告白の三叉路
その後、心配しながらも、家庭教師は屋敷を後にした。
入れ違いに父親が帰宅してきたが、何があったんだ? と聞いても泣きじゃくるばかりで要領を得ないルイにしまいには腹を立て、落ち着くまで自分の部屋から出てくるなと叱られた。
この時、ハウエルが付き添うのを、父親は止めはしなかった。
ただ、仕事の疲れに加えて、十歳を過ぎてなお赤子のように泣くルイに参ったのだろう。頭を抱え、強い酒を使用人に頼むのを、ハウエルは見ていた。
ルイは自室に戻ると少しは落ち着いた様子だった。
「少し横になるといいよ」
ベッドで眠るようにハウエルは促すが、ルイは彼の腕にしがみついたまま、首を必死に振る。
まるで幼児退行だな、とハウエルはため息をつく。
第一に、ルイが何を見て、失禁するほど脅えたのか、まったくわからないのだ。
父親に答えろと強い口調で言われても、首を振るばかり。
ベッドに座らせようとするが、ハウエルから離れようとしないので、並んでベッドに腰掛ける。
「まあ、無理に話さなくてもいいよ。ただみんなは魔女に何かされたんじゃないかって心配なんだよ。魔女だったら、教会に連絡しなきゃいけないからね」
ハウエルは、ルイの頭を撫でながら言う。「僕らもびっくりしたよ。でも、ルイが無事でよかった」
「兄さん、」
「なんだい?」
ハウエルの服の袖を握る手に力が入る。
再び、ルイのスミレ色が涙に沈んでいく。
「怖かった、すごく怖かった」
「うん、でもここには怖いものは何もないよ。だから安心して」
落ち着いてきて、こんなに泣くなんて男らしくないとルイは恥じた。
だが、いまだに恐怖はぬぐいきれない。
目を閉じればアレの姿が浮かんでくる。手を離せば、アレに引きずられて地下室に連れて行かれる。
昼間のギルベルトが言っていたことは正しかったな、と。
泣き疲れて寝落ちする寸で、ルイはそう思った。
それから三日間、ルイは学校を休んだ。
父親が通報したのか、屋敷の周りを警備兵たちが歩き回っていた。
その様子を窓から見下ろし、ルイは憂鬱な気持ちになった。
警備兵たちには、屋敷の周りに不審人物が現れた、とでも伝えられているのだろう。だが、ルイが出会ったのは屋内だ。しかも、ディートタルジェント家、人の家。
勝手に入って、勝手に遭遇して、震えあがった。
はっきり言って自業自得なのに、こんなにも町を騒がせて、「申し訳ない」という罪悪感が心を蝕んだ。
そして、学校を休んで三日目。
ヴィンセントだけが家に来た。
「よっぽど酷い風邪なのかと思ったけど、ズル休み?」
ルイの部屋に入ってきて早々、そう言うヴィンセントの口調に嫌味はない。
学校には、平気でズル休みをするやつらもいる。だから、休むこと自体はそんなに悪いことではない――と、生徒たちの間で広まっている。
そろそろ中等部に上がるとなれば、教師のあしらい方や息抜きの方法も自然と覚えていくものだ。
「もしかして、ギルとの喧嘩、引きずってる?」
「ううん、実は謝りに――」
そこでルイは口を閉ざす。
あの後すぐに謝りに言って、勝手にヴィンセントたちの家に入って、アレを見てしまった。
そのことについても謝らなければいけない。だが、謝れば家に無断で入ったことがばれてしまう。
そして、休んでいる間に考えていた。アレはディートタルジェント家にとって人に知られたくない秘密なのではないかと。
寝間着のまま、ベッドに腰掛けるルイの目の前に、ヴィンセントは腰を下ろす。
「ルイ、ギルベルトが怖いものが何か、知ってる?」
「え?」
突然の質問にルイは少し困惑する。
「怖いもの?」
「そう、もしくは嫌いなもの」
「……それって、同じもの?」
「うん、ギルには怖くて、それでいて嫌いなものがある。たぶん、世界で一番嫌ってるんじゃないかな」
ルイは少し考えてから、口を開く「それって、ヴィンセントも?」
「ぼくはそうでもないかな。苦手ではあるけど、嫌いじゃない。メアリの場合は、嫌っているかどうかはわからないけど、怖がってる。ルイみたいに」
その言葉で、ヴィンセントがことの次第をすべて知っていることがわかった。
「ごめん、ヴィンス、ぼくは――」
「ルイ、ぼくは怒ってないから、怖がらないで。君に怖がられるのはつらいんだ」
「ヴィンスのことは怖くないよ。ギルのことだって、ちゃんと謝らなきゃって。それで、屋敷に行ったんだ。何度もノックしても誰も出てこないし、ドアは開いてたし……」
「普段はちゃんと鍵をかけておくんだ。家に誰かいてもいなくても。ただ、あの時はギルのことで頭がいっぱいで、たまにあるんだ。鍵をかけ忘れることが。だから、鍵をかけ忘れたぼくも悪いんだ」
そう言って、ヴィンセントは小さく「ごめん」と呟く。
「でも、勝手に入ったぼくも悪いよ」
「いや、……タイミングが、悪かったんだよ」
「タイミング、」
「ルイは見ちゃったんだよね」
「あの……、お祖母さん?」
始めは化物だと思っていたが、冷静に考えると、アレは老女だ。
ルイの言葉に、ヴィンセントは首を振る。「確かに、見た目はお祖母さんだけどさ、あれ、ぼくらの母親なんだ」
「えっ」
化物だと思ったのが、実は双子たちの母親?
