第22話 落とし穴は支えない
穴の壁に、牙を立てた。
まず、落ちないこと。
次に、落ちても壊れないこと。
最後に、上へ戻ること。
順番を間違えると、全部失敗する。私は壁に牙を押し込み、剣の噛み込みを無理に外さず、盾片を穴の側面に当てた。
上から、ヴォルグの声が降ってくる。
「引き上げるな。弱らせろ。根元を割れば剣も取れる」
弱らせる。
根元を割る。
非常に具体的で嫌な指示だった。こいつは、私をただの魔物として見ていない。どこを壊せば部品が外れるかを見ている。
嫌な種類の職人である。
《石核ログ》
状態:落とし穴側面に懸垂
支点:剣欠け部/牙/盾片
下方:杭/泥水/古鉄片
警告:長時間維持困難
穴の底には杭があった。
尖った木杭。錆びた鉄片。濁った水。泥。落ちたら刺さる。刺さらなくても泥で動けなくなる。鉄片には、丸く削られた跡がいくつもあった。
金属の食痕。
落とし穴そのものは盗賊の罠。
だが、底にある鉄片は別の危険を示している。
鉄を食う何か。
私は底を見ないようにした。正確には見えていない。だが、振動と接触情報で分かる。分かるだけで十分嫌だった。
上から棒が伸びてきた。
盗賊が私の剣を突く。噛んでいる鉄釘を外そうとしている。剣が外れれば、私は底へ落ちる。
私は牙を壁に深く押し込んだ。
壁は柔らかすぎた。
ぼろりと崩れる。
牙が抜ける。
体が少し落ちる。
《石核ログ》
壁面保持:失敗
原因:土質脆弱
剣基部負荷:上昇
支えない。
地面も、壁も、思ったほど支えない。
硬層道に慣れすぎていた。硬い道は、かければ返してくれる。だが、この穴の壁は違う。牙を立てると崩れる。盾を当てると削れる。支点にしようとすると、支点ごと落ちる。
落とし穴は、下だけでなく横も弱い。
かなり性格が悪い構造である。
私は一度、動きを止めた。
無理に上へ行かない。
まず、壁を支える。
牙で削って穴を広げるのではなく、硬いものを噛ませる。壁の中にある小石。根。古い木片。そういうものを探す。
私は盾片を少しずらし、穴の壁を探った。柔らかい土の奥に、硬い感触がある。石ではない。木の根だ。細いが、横に伸びている。
使える。
私は牙で根の上の土だけを削り、根を露出させた。そこへ盾片の縁を当てる。盾片を足場ではなく、壁への楔にする。
《石核ログ》
壁面固定点:根を確認
盾片配置:横支え
保持率:微小上昇
微小。
だが上がった。
次に、硬殻片だ。
腕の先端に付けた装甲が、穴壁に引っかかっている。移動では邪魔だったが、今は使えるかもしれない。私は硬殻の角を壁のくぼみに押し込んだ。
止まる。
完全ではない。
だが、滑りが遅くなる。
硬殻は関節を殺す。
しかし、壁にかませば滑落を殺す。
使い方の問題だ。
私は硬殻片を少し外した。完全には外さない。片側だけ浮かせ、壁へ横向きに刺す。装甲ではなく、仮の足場。
腕一本に足場を作る。
かなり無理がある。
だが、落ちるよりいい。
《石核ログ》
硬殻片:半脱着
用途変更:装甲 → 壁面足場
可動性:低下
滑落速度:低下
滑落速度という表示が出る時点で、かなり危険である。
上から盗賊が笑った。
「しぶといな」
「棘を剥がせ。燃え残りでも売れるかもしれん」
棘。
まずい。
焦げた棘枝は短くなっている。だが、まだ肩部側に残っていた。接近阻害は落ちたが、畳めば移動の邪魔にはならない。完全な主力ではないが、まだ使える部材だ。
上から鉤のついた棒が降りてきた。
焦げ棘に引っかかる。
私は腕を捻ろうとした。
硬殻を壁にかませているせいで、動けない。
棘を畳もうとする。
鉤が先に噛む。
引かれた。
ばき、と音がした。
《石核ログ》
棘枝:外力剥離
損失:焦げ棘一部
接近阻害:低下
盗られた。
私の部材が、引き剥がされ、上へ持っていかれた。
盗賊が焦げ棘を拾い上げる音がする。
「こいつ、燃え残りをまだ付けてるぞ」
「魔物の棘だ。呪具屋に持っていける」
呪具ではない。
ただの焦げた枝である。
いや、私にとっては装備だった。
装備だったものを、勝手に名前を変えて売るな。
私は怒った。
怒ると危ない。前にも、怒りで体を崩しかけた。今は落とし穴の中だ。余計な動きは即落下につながる。
だから、怒りを作業に回す。
奪われた棘は戻らない。
だが、盗賊は鉤棒を使った。
鉤棒は、私に届く。
届くなら、こちらからも使える。
私は薄鉄片を小さく鳴らした。
きん。
リッカが穴の近くで息を飲む気配があった。まだ逃げきっていない。村側へ戻るには盗賊が邪魔なのだろう。彼女は動かず、落とし穴の縁を見ている。
叫ばない。
動かない。
今はそれでいい。
ヴォルグが舌打ちした。
「子供は後だ。先に石を落とせ」
後。
つまり、リッカも捕まえるつもりがある。
