればいいのだろうか、これ。
「リク、一旦ストップ」
ひとりでグルグルと考え事をしていた俺に振ってきたのは、若い女の人の、そんな言葉だった。背中から先ほどまでの力強い感覚が離れたかと思うと、続けて「突然押したら驚くだろ。謝れ。」と言う声が聞こえる。振り返ると、少し申し訳なさそうに自分の服の裾をきゅっと握るリクくんと、その後ろには、見たことのない、若い女の人が腕を組んで立っていた。ショートカットに、金髪のインナーカラーを入れ、裾の方が広がった細身のジーパンとぴったりとした濃紫のトップスを着こなす様は、最近の言葉で言うところの「ギャル」なのであろう。
「ごめんなさい」
眉尻を下げたリクくんがそう言って身体をこちらに向けるが、先ほどまでの勢いを失って、しゅんとされてしまうと、こちらの方が申し訳なくなってしまう。実際、驚きこそしたが、別にそこまで気にしてはいなかった。
ただ、目の前ですぎる事の流れを見ながら、いつも通りのぼんやりと霧がかった思考をそんな風に動かしていると、女の人はしゃがんでリクくんの視線に合わせたかと思うと、腕を握り、くるっと自分の方へ引き寄せた。
「よし、じゃあ、ゆっくり押せよ」
小さな顔いっぱいに浮かべられた笑顔と、そんな言葉に、リクくんは「うん」と大きな声で頷くと、こちらにニパッと笑顔を向けた。パタパタと駆け寄ってくる彼とは対照的に、女の人は先ほどまでの笑顔をスッと消し、敵意すら向ける価値もないと言わんばかりの無表情でこちらをじっと眺めていた。
「兄ちゃん、もう一回。今度はゆっくり押すから」
そう言われるがまま、また先ほどと同じ体制を取り、ゆっくりと身体を前に傾ける。
あの人は、一体何なのだろうか。そんな俺の思考をかき消すみたいに、舩場さんは「はい、じゃあ、おしまい!」と手を二回叩いた。




