17.ハンナの婚約破棄ー前編ー
「私との婚約、破棄してくださらない?」
「何故だ?私達は幼き頃より将来を誓いあった仲であろう。二人の間で何事も無く上手くやってきたではないか」
「そうね。二人の間では特に何も無かったわ」
「なら、」
「貴方と他の女性達との間ではいろいろと、ございましたでしょう?」
「だとしても、婚姻を結ぶのはお前だけだと決めている」
「私は、私だけを愛してくださる方がいいの」
「……愛しているのはお前だけだ」
「でしたら。他の女性に熱い瞳を向けるのはなぜでしょう?甘く囁くのは?触れるのは?私以外の方にお心を寄せるなんて、」
「それでも愛しているのはお前だけなんだ。お前だって言っていただろう、私のことを愛していると」
「ええ、愛しておりました。幼きときより共に過ごし、貴方の妻になるべく必死に努力してまいりましたもの。貴方が私を望んでくれるならと、厳しい教育にも耐えてまいりました。……故に貴方が他の方と交わったなんて許せませんの。貴方のその碧い瞳が誰かを見つめ、貴方のスラリとした長い指が誰かを慈しみ、貴方の吐く吐息が誰かの耳を掠めるなんて、とても…。私は、婚姻を結んだ夜に私達二人が幸せに結ばれることだけを夢見ておりましたのに」
「なら」
「今は、貴方に触れられると想像しただけでもおぞましい。近寄らないでくださいまし」
「はっ、私と婚約を破棄したらお前は傷ものだろう。そんなお前を貰いたいなんていう物好きの男なんてこの国にはいないだろうさ」
「ええ、そうね。だからこの国を出て行くことにしたの。隣国は女性が自立していると聞くわ。その証拠に私を通訳として雇いたいと言ってくださる方々がいらっしゃるから」
「そんなっ」
「それに、私の事を支えたいと言ってくださる方も。今はまだ恋をする気には慣れないけれど、隣国でなら、いつかまた誰かを信じられる気がするの私」
元婚約者は項垂れ肩を落としていたけれど、そんなことには構わずに裏庭を後にした。そして私は、学園を卒業すると同時に国を飛び出した。
この日の為に準備は抜かりない。と言っても支援者が住居も仕事も用意してくださり、一人で暮らす寂しさも浮気された感傷も浸っていられない程、隣国で忙しい日々を過ごした。
高位貴族の令嬢で厳しい教育を幼少期から施されてはきたが、翻訳業は日常での会話を熟知しているだけでは出来る仕事ではない。それぞれの専門用語や会話のニュアンス、国の慣習や考え方など深く理解していなければ訳せないものばかりだった。
新しいことにぶつかる度に自分が今まで習ってきたものは上辺だけのものであったと知る。そして一層勉学に励んだ。吸収することの喜び、自活出来る嬉しさ、自国では味わうことの出来ない自由と責任に胸が踊った。
周りからは壁にぶつかる度に嬉々として学ぶ姿勢に若干の変態扱いも入ったが、それすらも女性を一個人として受容しているというこの国の懐の広さに感心し、心が熱くなった。
それは、この国に来た時と同じ季節が巡ってきたころ、仕事にも一人暮らしにも慣れ生活にも心にも余裕ができた頃だった。
「この国には慣れたかい?」
支援者と定期的にとる会食で私はいつものように訊ねられる。
「ええ、おかげ様で毎日が楽しいわ」
会う度に毎回同じように返事をして、その後いつも通り経過を報告する。食事が終わりデザートを頂く頃には仕事の話は終わっていて、たわいもない日常の一コマを伝えながら甘く心も蕩けるお菓子に舌鼓を打つ。頬張ると互いに目を細めあって、「美味しいね」って囁きあうのもいつものことだった。
「今晩は、月が綺麗だよ。バルコニーに出てみないかい」
「そうね。庭の白い花も開いたから月明かりに照らされて綺麗だわ、きっと」
「それは素敵だな」
差し出された手を取り、さりげなく引き寄せる彼の動きには無駄など無く、結んだ指に熱を感じる。顔を上げられず隣を盗み見るように目を向けると、細身のデザインの服に引き締まった身体が目につく。鍛えあげられた胸板にさらに顔が赤くなるのが自分でも感じられて、さらにドキマギしてしまった。
エスコートされるなんて、ごく当たり前のことでしょう。いちいちときめいてどうするの!だけど、この手の繋ぎ方はーーー。
高鳴る胸を押さえるつけように、自分に強く言い聞かせたが、だけど、と自分の中に湧き上がってくる感情の正体にようやく思い至った。
長い間育んできた想いを踏み躙られ悲しみの中移り住んで来たこの地で、自分の支えになってくれた彼にいつしか想いを寄せるのは至極自然のことだった。
住居や仕事も紹介してくれて、この国の文化や慣習を深く教えてくれて、休みの日には気分転換にと町へ連れ出してくれた。貴族の御用達が集まる高級街から庶民の市場まで、この国の全てを見せてくれた。そう、こうして手を繋いでーーー。
「何を考えていたんだい?」
バルコニーに導かれると彼は長い睫毛を瞬かせた後、にこりと微笑んで優しく聞いた。
「楽しいこと?口元が綻んでいる」
