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誤読  作者: ミノルマサカ
第2部
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10/17

第3章 教授

大学構内の応接室は、築年数なりの古さと、研究機関としての抑制された品格が同居していた。


壁紙は白というより、薄く黄ばんだ灰色に近い。

窓際には、長く使われた木製の応接セット。低いテーブルの端には、湯呑みの跡がうっすら輪になって残っていた。


午後の光が窓枠に沿って伸び、積み重ねられた文献資料の背表紙に、斜めの影をつくっている。

どこかでコピー機が動く音がした。

紙が吸い込まれ、吐き出される、あの平たい音だ。


応対に現れたのは、文学部・文芸学科の教授、平間直人。


五十代半ば。痩身に少し古びたジャケットを羽織り、薄いフレームの眼鏡をかけている。

髪には白いものが混じっていたが、乱れてはいなかった。

いかにも大学教員らしい、と言えばそうだが、椅子を引く手つきには、妙に生活感があった。


「……柚木さんの件については、私も驚いています」


教授はそう言って、椅子を勧めた。


「うちの学生が殺人事件の被害者になるなんて。正直、まだ少し……現実感がありません」


入口で名乗った時点で、こちらの用件は察していたのだろう。

刑事であることに過度な反応を見せるでもなく、落ち着いた調子だった。


ただ、湯呑みに手を伸ばす指先が、一度だけ迷った。

飲むのをやめ、結局そのまま机に戻す。


「今日は、遠野湊さんについても少し、お話を伺えればと思いまして。柚木さんとは文芸サークルで一緒だったもので」


そう切り出すと、平間教授は短くうなずき、腕を組んだ。


「ええ、構いませんよ。……彼のことは、研究室配属の時から、よく覚えています」


そこで、少しだけ目を細める。


「文学への執着が非常に強い学生でした。良くも悪くも、“素直じゃない”子でしたね」


「素直じゃない、というと?」


「他者に対しても、自分に対しても、です」


教授は言葉を選ぶように、机の端に置かれたペンを軽く転がした。


「何かを“ストレートに表現する”ことを、どこか忌避していたように思います。自分の感情や思考を書くときも、かならず何か別の仮面を被せてから提示する。比喩とか、構造とか、引用とか。そういうものを一枚挟むんです」


「遠回しだった?」


「遠回し、というより……直接言うことを信用していない、という感じでしょうか」


教授は少し考え込むように言葉を切り、窓の外へ目をやった。

中庭では、学生が二人、缶コーヒーを片手にベンチへ腰掛けている。

こちらの部屋だけが、そこから切り離されていた。


「彼は、文学に救われてきた人間だと思いますよ。若い頃から、自己表現の困難を抱えていたのでしょう。言葉に対して非常にセンシティブで、特に“どの言葉を使わないか”という部分に、彼の意志が表れていました」


その言い回しに、俺は手帳のページをめくる手を止める。


「“使わない言葉にこそ、意志がある”……ですか」


「ええ。書き手にとっては、“沈黙”も表現の一種ですから」


教授はそこまで言って、こちらを見た。


「……もちろん、それは文学の中での話ですが」


その最後の言い方には、微かな警戒が含まれていた。

こちらが何を探っているかを、おおよそ把握した上での“線引き”だろう。


「遠野さんは、他の学生と比べてどうでしたか。サークルでは少し浮いていた、という話も聞いています」


「学問的な意味では、むしろ他者に開かれた思考を志向していたと思います」


即答に近かった。


「ただ、人間関係のなかでどうだったかは……。少なくとも、ゼミでは周囲と円滑にやれていたとは言いがたいですね。議論の途中で、急に黙ることがありました。“違う”と思っても、それをうまく伝えられない」


そこで少し間を置く。


「いや、うまく伝えられないというより、“伝える気がない”ようにも見えました」


斎木が小さく首をかしげる。


「それは、緘黙の影響もあったんでしょうか」


「ああ、それも後から知りました」


教授は湯呑みを手に取り、ようやく一口飲んだ。

喉を湿らせるような、短い動作だった。


「小学生の時に診断を受けたと、本人が卒論の面談のときに少し話してくれたんです。“話せなくなることがある”と。そのときは笑いながら言っていましたが、あれは半分、本音だったのでしょうね。自嘲にも見えました」


