第2章 証言 ─家族─
宇都宮の駅を出ると、午前の光が斜めから街をなでていた。
東京よりわずかに湿った空気。街路樹の葉には、まだ昨夜の水滴が残っている。
斎木と並んでタクシーに乗り、住宅街へ入っていく。
今日の目的地は、被害者──柚木 遥の実家だ。
遠野の手記が描いた「柚木遥」と、家族が知る「柚木遥」。
その二つが、どこまで同じで、どこから違うのかを確かめる必要があった。
現場の証拠も、防犯カメラも、凶器の指紋も、遠野 湊を指している。
だが、遠野本人は語らない。だからこそ、こちらは“読むしかない”。
手記を。そして、彼女を知る人間たちの言葉を。
白い塀に囲まれた二階建ての家が見えてきた。
窓の大きなリビングにはレースのカーテン。塀越しに見える庭は手入れが行き届いている。
「……立派な家ですね」
斎木がぽつりと言った。
週末ごとに散らかったおもちゃと格闘している男の口から出ると、その一言には、少しだけ現実感のある羨望が混じって聞こえた。
門扉を開け、玄関に入る。
正面の棚には写真立てが並んでいた。ランドセル姿の少女。家族三人で海を背に笑っている写真。
その一角に、最近の遥と思しき写真──肩まで伸びた髪、控えめな笑み。その瞳の奥には、子どものころの写真にはなかった影が、うっすらと沈んでいた。
無邪気な笑顔と、影を帯びた横顔。
そのあいだにある空白を、これから埋めていかねばならない。
応接室に通されると、母親の柚木 佐代子と、父親の柚木 浩一が待っていた。
佐代子は五十代半ば。きちんとセットされた髪に、控えめだが上質なアクセサリー。
立ち居振る舞いには、お嬢様育ち特有の「型」のようなものが見えた。
ただ、その整った所作の端々に、緊張と苛立ちが混じっている。
浩一は、白いシャツにグレーのジャケット。
医者らしい落ち着いた身なりだが、腕を組んだまま、視線だけこちらと写真立てのあいだを行き来させていた。
「今日は、わざわざ……」
佐代子はそう前置きしつつ、すぐ本題に触れた。
「でも、まだ何も“決まって”いないんですよね? ニュースでは、“サークルの友人”が疑われているって……」
「ええ。今は、ある人物から提出された“手記”をもとに、事実関係の確認を進めている段階です」
できるだけ柔らかい調子で答える。
「その手記の中で、お嬢さんのことが詳しく書かれていまして。
そこに描かれた“遥さん”と、実際の遥さんが同じなのか──それを確かめたくて参りました」
「……そうですか。遥のこと、何か分かるのなら……」
佐代子は一度うなずき、膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめた。
浩一は黙ったまま、俺たちを観察している。
「まず、最近の遥さんのご様子について、お聞かせいただけますか」
問いかけると、佐代子が先に口を開いた。
「最近は……あまり連絡がなかったんです。LINEはくるけれど、電話はしたがらなくて。
こっちからかけても“あとで”って切られてしまうことが多くて。
顔を見たのは、お正月に一度帰ってきたときだけです」
「一か月ほど前ですね。その時の様子は?」
「少し、疲れているように見えました。……でも、“誰かと何かあった”という感じではなくて。
“サークル誌の編集で忙しい”“就活の準備もしなきゃ”って。あの子、昔から全部自分で背負う子でしたから」
そこで言葉を切り、佐代子は小さく息を吐いた。
「……もっとちゃんと聞いておけばよかった。
そうすれば、こんなことにならなかったのかもって、何度も思います」
そう言ったあとで、佐代子は小さく首を振り、
「でも、あの子、何も話してくれなかった」
と、付け加えた。
「お嬢さんが一人暮らしを始めたのは、いつからですか」
「高校を卒業してすぐです。都内の予備校に通うために。
本当は、県内の医進コースに行かせるつもりだったんですけど……あの子がどうしてもって」
“どうしても”のところだけ、ほんの少し声のトーンが変わった。
「その頃から、あまりご家庭のことは話さなくなった?」
「そうですね。サークルに入ったとか、カフェでバイトしてるとか、その程度で。
誰と仲がいいのかとか、どんなふうに過ごしているのかとか……あまり詳しくは」
佐代子は、ソファの肘掛けに細い指を置いた。
淡い色のマニキュアが照明を反射して、場に似つかわしくない華やぎを帯びる。
一方の浩一は、腕を組んだり解いたりをくり返し、落ち着かない様子だった。
