第6章 家族
宇都宮の駅を出ると、午前の光が斜めから街を撫でていた。
東京より少し湿った空気だった。
ロータリー脇の街路樹には、昨夜の雨がまだ残っていて、葉の先で小さく光っている。タクシー乗り場の屋根から、一滴だけ水が落ちた。
斎木と並んでタクシーに乗る。
運転手は何も訊かなかった。
カーナビの音声だけが、控えめに車内に流れている。駅前の商業ビルを抜け、少しずつ住宅街へ入っていくと、道幅が狭くなり、庭木の手入れされた家が増えた。
今日の目的地は、被害者──柚木遥の実家だ。
遠野の手記が描いた「柚木遥」と、家族が知る「柚木遥」。
その二つが、どこまで重なり、どこからズレているのか。
それを確かめる必要があった。
現場の証拠も、防犯カメラも、凶器の指紋も、遠野湊を指している。
遠野本人も、自首している。
だが、遠野は語らない。
語らない代わりに、書いた。
だからこちらは、読むしかない。
手記を。
そして、彼女を知っていた人間たちの言葉を。
白い塀に囲まれた二階建ての家が見えてきた。
窓の大きなリビングに、レースのカーテン。
塀越しに見える庭は、芝が短く刈られ、鉢植えの位置まできれいに揃っていた。玄関脇には、色の薄いビオラが並んでいる。誰かが毎朝、きちんと水をやっているのだろう。
「……立派な家ですね」
斎木がぽつりと言った。
週末ごとに散らかったおもちゃと格闘している男の口から出ると、その一言には、少しだけ現実的な羨望が混じる。
「子どもが小さいうちは、庭なんて敵ですよ。泥だらけになります」
「聞いてない」
「すみません」
それきり、二人とも黙った。
門扉を開け、玄関に入る。
正面の棚には写真立てが並んでいた。
ランドセル姿の少女。七五三の着物。家族三人で海を背に笑っている写真。
棚の端には、少し埃をかぶった小さなトロフィーがひとつ。何かの作文コンクールらしい。
その一角に、最近の遥と思しき写真があった。
肩まで伸びた髪。
控えめな笑み。
大人になりきる少し手前の顔。
子どものころの写真にはなかった影が、瞳の奥に薄く沈んでいるように見えた。
無邪気な笑顔と、影を帯びた横顔。
そのあいだにある空白を、これから埋める。
応接室に通されると、母親の柚木佐代子と、父親の柚木浩一が待っていた。
佐代子は五十代半ば。
きちんとセットされた髪に、控えめだが上質なアクセサリー。座り方も、カップに手を伸ばす仕草も、崩れがない。育ちのいい人間が身につける、無意識の型のようなものがある。
ただ、その型の端々に、緊張と苛立ちが細かく滲んでいた。
浩一は、白いシャツにグレーのジャケット。
医者らしい落ち着いた身なりだが、腕を組んだまま、視線だけがこちらと写真立てのあいだを往復している。さっきから、同じ写真を何度も見ていた。
「今日は、わざわざ……」
佐代子はそう前置きし、すぐに本題へ入った。
「でも、まだ何も“決まって”いないんですよね? ニュースでは、“サークルの友人”が疑われているって……」
“決まって”のところに、わずかに力が入った。
決まっていないでほしい、という意味にも聞こえたし、早く決めてほしい、という意味にも聞こえた。
「ええ。現在は、ある人物から提出された手記をもとに、事実関係の確認を進めています」
できるだけ平坦に答える。
柔らかすぎても、硬すぎてもいけない。
「その手記の中で、お嬢さんのことが詳しく書かれていました。そこに描かれた“遥さん”と、実際の遥さんがどこまで一致するのか。それを確認したくて伺いました」
「……そうですか」
佐代子は一度うなずいた。
膝の上で組んだ手に、力が入る。指輪が、指の骨に食い込むように見えた。
「遥のことが、何か分かるのなら……」
浩一は黙っている。
話す役目を、いったん妻に渡しているようにも見えた。
「まず、最近の遥さんのご様子について、お聞かせください」
佐代子が先に口を開いた。
「最近は……あまり連絡がありませんでした。LINEは来るんです。でも、電話はしたがらなくて。こちらからかけても、“あとで”って切られてしまうことが多くて」
