第5話:境界タワーの扉が開くとき
前話では、部屋着姿の一般男子生徒たちによる狂気の出陣式と熱い合掌に見送られ、ついに地上15メートルの境界タワー最上階へと到達しました。
第5話は、エレベーターを降りた男子生徒会8名が、大会議室の分厚い防音扉の前に立つ緊迫のシーンから始まります。
換気フィルターの隙間から漏れ出す「未知の甘い香り」に狂乱する男たちと、西校舎側から同時に響くプラチナIDの認証音。
ついに東西生徒会16名が直接顔を合わせる運命の瞬間直前――男たちの意地と、湊の胸に秘めた純愛のドラマをぜひお楽しみください!
チン――。
静まり返ったエレベーターのかごの中に、無機質な電子チャイムの音が響き渡った。
インジケーターのデジタル表示は、地上十五メートルの高みを示す『TOP FLOOR』。
ステンレスの扉が左右に開き、ひんやりとした空気が室内に流れ込んでくる。
「……行くぞ」
御手洗征四郎の重厚な一声を合図に、俺たち男子生徒会役員八名は、威厳を保ちながら一歩を踏み出した。
足を踏み入れた先は、タワー最上階に設けられた広大な前室――『ウェイティングホール』だった。
白のリノリウムが磨き抜かれた床。
天井からは柔らかなダウンライトが注ぎ、中央には東西合同大会議室へと続く巨大な両開きドアが鎮座している。
だが、何よりも俺たちの目を奪ったのは、ホールの左右を覆い尽くす全面強化ガラスの展望パノラマだった。
「うわぁ……すごい眺めだよ、湊くん!」
小日向陸が目を輝かせ、ガラス窓へと駆け寄る。
俺もまた、歩みを止めてその景色を見下ろした。
地上十五メートル。
真下を走っているのは、灰色に鈍く光る巨大なコンクリート防壁――『規律の障壁』の天辺だった。
分厚い壁の幅は優に三メートルを超え、頂上部に張り巡らされた高圧電流ワイヤーが、日光を反射して青白くぎらついている。
そして、その巨壁を境目にして、左右に広がる光景の落差は凄まじかった。
東側――俺たちが暮らす男子校舎エリア。
無骨な四角い鉄筋コンクリートの校舎群、土煙の舞う広大なグラウンド、実用性と機能美だけを追求したアスファルトの通路。色気など薬にしたくもない、鋼と泥の男の園だ。
対して、西側――これまで壁に遮られて一度も見ることのできなかった女子校舎エリア。
白亜の優美な西洋建築が立ち並び、丹念に手入れされた色とりどりの花壇と緑豊かな並木道が迷路のように美しく張り巡らされている。遠くに見える噴水広場からは、キラキラと水飛沫が光を浴びて舞い上がっていた。
同じ蒼穹学園都市でありながら、そこはまるで別の国、別の文明だった。
「……まさに地獄と天国ですね」
御影怜司が、抱え込んだ分厚い予算書の束を抱き直しながら、苦々しげに呟いた。
「あちらの西校舎の庭園維持費、おそらく東校舎の施設管理費の三倍は下りませんよ。あの忌々しい壁に毎月五十万円の高圧電流代を溶かしている我が男子校舎の貧相さが際立ちます。今日の会議では、庭園維持費を削ってでも男子側のWi-Fi増強と自習室拡張の予算を毟り取ってやらねば気が済みません」
「相変わらず御影くんは現実的だねぇ」
鳴神玲音がふっと優雅な笑みをこぼし、ブレザーの胸ポケットに挿したチーフの端を整えた。
「だが、あの美しい景観こそが、麗しのレディーたちが咲き誇るにふさわしい花園というものさ。初対面から予算の無粋な話で彼女たちの機嫌を損ねては、紳士の名が廃るよ」
「お前はまずその浮ついた口を慎め」
佐伯晴彦がこめかみを押さえ、深いため息を吐いた。
「我々は観光に来たのではない。東校舎三学年、全男子生徒の誇りと自治権を賭けてここに立っているのだ。……海堂、お前もだ。先ほどから何をソワソワしている」
名指しされた風紀担当・海堂陸斗は、額に薄っすらと汗を浮かべ、ブレザーの上から胸筋を揉みほぐしていた。
「い、いえ! 普段のランニングなら心拍数は百前後で安定しているんですが……なぜか今、百三十を突破していまして! 筋トレの限界追い込みセット前よりも脈が激しく跳ね上がっているんです!」
「それはただ単に生身の女子を意識して緊張しているだけだ筋肉馬鹿!」
佐伯の鋭いツッコミが飛ぶ。
その横で、小日向がトコトコと俺の元へ歩み寄り、ブレザーの袖をキュッと引いてきた。
「湊くん、湊くん。湊くんの心臓も、どくどく言ってる〜?」
「……平気だ。いたって平熱、心拍数も平常通りだ」
「え〜、本当かなぁ? 湊くん、手元がちょっとだけ固いよ〜?」