斎木がメモから顔を上げる。
「……もう少しだけ、遥さんの交友関係について伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ、分かる範囲なら」
佐代子はすぐに答えた。
「娘、あまりそういう話を私にはしない子でした。
友達はいたと思いますけど……学校で何があったとか、詳しいことはほとんど話さなくて」
「特定の方と親しくしている様子は?」
「……男の人と電話で話しているところは、何度か見ました。
予備校でお世話になった先生とは、ちょくちょく会っていたみたいです」
「それは、お嬢さんから“相談している”と?」
「ええ。“勉強の相談”だって。……母親の勘ですけどね」
そう言いながら、佐代子の目がわずかに細くなる。
浩一は、それに対して何も言葉を挟まなかった。
「娘、昔から大人の男の人に懐きやすいところがあって。何度も注意したんですけど、聞かない子で」
責任を引き受けるように見せながら、「注意はした」というアリバイを積み上げる口調だった。
「……遠野 湊さんという、同じ大学の方のことは、ご存じでしたか」
佐代子は首をかしげる。
「名前は……どこかで聞いたような。でも、その人がどういう方かまでは」
そこで、ようやく浩一が口を開いた。
「“文芸の先輩”って、言っていたことがあった気がします。
スマホの画面を横目で見たときに……“ミナトさんがね”と。
ただ、それ以上は、こちらから訊かなかったので」
「恋人のような関係だとは?」
「……うちの娘、そういうことを話す性格ではありませんでした。
私たちが知らなかっただけかもしれませんが……“あったとしても、娘の問題だ”と、当時は思っていました」
佐代子がそう言って、会話を閉じようとする。
「お嬢さんが、何か悩んでいる様子は?」
斎木が質問を切り替えると、浩一が少し間を置いて答えた。
「……夜、部屋から泣き声が聞こえたことがあります。
誰かと電話していたのか、一人で泣いていたのか……そこまでは分かりませんが。
日中は、普通に振る舞っていました」
佐代子が言葉を継ぐ。
「“誰かとケンカしたの?”って聞いたら、“違うよ”って笑って。
あの子、妙に強情なところがあって……」
そう言ったあと、佐代子は夫の方を見た。
浩一は、何も言わなかった。
この家には、たしかに愛情がある。
だがそれは、「この家の子ども」としての枠組みを守る方向で働いていて、
娘の本音に踏み込むことには、どこか躊躇があったように見えた。
「ありがとうございます。もう少しだけ、お付き合いください」
俺は姿勢を正し、少しだけ角度を変えて質問を投げる。
「大学に入ってから、遥さんに“交際相手がいる”と感じたことは?」
佐代子は目を泳がせ、それから肩をわずかにすくめた。
「……それが分かっていれば、こんなことには、って何度も思いました。
恋愛は自由ですし、大学生ですから。
でも、あの子、“絶対に”私たちには言わなかったんです。
テストの点も、進路も、いつの間にか全部自分で決めてしまって。……恋愛のことなんて、なおさらですよ」
浩一は、眉間に指を当てたまま、慎重に言葉を選んでいる。
「ただ……誰かに心を許している感じは、ありました」
「といいますと?」
「年末、リビングで話しているとき、娘がスマホでメッセージを送っていて。
ふと、名前が目に入ったんです。“ミナトさん”と。
……それだけで、恋愛かどうかまでは分かりません。
でも、表情から、“誰かを大切にしているんだな”とは感じました」
「そのことを、直接尋ねたりは?」
佐代子が鼻で笑うように、短く息を吐いた。
「“親に恋愛の話なんて、するわけないでしょ”って言われました。“彼氏でもできたの?”って冗談で聞いただけなのに」
その「冗談」が、どれだけ刺さる言い方だったのか──当人は、自覚していないようだった。
「……でもまあ、少しは楽しそうでしたよ。何かに夢中になっているというか。
頭の中でずっと何か考えてるみたいで。……私は、正直、あまり深入りしたくありませんでしたけど」
俺は斎木と目を合わせる。彼も小さくうなずいた。
遠野と柚木。
ふたりの関係は、少なくとも“家族から見て明白な恋人関係”ではなかった。
だが、“誰か”として、どこかに存在していたのは間違いない。
問題は、彼女自身がその関係をどう認識していたかだ。
「……少し聞きにくいことですが。遥さんが“恋愛”で悩んでいた形跡は、何か覚えがありますか」
