動き出す、距離と時間
深夜5時。辺りはまだ薄暗かった。街灯の灯りも淋しく、家路を照らしている。いつも、こんな感じで帰宅するのでもう身体は慣れていた。後は、弟の分の朝食・昼食を作るだけである。
それに関して、特に苦とも感じたことはない。むしろ、歳の離れた弟に苦労かけてしまい申し訳ないと思っている。最近までずっと周りからのイジメにより、不登校になっていた。今はなんとか、学校へ行けて良かったと思うと同時に、不安も抱えている。
将来は決して俺みたいにならずに、良い大学へと行って欲しい。弟は勉強ができ、向上心もある。行方不明とされている両親と、同じ科学者になりたいと、彼は幼い頃言っていた。
金はまだまだ、生活するだけで精一杯だ。夜勤についても雀の涙程度。もう少し、なんとかならんかなと俺はそう思い、家の前に着いた。
「ただいま。」
家の中は電気が点いていた。おそるおそる玄関のドアを開け、炊事場に行くと、学ランを着た少年が不器用な仕草で野菜を切っていた。見るからに危なっかしい。俺は彼に驚かれない程度に声をかけた。
「ただいま、トオル。なんかあったか?」
トオルと呼ばれた少年は「うわぁっ‼︎」と声をあげた。声に反応した俺も、不意に驚く。だが、包丁はなんとか暴れずに済んだ。だが、こんな朝から何をしているのだろう。
「トオル。お前、朝からなにしてるんだ?学校に行くにはちょっと早すぎだろう。」
トオルは、手を止めなかった。さぞ、当たり前かのように、俺の顔を見てニコッと笑った。
「なにって、ご飯を作ってるんだよ。今日はちょっと早起きしたし、それにいつも、兄さんには迷惑かけてるから、僕も何か兄さんのために出来ることはないかなぁってさ。」
はぁと、俺は溜め息をついた。「すまんなぁ。」やっぱり、感づかれていたか。頭をポリポリと掻くと、「ううん。」と、弟は首を振った。
「僕ももうすぐ中学3年だし、そろそろ大人になりたいと思ってたし、いつまでも兄さんにおんぶされてる訳にはいかないからね。それに、僕だって家庭科の授業で包丁触ったことあるんだから、バカにしないでよね。」
弟はそう言いつつも、相変わらず包丁を握る手はオドオドしている。見ている俺が心配してしまう。だが、これ以上弟の独立を妨害するのは止そう。彼なりに大人になろうとしているのだ。俺はトオルの言うことに従うことにした。
「お前がそう言うなら、俺は何も言うまい。ただ、ちょっと手に力を入れすぎだ。もう少し、力を抜いてもいいぞ。」
「わかってるよ。ほら、仕事から帰ってきたんだから、さっさと寝て。寝る子は育つってよく言うでしょ。」
俺はフッと笑った。
「うるせえ、馬鹿野郎。余計なお世話だ、全く。お前がそう言うなら、先に休ませてもらうよ。さっきから欠伸を堪えるのに必死だったからな。」
風呂に軽く入り、寝間着に着替える。弟の朝ごはんは完成していた。味噌汁の味は、少々塩分が濃い気がした。
「うん、初めてにしてはなかなか美味いな。合格だ、これからも精進したまえ。」
共にクククッと笑う。なんだろう、今まですれ違いだった弟との距離が一気に近づいた感がある。何かいいことがあったのだろう。引きこもってた頃の死んだような顔とは違う、一皮剥けたようなトオルの顔は、とても大人びていた。
「最近、学校でいいことでもあったのか?」
トオルはすぐに「うん。」と答えた。
「先日、学校帰りに面白い奴と出会ったんだ。まぁ、訳を話すと長いんだけどね。要は、僕の命の恩人でもあり、久しぶりに僕の友達になった奴なんだよ。」
へぇ、俺は味噌汁の最後の一滴を飲み干した。
「珍しいな、お前がそんなに心を開くなんて。いつか、そいつに礼でも言いたいな。名前はなんていうんだ?」
クククッとトオルが笑った後、その友達の名前を俺に告げた。
「とにかく、変わった奴だったよ。俺は地獄からやって来た旅人だってね。名前は……イビルジョーって言ってた。ジョーって呼んでくれって。僕の作ったハンバーグが美味いって喜んでくれたんだ。」
