第2部 第2章 証言 ─文芸サークル─
大学構内は、春の雨の名残を含んだ湿った空気に包まれていた。
遠野と被害者・柚木が所属していた文芸サークルの部室は、古びた校舎の三階、端の教室を改装した一室にある。壁には過去の合評会やサークル誌の表紙が貼られ、年季の入ったソファと、低い本棚には詩集や同人誌が雑多に積まれていた。
斎木がノックをしてドアを開けると、室内にいた数名の学生が一斉にこちらを見た。
「警察の者です。文芸サークルの関係者の方に、お話を伺いたくて来ました」
八名。うち一人はバイトで欠席とのこと。四年生が一人、三年生が二人、二年生が二人、一年生が三人。性別は半々。彼らはそれぞれに表情をこわばらせながらも、促されて古びたテーブルの周囲に集まった。
まず尋ねたのは、遠野と柚木の関係についてだった。
「付き合っていたんですか?」
4年の男子学生──サークル長の安藤が、慎重に言葉を選ぶ。
「うーん……正直、それは分からないです。ただ、すごく仲は良かったですよ。読んでる本の趣味も似てたし、よく二人で話してるのは見ました」
「でも、柚木さんのほうからは距離を取ってたような印象もあります」
と、3年の男子・江本が続けた。
「遠野さんのほうは、彼女に特別な感情があったかもしれません。でも、柚木さんがそれに応えてたかどうかは……少なくとも、僕らには見えてこなかった」
部室の空気が、やや重たく沈む。
「ちなみに、サークルでは朝まで飲んだりすることもあったとか?」
「ありましたね。年に何回かですけど、学園祭の後とか、締切が終わったタイミングで」
と答えたのは2年の女子・佐伯だった。
「そのときも、柚木さんと遠野さんは?」
「たいてい皆で一緒にいたので、特別二人きりってわけじゃなかったと思います。ただ、明け方まで残ってたメンバーの中には、いつもその二人がいた……って印象はあります」
斎木が手帳にメモを取りながら小声でつぶやく。
「交際関係ではないが、特別なつながり……か」
俺は部室の壁に目をやった。機関誌の表紙が、一枚だけ手描きでコラージュ風に仕上げられている。隅には小さく「H.Y.」の署名。
「彼女は、どんな人でしたか?」
今度は1年の男子、清水が口を開いた。
「……話しやすい人でした。ちょっと影があるけど、優しいっていうか。誰とでもフラットに接してくれるような」
「でも、あんまり自分のことは話さなかったですね」と佐伯が重ねる。
「分かりました。次に、遠野さんについてもう少し詳しく教えてください」
「なんていうか……普通の人でした。ちょっと静かですけど、別に暗いとかじゃなくて。話しかけたらちゃんと返してくれたし」
そう語るのは、2年の高橋だった。淡々とした口調だが、彼の声には少しだけ迷いが混ざっていた。
「ただ……就職、うまくいかなかったんですよね」
「そうそう。で、院に進んで。文学やりたいってより、なんか逃げ場所にしてる感じはありました」
3年の江本がそう言って、缶コーヒーのフタを弄った。
「サークルでは初めての院生だったんで、ちょっとだけ……扱いづらかったというか。誰も直接言わなかったけど、やっぱ距離ありましたね」
「上下関係、あんまないサークルだしね」
「でも遠野さん、文芸そのものにはすごく真面目だったよ。合評とかも、ちゃんと読んでくれてるのがわかったし」
1年の女子ふたり──白石と川名が言葉を補い合う。ふたりは入ってまだ半年程度の新入生で、遠野との直接的な関わりは少なかったらしい。
「ただ、Slackで、真夜中に急に長文で返信してくることがあって……読んでると、ちょっと怖いっていうか……独特でした」
「そうそう、最初は優しそうって思ったんですけど、だんだん近寄りづらくなって……あっ、でも、文学には真剣だったと思います。詩とか、すごく丁寧に書いてて」
遠野の文章には、“親しみやすさ”と“異物感”が不思議なバランスで同居していた──。そんな印象が、ふたりの言葉から滲み出ていた。
