幕間
夜も寝静まる様な深い黒い時間に、伯爵は目を覚ました。
こんな夜遅くに虫の知らせか、よくないものが夜すら目を逸らすものを呼び寄せた。
誰も彼もが寝静まる時間に何かを感じた伯爵はランプに火を灯す。
「スリスの嬰児か、先日あったころとは違うがそちらが本性の様だな」
光に照らされた光景は、分かりやすく惨劇であった。
自分の妻であったものが両断されている姿を見て、これが少なくとも屋敷中に広がっている事だけは理解した。
「復讐かスリスを見捨て、お前を捨てた私に対する」
よりにもよって親族一同が集まるタイミングを狙った所業に、恨みを感じるなと言う方が確かに不思議ではあるが、襲撃者は馬鹿らしい鼻で笑った。
そのようなものを感じるほど、真っ当な理由で殺しに着てなどいない。
「感謝しかありませんよお父様」
「だと言うならなぜこんな惨い事をする。お前を跡取りと認める、お前が次代だと息子だと認めたのに」
「母を捨ててくれた事も、孤児として生きる事になった事も、私を貴族にしてくれた事も、感謝しかありません」
嘘偽りなどない。かつて恨んだことがあったのも事実だが、それはあくまで過去の話だ。
今なら生んでくれた事にすら感謝していると言うのにと、だが自分が今している事を考えれば言われても仕方ないのかもしれない。
「そうですね。あなたは空を見た事がありますか」
「は、なに」
「捨てられて正直に言えば恨んでいなかったと言ったら嘘にはなりますが、いや世界を恨んでいたと言えば間違いないでしょう。ですが先も分からずに賢しい頭が地面を睨みつけていた時に私は生きるに足る理由を見つけました」
空ですと彼は言う。
その声は歓喜に満ちていた。宗教に狂うのも願いに来るのもさしたる差がないのだと突きつける様に、容易く彼は狂って見せた。
「空を覆うように広がった翼の影、体を揺さぶられる風、耳を塞いでしまいそうになる音、あれを見てしまったら、あれを聞いてしまったら」
今までまともな人間と勘違いされる様な平静と言う状態を崩しもしなかった男は、誰からどう見ても分かりやすく狂気を振りまく。
その彼の姿に恐怖を抱く伯爵は初めて自分が行った行為の末路に後悔を抱いた。
「生きるに足る理由が出来ました。死ぬに足る理由が出来ました。人を捨てる価値を見出しました。生涯にかける妥協を捨てました。それ以外の価値を見捨てました」
嘘偽りもなく言葉の通りの事実を告げる。
だがこれは父親にとっては弾劾に等しい行為だ。
お前が捨てた人間がこうなった。
お前の無責任こそがこの結果になったのだと、事実と言う暴力によって現実に現れた目の前の末路に自然と涙が溢れてしまう。
だが親の子心知らずとは言ったもので、もっと言うならそもそも愛情なんざ注いでもいないが、貴族として彼を救い上げられたことに涙した男は、かつて抱いた女の面影を残す男を見て、本当の意味で自分の罪を自覚する。
「あそこに辿り着くのなら、その為に必要な事はなんでも行います。その為に必要なものがこの家の生れであり、必要無いのがこの家のだったと言うだけです」
あの世界を見せてくれたこの家には感謝をしている。
今となっては全てがこの道の為に存在した経過だと、本当に彼は感謝し続けている。
何故ならこの家に生まれたから、一足飛びに次を目指せる。
この家に生まれたから、あの日空を目指せた。
この家に捨てられたから、今の出会いがあるのだ。
だから感謝だけが彼の口から自然とこぼれる。
「恨んでなどいないのです。感謝、本当に感謝しかしていません。生んでくれてありがとう。捨ててくれてありがとう。拾い上げてくれてありがとう。
何度でも、何度でも感謝を告げたい。私を生んでくれて本当にありがとう。あなたと母の間に生まれる事が出来て本当に感謝しています」
こんな感謝の言葉があるかと、末期にでもそう言われるなら満足できる人生であろう言葉だ。
足りないと思いながら子供を育て、自分の育児としての結果を告げられる中で最上位の言葉だろう。
そう、だからこの末路なのだ。
所詮は一時の夜の遊びに過ぎなかった。何せ娼婦に入れ込んで孕ませたと言うだけ、それ以上ではなく、名前だけ与えてやりそのまま必要ないから捨てた。
その子供からここまで感謝される。
感謝される謂れなんて何一つないと言うことぐらいは誰にだってわかる。なのに嘘も偽りも何一つとして存在しない。
その子供よりも先に正気のタガが外れそうになる。
彼が持ち合わせていた一抹の罪悪感が、今まで忘れいて傷の様に膿が溢れ出し一気に化膿していく。
絵面と言動がまったく一致しない。
明確に彼はこの家を虐殺した。
残りが彼の父親と言うだけなのに、裏表すらなく感謝を告げられる。これこそ正気とは反対の光景ではあるが、親に生んでくれた事を感謝することが狂気足りえるかと言う論文は今まさに査読されている。
最もそれをされたからと言って、何の意味も価値もありはしない。
それこそが人間の素晴らしくも醜い部分だ。
人と言う存在は感謝しながら人を殺せる。
人が人を殺すのは狂気ではなく、どこまでも理性から発生する代物でなければあまりに世界は残酷が過ぎる。
そして夢はどこまでも人を狂わせる事のできる最高の劇薬だ。
崇高な理想、美しい思想、その二つを追求する指導者、全部混ぜれば台無しになる。
