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虹川を避けて、部室にも顔を出さないようにして、影の中で生きるような気持ちで学校生活を送る。
不幸中の幸いなのかな、彼とはクラスが違うから、まだ良かったと思う。
そこにいるような気がした時には、身を低くして走ったり、女子トイレに逃げ込んだり。
なんのために、そんな真似をしているのか。
自分で自分がわからない。
わかっているつもりだったんだけど。
頭の中にこびりついて離れない、「俺は」のその先。
考えるのを止められない。
くだらないし、意味がないと思っているのに。
知りたいし、知りたくないし、考えたくないけど、想像してしまう。
社交辞令で言っただけなら、私は、からかわないでよとクールに返せばいい。
あり得ないけれど、純粋に顔の造形そのものを褒めてくれているんだとしたら、趣味が悪いんだねと口を歪めて笑えばいい。
それとももう一歩踏み込んで、私を本当に可愛いと思っていてくれるのなら。私の外からみた形の話ではなくて、私そのものを「可愛い」と判断してくれているのだとしたら?
そこに、「好意」が含まれていたとしたら?
どう考えたらいいのだろう。
頭の中で、思考という名の車はずっとフルスロットルで走り続けている。それも、パンクしたタイヤを無理やり回して、ずっとずっと煙をあげながら。
いつか壁にぶつかって、爆発してしまったらどうなるんだろう?
私はそう思ったけれど、今更色々考えたところで、なんだか無駄なんだろうなあという気持ちになった。
だけど、考えを止められない。
考えているようで、考えてない。
頭の奥深くで考えるのではない、表面を撫でているだけのような、上っ面の「考えている風」の考えるに翻弄されて、もうなにがなんだかよくわからない。
心のまん中にいる「真の自分」はこう言う。
とうとう、友達は一人もいなくなってしまったよね、と。
こんなにも心をかき乱されて、いつも通りの自分を保てなくなってしまっているのに、虹川とまだ「友人関係」を続けていけるのかな?
しかめっつらの彼女はこう呟いて、眉間に深々と皺を寄せている。
だけど、私の後ろから、こう囁く声もする。
「なにを勘違いしているの? 彼が一体、なにを言ったっていうの? 彼が一体、なにを言おうとしたのか本当にわかっているの?」
更にその奥にもう一人。彼女はこう言う。
「そもそも、虹川君とあなたは友達同士だったのかな?」
そのうしろに、またまた一人。
「聞いちゃえばいいよ、なんて言おうとしたのって」
更に一人、こう囁く。
「期待なんかしちゃ駄目だって。期待しなければ、裏切られなくて済む」
心の中に溢れた「私」の言葉は入り乱れて、ごちゃごちゃと絡まりあっていく。
心が乱れ、どうしようもなく苦しくなって、私はベッドの上で小さく丸くなって転がった。
苦しいのは、その声のすべてが私の本音だからだ。
開き直って、なにが悪いんだと叫んでしまいたい。
でもそんなことをしたら、「私」という人間は壊れてしまう。
これまでの十四年間で育ててきた「自分」に、誇り高く生きてきた魂にヒビを入れて、自ら砕いてしまうのだろうか? バラバラになって散ってしまった心で、私は生きていけるんだろうか?
それとも、割れたら中から、新しい「私」が出てくるのだろうか?
◇
どれだけの時間、ベッドの上で頭を抱えていたのか。
わからない。
とにかく、砕けはしなかったけれど、私の心はめちゃめちゃに乱れ、皺くちゃになっていた。
いつもならアイロンをかけたようにピンと張りつめているはずなのに。
ところどころが湿って、穴まで開いたような状態になっているようだった。
そこから入り込む隙間風に、濃い紫色の毒が混じっていて、多分、そのせいで私は、あんな行動をとったんだと思う。
◇
「どうしたの……」
玄関から顔を出した虹川は、いつもの微笑みを浮かべていた。
でもそれをすぐに引っ込めて、かわりに今はぽかんと口を開けた怪訝な表情を作っている。
「ええと」
私の息は荒い。虹川の家まで走って来たからだし、どうしてここに来てしまったのかよくわからないからだし、なにが自分を動かしたのか薄々感づいていて、その理由がどうしても認めたくないと思っている部類のものだからだ。
それに、今の恰好。
「それ、どうしたの?」
「なにが?」
「いや、服だよ。……サイズが合ってないように見えるんだけど」
私は口をぱくぱく動かして、息を浅く出し入れしては首を傾げた。
「お、これは、お姉ちゃんの」
しきりに髪をいじりながらようやくそれだけ答え、そっと虹川の様子を窺う。
訪ねてきておきながらほとんど直視できていなかった彼の顔は、やっぱり驚いているようだった。
「自分のは、こういう服はなくて」
高校二年生の姉のタンスから勝手に引っ張り出してきた、いわゆる「女子高校生の制服」風。赤いチェックの短いスカート、白いシャツに、胸には斜めストライプのリボン、甘いキャラメルのような色のセーターを羽織って、足元は紺色のハイソックスをはいてきてしまった。
私はのっぽで、姉は小さい。だから、姉の服は丈が短い。どれも、これも。
靴だけは、自前のいつものスニーカーだし。
自分がどうしてこんな格好をしてきたのか、本当にどうしてなのかわからない。
突然、なんの納得もないまま、衝動に駆られて姉の服を引っ張り出してきて着替え、なぜか虹川の家に来てしまっていた。
「そうなんだ」
虹川の不思議そうな相槌に、私は弱々しく「うん」と答えた。
そして、しばらく続く沈黙。
私はなにも言えない。どうしてここに来たのかわからないし、どうしてこんな恥ずかしい恰好をしているのかわからないから。
頭の中いっぱいに溢れていた「わからない」は沈黙の中、少しずつしぼんでいく。
嵩の減った疑問のプールの中からようやく「本来の私」が現れて、慌てて叫ぶ。
自分でも訳がわからないけど、虹川はもっと意味がわからないでしょう!