斎木が問うと、佐代子はしばらく口をつぐみ、それから観念したように息を吐いた。
「……机の引き出しに、手紙みたいなものがあったんです。
覗くつもりはなかったんですけど……目に入ってしまって。
内容を全部読んだわけじゃありません。ただ、“彼と話せなくなるのが一番怖い”って、そう書いてありました」
「“彼”が誰か、名前は?」
「ありませんでした。でも、私は予備校の先生だと思いました。
ずっと連絡を取り合っていたって聞いていましたし」
藤沢──予備校講師の名が、ここでも浮かび上がる。
「その先生について、ご両親としては?」
浩一が、腕を解きながら、低い声で答えた。
「……教師という立場で、そういう関係になるのは、倫理的に問題だと考えています。
実際にどこまであったのかは、分かりませんが」
佐代子も、すぐに頷いた。
「わたしも、いい気はしませんでした。でも娘は、“ただの相談相手”だって言い張って。
問い詰めれば問い詰めるほど、余計に口を閉ざす子で……」
俺は、そっと手帳を閉じる。
ここまでで分かったのは、「彼女が何を語ったか」以上に、
「何を語らなかったか」だ。
感情を言葉に乗せるのが得意ではない。
それでも、誰かに感情を預ける瞬間はあった。
だが、その託し方は、“第三者には見えない形”で行われていた。
そして、おそらくは家族の前でも──。
「──お嬢さんが、年上の男性と“特別な関係”にあったと、ご家族として実感されたことはありますか」
なるべく刺を立てない言い方を選ぶ。
だが、この問いが投げられた時点で、応接室の空気にひとつ“線”が引かれたことを、全員が察していた。
佐代子の唇がすぼまり、いったん言葉を拒むように揺れた。
それでも数秒後、小さく息を吐き出してから、答える。
「……ええ、たぶん、あったんだと思います。“そういう関係”が」
「その“相手”は」
「……予備校の先生。藤沢さん、ですよね?」
問いに対して、“名指し”で返ってきた。
それは、彼女の中で疑いがとっくに確信に変わっていた証拠だった。
「どうして、そう思われましたか」
「去年の夏、少しだけ帰省したときでした。
娘がソファでスマホをいじっていて……たまたま、“藤沢”って名前と、“会えないか”って短い文が見えたんです。
“誰? 藤沢さんって”って聞いたら、“ただの昔の先生”だって。
すごく軽い調子で」
佐代子の目が細くなる。
その視線には、“娘を奪った相手”への憎しみと同時に、
“自分の家の名を汚した存在”への怒りが混ざっていた。
「でも、嘘ついてるときの顔って、分かるんですよ、母親には。
目が、全然笑ってませんでしたから」
グラスの水をひと口飲み、口紅の跡をナプキンで丁寧に拭う。
「そのときから、“そういう関係があるんだろうな”って、思い始めました」
「反対は?」
「……もちろん。絶対に許せなかった。
そんな“大人の男性”と、“学生の女の子”が、“ただの相談”で繋がるわけないじゃないですか」
言葉に込められる圧が、わずかに増す。
「しかも、あの人──既婚者なんでしょ?」
「報道はしていませんが、確認は取れています」
「最低ですよ、そういう人。自分の家庭がありながら、うちの娘に手を出すなんて」
怒りは、藤沢だけでなく、娘自身にも向かっていた。
「……それに、娘も娘です。なんで、そんな相手に──」
言葉は途中で途切れた。
浩一のほうへ一瞬、鋭い視線が投げられる。
浩一は、それを受け止めるように目を伏せ、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……遥は、優しい子でした。
優しすぎて、誰かの期待に応えようとしてしまう。
“弱っている”と感じると、寄り添ってしまう」
その言葉の途中で、彼は一度だけ、佐代子を見る。
「予備校に行ったのも、そうです。それが結果として、よくない形になってしまったのかもしれません」
斎木が静かにメモを取りながら、質問を引き継いだ。
「……それは、藤沢氏が、精神的に遥さんに依存していた、ということでしょうか」
「……ええ。娘は“頼られている”と感じたんでしょ。でも、あの人にとっては、“都合のいい逃げ場所”だったと、私は思っています」
佐代子の口調が、わずかに震えていた。
「でなきゃ、どうして、娘を……」
言葉の先は濁された。
母親としての怒りと恥、そのどちらともつかない感情が、彼女の発言には絡みついていた。
だが、はっきりしていたのは──