そこで、少しだけ視線を下げる。
「顔を見たのは、お正月に帰ってきたときだけです」
「一か月ほど前ですね。その時の様子は?」
「少し、疲れているように見えました」
即答だった。
何度も思い返したのだろう。
「でも、“誰かと何かあった”という感じではなくて。サークル誌の編集が忙しいとか、就活の準備もしなきゃとか、そんなことを言っていました。あの子、昔から全部自分で背負う子でしたから」
言ってから、佐代子は小さく息を吐いた。
「……もっとちゃんと聞いておけばよかった。そうすれば、こんなことにはならなかったのかもって、何度も思います」
そう言ったあと、すぐに首を振った。
「でも、あの子、何も話してくれなかったんです」
言葉の最後に、少しだけ責める響きが混じった。
死んだ娘に向けるには、あまりに生々しい響きだった。
「お嬢さんが一人暮らしを始めたのは、いつからですか」
「高校を卒業してすぐです。都内の予備校に通うために。本当は、県内の医進コースに行かせるつもりだったんですけど……あの子が、どうしてもって」
“どうしても”のところだけ、声がわずかに低くなる。
「その頃から、あまりご家庭では話さなくなった?」
「そうですね。サークルに入ったとか、カフェでバイトしてるとか、その程度で。誰と仲がいいのか、どんなふうに過ごしているのか……あまり詳しくは」
佐代子はソファの肘掛けに指を置いた。
淡い色のマニキュアが照明を反射する。場に似つかわしくない華やぎだった。
一方の浩一は、腕を組んだり解いたりを繰り返している。
話したいことがあるのか、話してはいけないことがあるのか。どちらにも見えた。
斎木がメモから顔を上げた。
「もう少しだけ、遥さんの交友関係について伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ。分かる範囲なら」
佐代子はすぐに答えた。
「娘、そういう話を私にはあまりしない子でした。友達はいたと思いますけど……学校で何があったとか、詳しいことはほとんど話さなくて」
「特定の方と親しくしている様子は?」
「……男の人と電話で話しているところは、何度か見ました」
一拍置く。
「予備校でお世話になった先生とは、ちょくちょく会っていたみたいです」
「それは、お嬢さんから“相談している”と?」
「ええ。“勉強の相談”だって」
そこで、佐代子は短く笑った。
笑いというより、息の形だった。
「母親の勘ですけどね」
その目が、わずかに細くなる。
浩一は、何も言わない。
「娘、昔から大人の男の人に懐きやすいところがあって。何度も注意したんですけど、聞かない子で」
責任を引き受けるようでいて、「注意はした」と記録に残す言い方だった。
「遠野湊さんという、同じ大学の方のことはご存じでしたか」
佐代子は首をかしげる。
「名前は……どこかで聞いたような。でも、その人がどういう方かまでは」
そこで、ようやく浩一が口を開いた。
「“文芸の先輩”って、言っていたことがあった気がします」
声は低く、慎重だった。
「スマホの画面を横目で見たときに……“ミナトさんがね”と。いや、盗み見たわけではないんですが。たまたま」
言い訳のように付け足す。
「それ以上は、こちらから訊きませんでした」
「恋人のような関係だとは?」
佐代子が先に答えた。
「うちの娘、そういうことを話す性格ではありませんでした。私たちが知らなかっただけかもしれませんけど……あったとしても、娘の問題だと、当時は思っていました」
会話を閉じる言い方だった。
斎木が、少しだけ質問の角度を変える。
「お嬢さんが何か悩んでいる様子は?」
浩一が間を置いて答えた。
「……夜、部屋から泣き声が聞こえたことがあります」
佐代子が、わずかに夫を見る。
「誰かと電話していたのか、一人で泣いていたのか、そこまでは分かりません。日中は、普通に振る舞っていました」
「“誰かとケンカしたの?”って聞いたんです」
佐代子が言葉を継ぐ。
「そしたら、“違うよ”って笑って。あの子、妙に強情なところがあって……」
