最終回、不確定な未来
翌朝。
王都の空は、薄い灰色をしていた。
夜明けの光は確かに東の空を白ませていたが、その光は柔らかく街を起こすものではなく、高い城郭と尖塔の輪郭を冷たく浮かび上がらせ、石畳の隙間に残った夜の気配を、ただ静かに暴いていくような色をしていた。
宿屋の前に立つ四人の姿は、まだ人通りの少ない通りの中で、ひどく目立っていた。
ユウナはいつものように軽い調子で外套を羽織り、腰の剣の位置を確かめ、まるで少し長い買い物にでも出るかのような顔で王都の城門の方を見ている。
その隣にはルシエラがいた。
彼女は王城での一件について多くを述べることはなかったが、昨夜からずっとユウナの横顔を見ていた。
怒っているわけではない。
呆れていないわけでもない。
けれど、その奥にあるものはもっと深く、もっと静かで、この人はまた自分の傷口を笑いながら開いて見せたのだと、そしてそれでも平気な顔で前へ進もうとしているのだと、そう理解している者だけが抱く、言葉にならない祈りのような視線だった。
エリスはその少し後ろで、荷物の重量配分と行程予定を淡々と確認していた。
王都の大図書館から写し取った膨大な知識は、すでに彼女の中で整理され始めている。
軍事、政治、地理、歴史、税制、神殿、貴族家の系譜、王都の慣習、地方統治の失敗例と成功例。
それらは今はまだ無数の断片に過ぎないが、いつかメイベルが本当に国を動かそうとする時、剣や魔法と同じくらい確かな武器になるだろう。
その未来が来るかどうかは分からない。
メイベルが途中で折れるかもしれない。
王都が彼女を受け入れないかもしれない。
五年という時間は短く、同時にあまりにも長い。
しかしエリスは、その不確定さを理由に手を止める存在ではなかった。
必要な情報を集める。
必要な設備を整える。
必要な教育計画を組む。
未来が来るかどうかではなく、未来が来た時に備える。
それが彼女にとっての忠誠であり、彼女がようやく出会った、主人たちと共にあるための生き方だった。
そして、メイベルは三人の少し前に立っていた。
王女ではなくなった少女。
王家の姓を失い、継承権を失い、昨日まで当然のように背負っていたはずの肩書きを、ほんの一夜で剥ぎ取られた少女。
だが、その小さな背中は、不思議なほど軽く見えた。
寂しさがないわけではない。
母の最後の言葉を思い出せば胸は痛むし、父の冷たい声を思い出せば今でも喉の奥が苦くなる。
兄たちや姉たちの視線も、謁見の間に満ちていた侮蔑も、きっと生涯忘れることはないだろう。
それでも、彼女は折れなかった。
そして今朝、目を覚ました時には、自分が失ったものよりも、これから得なければならないものの大きさの方が、ずっと鮮やかに胸の中へ立ち上がっていた。
強くならなければならない。
剣も、祈りも、指揮も、知識も、心も。
人を守るために。
国を変えるために。
何より、自分が昨日口にした言葉を、ただの若さゆえの理想論で終わらせないために。
彼女の道は、ここから始まる。
それが成功へ続く道なのか、挫折へ続く道なのかは、まだ誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなのは、メイベルがその道を、自分の足で歩き始めたということだった。
「行きましょう」
メイベルが振り返り、そう言った。
かつてなら、その声には王女としての教育によって磨かれた響きがあっただろう。
しかし今の声には、もっと荒削りで、もっと熱く、もっと危ういものが混じっていた。
ユウナはその声を聞き、小さく笑った。
「ええ。帰るわよ」
帰る。
その言葉に、メイベルは目を瞬かせる。
自分にはもう王都の居場所はない。
王城の部屋も、慣れ親しんだ侍女も、家族の庇護も、昨日まで自分を形作っていたものは、ほとんどすべて失われてしまった。
