迫害されたナイトメアの少女
帰らずの大地――ケルディオン大陸。
かつてこの地はアルフレイム大陸と地続きだったという。
しかし蛮族がもたらした大災厄〈大破局〉によって大地は引き裂かれ、今では荒れ狂う海に隔てられた“行き止まりの終着点”だ。
その南西部、ラグール王国の辺境都市ヴァルクレア。
薄暗く、湿った路地裏で、幼い少女が荒い息を吐いていた。
本来は美しいはずの紺色の髪は泥と埃にまみれ、恐怖に震える小さな身体の動きに合わせて、彼女の種族の象徴とも言える、頭部から生えた二本の小さな角がかすかに揺れている。
種族、ナイトメア。
人族でありながら、魂に“穢れ”を宿す忌み種。
少女――ユウナは、わずか八歳。
王都で生まれ、同時に母親を失い、父親に捨てられて孤児院で育った。
しかしナイトメアであるが故に、常に迫害の的だった。
そしてとうとう孤児院にも居場所がなくなった彼女には、王都での生活は絶望的だった。
冒険者として登録するも仕事は与えられず、路地で飢えと寒さに耐える日々。
だから彼女は、生きるためにこの辺境の街ヴァルクレアへ流れ着いた。
ここなら、王都ほどナイトメアへの風当たりは強くないと聞いたからだ。
仕事は……あった。
路地裏の害獣駆除――報酬わずか50ガメル。
誰もやりたがらない、最底辺の仕事。
それでもユウナは受けた。
受けるしか生きる道はなかった。
そして、彼女は入り組んだ路地の奥深くにいた。
泥水が冷たく足に絡みつく。
腐った臭いが鼻を突く。
暗闇の中で、複数の赤い目が光っていた。
「キィィィィィッ!!」
体長50㎝ほどの大ネズミが、三匹同時に飛びかかってきた。
牙が黄ばみ、爪が泥にまみれている。
「……っ!」
ユウナはダガーを握りしめ、必死に身を翻した。
一匹の爪が彼女の左腕を浅く切り裂く。
熱い痛みが走り、血が滴り落ちた。
「痛い……!」
涙がにじむ。
それでも彼女は歯を食いしばった。
王都で散々殴られ、蹴られ、石を投げられても生き延びてきた。
死にたくない……
ここで死ぬわけにはいかない!
「来ないで……!」
ユウナの叫びとともに、ダガーが閃いた。
ザシュッ!
先頭の一匹の肩を深く斬りつける。
緑がかった血が飛び散り、ネズミが甲高い悲鳴を上げた。
しかし残る二匹は怯まない。
一匹が横から噛みつき、もう一匹が足元を狙う。
ユウナは泥水を蹴り上げてネズミたちの視界を乱し、咄嗟に後ろへ跳んだ。
「はあっ……はあっ……!」
息が上がる。
身体は小さい。
力も弱い。
ダガーを握る手は震えている。
それでも瞳には力強さがあった。
「私は……生きる……!」
再び飛びかかってきたネズミに向かって、ユウナは身体ごとぶつかるように突進した。
ダガーを両手で握り、低く構え、大きく踏み込み、一匹の喉元に刃を突き刺す。
「ギィィィッ!?」
ネズミの体がビクンと痙攣して倒れる。
残る一匹が、仲間を失った怒りで牙を剥いた。
ユウナの足を狙って飛びつく。
「くっ……!」
ユウナは痛みを堪え、ダガーを振り下ろした。
刃がネズミの背中に深く食い込み、骨を断つ手応えがあった。
最後のネズミが、苦痛の叫びを上げてその場に崩れ落ちた。
「……終わった……」
ユウナは膝をつき、荒い息を繰り返した。
腕の傷が痛む。
足も爪で裂かれ、ズボンに血が染みている。
それでも、彼女は小さく笑った。
「報酬50ガメル……これで今日のご飯と……宿代……それから講習を受けて……」
今日も生き延びることができた。
震える手でダガーを拭い、ユウナはゆっくりと立ち上がった。
周囲の視線は冷たい。
ギルドに戻れば、また嘲笑と蔑みの目が待っている。
それでも、少女は歩き出した。
このヴァルクレアで生きていくために。
―――
十年後。
誰もが早死にすると嗤った少女は、生き延びていた。
古代の遺跡を踏破し、魔剣の迷宮を攻略し、魔域を制して、上位の蛮族を討ち倒した。
――たった独りで。
かつての幼い少女の面影は残っているが、そこにあった脆さや震えはもうない。
その横顔には、十年分の孤独と戦いが刻まれ、静かな……しかし確かな自信へと変わっていた。
そしてこの先。
孤独だった人生に、運命の出会いが待っていることを彼女はまだ知らない。