位置関係が悪い。
私は壁の根に盾片を押し、硬殻足場へ力を逃がした。剣の噛み込みはまだ残っている。上の鉄釘に引っかかったままだ。これを外すには、下から角度を戻す必要がある。
下に落ちずに、上の支点を外す。
矛盾している。
かなり嫌な作業だ。
私は穴の壁を削った。牙で、縦ではなく横に。上へ登るための穴ではない。横向きの浅い溝を作る。
一本目。
崩れる。
二本目。
根に近い場所なら少し残る。
三本目。
硬殻片をそこへ移す。
壁に段ができた。
足場と言うには浅い。だが、盾片を当てる場所にはなる。私は盾片を段にかけ、腕を少し持ち上げた。剣の角度が戻る。
上の鉄釘との噛み込みが緩む。
《石核ログ》
壁面溝:形成
新規機能:壁足場
剣噛み込み:低下
壁足場。
いい。
支えは下にあるとは限らない。
壁にも作れる。
私はもう一度、体を持ち上げた。
その瞬間、盗賊が鉤棒を下げてきた。今度は盾片を引っかけようとしている。盾を剥がされれば、壁足場が崩れる。
私は鉤棒を避けなかった。
むしろ、盾片の縁へかけさせた。
鉤が噛む。
盗賊が引く。
私は逆に、硬殻足場を外した。
一瞬、私の重さが鉤棒へ乗る。
上の盗賊が悲鳴を上げた。
「重っ……!」
当然だ。
私は軽くはない。
軽くしようとして何度も失敗している。今も剣、盾、硬殻、鉄楔、薄鉄片付きの石腕である。商品として見るなら、重量も考慮してほしい。
鉤棒を持った盗賊が前へ引き込まれる。
穴の縁が崩れる。
私はその力を使い、剣の噛み込みを外した。
剣が自由になる。
同時に、盗賊の鉤棒が穴へ落ちた。
私は鉤棒を牙で押さえた。
《取得》
鉤棒:一時確保
用途候補:遠隔引掛け/壁支点
注意:長尺で可動干渉
長い。
非常に邪魔。
だが、今は使える。
私は鉤棒を穴の反対側の根にかけた。縄より長い。鎖ほど重くない。先端が曲がっているので、根にかかる。
引く。
体が少し上がる。
盾片を壁足場へ移す。
硬殻片を戻す。
牙で次の溝を作る。
鉤棒で根を引く。
上へ。
少しずつ。
ヴォルグの声が鋭くなった。
「落とせ! 上がらせるな!」
短槍が穴へ突き込まれる。
私は硬殻片を槍先に向けた。槍は硬殻に当たり、滑る。衝撃はある。だが、腕の泥には届かない。
部分装甲が役に立った。
ただし、硬殻の固定が緩む。
《石核ログ》
硬殻防御:成功
固定率:低下
壁足場:維持
あと少し。
穴の縁が近い。
そこで、底から小さな音がした。
かち。
かち、かち。
私は動きを止めた。
盗賊の音ではない。
木杭でもない。
古鉄片の下、泥の中から、小さく硬いものが噛み合う音。甲虫の顎に似ている。だが、もっと乾いた音。鉄をこするような音。
底の古鉄片が、わずかに動いた。
穴だらけの鉄片の下に、小さな虫影がある。
《対象反応》
下方:小型不明虫
行動:金属片への咬削
注意:鉄素材への接近
金属を食う虫。
本当にいる。
今、底に落ちるのはまずい。
杭よりまずいかもしれない。私の鉄楔片、薄鉄片、剣の根元。全部が狙われる可能性がある。
私は迷わず上へ行った。
鉤棒を根にかけ、盾片で壁を押し、牙で土を削る。ヴォルグの槍が来る。硬殻で受ける。硬殻が軋む。剣を穴の縁へかける。
引く。
穴の外へ、腕が出た。
草の上へ転がる。
すぐには立てない。いや、もともと立ってはいない。だが、穴の外にいる。それだけで十分だ。
リッカが、私と穴と盗賊を見比べていた。
彼女の手には、小さな錆びた鉄片がある。拾ったものだろう。鉄片の端には、同じ丸い食痕がついていた。
リッカはそれを見て、顔色を変えた。
「これ、鉱山の虫の跡……」
鉱山の虫。
情報がつながった。
盗賊。落とし穴。食われた鉄。底の虫。古い鉱山。
嫌な道筋が、谷の奥へ伸びている。
ヴォルグが短く言った。
「逃がすな。鎖を出せ」
鎖。
縄の上位。
重く、燃えず、切れにくいもの。
私は鉤棒を捨てるか迷った。
長くて邪魔。
だが、鎖が来るなら、長い支点は使える。
持つ。
ただし、持ちすぎない。
また荷物で動けなくなるのは避けたい。
私は鉤棒を盾片の下に引っかけ、硬層道の外側へ移動した。落とし穴からは出た。だが、盗賊団はまだ囲んでいる。リッカはまだ村側へ戻れていない。
そして、鎖の音が近づいている。
じゃらり。
嫌な音だった。
《第22話リザルト》
脱出:人工落とし穴
新規理解:支えは壁にも作れる
新規機能:壁足場
一時取得:鉤棒
損失:焦げ棘一部
確認異常:金属を食う小型虫
情報:鉱山の虫
未解決:鎖への対応/リッカの退避/盗賊団包囲
落とし穴は、下で支えない。
壁も支えない。
なら、支える形を作るしかない。
穴の中でまで施工することになるとは思わなかった。