首を傾げて覗き込んでくる小日向の澄んだ瞳に、俺は心の中で小さく苦笑した。
鋭い。
歌舞伎の名門宗家で女形としての所作と観察眼を叩き込まれているだけあって、わずかな身体の強張りを敏速に見抜いてくる。
平静を装ってはいるが――この扉の向こうに、あの月城凛花がいるのだ。
心臓が跳ねないはずがなかった。
「――静粛に。扉の前に整列しろ」
征四郎の引き締まった低音が、ざわつく空気を一瞬で薙ぎ払った。
全員が息を呑み、歩みを揃えてホールの正面へと向かう。
そこには、学園都市の境界線そのものを封鎖するように、厚さ二十センチを超える特殊チタン合金製の巨大な二重スライドドアがそびえ立っていた。
東西合同大会議室のメインエントランス。
防音気密パッキンによって隙間なく密閉されたその大扉は、まるで核シェルターの防壁のように重厚で、冷酷なまでの威圧感を放っている。
だが――。
扉の真上に設置された換気気密フィルターのスリットから、かすかな空調の微風がスーッと吹き抜けてきた、その瞬間だった。
ピクッ。
列の端にいた虎太郎の鼻腔が、猟犬のように跳ね上がった。
カッと両目を見開いた虎太郎が、ガクガクと膝を震わせながら、両手で自らの胸元を掻きむしる。
「……ッ!? な、なんだ……この空気は……!?」
「西条、静かにしろ」
佐伯が眉をひそめたが、虎太郎の耳には届いていなかった。
虎太郎は陶酔しきった表情で、ズズズッと鼻から狂ったように空気を吸い込み始めたのだ。
「か、香る……! 香るぞ佐伯ィィィッ! これは……これは男の汗と部室の湿布と、ドラッグストアの安物制汗スプレーの匂いなんかじゃねえッ! ふんわり甘くて、お日様の下で干した最高級の柔軟剤と、摘みたての花を煮詰めたみたいな……天国の香りだぁぁぁッ!!」
「深呼吸するなこの変態がぁッ!」
ドゴォッ!
佐伯の抱えた六法全書の角が、虎太郎の鳩尾に容赦なく突き刺さった。
「ぐへぇぇッ!?」とカエルのような声を上げて虎太郎がくの字に折れ曲がる。
「はぁ、はぁ……!」
激痛に悶えながらも、虎太郎は涙目で佐伯のズボンの裾にすがりついた。
「だ、だって佐伯……! 扉の隙間から漏れてくる匂いだけでこれだぞ!? この扉が開いて、本物の女子生徒会と対面したら……俺、一瞬で魂を抜かれて即死しちまうかもしれねえ……ッ!」
「魂を抜かれる前に私が貴様の息の根を止めてやる!」
佐伯が怒髪天を衝く勢いで虎太郎を睨みつけ、胸ポケットから胃腸薬の錠剤を取り出して水なしでガリガリと噛み砕いた。
「酸欠で倒れる気か! 貴様のくだらない過呼吸のせいで私の胃薬の消費ペースをこれ以上早めるな! そして貴様、壁の向こうの女子生徒会を何だと思っているんだ! 彼女たちは妖怪でも悪魔でもない、ただの同年代の生徒だ!」
「だが、ただの生徒ではないのも事実だ」
征四郎が静かに割って入った。
その厳格な横顔に、佐伯も虎太郎も息を呑んで口を噤む。
征四郎はゆっくりと振り返り、俺たち役員全員を射抜くような鋭い視線で見据えた。
「西校舎を束ねるのは、あの月城家の令嬢だ。名門華族の血を引き、各界の令嬢たちを束ね上げる絶対的カリスマ。噂に聞く彼女の器量が本物であるなら、一瞬の油断も、一歩の隙も許されん。……いいか、我々は東校舎の代表としてここに立っている。男子校舎の誇りを胸に、決して侮られることなく、堂々と胸を張れ!」
「「「了解!」」」
征四郎の檄が飛び、役員たちの背筋が一斉に伸びる。
海堂が胸を張り、御影が鋭く眼鏡を光らせ、虎太郎すらも涙を拭って姿勢を正した。
だが――その引き締まった空気の輪の中で、俺はブレザーの内ポケットにそっと指先を滑り込ませていた。
ポケットの底にある、小さな銀色のお守り。
(……英傑、か)
俺は内心で、誰にも悟られないように小さく苦笑した。
征四郎たちが警戒するのも無理はない。
世間が知る月城凛花は、完璧にして冷徹、いかなる妥協も許さない孤高の生徒会長だ。
だが――。
昨晩、登録者五十万人を超える大人気Vtuber『ルナ』の配信で、彼女が見せた姿を俺は知っている。
『一番見てほしい“あの方”には、見てもらえなかったの』
そう言って寂しそうに伏せられた藍色の瞳。
画面の向こうで、胸元に手を当て、左手の薬指をトントンと愛おしそうに叩いていた秘密のハンドサイン。
『明日は……ちゃんとお顔を見て、ご挨拶できるかしら。制服姿、変じゃないって言ってくれるかな……』
配信の終盤、掠れるような小声で漏らしていた、あの痛々しいほど甘く重い純情。
英傑?
