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誤読  作者: ミノルマサカ/ChatGPT
第2部
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第2章 証言 ─講師─

面会室のガラス越し、藤沢 賢一はどこか所在なげに視線をさまよわせていた。薄く開いた口元、組んだ指先の震え、椅子に座っていてもどこか“立っているような”不安定さがあった。


予備校講師──三十代半ば。細身のスーツ、髪は乱れていたが、眼鏡の奥にある瞳は意外にも澄んでいた。ただ、落ち着きのなさが目元から手元にまであらわれていて、こちらの問いを待つ間にも、ずっと喉仏が上下していた。


「……あの、僕、どこまで話せばいいのか……」


「すべてです。あなたの立場は“第一発見者”ですが、それだけでは済まないかもしれない。正直にお願いします」


俺がそう言うと、藤沢は数秒黙ったあと、唇を結び、小さく頷いた。


「柚木さんとは……本当に、最初は相談だけでした。家のこと、進路のこと、メンタルのこと……予備校時代から、よく話をしていて。予備校を離れてからも、彼女のほうから時々連絡がきて、近況を話すような関係で」


視線が泳いだまま、語尾だけがはっきりしている。


「……でも、ある時期から、僕のほうが……彼女を、ただの“生徒”とは見られなくなった」


「時期は?」


「大学に入ってしばらく……1年の始めくらいです。彼女が、家庭のことや、大学の人間関係で悩んでいて……それを、僕にだけ打ち明けるようになって……」


「交際は?」


「……はい。していました」


はっきりとした言葉だった。意外なほど、ためらいのない肯定。けれど、そこにあるのは開き直りではなかった。自己弁護と罪悪感の隙間で、ようやく押し出された正直さだった。


「でも、彼女のほうは……僕に完全に気持ちがあったかどうかは、分からない。依存、みたいな……そういう距離感もあったと思います。僕のほうが、深入りしてしまってた」


手元を見つめる目に、後悔がにじんでいた。


「結婚はしてますよね?」


「……はい。子どももいます。でも、柚木さんとは、そういうこととは別に……」


言い淀んだが、最後まで言い切るのを待つ必要はなかった。


「“そういうこと”が、関係の一部だった」


「……はい」


頷くたびに、椅子がかすかに軋んだ。


俺はメモを取りながら、視線を一度だけあげた。藤沢の語りには、どこか“崩れそうな自己像”を支える必死さがあった。それでも、彼の告白に、意図的な虚偽や計算の色は感じなかった。


──ただ、あまりにも脆い。


「自分の中に、彼女への“殺意”があったと感じたことはありますか?」


「……ありません」


即答だった。だが、それは嘘ではないと俺は思った。少なくとも、この時点では。


俺はペンを置いた。今日の目的は、「動機の確認」ではなく、「関係の輪郭」を確かめることにある。藤沢 賢一は、少なくとも今、“話している”。

その点で、遠野 湊とは明確に違っていた。


「当日のことを、詳しく聞かせてください」


俺がそう切り出すと、藤沢は一度目を伏せた。


手元で組んだ指が、ゆっくりと絡み直される。机の上の紙コップの水に、わずかな揺れが走る。動揺を隠せていない。だが、そのこと自体が、逆に“演技ではない”証に見えた。


「ええと……仕事のあと、LINEを送りました。“今日、少し会えないか”って。」


「どこで?」


「彼女のアパートです――」


「返事は?」


「『ごめん、今日は無理。絶対来ないで』って。そういう返信が来て……それで、あきらめて、帰宅しました」


その“諦めた”という語りに、不自然な焦りはなかった。だが、俺の視線を受けてか、彼の声がわずかに震え始めた。


「……念のため、確認します。帰宅したのは、何時頃?」


「午後八時半くらい……だったと思います。予備校を出たのが七時四十五分くらいで、電車で……それから……」


言いながら、藤沢は咄嗟にポケットに手を入れ、スマホを取り出す。日付の記録や履歴を確かめようとしている。俺はそれを止めなかった。むしろ、彼が“証明したい”と必死になる姿は、ひとつの材料だった。


「帰宅後は?」


「普通に夕食を……家族と。あと、テレビをつけて、そのまま寝室に。証明は……あの、家族が、妻が……証言できます。ただ……」


急に、彼の声音が沈んだ。


「その、もし聞き取りされるなら……できるだけ、“関係”のことには……触れずに……お願いできませんか……」


申し訳なさと懇願の混じった声だった。


「……不倫が知られることを恐れている?」


「……正直に言えば、はい。もちろん、事件のことを最優先に考えてます。でも、家庭のこともあるし……子どももまだ小さくて……。報道にも名前は出てませんし、これ以上、巻き込まれることがなければ……」