3年の江本が、ややためらいながら語る。
「一回、飲み会で文学論が白熱したときに……『それは“読解”じゃない』って、けっこう強く言ってて」
「遠野さん、自分の中に“答え”を持ってたんだと思う。別の解釈が入ってくるのが、我慢できなかったのかも」
そして、ぽつりと漏らすように言った。
「……でも、柚木さんには優しかった。明らかに、彼女には特別だった」
場の空気が沈黙を帯びる。
証言はどれも決定的ではない。だが“誰と、どう関わっていたか”を少しずつ塗り重ねていくうちに、遠野という人物の“輪郭”が、ゆっくりと立ち上がってきていた。
──静かで、真面目。
けれど、どこか浮いていた。
文学を“武器”のように抱え、誰にも触れさせぬまま、ひとりその形を研いでいた。
まさに、“手記”そのものと同じ──。
刑事である俺は、何度も頷きながら、その印象をメモに書きとめた。
「……度々で申し訳ないんですが、柚木さんについて」
言葉を切ると、場にわずかな沈黙が走る。
「彼女、サークル内で何か悩みごととか、誰かに相談していたりって、ありましたか?」
最初に口を開いたのは、3年の女子、森下だった。
「……ありました。けっこう、相談するタイプだったので」
「それは遠野さんに、ですか?」
「いえ……最初は、そこの男子に話してたんですよ。藤沢さんのこと。予備校時代の先生だったって……」
森下は、安藤と江本に目線を向けた。
「“昔から相談に乗ってくれてて、いまも連絡をとってる”って。最初はそんな感じで話してました。でも、ちょっとずつ……話の内容が変わってきて」
「どう変わった?」
「“既婚者だけど、断れない”とか、“なんか、曖昧な関係のままでいるのがしんどい”とか。最初は愚痴っぽかったけど……だんだん、誰にも話さなくなっていって」
「その変化はいつ頃?」
「たぶん、去年の冬くらいです。……それまでは、飲み会とかでもよく笑ってたのに、なんか、急に距離をとるようになって」
横から、2年の高橋が口を挟む。
「なんかさ……柚木先輩、“相談女”っぽかったんだよな。年上の男にちょっとだけ悩みを見せて、甘えるというか……。」
「高橋」
と、森下がたしなめるように言う。
「でも、まあ……確かにそういうとこはあったかも。みんなが少しずつ彼女を“扱いづらい”って思い始めてた。で、そんな時期に、遠野さんと話してるのをよく見かけるようになったんです」
「2人で?」
「はい。サークルの部室でふたりだけ残ってるとか、Slackで夜中にメッセージしてるのをチラ見したとか……。あくまで見かけただけですけど、距離が近づいたのは確かです」
他のメンバーもうなずいた。1年の川名も、小さな声で付け加えた。
「……柚木先輩、遠野さんの書いた詩、好きって言ってました。付箋とか、よく貼ってたし……。誰かに見せるってより、自分だけの“やりとり”みたいな感じで……」
その言葉が印象的だった。
自分だけの“やりとり”。
文学という“媒介”を通じて、ふたりの関係は他者には見えづらい形で濃くなっていた。
「でも……」
と、江本が言った。
「そのせいで、逆に誰も止められなかったっていうか。彼女が悩んでるのに、もう話してくれないし、こっちもどう関わっていいか分かんなくて……。遠野さんが相手なら、って思って任せちゃったとこもある」
“任せた”。
そういう形で、彼女はサークルの中で孤立し、遠野と“ふたりきり”になっていった。
「藤沢って人が、どんな人なのか、誰も分かりません。……でも、サークルでは、いつの間にか彼女のことは“遠野さん頼み”みたいになってたとこ、あったかもしれません」
4年の安藤の声には、どこか後悔のような響きがあった。
俺はメモ帳を閉じながら言った。
「ありがとうございます。とても重要な証言です」
サークルの空気は重たかった。
誰もが、自分たちの“見ていた風景”が、後から意味を変えられることに戸惑っていた。
文学とは、そういう力を持つ。