イビルジョーか、変わった名前だな。俺は朝ごはんを済ませ、壁に掛かった時計を見た。いつの間にか、朝の6時30分頃だ。トオルも学校に行かないといけないな。
途端に、睡魔が急に襲いかかる。安心なのか、満腹なのか。とにかく眠い。さっさと寝ることにしよう。
「よし。腹も膨れたし、お望み通り休むことにするよ。トオルも、そろそろ学校に行く時間だしな。最近、都内で爆発事件が起きたってニュースでやってたし。安全には、どうか気をつけてくれ。」
片付けを済ませたトオルは、鞄に教科書を詰め込んでいた。
「わかってるよ、兄さん。兄さんこそ、気をつけてね。僕の唯一の大事な人だから。」
おいおい、なんだよ。成長したな。俺はその言葉を聞いて、心のわだかまりがなくなる感覚を受けた。やはり、歳を重ねるごとに成長していくんだなと感じた。
最後にトオルが靴を履き、ドアに手をかけた直前、俺はトオルに声をかけた。
「そうだ。重要なことを忘れてた。今日はお前の誕生日だ。プレゼントはちょっと準備出来なくてな。すまん。また近いうちに渡すわ。とにかく、15歳の誕生日おめでとう、トオル。」
トオルは、えっと驚いた顔をして、照れを隠すような笑みを浮かべた。日の出が現れ、トオルの後ろを照らしている。彼の目は、若干滲んでいる感じがした。
「いつでもいいよ。そんなに謝らないで。僕はいつも兄さんに感謝しているんだから。それに、プレゼントなんかいらない。兄さんからその言葉を聞けて、僕は最高に嬉しいよ。ありがとう、兄さん。」
トオルは、背を向け目元を腕で拭った。
「じゃあ、行くね。」
俺は、何も言わなかった。弟の足が一歩二歩、前へと進む。
「行って来ます。」
「ああ、頑張ってこいよ。」
ドアがゆっくりと閉まり、シンとした空気が漂う。だが、寂しいと思ったことはない。弟の成長した姿を見て俺は満足だった。だが、プレゼント用意出来なかったのがなと、俺は布団に潜り、瞼を閉じようとした、その時だった。
ジリリリリリィッ‼︎ ジリリリリリィッ‼︎
携帯の着信音が鳴る。ビクッと身体が反応する。仕事か?勘弁してくれよ。そう思いながら、画面を見る。「非通知」という名前に躊躇いを感じた。
胸騒ぎの予感がする。まさかとは、思うが…俺は画面を押し、耳元に近づけた。
「………もしもし?」
一旦、時間が空いた。胸の鼓動が更に早くなる。
「よう、俺だ。ウルフ、久しぶりだな。いや、今は川原一徹という元の名前でシャバにいるんだったな?元気にしてたか?生活はキツイか?檻の外の生活はだいぶ楽だろう。」
ウルフ。二度と聞きたくない名前だ。
「月光………、生憎だが、人違いだ。俺はウルフという名前を捨てた。仕事なら他を当たれ。そして、二度と電話をかけるな。」
携帯の画面を強く握る。だが、月光は続けて言った。
「おいおい、仮にもお前の元上司だった俺にそんな言葉をかけるなんて、悲しいな。かつて、組織の幹部の中で飛び切りの優秀だったお前が、こんな言葉を吐くなんて。反抗期は怖い怖い…」
「黙れ。」
電話を切り、遠くへ投げた。クソ、奴等が今更、何しに来やがった。俺はもう、足を洗ったというのに。頭を抱え、下の布団がぐちゃぐちゃになっていた。
「まぁ、そんなこと言うな。『三獣士』のドンであったお前のそんな姿は誰にも見せたくない。惨めだ。とても惨めだ。無様だ。情けない無様だ、全く。今日はお前と世間話をしにきたんだよ。」
顔をあげた。目の前に黒ずくめの忍び装束を着た男が目の前に立ち、見下ろしていた。首にかけてある灰色のマフラーが、腰まで下がっている。そして、内容は想像していないものだった。
「つい先日、有中と浦元がやられた。あの爆発事件でな。確かお前の後輩だったよな。」
時計の秒針を刻む音がカチコチと響く。俺の強制的に止めたはずの時間が、ゆっくりと動き出していく。冬なのに、一粒の汗がポタリと布団に落ちていった。




