第3章 教授
大学構内の応接室は、築年数なりの古さと、研究機関としての抑制された品格が同居していた。
壁紙は白というより、薄く黄ばんだ灰色に近い。
窓際には、長く使われた木製の応接セット。低いテーブルの端には、湯呑みの跡がうっすら輪になって残っていた。
午後の光が窓枠に沿って伸び、積み重ねられた文献資料の背表紙に、斜めの影をつくっている。
どこかでコピー機が動く音がした。
紙が吸い込まれ、吐き出される、あの平たい音だ。
応対に現れたのは、文学部・文芸学科の教授、平間直人。
五十代半ば。痩身に少し古びたジャケットを羽織り、薄いフレームの眼鏡をかけている。
髪には白いものが混じっていたが、乱れてはいなかった。
いかにも大学教員らしい、と言えばそうだが、椅子を引く手つきには、妙に生活感があった。
「……柚木さんの件については、私も驚いています」
教授はそう言って、椅子を勧めた。
「うちの学生が殺人事件の被害者になるなんて。正直、まだ少し……現実感がありません」
入口で名乗った時点で、こちらの用件は察していたのだろう。
刑事であることに過度な反応を見せるでもなく、落ち着いた調子だった。
ただ、湯呑みに手を伸ばす指先が、一度だけ迷った。
飲むのをやめ、結局そのまま机に戻す。
「今日は、遠野湊さんについても少し、お話を伺えればと思いまして。柚木さんとは文芸サークルで一緒だったもので」
そう切り出すと、平間教授は短くうなずき、腕を組んだ。
「ええ、構いませんよ。……彼のことは、研究室配属の時から、よく覚えています」
そこで、少しだけ目を細める。
「文学への執着が非常に強い学生でした。良くも悪くも、“素直じゃない”子でしたね」
「素直じゃない、というと?」
「他者に対しても、自分に対しても、です」
教授は言葉を選ぶように、机の端に置かれたペンを軽く転がした。
「何かを“ストレートに表現する”ことを、どこか忌避していたように思います。自分の感情や思考を書くときも、かならず何か別の仮面を被せてから提示する。比喩とか、構造とか、引用とか。そういうものを一枚挟むんです」
「遠回しだった?」
「遠回し、というより……直接言うことを信用していない、という感じでしょうか」
教授は少し考え込むように言葉を切り、窓の外へ目をやった。
中庭では、学生が二人、缶コーヒーを片手にベンチへ腰掛けている。
こちらの部屋だけが、そこから切り離されていた。
「彼は、文学に救われてきた人間だと思いますよ。若い頃から、自己表現の困難を抱えていたのでしょう。言葉に対して非常にセンシティブで、特に“どの言葉を使わないか”という部分に、彼の意志が表れていました」
その言い回しに、俺は手帳のページをめくる手を止める。
「“使わない言葉にこそ、意志がある”……ですか」
「ええ。書き手にとっては、“沈黙”も表現の一種ですから」
教授はそこまで言って、こちらを見た。
「……もちろん、それは文学の中での話ですが」
その最後の言い方には、微かな警戒が含まれていた。
こちらが何を探っているかを、おおよそ把握した上での“線引き”だろう。
「遠野さんは、他の学生と比べてどうでしたか。サークルでは少し浮いていた、という話も聞いています」
「学問的な意味では、むしろ他者に開かれた思考を志向していたと思います」
即答に近かった。
「ただ、人間関係のなかでどうだったかは……。少なくとも、ゼミでは周囲と円滑にやれていたとは言いがたいですね。議論の途中で、急に黙ることがありました。“違う”と思っても、それをうまく伝えられない」
そこで少し間を置く。
「いや、うまく伝えられないというより、“伝える気がない”ようにも見えました」
斎木が小さく首をかしげる。
「それは、緘黙の影響もあったんでしょうか」
「ああ、それも後から知りました」
教授は湯呑みを手に取り、ようやく一口飲んだ。
喉を湿らせるような、短い動作だった。
「小学生の時に診断を受けたと、本人が卒論の面談のときに少し話してくれたんです。“話せなくなることがある”と。そのときは笑いながら言っていましたが、あれは半分、本音だったのでしょうね。自嘲にも見えました」
教授の語りには、遠野に対する一定の理解がにじんでいた。
擁護ではない。
ただ、簡単に切り捨てる気がない、という態度だった。
「……ところで先生、彼の研究テーマについて、詳しく伺ってもよろしいですか」