だが──現実が“書き換えられる”とき、それは誰にとっても、救いではない。
そう思いながら、俺は部室を後にした。
大学関係者への聞き取りが一段落した頃、俺たちはそれ以外の証言──アルバイト先やサークル外の交友関係──についても洗い出していった。
遠野のバイト先は、大学近くの古書店だった。十畳ほどの小さな店舗で、主に詩集や文芸評論を取り扱っている。店主は六十代の女性で、穏やかな口調だった。
「遠野くんは、まあ、礼儀正しい子だったよ。ただ、あまり人とは話さないタイプだったね。レジに立ってても、お客さんに必要以上の声かけはしないし。真面目ではあったけど……あれはどこか、疲れてるようにも見えたかな」
「何か気になるような様子は?」
「……強いて言えば、最近は閉店後もよく残ってました。古本の在庫を整理するとか言って。別に害はなかったけど、ひとりで長く残るもんだから、ちょっと気にはなってた」
俺は内心でメモを取る。店舗のレイアウトや在庫のある場所は、静かな夜に“演出の場所”になり得る。
柚木のほうは、カフェのバイトをしていた。カフェの店長は若い女性で、被害の話をすると目を潤ませた。
「柚木さん、すごくいい子でした。真面目で、ミスも少ないし……でも、最近ちょっと元気がなかったかも。……たぶん、プライベートで何かあったのかもなって、みんなで話してたんです」
「誰かと話し込んでる様子とか、なにか……特定の誰かのことを相談していたとかは?」
「うーん……藤沢さん、って方の名前は何度か聞いたかな。昔の先生だとかで。あとは、遠野さん? 彼も同じ大学の人ですよね。たまに“文学のことで話し合ってる”って言ってました」
どちらの名前も出てくる。だが、そこに明確な線引きはない。ただの“関わり”の域を出ない証言ばかりだ。
柚木の住んでいたアパートの管理人は、高齢の男性で、事件のあった夜には不在だったという。何か異変を見たかと尋ねても、「あの子は礼儀正しかった」と繰り返すだけだった。
一方で、コンビニや書店、日常的に訪れていた場所に聞き込みをかけても、決定的な情報は出てこなかった。
──そうして、その日の捜査は一旦の区切りを迎えた。
サークル内外、アルバイト先や講義仲間を中心に、遠野と柚木の交友関係を可能な限り洗い出したが、特段のトラブルや明確な動機につながる証言は得られなかった。
ただ、斎木が手帳に線を引きながら、ぽつりと呟いた。
「……なんか、遠野って、ちょっと可哀想なやつだったんじゃないですかね」
「どういう意味だ」
「いや、手記を読むと、柚木さんの相談を一身に受けていたみたいに書いてありますけど……今日聞いた話だと、彼女は結構いろんな人に相談してたっていうか、“相談女”って呼ばれるくらいで。遠野だけが特別扱いされてたわけじゃない。でも、彼だけがそれを“特別”に受け取ってたとしたら……なんというか……」
俺はうなずきながら、資料の束に視線を戻した。
「……一方的な“読者”だったってことかもしれないな」
斎木は小さく笑った。
「手記の中じゃ、彼はずっと“物語を共有する二人”のつもりだった。でも、周囲の証言では──そうじゃなかった」
遠野が見ていたのは、現実の彼女ではなく、“彼の中の彼女”だったのかもしれない。
そして、それを崩されることに耐えられなかった──。
「さて……」
時計に目をやると、もう日も傾いていた。
「次は、遠野が所属していたゼミの教授に話を聞こう。明日の午前、アポは取れている。そこでもう少し、彼の“表現の根”を掘ってみる」
斎木はうなずき、メモ帳を閉じた。
「了解です。言葉に執着していた理由──少しずつ見えてきましたね」
その言葉の先を、俺は引き継がなかった。
手記の違和感はまだぬぐえない。
遠野 湊という青年が、なぜ“言葉”で殺したのか。
彼の“作品”を読み、導いてきた人間の視点を借りる必要がある。
明日は、“作家・遠野湊”を育てた人間の話を、聞きにいく。