妥協を許さぬカリスマ?
とんでもない。彼女は今この瞬間も、扉の向こう側で、誰よりも緊張して震えているはずなのだ。
世界中でただ一人、俺という許嫁の前でだけ仮面を脱ぎ捨てる、あの不器用で愛らしい少女として。
「……行くぞ」
征四郎が前に進み出た。
巨大なチタン合金扉の右脇。
そこには、青く発光する東側専用のカードリーダーが設置されていた。
征四郎が胸元から、銀色に輝く『プラチナIDカード』を取り出す。
全寮制の要塞都市において、男女の境界を越えることを許された唯一の通行手形。
征四郎がカードを、センサーの中心へと翳した。
ピッ――。
澄んだ電子音が鳴り響き、リーダーのランプが青から緑へと変わる。
『東校舎生徒会執行部、認証』
そして――そのわずかコンマ五秒後だった。
分厚い扉の反対側、西側からも、全く同じ澄んだ電子音が壁を伝って響いてきたのだ。
ピッ――。
『西校舎生徒会執行部、認証。……双方の入室権限を確認しました』
息を呑む音が、背後の役員たちから漏れた。
偶然ではない。
扉の向こう側でも、全く同じ瞬間、西校舎のリーダーがプラチナIDをかざしたのだ。
『――セキュリティロック解除。東西合同大会議室、ドアが開きます』
ゴシュウウウゥゥ……!
張り詰めた静寂を切り裂くように、高圧の気密解除音が轟いた。
厚さ二十センチのチタン合金扉が、重々しい地響きのような駆動音を立てながら、ゆっくりと左右へとスライドを始める。
密閉されていた空間から、解き放たれる空気の流れ。
先ほどまでの微風とは比べ物にならないほど濃厚な、春の花園のような甘く清らかな香りが、一気にウェイティングホール全体へと雪崩れ込んできた。
虎太郎が息を呑み、海堂の喉仏が大きく上下し、佐伯が六法全書をぎゅっと抱きしめる。
開かれていく視界の先。
そこに広がっていたのは、タワー最上階を丸ごとぶち抜いた、天井高五メートルの壮大な円卓大会議室だった。
部屋を取り囲むガラス窓からは、燦々と午前中の光が降り注ぎ、部屋全体を白銀のヴェールのように包み込んでいる。
そして――。
その逆光の光芒を背に受けて。
部屋の反対側、西側のエントランスから歩み寄ってくる、八つの美しい影があった。
蒼穹学園の上品な制服、あるいは家柄の特例として許された神聖な正装に身を包んだ、西校舎生徒会執行部――アイドル令嬢たち。
栗色の髪にヴェールを被せ、清楚なシスター服を纏った少女。
金髪を華やかに巻いた長身のギャル。
気品あるプラチナブロンドをなびかせるお嬢様。
ピンク色のツインテールを揺らす小柄な少女。
凛々しい短髪と木刀を携えた褐色の麗人。
重めの前髪の間からタブレットを抱える無口な少女。
そして、格式ある紅白の巫女装束を纏ってぽやりと目を瞬かせる少女。
だが、俺の視線は、その誰にも留まらなかった。
八人の中心。
凛とした歩調で、誰よりも背筋を伸ばし、氷の彫刻のように研ぎ澄まされた美貌を湛えて歩み出てくる一人の少女。
光を浴びてキラキラと輝く、透き通るような純白の銀髪。
歩くたびに背中で優雅に揺れる、トレードマークのハイポニーテール。
月城凛花。
周囲を圧倒する絶対的なカリスマの仮面を被り、氷のように冷徹な瞳を真っ直ぐに向けてくる彼女。
だが――。
征四郎の背後から一歩進み出た俺の姿を認めた瞬間。
ビクッ、と。
その切れ長で美しい紫紺の瞳が、わずかに揺れた。
組まれていた彼女の指先が、ほんの一瞬だけ、胸元の左手薬指をトントンと叩くように微かに跳ねる。
(……やっと会えたな、凛花)
誰にも気づかれない、刹那のアイコンタクト。
重なる二人の視線の間に、見えない火花のような熱い電流が確かに走った。
高さ十五メートルの防壁を越え、ついに運命の扉が開かれた。
東と西、十六名のエリートたちが激突する、波乱の合同生徒会会議の幕が――今、切って落とされた。
第5話をお読みいただき、誠にありがとうございました!
東西のプラチナIDが同時に認証され、ついに地上15メートルの境界タワー最上階で重厚な扉が開かれました!
逆光の中に現れた西校舎生徒会役員たちと、銀髪ハイポニーテールを揺らす月城凛花。
一瞬だけ交わされた二人の秘密の合図に、胸が熱くなっていただけましたら幸いです!
次回、第6話もお楽しみください。