彼に指摘されて慌てて手で口元を隠した。この国に来てから、貴族の作法というものを大分忘れてしまったようだ。せめて扇子でも持っていたらと思ったが、それすら持っていない自分に心底呆れる。
「笑いたいときは笑いなよ。表情豊かな君はとても魅力的だよ」
「そんな、揶揄わないで」
「本心だよ。だけど、何を思って笑っていたのかは気になるな。君を幸せな表情にさせたものが妬ましい」
「それは」
「何を思い出していたの?」
「一緒に市場に行った時のこと、よ」
「ああ、迷子事件か」
「迷子じゃないわ。ただ、はぐれちゃっただけよ」
「そうだったかな?」
「そうよ。それなのにその後心配して、手…」
「ああ、手を繋いだのだった、初めて、ね」
「……」
「このままずっと、離したくはないな。ダメ、かな」
「……だめ、ではない、けど」
「けど?…そんな表情、私以外には見せないでほしいな」
そういうと繋いだ手を持ち上げ、指先に軽く唇をあてた。その艶っぽい仕草にくらくらと眩暈がした。
「この国は豊かだ。自然も人も。日々の営みをあるがままに受け入れ、乗り越え、自分の糧とする強かさも持っている。
この国で私と共に暮らしてはくれないだろうか。こうして君と楽しい時を過ごした後のしじまに愛しさも寂しさも溢れるほどに襲い掛かってくる。出来る事ならこのまま君と離れたくない」
「でも、私は傷ものの、」
「この国では婚約破棄など些末だ。男女の違いは性別の違いだけで、立場も能力も個人のものだ。この一年、見てきただろう、この国を」
「ええ、だけど、貴方は……」
「私は、私が好いている女性と結婚する。それがこの国の在り方だ」
「……」
「そして、私の好ましい女性は、自分の力で立つ者だ。どんな足場であっても、どんなに強い風が吹いていようとも、自分の力で立つことを諦めない、そんな女性だ。そんな女性と、ともに歩んでいきたい。そんな二人が思いやり支えあえたら……。それでも君はこの手を振り解くか?」
「……いいえ、私は、貴方と共に歩んでいきたい、前へと」
「ああ、こんな美しい月夜でも、星の導きのない闇夜でも、決して離さずに共に進もう。立ち止まる時には共に支え合おう。君がいるならそれだけで私は幸せだ」
彼の掴んだ手に力が入るのがわかった。だけど瞳は真っ直ぐに向けられていて。
この国に来てから一年、忙しい政務の合間に会う時間を作ることは容易ではなかっただろうに、彼は私を大事にしてくれた。そしてそのことから目をそらし続けていた私。だけど、もう逃げるのは辞めだ。自分の感情にきちんと向き合わないと。
自分の感情に素直に従うと決めたら、肩の力がふっと抜けた。彼の瞳を負けじに真っ直ぐに見つめ返すと、瞳の奥が揺らいだのがわかった。こういう変なところで負けず嫌いの勝ち気な性格が出ちゃうのよねと呆れると同時に彼の瞳が近づいてきたかと思った瞬間、唇に何かが触れる感覚があった。
それは、触れたかと思うとすぐに離れていったのだが
目の前には驚きに目を見開いている彼の姿があった。
「……そんなふうに真っ直ぐに見つめられたから、つい吸い込まれてしまった」
「もう、馬鹿ね」
ふふと笑うと「駄目だ、そんなふうに微笑まれたらもう我慢なんて出来ない」と熱い息とともに耳元で囁かれそのまま抱きすくめられた。そして、そのままーーー。
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「って、くうぅーーー。いいね、きゅんきゅんするね。だけど、ここから先はムーンライトだからね、この先にスクロールすることができないな」
「何、メタい発言してるんすか。スクロールなんて言葉もこの世界には今のところないでしょ。しかもこの話、さりげなく自国をディスる内容ですね。ってか内容。ムーンライトで安心しましたよ。ミッドナイトやノクターンだったらどうしようかと」
「同意」
「え?スザンナ、ミッドナイトとかどういうものか知ってるんだ!私、あまりよくわかってないのに」
「そもそもハンナ様がなろうを知ってることに驚いていますよ。だってリア充だったでしょ?」
「リア充ではないと思うけど、第一リア充がなろう読んでないって、どんな偏見よ。私は、好きな俳優さんの主演映画の原作がなろうだったの。それきっかけで、それなりに読んだよ。電車の中で毎朝読んでたかな」
「なるほど」
「それよりスザンナのなろう履歴が、気になる」
「わたしは人並み程度です。心臓に悪いのはダメで、恋愛もので、溺愛、イチャイチャ、ハピエンで篩にかけてます」
「私はそれプラス、竜、騎士、あと完結、だったわ」
「ああ、完結、大事っすね。あと最後まで書き終えてます、とか、連載で放置プレイしてないか確認してから一話目読むとかね」
「リンク、なかなかコアな読者ね」
「今話してて、記憶が甦ってきたんすよ。何がきっかけで記憶が蘇ってくるかわからないもんですね。今更新しい前世の記憶を発掘するとは」
三人で記憶を手繰り寄せながら、転生について熱く語りあう夜となった。