「ええ、もちろん。遠野くんは、独自の問題意識を持っていました。非常に興味深いテーマでしたよ」
平間教授の目に、わずかに光が宿る。
それは、学生の「問題行動」を咎める側の表情ではなかった。
ひとりの表現者、あるいは研究者の卵に対する、学術的な敬意を含んだ眼差しだった。
教授は机の上のファイルの束を崩し、その中からA4判のレポートを一枚取り出す。その拍子に、挟まっていた黄色い付箋が一枚、ひらりと床へ落ちた。
斎木が拾おうとするより早く、教授が「ああ、すみません」と言って身をかがめる。
ほんの数秒、話が中断した。
その小さな雑音が、かえって部屋の空気を現実に戻した。
「これが、彼の卒業論文です」
教授はレポートを机に置いた。
「“〈語らない主体〉における表現論的機能の変遷”──タイトルからして、少々手強いでしょう?」
資料のタイトルを目で追いながら、俺は斎木と顔を見合わせる。
「語らない主体、ですか」
「ええ。彼は“語らないこと”をテーマにしていました。小説や詩、エッセイなどの中で、“登場人物がなぜ沈黙するのか”“語られないことがどう受け手に作用するのか”という点に着目していたんです」
教授はレポートを指で軽く叩いた。
「とくに二十世紀以降の私小説やポストモダン文学に、強い関心を持っていましたね。まあ、学生にしては少し背伸びをした範囲でしたが」
「背伸び?」
「悪い意味ではありません。届かないものに手を伸ばしている文章には、それなりの魅力がありますから」
教授はそう言って、レポートの一節を指で示した。
“沈黙する登場人物は、しばしば読者に〈行間を読む〉ことを要求する。
この沈黙は、語られることよりも多くを語り得るという逆説を内包している。”
「彼にとって、表現とは“伝える”ことではなく、“問いかける”ことだったんです」
教授の声は、少し講義の調子に近づいた。
「書き手が何かをはっきり伝えるのではなく、読み手に“どう読むか”を委ねる。その選択の幅を作ることこそが、彼の言う“文学の倫理”でした」
「文学の……倫理?」
斎木が、聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返す。
「たとえば、ある人物が悲しんでいるとき、“彼は泣いた”と書くか、“彼はカップの縁を指でなぞった”と書くか」
教授は、自分の湯呑みの縁を指でなぞった。
「それによって、読者の解釈は変わります。遠野くんは、“後者のほうが倫理的だ”と考えていました。つまり、読み手に判断させる余地を残す。それが、彼の言う“倫理的な表現”なんです」
「……明言しないことで、読者の解釈を誘導しすぎないようにする、と」
俺が言うと、教授はうなずいた。
「そうです。ただし、同時に非常に危うい論理でもあります。なぜなら、その“余白”は、読者によって勝手に塗りつぶされてしまいますからね」
教授は言葉を止め、考え込むように天井を見上げた。
蛍光灯の片方が、かすかに瞬いている。
「彼の文章は、そこが極端だった。情景や心理を詩的な比喩で飾りながら、いちばん肝心な部分──感情の動機や倫理の判断は、かならず空白にする」
そこで、少しだけ声が低くなる。
「……“書かない”ことに、強烈な意味を持たせていました」
沈黙が一瞬、部屋を満たす。
斎木が掌をハンカチでぬぐう。
その仕草には、言葉では隠しきれない緊張がにじんでいた。
「それ、まさに……あの手記そのものですね」
「手記……?」
教授の目が、こちらへ戻る。
斎木は一瞬、俺を見る。
俺がうなずくと、言葉を続けた。
「いまのところ非公式の話ですが──彼が、とある事件に関連して“書いたもの”がありまして。非常に技巧的で、情報が整っているのに、核心が語られない。まるで、すべての判断を読み手に委ねるような書き方でした」
教授は、驚いたというより、予想していたものを確認したように静かに頷いた。
「そうでしょうね」
短い返答だった。
「彼は“読ませる”という行為を、極限まで突き詰めていましたから。読者に感情を与えるのではなく、読者の中に“感情を発生させる”。……これは、彼がたびたびゼミで口にしていた言い方です」
「“発生させる”……?」
「ええ。つまり、“共感をコントロールしない”ということですね。書き手の意図を押しつけるのではなく、読者自身の倫理や経験で補完させる。同じ文章でも、“ある人には犯人が悲しんでいるように見え”、別の人には“冷徹に見える”──そういう多義性を、彼は強く求めていました」
