第3章 読解 ─手記─
「──よくできた文章だと思いますよ。抑制が効いているし、情景描写も細かい。」
斎木が、机の上の手記のページを指先でなぞりながら言う。その目は、内容よりも“文体”を見定めていた。
俺は軽く頷き、メモ帳を広げて言葉を継ぐ。
「そうだな。でも、だからこそ引っかかる。“描かれた感情”が、本当に彼の内面なのかどうか。」
斎木が、すっと顔を上げる。
「演技ってことですか?」
「正確には、“演出”だな。」
俺は手記の冒頭に指を置いた。
『その夜、僕は彼女を刺した』
「事実を率直に語る一文から始まる。だが、すぐに感覚描写に移る。」
『包丁の柄は、不思議と温かかった』
『湯気でも、火でもない。もっと根拠のない、体温のような熱があった』
「この感触は主観的だ。だが、これを書くことで、読者に“衝動”を想起させる。つまり、“計画的ではなかった”と読ませようとしている。」
斎木は少し眉をひそめる。
「……感情を引き出す“設計”があるということですね。」
「そう。もっと分かりやすいのが、ここだ。」
俺は中盤の描写に指を滑らせる。
『そのとき、僕は泣いていた。鼻の奥がツンとし、喉が詰まり、目の奥がじんと痛かった。たぶん、息がうまく吸えなかった』
「……彼は“泣いていた”と書いている。だが、これは本当に“悲しみ”によるものか?」
斎木の表情が曇る。
「これが、あれですか……。」
「そう、催涙スプレーだ。彼女が倒れる直前、銀色の筒を取り出す描写がある。現場にも、催涙スプレーの容器が落ちていた。」
「つまり、これは……」
「生理的反応だ。催涙剤を浴びれば、涙が出る。鼻がツンとし、呼吸が乱れるのも当然だ。つまりこれは、“涙”という言葉で感情のように書いているが、実際は“防御反応”なんだ。」
「……でも、読者は感情として読む。」
「そう。“泣いた”とあえて書く。“悲しんでいた”と読ませるために。でも本当は、涙の理由を意図的に伏せている。」
「……怖いですね。」
「何がだ?」
「“泣いた”って言葉が。読むだけで、一瞬、心が動く。悲しいのか、悔しいのか、感情を勝手に補ってしまう。──教授の言う通り、余白ひとつで事実が裏返るなんて。」
斎木は、まだ言葉を探しているようだった。
窓の外では冷たい風がガラスを叩き、部屋には静かな間が流れる。
俺は再び手記に視線を戻し、次の描写を読みあげた。
『心臓の音がうるさくて、すべての時間が遠くなっていた』
『まるで、自分が映画の中にいるみたいだった』
「心拍数の上昇、思考の鈍化、現実感の希薄化──これは“犯行に動揺した証拠”と読みがちだ。だが、この反応は、突発的でも計画的でも、初犯なら必ず起きる。」
斎木が息をのむ。
「つまり、これも“計画性を否定する証拠”にはならない。」
「逆に言えば、“計画性をぼかすための演出”とも言える。“計画的犯行でも動悸はする”。“動揺”と“突発性”はイコールじゃない。」
斎木は手記を読み返し、プロローグの後半に差しかかる。
『部屋には、換気扇の音が残っていた。風が細く鳴っていた。夜の街の隙間をすり抜けていくような音だった。』
「……ここ、すごく静かな描写ですね。時間が止まったみたいな。」
「でも同時に、“時間が再生され始める”とも書いている。つまり、動転していたが、冷静さを取り戻した、と。」
俺はその直後の記述を指した。
『バレたら、まずい』
「この時点で彼の思考は“逃走”にシフトしている。“動揺している”ように見せているが、やっていることは現実的だ。」
「布巾で血を拭いたり、椅子を戻したり、街灯の有無を確認したり……ですね。」
「そう。泣きながら現場の整頓ができる──それって、どういう状態だと思う?」
斎木は口をつぐむ。
「“感情の暴走”じゃない。むしろ、“冷静な演者”だ。舞台を片付けるように行動している。
つまり、これは“感情の物語”として読ませるための構成なんだ。」
「“文学的な手記”じゃない。情状酌量を導くための構築物だ。」