その言葉には、自分を守るための狡さもあったが、それ以上に、“全体を失うことへの恐怖”が濃く出ていた。

逃げたいのではない。守りたいものが多すぎるのだ。


「分かりました。あくまで“第一発見者”としての確認です。ただし、必要な聞き取りは、こちらの判断で行います」


「……ありがとうございます」


ようやく、藤沢の肩がわずかに落ちた。その瞬間、彼の“弱さ”が際立って見えた。


この男は──動機ではなく、回避によってここにいる。

“何かを失わないために、何かを見ないようにしてきた”。

そんな種類の人間だ。


会えなかった夜。

その夜、もう一人の男が彼女のもとを訪れていた。


──“重なりそうで、重ならなかった”時間帯。


俺はメモ帳の余白に、そう書き込んだ。


俺は、次のメモを確認しながら、もう一つ訊いておくべき点に触れた。


「──被害者宅の寝室で、男物の香水が見つかっています。“ブルー・サルト”という銘柄。ご存じですか?」


藤沢の目が、ほんのわずかに揺れた。


「ああ……それ、多分、僕のです」


「あなたの?」


「はい。あの……彼女の部屋に、ずっと置いてありました。……僕が、持っていったんです」


少し迷ってから、彼は続けた。


「彼女に言われたんです。“うちに来るときは、必ずシャワー浴びて”って。……体の匂いとか、石鹸の香りとか、それだけならまだいいけど、……後に、残り香があると困るからって」


「それで?」


「香水をつけてほしいって。……“誤魔化せるから”って。だから、その香水は……部屋に置いたままでした。いちいち持って帰るのも不自然だから」


語尾はどこか擦れたように小さく、言いながら彼自身も後ろめたさを噛み締めているようだった。


俺はうなずいて、手帳にひとつ印をつける。


香水の存在──藤沢と柚木の関係が肉体的に続いていたことを、物証が裏付けていた。

そして藤沢は、その存在に驚かず、否定もせず、事実として受け入れていた。


つまりこの男は、嘘をついていない。

少なくとも、いまは。


だが、正直であることと、すべてを話していることは、また別だ。


「……ありがとうございます。確認できました」


俺がそう言うと、藤沢は浅く頭を下げた。汗が、こめかみを静かに伝っていた。


面会室を出た直後、俺のスマートフォンが震えた。画面を見ると、鑑識主任──伊達からの着信。


「はい、遠藤です」


『お疲れさん。現場の処理、ひととおり終わった。報告がまとまったんで、手短に伝える』


「頼む」


『まず、凶器。現場に残されてた包丁の柄から、遠野 湊の指紋を検出。左手の親指と人差し指が、はっきり出てる』


「……それだけで十分だな」


『加えて、防犯カメラの映像。アパートの共有エントランスと玄関前。夜の21時02分、遠野が映ってる。帽子もマスクも無し。顔、バッチリだ』


「出たのは?」


『21時17分。入室から15分間。中にいる間の様子は分からないが、出てきたときも誰にも見られてない。住民の動きもゼロ。静かな夜だったみたいだな』


予定調和のように、“手記通り”の証拠が出てくる。整いすぎている。だが今は、それを咎める材料も、意義を挟む余地もない。


「他には?」


『ああ。被害者の手元……正確にはベッドの下に転がってたが、催涙スプレーを発見。使用済みだ。成分残留あり、揮発した形跡も確認済み』


「催涙スプレー……使用したってことか」


『ああ。蓋が外れてて、使用直後に落としたか、弾みで飛んだか。部屋の空気循環からして、数時間以内に噴射されてる。柚木の指紋が本体に残ってる。キャップ部分には無し。つまり、握って使ったのは間違いない』


俺は思わず壁にもたれ、深く息をついた。この話を、どこまで“言葉通り”に受け取るべきか──。


「分かった。……ありがとう。正式な報告書は?」


『明朝、課長経由で回す。あと、例の映像データはクラウドに上げといた。確認しといてくれ』


通信が切れた。


俺はスマホを胸ポケットにしまい、斎木のもとへ戻る。彼は資料のファイリング作業をしていたが、俺の顔を見てすぐに察した。


「……出ましたか」


「ああ。指紋もカメラも、全部“手記通り”だった。遠野 湊は間違いなく、あの部屋にいた」


「じゃあ……やっぱり、あれは“供述”として成立しちゃうわけですね。あの手記が」


斎木の口ぶりには、どこか納得しきれない感情がにじんでいた。


「それと──催涙スプレーが見つかった。使用済みだ。噴射された痕跡もある。被害者の指紋付きで、ベッドの下から」


斎木が目を細める。


「……銀の筒、ですか。手記の冒頭にありましたよね。『泣いた。彼女は銀の筒を取り出そうとしていた』って」


「ああ。少なくとも、それは事実だった」


斎木が資料の束を置き、ソファにもたれかかる。


「……言ってること、全部本当なんですよね。でも、なんでだろう。やっぱり違和感が残る。全部本当なのに、どこか“操作されてる”感じが拭えないんです」


「それが文体の力ってやつだよ。教授も言ってただろう。“余白の技術”ってやつだ」


事実と事実のあいだ。

何も書かれていない“隙間”で、読者に物語を組み立てさせる技法。


遠野は、そこすら設計していた。すべてが「そのように受け取られる」ように。


ただ──唐突に現れた銀の筒だけは、彼も想定していなかったのかもしれない。


だとすれば、彼女はなぜ──

催涙スプレーを持ちながら、彼を家に招き入れたのだろう。


“拒絶する意志”と、“受け入れてしまった過失”。

そのあいだで、彼女は──ひとり、揺れていたのかもしれない。


「次は、被害者のご家族に会う」


「……はい」


「“泣いていた”のは、遠野か。柚木か。……それとも、共感した俺たちかもしれないな」


斎木が小さく息を呑んだ。


俺たちは席を立ち、次の現場へと歩き出した。

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