柚木遥は、“既婚男性との関係”を、家族には明かさなかった。 けれど、それは“知られたくなかった”というより、“語れなかった”のではないか。
なぜか。 それは、相手が“倫理的に問題のある立場”だったからというだけではない。 彼女自身も、“語るに足る関係”として自信を持てなかったのではないか。
そう考えると──
遠野に対しても、“語らなかった”ことには、同じ背景があった可能性がある。
恋愛ではない。けれど、“特別”な相手。 期待に応えるように、彼の言葉に反応し、詩に感想を返し、やがて何かを共有しているような“錯覚”が生まれた。
手記には、それが“想いの積み重ね”として描かれている。 けれど、その“積み重ね”は、一方通行だったのかもしれない。
佐代子は、話しながら時折、“自分の娘がそんなふうに見られていたこと”そのものに、恥のような感情を混ぜていた。
「……正直に言います。わたし、“不倫”なんて、信じたくなかった。でも……でも、もし本当だったとしても、なんで娘ばかりが……」
その言葉は、被害者の母としてというより、自分の“家の名前”が汚されたことへの怒りに近かった。
そして──
その怒りの矛先は、必ずしも“加害者”だけに向いていない。
夫に対しても。
「……あなたが、"どこにも行かなかったら"、こんなことにはならなかったんじゃないの?」
佐代子の言葉が、鋭く部屋を貫いた。
浩一は答えなかった。 ただ、少しだけ視線を床に落とし、受け止めるように口元を結んだ。
家庭の中にも、“語られなかったこと”が、いくつも残っていた。
俺はメモ帳にひとこと書き足した。
「“語らなかった”のではなく、“語れなかった”」 「選ばなかったのではなく、“選べなかった”」
その不自由さが、手記の中では“美しい沈黙”として描かれている。 だが、それは実際には、もっと現実的で、もっと無力な“抑圧”だったのではないか。
*
宇都宮駅前の喫茶店で、斎木と遅めの昼食をとっていた。
窓の外では、駅前ロータリーをぐるぐると同じタクシーが回っている。室内は暖房が効きすぎていて、コートの襟が少し邪魔だった。
サンドイッチを半分ほど残したまま、斎木はカップのコーヒーを指先で静かに回している。
「……なんか、疲れましたね」
「家族聴取なんて、だいたいこんなもんだ」
そう答えたものの、さっきまでの応接室の空気が、まだ指先に残っていた。
“語らなかった”のではなく、“語れなかった”。
“選ばなかった”のではなく、“選べなかった”。
メモ帳の端に書いた言葉が、頭の中で何度も反芻される。
「この間も話しましたけど……」
カップの縁を見つめたまま、斎木が口を開いた。
「遠野の手記を読んだ人は、きっと、可哀想な青年が起こした“突発的な犯行”だって思いますよね」
「そうだな」
「……でも、それって、“誤読”なんじゃないですかね」
そのひと言に、スプーンを持つ手が止まった。
窓ガラスに、自分たちの姿がうっすらと映っている。
手記を読み進めるほど、遠野 湊という人物の“輪郭”は濃くなっていく。
だがそれは、“彼が描こうとした輪郭”であり、さっきの家族が語った彼女の姿とは、どこか噛み合わない。
スマートフォンが震えた。
鑑識の伊達から、「被害者スマホ解析完了」とだけ通知が出ている。
内容は簡潔だった。
──被害者のLINE履歴の復元完了。
──遠野とのやり取り:ほぼ文学・サークル関連のみ。
──藤沢とのやり取り:感情むき出しのメッセージ多数。
──友人とのチャットに、遠野の名は一度も出てこない。
画面を閉じながら、俺はまとめる。
──つまり、遠野 湊は“心の中”にはいたかもしれないが、“現実”には、彼女のそばにいなかった。
「何かありました?」
斎木が顔を上げる。
「スマホの解析だ。……ほとんど藤沢の話ばかりだった。遠野の名前は、出てこない」
「……そうですか」
斎木は、しばらく黙ってコーヒーを見つめていた。
カップの縁に映る照明が、ゆっくり輪を描いて揺れる。
少し間を置いて、俺は口を開いた。
「たとえば」
俺はカップを指で押し、止まった輪をもう一度回す。
「彼女──柚木遥の感情について」
手記の中では、彼女はたびたび「微笑み」、「瞳を潤ませ」、「言葉を選びながら自分の詩に耳を傾けた」ことになっている。
そのすべてが、“自分に惹かれていた証”として、丁寧に書き込まれていた。
けれど──
「……なぜ、そこまで詳しく書く必要があったのか」