教授の語りには、遠野に対する一定の理解がにじんでいた。

擁護ではない。

ただ、簡単に切り捨てる気がない、という態度だった。


「……ところで先生、彼の研究テーマについて、詳しく伺ってもよろしいですか」


「ええ、もちろん。遠野くんは、独自の問題意識を持っていました。非常に興味深いテーマでしたよ」


平間教授の目に、わずかに光が宿る。

それは、学生の「問題行動」を咎める側の表情ではなかった。

ひとりの表現者、あるいは研究者の卵に対する、学術的な敬意を含んだ眼差しだった。


教授は机の上のファイルの束を崩し、その中からA4判のレポートを一枚取り出す。その拍子に、挟まっていた黄色い付箋が一枚、ひらりと床へ落ちた。


斎木が拾おうとするより早く、教授が「ああ、すみません」と言って身をかがめる。

ほんの数秒、話が中断した。

その小さな雑音が、かえって部屋の空気を現実に戻した。


「これが、彼の卒業論文です」


教授はレポートを机に置いた。


「“〈語らない主体〉における表現論的機能の変遷”──タイトルからして、少々手強いでしょう?」


資料のタイトルを目で追いながら、俺は斎木と顔を見合わせる。


「語らない主体、ですか」


「ええ。彼は“語らないこと”をテーマにしていました。小説や詩、エッセイなどの中で、“登場人物がなぜ沈黙するのか”“語られないことがどう受け手に作用するのか”という点に着目していたんです」


教授はレポートを指で軽く叩いた。


「とくに二十世紀以降の私小説やポストモダン文学に、強い関心を持っていましたね。まあ、学生にしては少し背伸びをした範囲でしたが」


「背伸び?」


「悪い意味ではありません。届かないものに手を伸ばしている文章には、それなりの魅力がありますから」


教授はそう言って、レポートの一節を指で示した。


“沈黙する登場人物は、しばしば読者に〈行間を読む〉ことを要求する。

この沈黙は、語られることよりも多くを語り得るという逆説を内包している。”


「彼にとって、表現とは“伝える”ことではなく、“問いかける”ことだったんです」


教授の声は、少し講義の調子に近づいた。


「書き手が何かをはっきり伝えるのではなく、読み手に“どう読むか”を委ねる。その選択の幅を作ることこそが、彼の言う“文学の倫理”でした」


「文学の……倫理?」


斎木が、聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返す。


「たとえば、ある人物が悲しんでいるとき、“彼は泣いた”と書くか、“彼はカップの縁を指でなぞった”と書くか」


教授は、自分の湯呑みの縁を指でなぞった。


「それによって、読者の解釈は変わります。遠野くんは、“後者のほうが倫理的だ”と考えていました。つまり、読み手に判断させる余地を残す。それが、彼の言う“倫理的な表現”なんです」


「……明言しないことで、読者の解釈を誘導しすぎないようにする、と」


俺が言うと、教授はうなずいた。


「そうです。ただし、同時に非常に危うい論理でもあります。なぜなら、その“余白”は、読者によって勝手に塗りつぶされてしまいますからね」


教授は言葉を止め、考え込むように天井を見上げた。

蛍光灯の片方が、かすかに瞬いている。


「彼の文章は、そこが極端だった。情景や心理を詩的な比喩で飾りながら、いちばん肝心な部分──感情の動機や倫理の判断は、かならず空白にする」


そこで、少しだけ声が低くなる。


「……“書かない”ことに、強烈な意味を持たせていました」


沈黙が一瞬、部屋を満たす。


斎木が掌をハンカチでぬぐう。

その仕草には、言葉では隠しきれない緊張がにじんでいた。


「それ、まさに……あの手記そのものですね」


「手記……?」


教授の目が、こちらへ戻る。


斎木は一瞬、俺を見る。

俺がうなずくと、言葉を続けた。


「いまのところ非公式の話ですが──彼が、とある事件に関連して“書いたもの”がありまして。非常に技巧的で、情報が整っているのに、核心が語られない。まるで、すべての判断を読み手に委ねるような書き方でした」


教授は、驚いたというより、予想していたものを確認したように静かに頷いた。


「そうでしょうね」


短い返答だった。


「彼は“読ませる”という行為を、極限まで突き詰めていましたから。読者に感情を与えるのではなく、読者の中に“感情を発生させる”。……これは、彼がたびたびゼミで口にしていた言い方です」


「“発生させる”……?」


「ええ。つまり、“共感をコントロールしない”ということですね。書き手の意図を押しつけるのではなく、読者自身の倫理や経験で補完させる。同じ文章でも、“ある人には犯人が悲しんでいるように見え”、別の人には“冷徹に見える”──そういう多義性を、彼は強く求めていました」