そう言ったあと、また夫を見た。
浩一は、今度も何も言わなかった。
この家には、たしかに愛情がある。
それは疑う余地がない。
だが、その愛情は「この家の子ども」としての枠を守る方向に働いていた。
娘の本音に踏み込むことには、どこか躊躇があった。踏み込めば、自分たちの知らない娘を見ることになる。
それは、どこの家庭にもある恐れかもしれない。
「ありがとうございます。もう少しだけ、お付き合いください」
俺は姿勢を正し、質問を置いた。
「大学に入ってから、遥さんに“交際相手がいる”と感じたことは?」
佐代子は目を泳がせた。
それから、肩をわずかにすくめる。
「それが分かっていれば、こんなことには、って何度も思いました。恋愛は自由ですし、大学生ですから。でも、あの子、“絶対に”私たちには言わなかったんです」
“絶対に”が、少し強かった。
「テストの点も、進路も、いつの間にか全部自分で決めてしまって。恋愛のことなんて、なおさらですよ」
浩一は眉間に指を当てたまま、慎重に言葉を探している。
「ただ……誰かに心を許している感じは、ありました」
「といいますと?」
「年末、リビングで話しているとき、娘がスマホでメッセージを送っていて。ふと、名前が目に入ったんです。“ミナトさん”と」
彼は一度、言葉を切った。
「それだけで恋愛かどうかは分かりません。でも、表情から……誰かを大切にしているんだな、とは感じました」
「そのことを、直接尋ねたりは?」
佐代子が鼻で笑うように、短く息を吐いた。
「“親に恋愛の話なんて、するわけないでしょ”って言われました。“彼氏でもできたの?”って冗談で聞いただけなのに」
その「冗談」が、どれほど刺さる言い方だったのか。
本人は、まだ自覚していないようだった。
「でもまあ、少しは楽しそうでしたよ」
佐代子は、今度は少し声を和らげた。
「何かに夢中になっているというか。頭の中でずっと何か考えているみたいで。……私は、正直、あまり深入りしたくありませんでしたけど」
俺は斎木と目を合わせた。
彼も小さくうなずく。
遠野と柚木。
ふたりの関係は、少なくとも家族から見て明白な恋人関係ではなかった。
だが、“誰か”として、どこかに存在していた。
それは間違いない。
問題は、柚木遥自身が、その関係をどう認識していたかだ。
「少し聞きにくいことですが」
斎木が、声の調子を落とした。
「遥さんが“恋愛”で悩んでいた形跡は、何か覚えがありますか」
佐代子は、しばらく黙った。
指先が膝の上で動く。組んだ手の形を、何度か作り直していた。
やがて、観念したように息を吐く。
「……机の引き出しに、手紙みたいなものがあったんです」
浩一が、少しだけ顔を上げる。
知らなかったのか、知っていたが聞きたくなかったのか。
「覗くつもりはなかったんです。片づけていたら……目に入ってしまって。内容を全部読んだわけじゃありません。ただ、“彼と話せなくなるのが一番怖い”って、そう書いてありました」
「“彼”が誰か、名前は?」
「ありませんでした。でも、私は予備校の先生だと思いました。ずっと連絡を取り合っていたって聞いていましたし」
藤沢。
予備校講師の名が、ここでも浮かび上がる。
「その先生について、ご両親としては?」
浩一が、腕を解いた。
低い声で答える。
「教師という立場で、そういう関係になるのは、倫理的に問題だと考えています。実際にどこまであったのかは、分かりませんが」
「私も、いい気はしませんでした」
佐代子がすぐに続ける。
「でも娘は、“ただの相談相手”だって言い張って。問い詰めれば問い詰めるほど、余計に口を閉ざす子で……」
俺は、いったん手帳を閉じた。
ここまでで分かったのは、「彼女が何を語ったか」以上に、「何を語らなかったか」だった。
感情を言葉に乗せるのが得意ではない。
それでも、誰かに感情を預ける瞬間はあった。
だが、その託し方は、第三者には見えない形で行われていた。
家族の前でも。
おそらく、本人の中ですら。
俺はもう一つだけ、踏み込むことにした。