斎木は黙り込み、掌をハンカチでぬぐった。湿った布が、ぺたりと張り付く。
「“泣いた”は感情じゃない。“心拍”も計画性を否定する根拠にならない。“バレたらまずい”と冷静に考えた時点で、“逃げる前提”だったとも読める。」
「……じゃあ、やっぱり──」
「そう。殺意は前からあった可能性が高い。“その夜に生まれた”のではなく、“その夜に実行された”」
斎木が小さく呟く。
「まるで、感情の装いをまとった……脚本ですね。」
「俺たちは、それを“文学”と誤読しないようにしなきゃいけない。事実の内側に、感情という化粧が塗られている。それが“手記”という形式の罠だ。」
ページの端に、そっとメモを走らせる。
「悲しんでいた」ではなく、「悲しんでいたように書いた」。
「泣いた」のではなく、「泣いたと書けば、誰かが信じると分かっていた」。
それがもし、“真実”ではなく“戦略”だったとしたら──
俺たちは、読み方そのものを変えなければならないのかもしれない。
「……そして、第3章で“藤沢を殺すのをやめた”と書いている。」
俺が読み上げると、斎木は苦い顔で頷く。
「……でも、“彼女を殺すのをやめた”とは、一言も書いてないんですよね。」
「そこが重要だ。」
第三章、『香りの輪郭』。文章は滑らかだ。日常の観察、感情の機微もよく描けている。だが、それはあくまで「文章として」の話だ。
「この章全体、“想像”でできているように見せて、随所に“実行の準備”が混ざっている。」
「実行……?」
斎木が聞き返す。俺はメモを見せながら続けた。
「検索ワード──『刃物』『致死量』『家庭にあるもの』。これを“空想”だけで済ませるには、現実とのリンクが強すぎる。被害者宅で凶器まで確認されている。」
斎木は黙って頷く。
「しかも、“誰を”殺そうとしていたのかが曖昧だ。章の後半で『彼を消す必要はない』とあるが、『彼女』を殺す必要がなくなったとは書かれていない。対象のすり替えが、自然すぎるほど自然だ。」
「確かに……言葉をすり替えてるだけに見えますね。“彼”の裏に、“彼女”が残ったままというか……」
「そして最後、こう結ぶ。」
『必要だったのは、彼女に想いを伝えることだった』
「“想い”も、抽象的すぎる。“想いを伝える”は、告白にも殺意にも使える言葉だ。」
「……でも、“告白”の草稿を持っているって書いてましたよね。」
「逆だよ。手記で“草稿”を持っていたと語っているが、それが以前に書いたものなら?その時の恋情が殺意の芽生えなら、持っていてもおかしくない。」
斎木が資料に目を落とし、静かに呟く。
「……殺す決意と、想いを伝える決意。文章の上では、どちらも同じ構文で書けてしまうんですね。」
言葉の構造に感情が従う──そんな“ねじれ”が文章の奥に潜んでいた。
「彼はそこに気づいていた。“言葉の二重性”を利用している。“文学”を知ってるやつの手口だ。」
斎木が険しい表情で手記を見つめ直す。
「第1部の最初、“場面緘黙”の過去で、彼は『話せなかった』と語っていた。第2章では、彼女とだけは“心の言葉で話せた”と描く。読者は感情移入する。でも、この第3章で──」
「“話さずに殺す”ことが、“最大の伝達”だったのかもしれない。」
空気が重くなった。
「言葉を失っていたあの頃から積もってきたもの。それを“行動”にする。普通は“恋”の文脈で読む。でも、“積もっていたのが怒りなら?”、“行動が殺意だったら?”──整合性は崩れない。」
「……表現の“幅”が、かえって彼を守ってる。」
「その通りだ。“恋の文章”として読ませる設計。でも、読み替えることもできる。“殺意の文章”として。」
『誰かの生活を観察する。それが物語になる』
彼にとって、“観察”は“支配”だったのかもしれない。彼女の生活を細部まで把握し、その上で物語を支配する──それが“告白”の正体だったのかもしれない。
俺は終盤のページをめくる。