教授は、そう締めくくると、いったん言葉を切った。


窓の外で、自転車のブレーキ音が小さく鳴る。

遠くから、学生たちの笑い声が聞こえた。


この部屋の話題だけが、そこから遠く離れている。


「……たぶん、いまお話ししたような“書かないこと”へのこだわりは、彼の書くもの全部に出ているはずです」


そう言ってから、しばらく黙る。

湯呑みに添えた指先で、器を机の上でほんの少しだけずらした。


視線だけが、こちらと斎木の顔のあいだを往復する。

何かを言い足すべきかどうか、測っているような間だった。


「……手記、とおっしゃいましたね」


「ええ。詳細はまだお見せできませんが、内容としては──感情をあまり説明せず、情景と行動だけで読ませるタイプでした」


そう告げると、教授は小さく息を吐いた。


「そうですか……」


それだけ言い、ひと呼吸ぶん目を伏せる。


やがて顔を上げ、話題のラベルを貼り替えるように、少しだけ口調を和らげた。


「……少し、文体の話をしてもよろしいですか。これは捜査にはあまり関係のない──そうですね、半分は私の趣味みたいな、学術的な余談ですが」


「ぜひ聞かせてください」


俺は言った。


「私は文学にはあまり馴染みがないので」


「それはむしろ強みかもしれませんよ」


教授は書棚から一冊の論文集を抜き取り、ページをめくりながら続けた。


「文体というのは、文章の“声”です。ただのリズムや語彙選択ではなく、“語りの倫理”そのものでもある」


ページをめくる指が止まる。


「例えば“彼は泣いた”と“彼の頬を一筋の涙が滑った”の違いもそうですが──そこには“語り手がどこまで読者に寄り添うか”という距離感が必ず刻まれます」


「語り手と読者のあいだの“距離”が、文体の本質……ということですか」


斎木が確認する。


「そのとおりです。そしてこの距離は可変的であると同時に、読者の想像力を呼び込む装置でもあります」


教授は、今度は俺たち二人を順に見た。


「現代文学──とくに日本の近代以降の私小説系譜では、“書かれないこと”がどんどん増えていきました。戦後文学では、これは“語りの抑制”として理論化され、“沈黙の詩学”とも言われます。感情の直接的な表出を避け、あくまで行動や物の描写だけで、読者に読み取らせる」


少し間を置く。


「いわば、行間に情報を沈める技法ですね」


「黙っていることで、かえって多くを語る、ということですか」


「ええ。ジャン=リュック・ナンシーという哲学者が、“共同体とは喪失を共有することだ”と書いています」


教授はそこで、少しだけ苦笑した。


「すみません、話が逸れましたね」


「いえ」


「文学もそれに少し似ていて、“語られなかったこと”を共有することで、読者とのあいだに奇妙な共犯関係を結ぶんです。書かれたことより、落とされた部分──欠けや喪失を、読む側が勝手に埋めようとする」


斎木が眉をひそめる。


「でも、それって……読み手によって、全然ちがう物語になるってことですよね?」


「そうです」


教授は、今度は即答した。


「文学とは、いつだって“揺らぎ”のメディアなのです。法的な言語が“明確であること”を求められるのに対し、文学の言語は“明確でないこと”、むしろ“不明確であり続けること”に価値を持ちます」


そこで、声が少しだけ冷えた。


「だからこそ、人を慰めることもあれば──同じ力で、人を欺くこともある」


「欺く……?」


「比喩は、真実を語るための仮面であると同時に、“ごまかし”の道具にもなりえます。詩的な表現が感情を正確に伝えるとは限りません。むしろ、“真実らしさ”の衣装をまとわせることで、読み手に特定の読みを誘導することもできてしまう」


俺は静かに息を吐いた。


あの手記の、異様なまでの沈黙。

過剰に整った情景描写。

言葉を拒む代わりに、“すべてを語ったふり”をする筆致。


「では教授」


俺は言った。


「もし誰かが、自分の罪を詩的に語ったとしたら──その言葉は、真実と呼べるでしょうか?」


平間教授は一瞬だけ黙した。


その沈黙は、学生に向ける講義の間ではなかった。

自分の専門が、現実の死に触れてしまったことへの、わずかな戸惑いだった。


やがて、教授は穏やかに微笑んだ。


「それは、文学にとって永遠の問いです」


それから、続ける。


「“真実”は常に、言葉の外側にありますから。だからこそ、われわれは読む。読み続けるのです。“どこまでが語られていて、どこからが語られていないか”──その境界線を見つけるために」