「お嬢さんが、年上の男性と“特別な関係”にあったと、ご家族として実感されたことはありますか」
なるべく刺を立てない言い方を選んだ。
それでも、この問いが投げられた時点で、応接室の空気には一本の線が引かれた。
佐代子の唇がすぼまる。
言葉を拒むように、数秒だけ揺れた。
それから、小さく息を吐く。
「……ええ。たぶん、あったんだと思います。“そういう関係”が」
「その相手は」
「予備校の先生。藤沢さん、ですよね?」
問いに対して、名指しで返ってきた。
それは、彼女の中で疑いがとっくに確信に変わっていた証拠だった。
「どうして、そう思われましたか」
「去年の夏、少しだけ帰省したときでした。娘がソファでスマホをいじっていて……たまたま、“藤沢”って名前と、“会えないか”って短い文が見えたんです」
佐代子は、その場面をもう一度見ているような顔をした。
「“誰? 藤沢さんって”って聞いたら、“ただの昔の先生”だって。すごく軽い調子で」
目が細くなる。
「でも、嘘ついてるときの顔って、分かるんですよ。母親には。目が、全然笑ってませんでしたから」
テーブルのグラスを取り、ひと口だけ水を飲む。
口紅の跡を、ナプキンで丁寧に拭った。
「そのときから、“そういう関係があるんだろうな”って思い始めました」
「反対は?」
「もちろん。絶対に許せなかった」
声の圧が、わずかに増した。
「そんな“大人の男性”と、“学生の女の子”が、“ただの相談”で繋がるわけないじゃないですか」
「しかも、あの人──既婚者なんでしょ?」
「報道はしていませんが、確認は取れています」
「最低ですよ、そういう人。自分の家庭がありながら、うちの娘に手を出すなんて」
怒りは、藤沢だけに向いていなかった。
娘自身にも、そして別の誰かにも向かっていた。
「……それに、娘も娘です。なんで、そんな相手に──」
言葉は途中で切れた。
佐代子の視線が、浩一へ鋭く飛ぶ。
浩一はそれを受け止めるように目を伏せた。
しばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「遥は、優しい子でした」
その言葉だけ、少し乾いていた。
「優しすぎて、誰かの期待に応えようとしてしまう。“弱っている”と感じると、寄り添ってしまう」
そこで、浩一は一度だけ佐代子を見る。
「予備校に行ったのも、そうです。それが結果として、よくない形になってしまったのかもしれません」
佐代子の顔が硬くなる。
斎木が、静かにメモを取りながら質問を引き継いだ。
「それは、藤沢氏が、精神的に遥さんへ依存していたということでしょうか」
「ええ」
佐代子が答える。
「娘は“頼られている”と感じたんでしょ。でも、あの人にとっては、都合のいい逃げ場所だったと、私は思っています」
口調が、少し震えた。
「でなきゃ、どうして、娘を……」
言葉の先は濁された。
母親としての怒り。
恥。
悔しさ。
そのどれともつかない感情が、佐代子の発言には絡みついていた。
ただ、はっきりしていたことがある。
柚木遥は、既婚男性との関係を家族には明かさなかった。
けれど、それは単に“知られたくなかった”からではなく、“語れなかった”からではないか。
倫理的に問題のある関係だったから。
親に責められると分かっていたから。
それもある。
だが、それだけではない。
彼女自身が、その関係を「語るに足る関係」として認めきれていなかったのではないか。
そう考えると、遠野に対して“語らなかった”ことにも、同じ種類の影が差す。
恋愛ではない。だが、特別な関係。
期待に応えるように、言葉に反応する。
詩に感想を返す。
深夜にやりとりをする。
やがて、何かを共有しているような錯覚が生まれる。
遠野の手記には、それが“想いの積み重ね”として描かれている。
だが、その積み重ねは、一方通行だった可能性がある。
佐代子は、話しながら時折、“自分の娘がそんなふうに見られていたこと”そのものに、恥のような感情を混ぜた。
「正直に言います」
彼女は、ナプキンを膝の上で握った。