「……このエピローグ、内容だけ見れば悔やんでいるように見える。でも、“悲しい”とも“悔いている”とも言っていない。」
斎木が、手記の第4章とエピローグを交互に見て、ゆっくり言った。
「確かに。“罪を償わなければならない”とあるけど、それも“社会的な責任”の話かもしれないし……」
「自分の感情としての罪悪感じゃない可能性もある、と。」
「そうです。“文体”だけが後悔を匂わせていて、“言葉”では踏み込んでいない。まるで……」
斎木が、手記の一行を指差す。
『でも、それが悲しみだったかどうかは、今でも分からない。』
「……まるで“読者が勝手に読み取るのを期待してる”ように思えるんですよ」
──その一文を読んだとき、不意に冷たいものが背筋を走った。 ここまで俺も斎木も、手記に“後悔”や“悲しみ”がこめられていると信じてきた。実際は、“悲しんでいたかどうかすら分からない”と、最初から言われていたのに。
「……俺たちは、文章の設計通りに“悲しみ”を感じていただけなのかもしれない」
乾いた紙の音が耳に残る。
「……それとも、何か狙いがあるのかも。書かないことで読者に何か錯覚させるとか」
「たとえば、“後悔しているように読ませて、反省のニュアンスを残す”。だが、実際には“そこに到達していない”。そんな二重構造。」
「ええ。でも──それって普通、読む側が“言い訳”だと感じるはずじゃないですか。なのに、ここまで読ませておいて、“整合性がある”ように思えてくる……その違和感が逆に怖いんですよ」
空気が重く沈む中、ふと俺はもう一つの可能性を思い出す。
「……あるいは、嘘をつけないだけかもしれない。」
「え?」
「彼は、“正直すぎる”。悲しんでいるように“書けない”。文体で操作はできるが、“嘘そのもの”は破綻する。……だから感情を断定する言葉を使えなかったのかもしれない。」
──その“言えなさ”“断定できなさ”自体が、読む側の心に、逆に強い「悲しみ」を浮かび上がらせてしまう。
本当は何も語っていないのに、読者だけが「語らせてしまう」。
その仕組みのなかに、気づけば自分も閉じ込められていた。
“誤読の恐怖”──ただ読み進めていただけなのに、いつの間にか“誘導”され、“同情”し、“共犯”にされていたという実感が、じわじわと皮膚の下にしみこんでいく。
文章が“正しすぎる”ことで、逆に感情の輪郭が消え、ただ「信じ込まされた自分」だけが残る。
確かに、この手記は読ませる。完成度は高い。だが、その“完成”のなかに、俺たちは静かに、確実に「騙されていた」。
「……斎木。気にならないか?」
「何がです?」
俺は、手記第4章の一節を指差す。
『“あなたとは、そういう関係になるつもりじゃなかった” それも“物語の外から”届いた声だった。』
「“それも”って書いてある。」
「ええ。……“それも”?」
「つまり、“もう一つ、何かあった”って意味だろ。」
「……!」
斎木が目を見開く。
「文法的に見れば、“それも”は“前に何か言われていた”ことを示唆してる。“それも物語の外から”──つまり、もっと決定的な言葉が先にあった可能性がある。」
「もしそれが伏せられているなら……“彼女の言葉”がトリガーだった可能性が出てくる。そこに、彼が耐えられなかった真実があった。」
「……これ、“誤字”かと思ってたけど、意図的に“抜いて”るのかも。」
「“彼女の言葉”が彼の物語を否定した。だが、“それも”という言い回しが示すのは──その前に、もっと強い否定があった。もっと、決定的な……」
ページの端が、微かに震えた。
──俺たちは、いつの間にか、“悲しみ”や“後悔”を読まされていた。
だが、ほんとうは、何も語られてなどいなかったのかもしれない。
「──もう一度、文芸サークルで聞きましょう」
斉木が顔を上げた。
あの夜の前に、遠野が何を“聞いてしまった”のか。 “それも”の前に、彼女は何を言ったのか。
その「語られていないひとこと」が、すべてを変えたのかもしれない。