②真夏の誘惑・後編
お待たせしました。
シルヴィと、すっかり萎んでしまった浮き輪と共に、陸地へ上がる。別に、萎むというのに何かを掛けたわけではない。
「はぁ、疲れた」
「ごめんね。色々頑張らせちゃって」
「あ、いや。大丈夫だよ」
思わず声に出てしまったが、結構な距離を泳いだのだから当たり前だ。ハプニングもあったし、精神的にも疲れている。
「ちょっと早いけど、お昼にしよっか。この時間なら、そこまで並ばずに済むし」
「そうしよう。遊ぶ分の体力は回復させないとね」
パーカーだけ羽織ったシルヴィと、パラソルの乱立するビーチを海の家に向かって歩く。
「ケイ、手」
「ここで?」
「こうしてるカップルだっていっぱいいるよ。それに、はぐれないように」
反対意見など言う前に、シルヴィの手が俺の手を掴む。思えば、手を繋ぐときはいつもシルヴィからだ。ならせめて。
「ん、えへへ。恋人繋ぎ、だね」
俺から指を絡めると、シルヴィは結んだ髪を揺らして嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇケイ、何食べる?」
「やっぱり焼きそばが定番だと思うけど、シルヴィは?」
「んー。あっ、海鮮お好み焼きだって。美味しそう」
「じゃあ決まりだね」
並んでいる間にゆっくり決めようと思っていたが、魅力に溢れたのぼりのおかげで暇になってしまった。
「ここは金髪の人も結構いるけど、やっぱり目立ってるね」
「シルヴィもね」
「わかってるよ。目立つ自覚はあるけど、見る側になると確かにって感じ」
「シルヴィは可愛いから尚更だね」
「ん、もう。ケイにだけ見られればそれでいいんだけどなぁ」
チラチラと向けられる視線から逃れるように、俺の体の陰に隠れるシルヴィ。彼氏としても、彼女にあまり不躾な視線を向けられたくはない。
「あと、おっぱいが大きい人も目立ってる」
「そう?」
「ケイも目が行っちゃう?」
「僕はシルヴィだけ見てるよ」
「えへへ。うれしい」
俺の肩にこつんと頭を乗せて、にっこり笑ってくれた。やはりシルヴィだけ見ていれば十分幸せになれる。
「じゃあケイには特別にー、チラッ」
シルヴィはパーカーのジップを少しだけ下げて、上から覗く俺にだけ中が見えるように首元に指をかけた。可愛い水着と、控えめな谷間のシルエットが見える。
「あー、照れてる。普通の水着なのに」
「見せ方が悪いよ」
「もっと見てもいいんだよ? ほらほら」
ニヤニヤ笑って、パーカーの中を見せつけてくる。俺が狼狽えているから調子に乗っているのだ。
反応しないようにするのだって楽ではないというのに。
「おっと」
「すんませーん」
突然の背中への衝撃。すれ違い損ねた人がぶつかったのだ。
バランスを崩したものの、シルヴィ越しに海の家の柱に手をついて事なきを得た。
「ち、近っ」
倒れかかるようなことにならなくて安心する俺とは対照的に、シルヴィは一転して小動物のように縮こまって、視線を右往左往させている。
反撃するなら今だ。
「さっきまでの威勢はどうしたの?」
「あぅ。近いってばぁ」
シルヴィは至近距離にある俺の目から逃れるように顔を逸らし、パーカーのファスナーを限界まで引き上げ、ついでにフードまで目深にかぶった。
相変わらずシルヴィはやり返されると弱い。ただ、満足して姿勢を戻した俺にしても、周りからの視線が痛いが。
後ろに並んでいたお客さんに苦笑いされて居心地の悪さを感じながらも、どうにか逃げだすことなく、注文を済ませて料理を手にすることができた。
「いただきまーす」
「いただきます」
イカの細切れと共に、ソースのたっぷりついた焼きそばを頬張った。たっぷり遊んで疲れた上に、海とはいえたくさん汗をかいた今に限っては、味の濃さこそが正義とすら思える。そんな需要を百パーセント理解している焼きそばは、感動を覚える美味しさだ。ところどころソースのムラがあるのも、出来立てならではだろう。
「あは。ケイってば詰め込みすぎだよ」
「ん。美味しくてついね」
夢中になって食べていたら、シルヴィに笑われてしまった。ただそう言うシルヴィも、口元にお好み焼きのソースがついている。