「私、“不倫”なんて、信じたくなかった。でも……でも、もし本当だったとしても、なんで娘ばかりが……」
その言葉は、被害者の母としての悲しみだけではなかった。
家の名前を汚されたことへの怒りにも近かった。
そして、その怒りの矛先は、必ずしも加害者だけに向いていない。
夫に対しても。
「……あなたが、“どこにも行かなかったら”、こんなことにはならなかったんじゃないの?」
佐代子の言葉が、鋭く部屋を貫いた。
浩一は答えなかった。
ただ、視線を床に落とし、口元を結んだ。
家庭の中にも、語られなかったことがいくつも残っていた。
俺はメモ帳に短く書いた。
“語らなかった”のではなく、“語れなかった”。
“選ばなかった”のではなく、“選べなかった”。
その不自由さは、手記の中では“美しい沈黙”として描かれている。
だが実際には、もっと現実的で、もっと無力な抑圧だったのではないか。
*
宇都宮駅前の喫茶店で、斎木と遅めの昼食をとった。
駅ビルの二階にある、昔からあるらしい店だった。
テーブルの端には、少し擦れたメニュー立て。壁際の観葉植物は、葉の先が茶色く乾いている。店内は暖房が効きすぎていて、コートの襟が邪魔だった。
窓の外では、駅前ロータリーを同じタクシーが何度も回っている。
客待ちの列が、少しずつ詰まっては伸びていた。
サンドイッチを半分ほど残したまま、斎木はカップのコーヒーを指先で回していた。
飲む気は、あまりなさそうだった。
「……なんか、疲れましたね」
「家族聴取なんて、だいたいこんなもんだ」
そう答えたものの、さっきまでの応接室の空気は、まだ指先に残っていた。
“語らなかった”のではなく、“語れなかった”。
“選ばなかった”のではなく、“選べなかった”。
メモ帳の端に書いた言葉が、頭の中で何度も引っかかる。
「この間も話しましたけど……」
カップの縁を見つめたまま、斎木が口を開いた。
「遠野の手記を読んだ人は、きっと、可哀想な青年が起こした“突発的な犯行”だって思いますよね」
「そうだな」
「でも、それって……誤読なんじゃないですかね」
その一言で、スプーンを持つ手が止まった。
窓ガラスに、自分たちの姿が薄く映っている。
手記を読み進めるほど、遠野湊という人物の輪郭は濃くなる。
だが、それは彼が描こうとした輪郭だ。
さっき聞いた柚木遥とは、どこか噛み合わない。
スマートフォンが震えた。
鑑識の伊達からだった。
通知には、「被害者スマホ解析完了」とだけ出ている。
内容は簡潔だった。
──被害者のLINE履歴の復元完了。
──遠野とのやり取り:ほぼ文学・サークル関連のみ。
──藤沢とのやり取り:感情むき出しのメッセージ多数。
──友人とのチャットに、遠野の名は一度も出てこない。
俺は画面を閉じた。
つまり。
遠野湊は、彼女の“心の中”にいたかもしれない。
だが、“現実”には、彼女のそばにいなかった。
「何かありました?」
斎木が顔を上げる。
「スマホの解析だ。ほとんど藤沢の話ばかりだった。遠野の名前は、出てこない」
「……そうですか」
斎木は、それ以上すぐには言わなかった。
コーヒーの表面に映る照明が、ゆっくり揺れている。
少し間を置いて、俺は口を開いた。
「たとえば」
カップを指で押し、止まった輪をもう一度回す。
「彼女──柚木遥の感情について」
手記の中では、彼女はたびたび「微笑み」、「瞳を潤ませ」、「言葉を選びながら自分の詩に耳を傾けた」ことになっている。 そのすべてが、“自分に惹かれていた証”として、丁寧に書き込まれていた。
けれど──
斎木がこちらを見る。
「……なぜ、そこまで詳しく書く必要があったのか」
自分でも少し意外なほど、声は素直に出た。
斎木が眉を上げた。
「え?」
「手記にある、“泣いた”って描写があっただろ。『僕は泣いていた──彼女は銀の筒を取り出そうとしていた』」
「ああ。催涙スプレーの場面ですね」
「そうだ。あれは生理的な反応だ。目に入れば誰でも涙が出る。鼻も痛む。呼吸も乱れる。防御反応であって、感情とは限らない」