だが、ユウナは当たり前のように言った。
帰る、と。
それはヴァルクレアのことだ。
あの街の屋敷。
ユウナがいて、ルシエラがいて、エリスがいる。
庭では厳しい訓練が待っていて、食卓には騒がしい会話があって、時にはユウナの悪ふざけに振り回され、時には泣きたくなるほど厳しい現実を突きつけられる場所。
メイベルは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
そうか。
自分には、もう帰る場所があるのだ。
王城ではない。
生まれた場所でもない。
しかし、自分がこれからの自分になるために戻るべき場所がある。
「はい」
メイベルは頷いた。
「帰りましょう」
四人は歩き出した。
城門へ向かう道の途中、すれ違う王都の人々は彼女たちを見た。
ある者は噂を知っていて目を逸らし、ある者は何も知らずに通り過ぎ、ある者はユウナの角を見て顔をしかめた。
だが、ユウナは気にしなかった。
ルシエラは少しだけ目を細めた。
エリスは記録した。
メイベルは、すべてを見た。
見て、覚えた。
この街の空気を。
この国の歪みを。
自分がいつか戻るべき場所を。
変えるべき場所を。
城門を抜ける時、門兵たちは何も言わなかった。
命令は出ていたのだろう。
追放。
退去。
あるいは、厄介者の排除。
どの言葉で処理されたのかは分からない。
だが、重い門を通り抜け、朝の光が照らす外の街道へ出た時、メイベルは一度だけ振り返った。
王都はそこにあった。
高く、冷たく、巨大な外壁の内側で、自分たちは正しいのだと信じて疑わない顔をしている。
昨日まで、彼女はその中にいた。
今日から、彼女はその外に立つ。
そしていつか。
彼女が再びこの門をくぐる日が来るのなら、その時はもう、許しを請うためではない。
誰かに認めてもらうためでもない。
自分の正義を、形にするために戻ってくるのだ。
その日が来るのかは分からない。
来ないかもしれない。
途中で力尽きるかもしれない。
理想は現実に踏み潰され、夢は夢のまま終わるかもしれない。
けれど――
「メイベル」
ユウナの声がした。
振り返ると、彼女はすでに街道の方を向いていた。
「置いていくわよ」
その声は、いつも通りだった。
冷たくもあり、優しくもあり、ほんの少しだけ意地悪で、そして不思議なほど頼もしい。
メイベルは小さく笑った。
「はい、今参ります!」
駆け出す。
まだ幼い足で。
まだ何者にもなれていない身体で。
けれど、確かに前へ。
王都の外には、長い道が続いていた。
その道の先には、ヴァルクレアがある。
リリアの工房では、きっと今日も店主が妙な笑みを浮かべながら新しい薬や道具を並べ、王都で何があったのかを聞けば、目を輝かせて根掘り葉掘り尋ねてくるに違いない。
彼女はこれからも、自分の工房で笑いながら、時に不気味なまでの洞察力を発揮し、時に仲間たちの無茶に巻き込まれ、そしていつか“ユウナ一家”のために必要な力や知識を、何気ない顔で貸す日が来るのかもしれない。
ルシエラは、これからもユウナの隣に立ち続けるだろう。
剣を交え、時に勝ち、時に負け、時に呆れ、時に怒り、だけど最後には必ずその隣に戻る。
彼女の未来が穏やかなものになるのか、それともさらなる戦いに満ちたものになるのかは分からない。
ただ、どちらであっても、彼女はきっとユウナの背中を追うのではなく、ユウナの横で、同じ道を歩こうとするのだけは間違いない。
エリスは、これからも変わらぬ冷静さで皆を支えるだろう。
屋敷を整え、知識を蓄え、料理を作り、時には主に水をぶっかけ、時には誰よりも静かに誰かの心を守る。
三百年の孤独の果てに彼女が得た居場所は、まだ始まったばかりだ。
ユウナは――。
ユウナの未来は、きっと誰にも読めない。