「シルヴィ、ちょっと動かないでね」
「んぇ?」
テーブルに置いてあった紙のナフキンで、シルヴィの口元を拭う。素直にされるがままなのも、子供っぽくて可愛い。
「はい。いいよ」
「ありがと、ケイ。お返しに、あーん」
「ん、あー」
「んへへ。おっきな一口だね」
海鮮お好み焼きの大きな一切れを俺の口に押し込みながら、シルヴィは微笑む。大きさの匙加減はシルヴィが担っているのだが。
同じく味の濃いお好み焼きは、イカやエビなど、歯ごたえもありつつ生地に広がった魚介の旨味を届けてくれる。これもまたおいしい。
「たまにはこういうジャンキーなのもいいよね」
「そうだね。普段は薄味が好みだけど、雰囲気も相まって美味しいよ」
「じゃあ体育祭の日なんかは濃い目に作ろうかな」
「シルヴィは気が利くね。ありがとう」
「えへへ。お礼を言うには早いよ。まだ作ってないし」
言いつつも、まんざらでもなさそうなシルヴィ。もはや当たり前のように俺の食事を任せてしまっているが、感謝の気持ちだけは絶対に忘れないようにしたい。
「あっ」
ふと、シルヴィのお箸からソースたっぷりの切れ端が滑り落ちる。そのままシルヴィの細い太腿へ着地した。
「大丈夫? 熱くない?」
「うん、全然。寧ろパーカーに落ちなくてよかったよ。絶対染みになるし」
さっきまでは健気な彼女だったが、だんだんシルヴィが主婦、あるいは母のように思えてきた。無論、可愛い彼女であることは変わりないはずだが。
「あ、ケイ、こっちも拭いてくれる?」
「自分で拭いてね。はいナフキン」
「つれないなぁ」
「逆に、僕が乗ったら乗ったで困るんじゃない?」
「む、困らないよ。ちょっと、恥ずかしいけど」
それはシルヴィ的に、困る内に入らないのだろうか。
「ボクはいつだって、ケイのことを受け入れる準備があるんだからね」
横目で俺の顔を覗きつつ、そんな殺し文句を言ってくれるシルヴィ。むしろ、シルヴィがなんでも受け入れてしまいそうで手が出せないとは知らずに。
食後、シルヴィがお手洗いに行っている間、あまりトイレの列に目を向けるのは憚られるので、海の方を眺めながらぼーっと待っていると、そっと肩に手が添えられた。
「ねぇ、ちゅう、しよう?」
「えっ?」
あまりにもあからさまな言葉に慌てて振り返ると、そこには悪戯っぽく笑うシルヴィがいた。
「シルヴィ?」
「んふふ。どうしたのケイ?」
「どうしたもこうしたも」
「ボクは、そんなところに立ってたら熱中症になっちゃうよって言ったんだけど? なんて聞こえたのかなぁ?」
「シルヴィが僕を求めてるようにしか聞こえなかったけど」
「んっふっふ。ケイの深層心理がそれを求めてるんじゃない?」
テキトーなことを。
「嘘つきにはこのラムネはあげないよ」
「あっ、卑怯な」
シルヴィを待つ間に、ラムネを買っていたのだ。それを水戸黄門の紋所よろしく見せつけると、シルヴィはぐむむと悔しがって、ついには折れた。
「熱中症しか言ってません、ごめんなさい」
「よろしい。はいどうぞ」
「やった。瓶のやつだ。夏といえばこれだよね」
恣意的に誤解を招く言い方をしていたが、そこは不問にしてあげよう。
「ふんっ! あれ?」
「開かない?」
「ふんぬ! ったぁ、無理だぁ。ケイ、開けてぇ」
「いいよ。貸して」
力を入れて、ビー玉を落とす。
「はい。どうぞ」
「ありがとう。って、あふれてるあふれてるっ」
開けるのに苦戦していたからか、あふれ出した泡が俺の手にまで零れてきた。さっきのシルヴィではないが、服についているでもないし、気にすることもない。
「もったいないよ」
「あ、シルヴィ」
シルヴィは俺から瓶を受け取った後、ラムネでべたつく俺の手を掴んで自らの口元へ。
そして、ぺろぺろと舐めだした。
「ちょっ、シルヴィ」
「ん」
犬や猫が甘えるように、小さな舌を懸命に動かして手のひらを舐める。ご丁寧なことに、指の間にまで舌を這わせてきた。
「ケイの手、おいしいよ」
「美味しいのはラムネだよ。そっち飲みなって」
手を引っ込めようとするが、何にそう執着しているのか、頑なに離してくれない。