コーヒーの表面に、店内の照明が二つ歪んで映っている。
「なのに、彼は“泣いた”と書いた。まるで、自分が感情的に涙したかのように」
斎木の目が細くなる。
「読ませるために、ってことですか」
「おそらくな。この手記を読む誰かに、“感情の涙”として受け取らせたい。だから、あえてそう書いた」
スプーンがカップに触れて、小さく鳴った。
「自分が泣いたのも、彼女が自分に惹かれていたのも、全部“感情の物語”として読ませるための仕掛け。悲しみ、孤独、断絶、衝動」
言いながら、少しずつ輪郭が見えてくる。
「でも、それがもし、設計された情緒だとしたら?」
斎木が、ゆっくりうなずいた。
「確かに……最初は“文学的な手記”って思いましたけど。これ、文学というより、演出なのかもしれませんね」
「遠野は、手記の中で柚木遥の心情を書き続けている。だが、家族の話やスマホの履歴を見る限り、彼が見ていたのは現実の彼女じゃない」
俺は手記の場面を思い返す。
彼女は、いつも静かに微笑む。
少し哀しげに目を伏せる。
決定的な拒絶は、はっきり描かれない。
怒りも、恐怖も、嫌悪も、輪郭を与えられないまま、全部、余白に沈められている。
「彼の中の彼女だ」
斎木が、メモ帳の隅に書いた一文を指でなぞった。
〈文学は、揺らぎのメディアだ〉
平間教授の声が、薄く蘇る。
「全部、“揺らぎ”に置き換えてるんだ」
「遠野の手記は、真実かもしれない。催涙スプレー、防犯映像、凶器の指紋。語られている多くは、物証と一致している」
「でも、それが“誤読させるための設計”だったとしたら?」
斎木の声が、少し低くなる。
「悲劇の青年と、彼に淡い感情を抱いていた女性。想いがすれ違って、取り返しのつかない夜が来る」
「それが“物語”として読み解かれるように、書かれていたとしたら」
「読む人が、勝手に同情して、理解したつもりになる」
俺は冷めかけたコーヒーを口に含んだ。
苦味だけが残った。
「これは、文学という名を借りた操作だ。誘導だよ。事実の並べ方、言葉の選び方、余白の置き方まで。すべてが、誰かの感情をある方向へ向けるためにある」
斎木は背筋を伸ばし、ボールペンのキャップを押し込んだ。
「署に戻って、もう一度読みましょう。手記を“物語”としてじゃなくて、“誘導装置”として。どこで感情が動かされるようにできているのか。どこが、わざと曖昧にされているのか」
「文体を、捜査するんだ」
そう言ったとき、テーブルのサンドイッチのパンは、すっかり乾いていた。
***
店を出ると、空気がひやりと頬に当たった。
暖房の匂いがコートに残っていて、外の冷たさが余計に際立つ。駅前の歩道には、人の流れが途切れず続いていた。
改札前で、母親らしき女が小さな子どもの手を引いている。
子どもは眠いのか、何度も母親の指を握り直していた。離れないことを確かめるみたいに。
さっきまで俺たちが見ていたのは、「離れた」家族の空気だった。
近すぎて、言葉が足りなくなる家。
守りたくて、守り方が分からない家。
互いを見ているのに、肝心なところだけ見ないまま過ぎてしまった家。
斎木は改札の上の発車案内を見上げ、それからこちらを振り返った。
「……遠藤さん。今日、先に上がらせてもらってもいいですか」
「ん」
「今夜は、家族でちゃんと飯を食いたいんで」
俺はうなずいた。
「ああ。次の一本、早いやつに乗れ」
「すみません」
斎木は短く頭を下げ、改札へ向かった。
家族連れの波に紛れ、背中がすぐに見えなくなる。
帰れるやつが、帰っていく。
帰れなかった人間の分まで、とは思わない。そんな資格はない。
ただ、胸の底に残ったものだけが、しつこく形を変え続ける。
悲劇は、語られた通りに起きたのか。
それとも、語られた通りに“読む”よう、仕向けられただけなのか。
遠野湊は、沈黙した。
だが、その沈黙の代わりに、言葉を用意した。
その言葉は、告白ではなく、構築かもしれない。
その構築が、何を求めていたのか。
それを確かめるために、俺たちはもう一度、手記へ戻る必要があった。