否定する事の出来る人は少ないだろう。なにせこの世界で人間が生み出した思想、宗教が、人を殺さなかった事はない。
人を生かす為の方法ですら人を殺せるのなら、個々人が生み出す夢の末路もまたこの程度のものでしかない。
「母を殺せてくれた事もですかね。感謝する事を羅列するだけで時間が掛かる」
その末路の一つを目の前にしながら、次々に突き付けられる事実に悲鳴のような声を上げる。
「なぜ、なぜそこで、スリスの名前が、いやなぜ殺すようなことに」
「いやそれこそあなたの所為でしょうが、子連れの娼婦が客を簡単に取れる訳ないでしょうに、あなたが見捨てて狂って心中しようとして返り討ち。よくある男と女の悪い方の悲劇ですよ」
聖人などはここにはいない。卑怯者と人でなししかいやしない。
しかしながらまともに会ってもいないのにそっくりな親子だ。欲望に忠実で先の事など考えていなかった結果がこれとあれだ。
血を感じずにはいられないが、だが卑怯者は人でなしによって確実に殺される。
「ただ可哀想だとは思いますよ。私の兄二人が良く分からない事故で死んだようですし、あれは事故と言うよりは私の故意と言うのが正確ですし……ん、こう見ると復讐してるみたいですね」
今更人の心を解釈しても、本当に今更の事だ。
ここまでの事が当たり前の様に意図されて起きている事実に伯爵は目を見開く。
自分が逃げていた事実を受け入れて、彼を理解しようとするが世界で一番無駄な事をしている。
「私を恨んでいるのだろう。だからここまでの事をしたのだろう。復讐である事を理解させてくれ」
「竜に乗る為ですよ。じゃなかったら騎竜が決まってから時期に相次いで二人が事故死するとでも」
だが本当に特別な理由なんてないのだ。
この気持ち悪さを彼はこれから死ぬまでの間で、理解ができる代物ではないだろう。
先祖が続けに続けた建国以来の貴族の末路が、当主の火遊びでも何でもなく、竜に乗る為に貴族になるのが手っ取り早かったから。
そんな事実でここまでの事が起きた事実についに感情が壊れて悲鳴を上げる。
吐き出される悲鳴の度に人間の大事な部分が壊れて、痙攣をおこして頭を何度も地面に叩きつけ始めた。
「まさか都合よく復讐されると、そこまで私も無駄な時間を使うつもりはないですよ。ただ必要な資格がこうしないと手に入らなかっただけ、それでこうなっただけです」
夢の末路はこんなものだ。
栄華が永遠に続く事もないが別に貴族は続く事は続く。何せ彼が一応当主になる資格はあるが、名前以外の全てを王に返却するのだから根こそぎ彼らのこれまでを奪いさる。
竜に関わること以外の雑事の全てを彼は捨て去った。
本来司法に関わる重要な一族であった事など、これから先誰も知らなくなる。
本当にこの家に関わる全てを彼は台無しにして、伯爵が彼を捨てる事で守ったすべてが破滅した。
「壊れてしまった。本当の事しか言ってないのに、なんか色々抱えてたんでしょうね。もう苦しむ必要なんてないですよ」
彼は壊れてしまった自分の父親の頭を掴み口に向かって刃を突き立てる。
そんな状態でも暴れようとする姿に哀れみを感じてしまうが、自分みたいな人間を殺さず捨てた以上は覚悟してもらうしかない。
愛も情もなく、ただ頭のいかれた盗賊になぶり者にされて殺されると言う事実を作るために、串焼きの様に彼は自分の父親を口から剣を突き刺し床に固定させる。
「本当に生んでくれてありがとうございます。父と母のもとで生まれた事に死ぬまで私は感謝します」
自分で殺しておきながら父の屍に向けて祈りを捧げる。
彼の積み上げたものを全て台無しにし、血の繋がった家族を皆殺しにした挙句だが、だがどこまで彼が感謝しても白々しく感じるのは、それがどれだけ本心であったとしても興味が抱けるほど彼らに価値を抱いていないからだ。
そして踵を一つ返すだけで彼はこの悲劇を忘れられる。
もっと言うなら家族の名前すらも覚えてなどいやしない。
要・不要だけでここまで出来る彼と言う存在を、公爵以外はまだ知りもしない。
そしてこれから先も誰も知ろうともしやしないのだ。
なぜならそれは彼もまた同じ事で、他者を知ろうともしやしない。
「ようやくくだらない雑事に時間を割かなくて済む」
いつの間にか白んできた空を見上げる。
この光景だけで人には見せた事の無い様な笑顔を作り、いつかその場所を手にいる為に屍の葬列を連れていく。
だが屍さえも空の踏み台にして彼はそこへとたどり着のだろう。
「やっと」
彼だって自分の道程が綺麗だなんて思っていない。
しかしそのような事を考えたこと自体ないだろう。
「やっとだ」
いつだって彼の目指す場所は見上げれば存在する。
だから彼は止まれないのだろうが、だがそこで朽ち果てる事を望む奴に静止の言葉など意味はなく、少なくとも彼は自分のそれを邪魔する人間たちに、血縁であったものと同じ末路を与えている。
「やっとあの空に手が届く。次はないぞ、もう次は絶対に待たない。邪魔をするなら、この国にだって次を与えてやると思うなよ」
つまり今回の顛末もオーゼンと言う男が、必要であったから行った所業の一つに過ぎない。
よくある彼が起こした惨劇の一つであったと言うだけのお話だ。
だがそれは国家にすら牙を剥ける事を躊躇わない程には苛烈で凶暴な所業になりかねないお話であったのだ。




