余談ー1 鎌倉幕府と室町幕府
これは、余談です。
織田・豊臣政権のことを考える内に、それ以前の武家政権、鎌倉幕府や室町幕府のことにまで、想いを馳せてしまいました。
尚、鎌倉幕府が何時、安定したか。
又、室町幕府が本当に安定したことがあるのか。
等々の異論がある、とは考えますが。
私なりの想い、考えということで平にお願いします。
織田・豊臣政権とは、完全に異なる話になるので、余談として投稿することにしました。
一部の方から異論が出そうですが、鎌倉幕府ですが、源頼朝が征夷大将軍に就任することによって成立した政権といって間違いない、と私としては理解しています。
ですが、その一方で、いわゆる鎌倉幕府草創期、私の理解としては、それこそ宮騒動から宝治合戦による三浦一族の滅亡まで、鎌倉幕府内部での内部抗争、将軍家を中心とする源氏一族の抗争や御家人同士の抗争が絶えなかったことについて、色々と私としては考えざるを得ません。
この辺り、それこそ保元・平治の乱といった朝廷内部の混乱があり、それによって、最終的には平家政権の樹立に至って、それに対する様々な反発の動きが起きた末に、源平合戦から鎌倉幕府の成立、朝廷や公家を中心とする政府から、紆余曲折の末に、承久の乱によって名目はともかく、実権からいえば武士を中心とする幕府が上位となる政府が成立することになりましたが。
それこそ、これまでには無かった政府機構を構築して、更には誰が主導権を握るのか等の問題までが生じた末のこと、ある意味では革命としか言いようが無い出来事の末として、鎌倉幕府内で内部抗争が起きたのは、ある程度は止むを得なかったことかもしれない、と今の私は考えています。
その一方で、余りにも多くの血が流れた末のことだ、という想いを抱かざるを得ませんが。
それこそ源義家の子孫で、鎌倉幕府が安定した後で生き残った中で、最も直系に近いのは足利家でしたが、その足利家にしても、源義家の三男の源義国の末裔であり、本来の嫡流と言える源頼朝からすれば、当時の足利家当主の義兼は源義家の曽孫で、源義家の玄孫である源頼朝からすれば、余りにも男系では遠い親族に過ぎませんでした。
(尚、細かいことを言えば、源頼朝の母と足利義兼の母は義理の姉妹なので、足利義兼は源頼朝の母方従弟になります)
そこまで清和源氏、河内源氏の嫡流は多大な血を流した末に、事実上は絶えることになり、完全な傍系といえる足利家が河内源氏の嫡流と称する事態に至ったのです。
革命、内乱に流血は付き物かもしれませんが、それにしても、という想いが私はします。
そして、鎌倉幕府の中では北条家、その中でも得宗家が権力を握ることになりましたが、その一方で、将軍は摂家から宮家が務めることになり、草創期の鎌倉幕府とは異なる体制になったと言っても過言ではない、と私は考えます。
更に続けて考えるならば、室町幕府も幕府草創の頃からすれば、安定するまでに数多の血を流すことになっています。
それこそ南北朝の対立という背景もありましたが、観応の擾乱等が起きることになり、その過程で、足利尊氏の実弟の足利直義が、又、高師直兄弟が、他にも数多の武将達が内部抗争の中で命を落としていくことになっています。
最終的に「明徳の和約」で南北朝は合一されることになり、室町幕府も安定することになりましたが。
その過程を振り返ってみる程に、室町幕府草創の頃とは、完全に違う室町幕府の体制になってしまったな、という考えを私は抱かざるを得ません。
それこそ鎌倉幕府滅亡、建武の新政、室町幕府草創という激動の果ての新体制樹立です。
本当に少々では済まない大混乱が生じて、それに伴う多大な流血、それこそ一族滅亡等の悲劇が生じてもおかしくない激動のときです。
だから、歴史的に止むを得なかった犠牲と考えるべきかもしれませんが。
本当に新たな統治体制を生み出し、安定させるとなると、本当に多大な血を流すのが必然の流れのような気がしてしまう。
これはどうにも避けられないことなのか、と私は考えてしまいます。
これで完結します。
御感想等をお待ちしています。