自分でも驚くくらい、声が素直に出ていた。
斎木が少し眉を上げる。
「え?」
「いや。手記にある、“泣いた”って描写があっただろ。『僕は泣いていた──彼女は銀の筒を取り出そうとしていた』」
「ああ、催涙スプレーの場面ですね」
「そうだ。あれは生理的な反応だ。目に入れば誰でも涙が出る。防御の反射であって、感情じゃない」
コーヒーの表面に、店内の照明がふたつ歪んで揺れている。
「なのに、彼は“泣いた”と書いた。まるで、自分が感情的に涙したかのように」
斎木の目が細くなる。
「……読ませるために、ってことですか」
「おそらくな。読者──この手記を読む誰かに、“感情の涙”として受け取らせたい。だから、あえてそう書いた」
スプーンでカップを一度だけ鳴らし、口元に指を当てる。
「自分が泣いたのも、彼女が自分に惹かれていたのも、ぜんぶ“感情の物語”として読ませるための仕掛け。悲しみ、孤独、断絶、そして衝動。……でも、それがもし、“設計された情緒”だとしたら?」
斎木が、ゆっくりと頷いた。
「確かに……『文学的な手記』って最初は思いましたけど、これ“文学”というより、“演出”なのかもしれませんね」
「遠野は、手記の中で柚木遥の“心情”を書き続けている。だが、さっきの家族の話やスマホの履歴を見る限り、彼が見ていたのは現実の彼女じゃない。“彼の中の彼女”だ」
俺は思い返す。手記のあらゆる場面で、彼女はまるで“言葉の中にだけ存在する人形”のように動く。
拒絶も怒りも、はっきりとは描かれない。
ただ、彼に寄り添うように、静かに、そして少しだけ哀しげに微笑む。
「……全部、“揺らぎ”に置き換えてるんだ」
「“揺らぎ”……ああ、教授の言ってたやつですか」
斎木は、メモ帳の隅に走り書きしていた一文を指でなぞる。
〈文学は、揺らぎのメディアだ〉
平間教授の声が、薄くよみがえる。
「……遠野の手記は、真実かもしれない。催涙スプレー、防犯映像、凶器の指紋──語られている多くは、物証と一致している」
「でも、それが、“誤読させるための設計”だったとしたら?」
斎木の声が、ふっと低くなる。
「悲劇の青年と、彼に淡い感情を抱いていた女性。想いがすれ違って、取り返しのつかない夜が来る──」
「それが、“物語”として読み解かれるように、書かれていたとしたら?」
「読む人が、勝手に“同情”して、“理解したつもり”になる」
コーヒーの残りを口に含み、舌の奥で苦味を転がす。
「これは、文学という名を借りた操作だ。誘導だよ。事実の並べ方、言葉の選び方、余白の置き方まで……すべてが、誰かの感情をある方向に“向ける”ためにある」
斎木が背筋を伸ばし、ボールペンのキャップを押し込んだ。
「……署に戻って、もう一度読みましょう。手記を“物語”としてじゃなくて、“誘導装置”として。どこで感情が動かされるようにできてるのか、どこがわざと“曖昧にされている”のか」
「文体を、捜査するんだ」
そう言ったとき、テーブルのサンドイッチのパンは、すっかり乾いていた。
***
店を出ると、空気がひやりと頬に当たった。
暖房の匂いがコートに残っていて、外の冷たさが余計に際立つ。
宇都宮駅へ向かう歩道は、人の流れが途切れない。
改札前で、母親らしき女が小さな子どもの手を引いていた。
子どもは眠いのか、何度も指を握り直して、離れないことを確かめている。
──さっきまで俺たちが見ていたのは、「離れた」家族の空気だった。
近すぎて、言葉が足りなくなる家。守りたくて、守り方が分からない家。
斎木は、改札の上の発車案内を見上げてから、こちらを振り返った。
「……遠藤さん。今日、先に上がらせてもらってもいいですか。今夜は、家族でちゃんと飯を食いたいんで」
俺は頷いた。
「あぁ。一本早いのに乗れ」
斎木は短く「すみません」と言って、家族連れの波に紛れるように改札へ向かった。
背中が、人混みに吸い込まれていく。
帰れるやつが、帰っていく。
帰れなかった人間の分まで──とは、思わない。そんな資格はない。
ただ、胸の底に残ったものだけが、しつこく形を変え続ける
──悲劇は、語られた通りに起きたのか。それとも、語られた通りに“読む”ように、仕向けられただけなのか。
遠野 湊は、沈黙した。
だが、その沈黙の代わりに、言葉を用意した。
その言葉は、“告白”ではなく、“構築”かもしれない。
その“構築”が、何を求めていたのか──。
それを確かめるために、俺たちはふたたび、手記へと向かっていた。