教授の言葉が、コンクリートの壁に静かに沁み込んでいった。


***


大学構内を出たとき、午後の光はすでに傾いていた。


濡れた地面には枝葉の影がうっすらと落ち、風の匂いにはまだ春の冷たさが残っていた。

遠くで、運動部の掛け声が聞こえる。

誰かが笑いながら自転車を押して通り過ぎ、その後ろ姿はすぐに校舎の角へ消えた。


斎木はしばらく何も言わず、俺の隣を歩いていた。

教授室での対話が、まだ頭のどこかを掴んだままなのだろう。


「……文学って、ずるいですね」


沈黙のあとで、彼がぽつりと言う。

その手にはハンカチが握りしめられていた。


「なんでも“意味がある”みたいに見せられる。明言しなければ、何通りにも取れる。しかも、読む側にそれを補わせて、“共感した気持ち”にさせちゃう」


斎木はそこで、一度言葉を探した。


「……なんていうか、うまく言えないですけど。納得させられてしまう感じが、気味悪いです」


「お前の言うとおりかもしれんな」


俺はそう答えながら、頭の中にあるページの並びを思い返していた。


遠野湊の手記。

整った文体と端正な構造。

語られすぎない感情。

美しすぎる余白。


文学における“沈黙”とは、時に語りすぎることと同義である──平間教授の言葉が、じわじわと胸に残っていた。


遠野は、語らなかった。

けれど、“書いた”。

しかも、“書きすぎないように”書いた。


その選択に、どうしても引っかかっていた。


彼の文章には、確かに読ませる力がある。

言葉を削ぎ、説明を避け、行間に読者を招き入れる技術がある。


だが──なぜ、それが“供述”なのか。


言葉で語れない者が、文章で語ろうとすること自体に矛盾はない。

だが、あの文章は“詩的すぎる”。


まるで“文学の読者”である俺たちに向けて、あらかじめ書かれているような。


斎木が、少し間を置いて言った。


「たとえば、彼の手記がただの小説だったとしたら──読者は、“可哀想な青年の突発的な犯行”として読むんでしょうね」


「そうだな」


「でも、あれが“証言”だと思うと……そこまで作り込んでること自体が、不自然に見えてくる」


斎木は足元の水たまりを避けた。


「どっちにしても、“共感させようとしている”ことに変わりはないですけど」


俺は小さく息を吐いた。


それこそが、“違和感”の正体かもしれない。


遠野は、読む者に“解釈の余地”を与えるかたちで、自分の感情や行動を描写している。

あたかも、“あなたならどう思いますか”と問うように。


けれど、それは供述ではない。

供述とは、本来、“事実の明言”であるべきだ。


彼の手記には、確かに真実が混ざっている。

だが、“その選び方”に、明らかな意図がある。


選ばれた文体。

配された比喩。

削られた会話。

置かれすぎた沈黙。


あらゆる要素が、“読むこと”を前提に設計されている。


だから、危うい。


それは、“供述”に見せかけた、“演出”ではないか。


沈黙という名の演技。

文学という名の仮面。

読者との“共犯関係”が、真実をゆがめてしまう。


『事件には、物語が生まれる。だが、死者には物語を与えるな』


ふいに、昔の声が蘇る。


刑事になりたての頃、遺族の前で“背景”を語ろうとした俺に、先輩はそう言って叱った。


「遠藤さん」


隣を歩いていた斎木が、スマホをちらりと見てから言う。


「藤沢の面会、今日の午後で確定しました。予備校側から正式に許可が出たみたいです」


「そうか」


俺は足を止め、学内通路の先を見やった。


何も知らない学生たちが、レポートの話やサークルの予定をしながら笑い合っている。

その明るさが、少しだけ遠かった。


「藤沢は、第一発見者としてはもう聞いている。だがあのとき、“ただの昔の先生”だと言ったきりだった」


柚木との私的な関係。

少なくとも“相談”以上のものについて、彼は一言も触れなかった。


斎木が顎に手をやる。


「もしそれが隠していた事実なら、遠野の手記にある“曖昧な関係”の実体が、ぐっと現実味を帯びますね」


「ああ。だから会う」


俺はスマホのスケジュールを確認し、画面を閉じた。


「今度は“第一発見者”じゃなく、“関係者”としてだ」


斎木は短くうなずいた。


俺たちは、校舎の影から抜けるように歩き出した。

足元で、濡れた落ち葉が小さく潰れる音がした。


「行こう。次は──“物語の中の男”に会いに」


ページをめくるように、静かに、次の章が始まる気がしていた。


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