第1話 泥の中の折れた剣
泥の中で、私は目を覚ました。
最初に分かったのは、ここが地面の上ではないということだった。冷たい。重い。押しても逃げない。引いても離れない。まともな現場なら、まず足場の確認からやり直す種類の泥である。
次に分かったのは、私に足場を確認する足がないことだった。
右腕だけだった。
いや、右腕と呼んでいいのかも怪しい。石と泥が固まった太い棒のようなものが一本あり、その先に折れた剣がめり込んでいる。肘らしき部分はある。指のような突起もある。だが、肩から先がない。
つまり、腕だけ。
施工以前に、部材が足りない。
《石核ログ》
個体名:未設定
種別:石腕ゴーレム
質量:2
硬度:3
可動性:F
固定力:F
刃角制御:F
警告:脚部なし
警告:視覚器官なし
警告:発声器官なし
警告:剣の除去不可
情報量が多い。
いや、違う。体の量が少ない。
脚なし。目なし。声なし。剣は抜けない。
これを個体と呼んでいいのか。もう少し部品が揃ってから名乗りたいところである。
だが、ログは私をゴーレムと判定している。
ゴーレム。
石や土でできた魔物。たぶん。
たぶんというのは、私に前提知識がどこまであるのか分からないからだ。けれど、自分が柔らかい生き物ではないことだけは分かる。痛みはない。呼吸もない。血も流れていない。
それでいて、泥の重さは分かる。
剣が抜けない不快感も分かる。
なら、生きている判定でいい。
判定基準は雑だが、今は細かいことを言っている場合ではない。
私はまず、腕に刺さった剣を抜こうとした。
力を込める。
動かない。
泥に押しつけ、てこのようにして捻る。
動かない。
指らしき突起で剣の根元を掴み、石の腕全体を引く。
動かない。
なるほど。
これは抜けない。
《石核ログ》
剣の除去:不可
固定状態:不明
推奨:現状維持
推奨するな。
いや、分かる。外せないものを外そうとしても工程が進まない。現場で大事なのは、理想の材料ではなく、今そこにある材料をどう使うかだ。
外せない不良部材は、不良ではない。
仕様である。
仕様なら、使うしかない。
私は剣先を泥に刺した。浅い。泥が柔らかすぎて、手応えがない。これでは支点にならない。次に、剣を少し寝かせる。泥の下に硬い層があるはずだ。なければ詰み。あったら採用。
剣先を押し込む。
ごり、と鈍い感触が返った。
あった。
硬い層である。地面の下の、石か根か、固まった土かは分からない。だが、剣先が引っかかる。私はそのまま腕全体を引いた。
ずるり、と体が動いた。
体。
いや、腕だ。
腕が泥の中を、ほんの少し前へ進んだ。
私は止まった。
今、動いた。
もう一度、剣を刺す。角度が浅い。空振り。泥だけがぐにゃりと崩れて、腕は沈んだ。
もう一度。今度は深すぎる。剣が抜けない。抜けない剣をさらに抜けなくするとは、なかなか高度な失敗である。やめろ。自分で自分の状況を悪化させるな。
三度目。
硬い層に当てる。少し寝かせる。引く。
ずるり。
動いた。
遅い。
とてつもなく遅い。
這う虫が隣にいたら、たぶん気を遣って速度を落としてくれる。その程度には遅い。だが、ゼロではない。ゼロでないなら工程に組める。工程に組めるなら、これは移動方法だ。
《石核ログ》
支点動作を確認
可動性:F → E
新規機能:剣歩き
剣歩き。
名前がひどい。
もう少しなかったのか。剣式移動とか、支点牽引とか、現場資料に書ける名称が。いや、現場資料を提出する相手もいないのだが。
とはいえ、使える。
足がない。なら剣で歩く。
剣が抜けない。なら抜かずに支点にする。
腕だけ。なら腕を体として扱う。
かなり追い込まれた判断だが、判断としては間違っていない。
私は剣を刺し、引いた。
泥が腕にまとわりつく。石の隙間に入り、重さを増す。少し進むたびに、体が沈む。進んでいるのに沈んでいる。工程としては最悪に近い。
それでも続けた。
刺す。
硬い層を探る。
引く。
泥が崩れたら角度を変える。
抜けなくなったら、腕を少し捻る。
進んだら、同じ動きをもう一度。
作業は単純だった。単純だが、単純だからこそ差が出る。角度が悪ければ空振りする。深すぎれば抜けない。浅すぎれば泥を撫でるだけ。剣は武器ではなく、支点だった。
いや、正確には足場だ。
腕に刺さった足場。
構造としてはかなり間違っている気がするが、今はそれで進めている。正しい構造より、動く間違いの方が偉い。
しばらく進むと、泥の抵抗が少し軽くなった。
腕の下に、ざらついた感触がある。小石だ。泥の底に、小石が溜まっている。剣先も引っかかりやすい。ここなら進みやすい。
私は小石の層に剣を刺し、体を引いた。
その時、指の突起に何かが触れた。
丸い石だった。
小さい。軽い。泥に埋まっているが、私の腕と似た質感をしている。試しに掴むと、石は指の間に挟まった。離そうとすると、少しだけ腕に貼りつくような感触があった。
私は動きを止めた。
足りないなら、足せばいい。
腕だけなら、石を足して体にすればいい。
今の私はそう考えた。
とても自然な発想だった。欠けた部材を補う。足りない質量を現地調達する。泥と石なら周囲にいくらでもある。完璧ではないが、材料はある。
《石核ログ》
周辺素材:小石
接合可能性:低
質量増加に注意
注意。
ログがわざわざ注意と言った。
だが、その時の私はまだ、質量という言葉の本当の厄介さを知らなかった。重くなれば硬くなる。硬くなれば強くなる。そんな単純な話ではないと、まだ知らなかった。
私は小石を握ったまま、剣を泥に刺した。
まずは泥から出る。
話はそれからだ。
《第1話リザルト》
新規機能:剣歩き
可動性:F → E
確認素材:小石
未解決:脚部なし/視覚器官なし/発声器官なし/剣の除去不可
警告:質量増加に注意
質量増加に注意。
分かった。注意する。
注意はするが、使わないとは言っていない。
だって材料があるのだ。
現場に材料があるなら、使いたくなるのが作業者というものだろう。
……たぶん。
私はまだ、自分が何者なのか知らない。
ただ、泥の中で折れた剣を刺しながら、少しずつ前へ進むことだけは覚えた。