教授は、そう締めくくると、いったん言葉を切った。
窓の外で、自転車のブレーキ音が小さく鳴る。
遠くから、学生たちの笑い声が聞こえた。
この部屋の話題だけが、そこから遠く離れている。
「……たぶん、いまお話ししたような“書かないこと”へのこだわりは、彼の書くもの全部に出ているはずです」
そう言ってから、しばらく黙る。
湯呑みに添えた指先で、器を机の上でほんの少しだけずらした。
視線だけが、こちらと斎木の顔のあいだを往復する。
何かを言い足すべきかどうか、測っているような間だった。
「……手記、とおっしゃいましたね」
「ええ。詳細はまだお見せできませんが、内容としては──感情をあまり説明せず、情景と行動だけで読ませるタイプでした」
そう告げると、教授は小さく息を吐いた。
「そうですか……」
それだけ言い、ひと呼吸ぶん目を伏せる。
やがて顔を上げ、話題のラベルを貼り替えるように、少しだけ口調を和らげた。
「……少し、文体の話をしてもよろしいですか。これは捜査にはあまり関係のない──そうですね、半分は私の趣味みたいな、学術的な余談ですが」
「ぜひ聞かせてください」
俺は言った。
「私は文学にはあまり馴染みがないので」
「それはむしろ強みかもしれませんよ」
教授は書棚から一冊の論文集を抜き取り、ページをめくりながら続けた。
「文体というのは、文章の“声”です。ただのリズムや語彙選択ではなく、“語りの倫理”そのものでもある」
ページをめくる指が止まる。
「例えば“彼は泣いた”と“彼の頬を一筋の涙が滑った”の違いもそうですが──そこには“語り手がどこまで読者に寄り添うか”という距離感が必ず刻まれます」
「語り手と読者のあいだの“距離”が、文体の本質……ということですか」
斎木が確認する。
「そのとおりです。そしてこの距離は可変的であると同時に、読者の想像力を呼び込む装置でもあります」
教授は、今度は俺たち二人を順に見た。
「現代文学──とくに日本の近代以降の私小説系譜では、“書かれないこと”がどんどん増えていきました。戦後文学では、これは“語りの抑制”として理論化され、“沈黙の詩学”とも言われます。感情の直接的な表出を避け、あくまで行動や物の描写だけで、読者に読み取らせる」
少し間を置く。
「いわば、行間に情報を沈める技法ですね」
「黙っていることで、かえって多くを語る、ということですか」
「ええ。ジャン=リュック・ナンシーという哲学者が、“共同体とは喪失を共有することだ”と書いています」
教授はそこで、少しだけ苦笑した。
「すみません、話が逸れましたね」
「いえ」
「文学もそれに少し似ていて、“語られなかったこと”を共有することで、読者とのあいだに奇妙な共犯関係を結ぶんです。書かれたことより、落とされた部分──欠けや喪失を、読む側が勝手に埋めようとする」
斎木が眉をひそめる。
「でも、それって……読み手によって、全然ちがう物語になるってことですよね?」
「そうです」
教授は、今度は即答した。
「文学とは、いつだって“揺らぎ”のメディアなのです。法的な言語が“明確であること”を求められるのに対し、文学の言語は“明確でないこと”、むしろ“不明確であり続けること”に価値を持ちます」
そこで、声が少しだけ冷えた。
「だからこそ、人を慰めることもあれば──同じ力で、人を欺くこともある」
「欺く……?」
「比喩は、真実を語るための仮面であると同時に、“ごまかし”の道具にもなりえます。詩的な表現が感情を正確に伝えるとは限りません。むしろ、“真実らしさ”の衣装をまとわせることで、読み手に特定の読みを誘導することもできてしまう」
俺は静かに息を吐いた。
あの手記の、異様なまでの沈黙。
過剰に整った情景描写。
言葉を拒む代わりに、“すべてを語ったふり”をする筆致。
「では教授」
俺は言った。
「もし誰かが、自分の罪を詩的に語ったとしたら──その言葉は、真実と呼べるでしょうか?」
平間教授は一瞬だけ黙した。
その沈黙は、学生に向ける講義の間ではなかった。
自分の専門が、現実の死に触れてしまったことへの、わずかな戸惑いだった。
やがて、教授は穏やかに微笑んだ。
「それは、文学にとって永遠の問いです」
それから、続ける。
「“真実”は常に、言葉の外側にありますから。だからこそ、われわれは読む。読み続けるのです。“どこまでが語られていて、どこからが語られていないか”──その境界線を見つけるために」