王都から追い出されても笑い、竜の前でも笑い、時には自らの命すら戦術の駒にするような彼女が、これからどこへ向かうのか。
人族の限界の先にあるものを目指すのか。
メイベルを育て上げ、五年後に王都へ戻るのか。
それともまた、誰も予想しなかった厄介事に首を突っ込み、仲間たちを呆れさせながら新たな伝説を増やしていくのか。
何一つ、定まってはいない。
しかし、そんな不確かさこそが、彼女らしかった。
振り返れば、彼女はいつもそうだった。
迫害の中で冒険者になり、孤独の中で力を磨き、魔域でルシエラと出会い、森で変異種を追い、レジェンダリーゴブリンを討ち、ドラゴンゾンビと死闘を演じ、限界の壁に突き当たって涙し、魔動機文明の残滓からエリスを連れ帰り、仲間を得て、家を得て、そして今、王都から一人の少女を連れ出した。
それらのどれも、最初から決まっていた未来ではない。
選んで、失敗して、傷ついて、笑って、また選び直してきた結果だ。
だから、これから先もきっと同じなのだろう。
成功するかもしれない。
失敗するかもしれない。
誰かが傷つくかもしれない。
誰かが去るかもしれない。
思い描いた理想は届かず、五年後の約束も果たされないかもしれない。
それでも、道は続く。
彼女たちが歩く限り、物語は終わらない。
ただ、ここで語られる一つの旅は、今、静かに幕を下ろそうとしていた。
王都を背に、四つの影が朝の街道へ伸びていく。
先頭を歩くユウナが、ふいに振り返った。
「ねえ、帰ったらまず何食べたい?」
あまりにも唐突な問いだった。
ルシエラが数回目を瞬かせ、それから呆れたように笑う。
「王都を追放された直後に考えることが、それですか」
「大事なことでしょ。またここから十日間もまともな料理から離れるのよ?」
『帰還後の栄養補給計画であれば、私が最適な献立を――』
「エリス、今日は理屈じゃなくて気分の話」
「では、リリアの工房にも顔を出しましょう。」
ルシエラがそう言うと、ユウナは満足げに頷いた。
「いいわね。じゃあ帰ったら、まずリリアを巻き込んで宴会にしましょう」
王都の外壁は、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、広い空と、どこまでも続く街道が四人の前に広がっていた。
未来はまだ見えない。
誰の行く末も、何一つ約束されてはいない。
だが、朝の光の中を歩いていく彼女たちの背中には悲壮感はなかった。
ただ、次の一歩を踏み出す確かさだけがあった。
そして風が吹く。
王都の冷たい石の匂いを遠ざけ、草と土と、まだ見ぬ明日の匂いを運んでくる。
ユウナは先を見ながら外套を揺らし、ルシエラはその隣で静かに歩き、エリスは少し後ろで皆を見守り、メイベルは小さな拳を握りしめて前を向いた。
どこへ辿り着くのかは、まだ誰にも分からない。
けれど。
それでも彼女たちは、歩いていく。
帰る場所へ。
まだ見ぬ戦場へ。
いつか変えるかもしれない国へ。
そして、誰も知らない未来へ。
―――
「ところでユウナ……歩かなくても【テレポート】で帰れるのでは?」
「……あ」
人生初の小説ということで、書きたいことをあれこれ詰め込んでいたら、予想以上に長い物語になってしまいました。
もしよろしければ、ブックマークして本棚の片隅にでも置いていただき、ふと思い出した時に読み返していただければ幸いです。
また、☆評価や感想などいただけますと、次回作を書く上で大きな励みになります。
感想はまあ、書くのもなかなか手間だと思いますのでw ☆評価だけでもいただけましたら、とても嬉しいです。
ともあれ、気持ちばかりが先行してしまった拙い作品ではありましたが、ここまでお付き合いくださった皆様に、心より感謝申し上げます。
本当に、ありがとうございました!