「あ……っと、あの……」
あの、その、えと、と呟いて、最後は急激に恥ずかしさが湧き出してきて、私は情けない顔で「へへ」と笑った。
本当に、消え去ってしまいたい。
情けなかったし、自分を不気味だと思った。何をやってるんだろう、いや、私は知ってる。気が付いている。でも、気が付きたくない。そう、気がついてなんかいない。隠された「なにか」なんて大層なものなんてありはしない。
再び始まりそうになった心の中にあふれる様々な「私」の乱闘を止めたのはもちろん、虹川で。
「この間俺が言ったこと、気にしてくれたんだろ? なんか、ごめんな。無理したんじゃない?」
散々もたもたしていた私の唇が、この言葉を受けて、急に激しく動き出した。
「無理……じゃない、よ。無理はしてない。だって、なんかわからないけど、気が付いたらこの格好してたから。だから」
「ええ?」
なんだよそれ、と虹川は笑う。
私の台詞はやけに早口で、それが気持ち悪くて落ち着かない。
「そっか、良かった。やっぱり思った通り、似合ってた。サイズがぴったりだったらもっとカッコいいんじゃない? 雨野は背が高いし、顔もきりっとしてるからそういう格好でもカッコよく決まると思ってた」
男の子より一足先にのっぽになった私。
後からやってきた成長期に押し上げられて、最近私よりも背が高くなった虹川。
彼はいつも通りの、優しげな微笑みを浮かべている。
こんなにも頑なでヘンテコな私に、望み通りの褒め言葉を与えてくれる。
可愛いなんて言われたくない。だって、可愛くないから。
男の子になれればいいと思っていた。だって、「女の子」になんてなれないから。
だけどやっぱり、心の深い底の方には、あるんだ。
見て見ぬふりをしてきた、憧れが。
お構いなしに惚気てくる葵にも。
小柄でちゃらちゃらして、思う存分「ガーリー」を振りまく姉にも。
いつも腹を立ててばかり、小難しいことを言ってばかりの自分に満足している私は「可愛くない」。
可愛くなりたくないはずなのに、ピンク色の小さなハートはちらちらと、桜の花びらのように私の足元へ舞い落ちてくる。それを足で踏んで、なかったようにしてきた。
だけど今、小さなハートの花びらの量は多すぎて、隠し切れなくなっている。私は足元から、ほんのりと桜色に染まり始めている。
「また、部活来るだろ?」
頭のてっぺんから、背骨へ一直線に雷でも落ちたかのような衝撃が駆け抜けていく。
今の言葉が嬉しくて堪らない。
虹川の少し照れたような微笑みを浮かべた顔が、その表情が嬉しくて、でも、嬉しいと思っているのを悟られるのはどうしても嫌で。
でも、私は目を伏せたまま、ほんのちょっとだけこくんと頷くなんていう、ひどく「可愛げ」のあるリアクションをしてしまっていたりして。
「良かった」
彼の笑顔に、私は慌てて「また明日!」と叫んで、家へと逃げ帰った。
◇
家のすぐ手前にある公園のベンチに座って、私はひどく脱力していた。
真っ白に燃え尽きてしまったボクサーのポーズで、ため息ばかりついている。
空は少しずつ橙色に染まって、春のある一日はそろそろ夜を迎えようとしている。
今何時で、何曜日だったか、そういったあれこれにようやく思いが至って、私はまた一つため息をついてしまった。
明日は土曜日で、学校がない。部活もなくて、虹川には会わない。
安堵と、落胆。
会わなくていいし、会えないし。
虹川が自分にかけてくれた言葉をひとつひとつ思い出して、私は目を閉じる。
そのすべてが、心地好かった。
私の望んでいた距離を保ったまま、繋がってくれたと、思いたい。
私はきっと、彼を――。
手をぎゅっと握って、胸にそっと当てた。
まだ、出て来ない言葉。葵のように、簡単に口にできない。私には、無理だと思う。
でもそれは「まだ」無理なだけで。
私はきっともうすぐ、みんなと同じ、ごく普通の「女の子」になるだろう。
その変身の時が来るのが、怖い。
これまで培ってきた「私」はどうなるのか、不安だ。
けれど、ほんの少し楽しみなような気もしている。
今までの頑固で可愛げのない私が崩れて中から新しく生まれる物は、ひょっとしたらとても美しい色をしているかもしれないという気がしてきたから。
来週の月曜日、葵に会ったら、久しぶりに笑顔で「おはよう」と声をかけてみよう。
私はベンチから立ち上がると、姉がまだ帰宅していないことを祈りながら歩き出した。