教授の言葉が、コンクリートの壁に静かに沁み込んでいった。
***
大学構内を出たとき、午後の光はすでに傾いていた。
濡れた地面には枝葉の影がうっすらと落ち、風の匂いにはまだ春の冷たさが残っていた。
遠くで、運動部の掛け声が聞こえる。
誰かが笑いながら自転車を押して通り過ぎ、その後ろ姿はすぐに校舎の角へ消えた。
斎木はしばらく何も言わず、俺の隣を歩いていた。
教授室での対話が、まだ頭のどこかを掴んだままなのだろう。
「……文学って、ずるいですね」
沈黙のあとで、彼がぽつりと言う。
その手にはハンカチが握りしめられていた。
「なんでも“意味がある”みたいに見せられる。明言しなければ、何通りにも取れる。しかも、読む側にそれを補わせて、“共感した気持ち”にさせちゃう」
斎木はそこで、一度言葉を探した。
「……なんていうか、うまく言えないですけど。納得させられてしまう感じが、気味悪いです」
「お前の言うとおりかもしれんな」
俺はそう答えながら、頭の中にあるページの並びを思い返していた。
遠野湊の手記。
整った文体と端正な構造。
語られすぎない感情。
美しすぎる余白。
文学における“沈黙”とは、時に語りすぎることと同義である──平間教授の言葉が、じわじわと胸に残っていた。
遠野は、語らなかった。
けれど、“書いた”。
しかも、“書きすぎないように”書いた。
その選択に、どうしても引っかかっていた。
彼の文章には、確かに読ませる力がある。
言葉を削ぎ、説明を避け、行間に読者を招き入れる技術がある。
だが──なぜ、それが“供述”なのか。
言葉で語れない者が、文章で語ろうとすること自体に矛盾はない。
だが、あの文章は“詩的すぎる”。
まるで“文学の読者”である俺たちに向けて、あらかじめ書かれているような。
斎木が、少し間を置いて言った。
「たとえば、彼の手記がただの小説だったとしたら──読者は、“可哀想な青年の突発的な犯行”として読むんでしょうね」
「そうだな」
「でも、あれが“証言”だと思うと……そこまで作り込んでること自体が、不自然に見えてくる」
斎木は足元の水たまりを避けた。
「どっちにしても、“共感させようとしている”ことに変わりはないですけど」
俺は小さく息を吐いた。
それこそが、“違和感”の正体かもしれない。
遠野は、読む者に“解釈の余地”を与えるかたちで、自分の感情や行動を描写している。
あたかも、“あなたならどう思いますか”と問うように。
けれど、それは供述ではない。
供述とは、本来、“事実の明言”であるべきだ。
彼の手記には、確かに真実が混ざっている。
だが、“その選び方”に、明らかな意図がある。
選ばれた文体。
配された比喩。
削られた会話。
置かれすぎた沈黙。
あらゆる要素が、“読むこと”を前提に設計されている。
だから、危うい。
それは、“供述”に見せかけた、“演出”ではないか。
沈黙という名の演技。
文学という名の仮面。
読者との“共犯関係”が、真実をゆがめてしまう。
『事件には、物語が生まれる。だが、死者には物語を与えるな』
ふいに、昔の声が蘇る。
刑事になりたての頃、遺族の前で“背景”を語ろうとした俺に、先輩はそう言って叱った。
「遠藤さん」
隣を歩いていた斎木が、スマホをちらりと見てから言う。
「藤沢の面会、今日の午後で確定しました。予備校側から正式に許可が出たみたいです」
「そうか」
俺は足を止め、学内通路の先を見やった。
何も知らない学生たちが、レポートの話やサークルの予定をしながら笑い合っている。
その明るさが、少しだけ遠かった。
「藤沢は、第一発見者としてはもう聞いている。だがあのとき、“ただの昔の先生”だと言ったきりだった」
柚木との私的な関係。
少なくとも“相談”以上のものについて、彼は一言も触れなかった。
斎木が顎に手をやる。
「もしそれが隠していた事実なら、遠野の手記にある“曖昧な関係”の実体が、ぐっと現実味を帯びますね」
「ああ。だから会う」
俺はスマホのスケジュールを確認し、画面を閉じた。
「今度は“第一発見者”じゃなく、“関係者”としてだ」
斎木は短くうなずいた。
俺たちは、校舎の影から抜けるように歩き出した。
足元で、濡れた落ち葉が小さく潰れる音がした。
「行こう。次は──“物語の中の男”に会いに」
ページをめくるように、静かに、次の章が始まる気がしていた。