病気で臥せっていると聞いていたが、あんなふうに歳をとる病気なのかとルイは困惑する。
次の言葉を探していると、ヴィンセントが先に口を開く。
「実はね、ぼくらの前にはお姉さんが二人いたんだ。でも、ぼくらが生まれる前に死んじゃっているんだ。ほら、ぼくらの父さんはルイのお父さんよりも年取ってるだろ? ぼくらは二人が歳を取ってから生まれた子供なんだ」
「でも……」
それにしたって、歳を取りすぎではないかとルイは言いたかったが、そういう人もいるのかなと思った。
ルイ自身、平均身長よりも背が低いせいか実際の歳よりも幼く思われることが多い。それと似たようなもので、歳より老けて見えたとか。
「病気、なんだよね?」
「うん、治るかどうか、ちょっとわからない病気なんだ」
「すごいお医者さんでも治せないの?」
「体の病気とは違うんだ。心が病気なんだ」
「心も病気になるの?」
「気持ちが酷く沈んだり、悲しかったり、そういうのって時間が経てば自然と治まったりするじゃん。それが普通なんだけど、ぼくらの母親はそこがちょっとおかしくなっちゃって……、攻撃的になることもあるからさ、外には出せないんだ」
ヴィンセントの説明に、ルイは素直に納得した。
今の自分がそうだからだ。
双子達の母親に遭遇した日は怖くてしかたなかったが、数日経った今は落ち着いている。
「ルイ、さ」
いつも飄々(ひょうひょう)としたヴィンセントとは思えない弱々しい声だった。「友達でいてくれる? 母親が、……あんな感じの僕らでもさ」
ルイにはなぜ、ヴィンセントがそんなことを聞いてくるのかわからなかった。
母親なんて関係ない。
ギルベルトやヴィンセントだって、ルイの父親を「厳しい人だね」と少し苦手としているが、だからといって遊ばないということはなかった。
親なんて関係ないのだ。
「それって、ヴィンスの家であまり遊んじゃダメってこと?」
「ううん、まあ、母親の具合が悪かったらうちでは遊べないけど」
そう言って、ヴィンセントは少し黙ると、突然小さく吹きだし、苦笑を浮かべた。
「ルイって、優しいね」
「うーん、よくわからないんだけど」
そう、この時のルイにはわからなかった。
世の中には、相手の家族におかしな人――常識から逸脱した人がいる、気が合わない人がいるとなると、家族、血縁者全員そうなのだと決めつけて、付き合いを絶つ人間がいるのだ。
そんなことさえルイは知らなかった。
次男として自由が許されていても、視野が狭かった。鈍感なのだ。
だが、ヴィンセントを含む、ディートタルジェントの三人の子供たちはこの鈍感さに救われた、救われていたのだ。
ルイとの関係が続く限りは普通の家庭なのだと、甘い幻想の中で、普通の家族だと偽ることができた。
そうして、月日は流れ、みんな等しく成長し、別れの時が来る。
神学校高等部を卒業し、神学院へ。
ルイは父から言われ、イースクリートの名門神学院へ。
ギルベルトとヴィンセントはセクトリアの神学院へ。
笑顔で手を振り、それぞれの道へと進む。
別れだとは思っていなかった。
手紙のやり取りも続いた。
ヴィンセントは後になって思うのだ。母親という異常を抱えながら、普通の幼少期を迎えることができたのは、すべてルイのおかげだったと。
だから、ルイと手を振って別れた後、自分たちの世界は地獄の門は開かれる。
平穏を殺し、地獄の季節がやってくる。
本当の地獄が目の前で口を開いて待っている。
道は一方通行で退路はない。
まるで、昔ルイが語った英雄譚、そのものだった。
赤い竜を倒すため、聖剣を手にしなければ命を刈り取られる。
――剣を手に取る時がきたのだ。