くすぐったいし恥ずかしいし、それに、いかがわしいことをさせているみたいで罪悪感がある。ついでに言うと、この様を見た人に通報されないか心配だ。
「こらシルヴィ。おふざけも大概にしなさい」
「はぁい」
ラムネではなくシルヴィの唾液でベトベトになった手を無理矢理引っ込めると、シルヴィはおもちゃを取り上げられた犬のようにしょんぼりした。
押しが強いのは度々あったことだが、開放的な気分に当てられているのか、今日は何というか、本能的だ。昼にかけて気温も上がってきたし、これだけ暑いと、判断力も落ちるか。
「ぬるくならないうちに飲んだ方がいいよ」
「はーい」
せめて水分補給はしっかりしてもらおう。熱中症で倒れさせるなんてことだけは避けなければ。
「んくんく、ぷはぁ。染み渡るねぇ」
「風呂上りみたいに」
「だって、これだけ暑ければサウナみたいなものじゃん」
口ではそう言いながら、シルヴィはパラソルの下でパーカーを脱ぎ、俺にしなだれかかってくる。
「くっついてるのは暑くないの?」
「暑いよ。でも暑くてもくっつきたいの」
「暑いなら離れて。それに外だし」
水着とはいえ、言ってしまえば半裸だ。その状態で、家にいるときのようにくっつくのは刺激が強すぎる。素肌の感触を頑張って頭から追い出して、やっと平静を装っているのだ。
「どうせ誰も見てないもん」
「じゃあ僕が暑いから。離れた離れた」
「むぅ。あ、そうだ。写真撮ろうよ」
「写真? いいけど、随分急に」
「ツーショットだと、くっつかないとね」
スマホを取り出して、内カメラにして撮影を始めるシルヴィ。嵌められた。簡単に承諾してしまったせいで、無理矢理引き剥がせなくなった。
「ケイ、もっと顔近づけてよ」
「えぇ」
「早くしないと、離れてあげないよ。ほら、もっとくっついて」
汗ばんだ肩と肩がぴったりくっつく。シルヴィは頭もコテンと俺の方に倒してきて、そしてシャッターを切った。
「んー、もうちょっとラブラブ感が欲しいなー」
「ねぇシルヴィ、もうそろそろ」
「まだまだ。ミクちゃんに自慢する写真撮らないと」
今度は、ぎゅっと腕を組んできた。ふにふにの柔らかい感触が、無視できない。だんだん、俺まで頭が熱に浮かされてきた。
「ケイ」
真っ赤に火照った顔で俺を見上げ、マーキングでもするように頭をぐりぐりと押し付けてくる。
「すんすん」
そしてシルヴィは俺の首元の汗の匂いを嗅ぎだした。シルヴィを遠ざけるのは、俺の汗の匂いに過剰反応するからというのもあったのだ。その重要事項が頭から抜けていた。
「シルヴィ、しっかり」
「ふにゃぁ」
とろんとした瞳。すっかり声も届かなくなってしまっている。
俺が狼狽えている間にも、シルヴィのスキンシップはどんどん過激になっていく。柔らかい身体を惜しげもなく俺に押し付け、腕だけでなく脚も絡め、しまいには、俺の首元の汗をも舐め始めた。
「シルヴィ、ちょっと度が過ぎるよ」
「だって、好きなんだもん。しょうがないじゃん」
まずいまずい。残った理性の最後の抵抗も、無駄な足掻きに終わった。
「ねぇ、ちゅう、しよ?」
煩いくらいに鳴る心臓が思考をかき乱して、欲望に身を委ねてしまえという悪魔の囁きに抗えなくなって、顔と顔がみるみる近づいていく。
「けぷ」
公序良俗を投げ捨てるか否か。切羽詰まったそんな状況で、間抜けな音が小さく聞こえた。シルヴィの口、いや喉から。
「あ」
その一瞬。シルヴィの目に理性の光が戻った。
「聞こえた?」
「う、うん」
今で十分赤いから違いがわからないが、きっと恥ずかしくて赤面しているのだろう。俺を求めて抱きしめていた腕が、弱弱しく離される。
「き、聞かなかったことにして! というか、今までの全部なし! 退散!」
引き合っていた磁石が突然反転したような勢い。ビーチフラッグのプロかとでも言える速さで砂浜を駆け、海に飛び込んでいくシルヴィ。
置いていかれて呆然としつつも、頭を冷やすために俺も後を追った。
そのあと帰るまで、沈む夕日は美しかったが、俺とシルヴィとの間には、微妙な空気が流れていた。
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